読書日記 ~孤独な群衆 ―②
まず家庭内規範に従い、次は自分自身、そして属する社会規範に向っていく。
この3つが、混在して成長していくため、家庭内の規範が重要な位置を示す。
分類前の義務教育までは、混在した生徒が主となるため様々な問題が表立つ。
そこには家庭内の問題が、カタチをかえて表立ってくる。それぞれの段階で、
規範を刷り込まれないと、摩擦が生じて『虐め』問題が発生する。そのトラウマ
を背負って一生を過ごすケースが多い。
『家について付いていっていいですか?』の身に上噺に学生時代の虐めを引き
づっている人を多い。特に、両親の死が根こそぎ、家庭破壊をもたらしている。
新しい連れ合いとの不仲が、性格の捻じれ現象を生じるケースが見かけられる。
そういうのがツルンデ不良仲間になるため、救いようがない。両親も、それぞれ
違う家庭環境の為、摩擦が起きて当然。その辺りを互い妥協しないと、修羅場が
子供心を傷つけて…
≪ 3. 他人指向型
戦後のアメリカの社会に新たに現われてきた人々の社会的性格のことです。
この時代の人々は、外部の他者たちの期待と好みに敏感です。この時期は初期的
人口減退で、死亡率の減少のあとをおいかけて、出生率も低下し、中年・老年者
が人口が増加しています。
人々の基準は内部指向型とは違って、自己内のジャイロスコープではなく、
レーダーによって誰か、または何かに向かっていきます。つまり、個人の
方向づけを決定するのが同時代人という他者ということになります。
その背後にはラジオやテレビなどのマス・コミュニケーションの発達や、
裕福さによってもたらされた消費社会の始まりが挙げられます。
4. まとめ
以上の3つの型を簡単に整理すると、以下のように整理することができます。
・伝統指向型→伝統に従う
・内部指向型→学校に従う
・他人指向型→周りに従う
人々の性格や個々それぞれ違いますが、その一方では社会環境の影響を大きく
受けていることがわかりました。逆にいうと、社会環境を学ぶことによって、
自分がどのような指向にあるのかのヒントを得れるということです。 ≫
――
▼ 内幕情報屋たる言葉が、当時、新鮮に思えたのを憶えている。
アメリカの産業の中心が、生産からサービス業に移りつつあった終戦後の
特徴そのものが、周りの情勢に従う、他人指向型に替わろうという時節。
マーケッティングの時代である。
・・・・・・
7175,閑話小題 ~劇場型のアメリカ大統領選挙
2020年11月05日(木)
* 下手なドラマより面白い!
昨日は、腰痛の中でジムへ出かけようと仕度をしたが、大統領選の番組の
面白さもあって、座り込んでしまった。 バイデン候補が一方的に勝つものと
思っていたのが、何とトランプが善戦!に驚いた。そこまで、支離滅裂で世界
を驚かし、掻き回した張本人が、支持者には大受けだった? 建前より白人
第一主義の本音の何処が悪いのか? が選挙戦の中から浮び上っていた。
アメリカはマジョリティからマイノリティなどの坩堝国家。そこに白人第一
主義の本音が選挙で現れ出てきた。 …<何が今さら… 本音は本音!>
昨夜の就寝までは、てっきり、トランプ勝利と思いきや、予測では9割近くが
バイデンの勝利を予測!トランプが敗北ならば、間違いなくオハコ?の中。
勝利なら、世界は更に混沌になり、「ハリウッド映画」並みの材料が山積み。
アメリカ時代の終わりを象徴する物語が、コミック的に展開している。
ハリウッド映画なら、強引にトランプが大統領に再選、その後… 副大統領が、
そのまま?! ~その辺りがネットで理路整然と表現してあった>
【 ● 赤い蜃気楼か 青い蜃気楼か
「レッドミラージュ(赤い蜃気楼)」
いよいよ11月3日に迫った米大統領選挙を前に、こんな言葉が米国のマスコミ
で使われるようになった。もちろん光の屈折で存在しない景色が空中や地平線
近くで見える現象ではない。
ペンシルバニア、ウィスコンシン、ミシガンなどの激戦州で開票が始まると
赤色がシンボルカラーの共和党のトランプがまず優勢となるが、郵便投票
の集計が進むにつれてそのリードは蜃気楼のように消えてシンボルカラーが
青色の民主党バイデン候補が勝利するというシナリオである。
それとは逆に、投票日前から郵便票や期日前投票の集計が行なわれている州
ではバイデンが序盤先行する「ブルーミラージュ」現象も起きることになる。
問題は赤青どちらの蜃気楼が最後まで消えずに残るのかだが、その主戦場は
大統領選で常に最も注目されるフロリダだ。 全米支持率で劣勢のトランプに
とって絶対に勝たなければならない州である。だからトランプは昨年秋に税金
逃れも兼ねて住民登録をニューヨークからフロリダ州に移している。
フロリダは所得税、相続税ゼロ。金融犯罪捜査も手ぬるい租税回避地。
同州最大の都市マイアミのすぐ北側にはトランプの名前を冠したホテルや
マンションがずらりと建ち並び、日米首脳会談の開催地で日本でも有名になった
トランプご自慢の別荘「マール・アラーゴ」もフロリダ州パームビーチにある。
● フロリダ州司法長官に トランプが多額の寄付
早い時期からトランプはフロリダ州に目をつけ、人脈開拓にも熱心だった。
例えば、トランプが創設した不動産スクール「トランプ大学」の詐欺問題を巡り、
フロリダ州司法長官パム・ボンディに多額の寄付をしていたことが明らかに。
