四四太郎の霊日記 ー10

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さてと、一日遅れじゃが、やっとワシを呼び出してくれた。
まあ、忘れられても仕方がないが。今朝方の夢に違う姿でワシが出てきたのを、まずは教えておかなければなるまい。 おぬしの足にカブリツイタ鯉がワシなのじゃ。そうでもしないと、お主は呼んでくれないからの!いやに、夢が鮮明に覚えているだろう。そうなのじゃ、そうワシが図ったからである。
夢は、ワシら霊界の覗き口でもあるのじゃ。 
霊など特別の存在ではない、生まれて死ぬまで突き通している心の芯でしかない。
だからそこから、全てが発信しているだけじゃ。それは面白いことに書いた言葉や、絵や、仕事などに痕跡を残せるのじゃ。だから、純粋な思いとか、感激したことなどを、書き残しておくべきである。 まあ、仕事もだが・・・・ 反面、生きているうちだから、そこで可能な限り何ごとも経験することじゃ。生きているうちしか、活きることができないからである。
娑婆には娑婆の生き方がある。 せいぜい娑婆では楽しむことじゃ。
直ぐに、こちら側-無ーの世界が待っている。無の世界というと、考えてみればおかしなもの。
何にも無いのに、こちら側とか、無の世界とかいう。しかし、娑婆の人間には理解はしようがないか。
「無とはドウナツの穴」とはよく言ったものだが、いや空か?まあ同じようなものじゃ。ゼロともいえるか。 そうじゃ、ワシのことを絵に描いてみること、かってな想像でじゃ。描いているうちに何かが見えてくるはずじゃ。それは、何度も描いているうちに解ってくる事があるはず。
それとワシを念じつつ身近な仏像を描いてみることじゃ。実際にこのようにワシのことを書いたり、仏像を描いているうちにしかお主に伝えられないからである。 お主は何をワシに求めているか、その動機が400年のスパンの視線だったろう。なら、そこに意識を置こうとしたら、ワシを具体的に思い浮かべるべきじゃないかい! 本来は、般若心経を無想無念で書け!と言いたいが、そうするとワシの視点から離れてしまうからのう。