さらには大統領になって自らに対する弾劾裁判の可能性が浮上すると、すぐさま
同氏を特別顧問に雇い入れた。このあたりがトランプのずる賢いところだ。
フロリダは選挙開票の不手際でも知られている州だ。2000年のブッシュ対ゴア
米大統領選では、再集計を巡って泥沼の法廷闘争の末ようやく連邦最高裁判断で
ブッシュの勝利が確定した。これも再選を狙うトランプには好都合だ。
民主党支持者が圧倒的に多いといわれる郵便投票を「選挙詐欺だ」と言って
有権者に疑問を抱かせ、2000年の法廷闘争の再現を狙っているのだろう。現在は
9人の最高裁判事のうち6人がトランプに有利な保守派である。
開票半ばで一方的に勝利宣言をして郵便投票の開票を打ち切るという暴挙に
出る可能性もある。マフィアとの繋がりもささやかれる弁護士を使って訴訟を
連発して相手に圧力をかけるのは不動産業時代からのトランプの得意技だから。】
―
▼ 決着に時間を要するだけ、アメリカの分断が大きくなる最悪に近い状況。
直接選挙制度のマイナスが、寄集め国家の弱点(いや、長所でもある)有り体が、
ここで露出してしまった! ある意味で、アメリカは強い国である。
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6809、読書日記 ~具体と抽象 -2
2019年11月05日(火)
<『具体と抽象』 ―細谷功・著>
* 抽象化能力は、世界が変わってくる
学校教育は、具体と抽象の行き来をベースに出来ている。また私たちの
言語活動も然り。しかし、これを正面だって取り扱うことはほぼ無い。
これを書き続けていると、その濃度が高くなりがちで、第三者との違和感が
否めなくなってしまう。特に、初対面の人との会話が嚙みあわなくなる。
抽象の世界は具体の世界と違って、見えている人しか理解できない。
「相互理解は、ほぼ不可能である。」 抽象能力が、ある程度ないと、理解が
不愉快になるだけでなく、反発して、リピーターになる前に、暗い、哲学的と
決めつけ、二度と戻ることはないのだろう。具体的=善。抽象化=悪という
とんでもない誤解が固定観念として我々に沁みついている。
大学の「大」は、抽象能力を「大」にするため、社会というフィールドに
飛び出す前の「執行猶予期間」をいう。抽象化能力は、人間が思考するための
基本であり、役立つち、万物霊長の言われる由縁であるのに、あまりに軽く、
扱われている。 ことある度に、避難してきた「世間」には、具体的レベルの
言語能力しか必要としない世界に安住し、理解不可能な抽象的言語を受入れない
下の衆の人たちをいう。
――
~ネットで、この要約を検索すると…
≪ ◉ どっちの道を歩いていくか 2018年12月7日
「抽象」という言葉が、悪いイメージで捉えられがちな風潮がある
「一般」に「分かりやすい」のが正義で「分かりにくい」のが悪とされる
「具体」は分かりやすく、「抽象」は分かりにくい。
本書では、民主主義の中で嫌われ者の「抽象」に「市民権」を与える
ことをテーマとしている
人と、議論がかみ合わなかったり、他人の行動を見て、苛立ちを覚えたり、
忙しくて、やる暇がないが口癖だったり、する人にお勧めしたい ≫
―
▼ これを読んで、コンプレックスで怒りを覚える人が多いのだろうが、
この抽象化能力は時間を掛けないと身につかない代物。自らが抽象化できる
のと、抽象化された言語を、解凍できる能力がある。
<デカンショ、デカンショで半年暮らす>は、大学の教養課程を表現した
替え歌だが、これは抽象能力の必要性を説いたもの。この能力は、一段でも
高さが違う上から目線が理解できない… この抽象化に捻りを入れたのが、
例え話。 …「具体と抽象」の隙間を微妙に付いてくる。
~他にも秀逸な要約があった。 それは次回に。 ーつづき
・・・・・・
6445,閑話小題 ~11月3日の連休は、
2018年11月05日(月)
* この連日は各種格闘技の全日本選手権の日
・11月3日は、格闘技などスポーツTV観戦が大好きな私にとって、年末年始を
除くと、年で1番、楽しめる連日。
・午前は、何時ものとおりの日課を熟し、
・午後からは寝室で… 「全日本学生相撲選手権」「全日本柔道体重別選手権」
「全日本剣道選手権」「全日本極真空手」と…一部録画に録り、イギリスの
刑事ドラマを同時に見ながら、合間に、この文章を書き込を…
・17時過ぎに寝室から居間に移動し、晩酌になる。1時間半もしないうちに、
TV前のベッドに戻り、録画していた番組を見ながら一時間で寝入ってしまう。
何れの格闘技、一発勝負の晴れ舞台の気迫が直に伝わため、観戦でも疲れる
わけである。でも、どれもこれも魅入ってしまう。
この中で、来年のプロ入りが係る「全日本相撲選手権」が特に面白い。
二年生にレスリング上がりの、モンゴル人に有望なのがいるが、途中で敗退。
去年、相撲を始めて半年で準決勝まで残った、将来は横綱になれる逸材だが
卒業まで、2年あるため、来春入門の逸材は皆無? 後は、高校生、実業団を
含めた「全日本相撲選手権があるが…
―
・思いの外面白いのが剣道。毎年、楽しみにしているが、張りつめた中での
一瞬の隙をつく、竹刀と身体さばきが良い。 この数年は、内村、西村選手を
中心に競っていて、今年の決勝も2人が勝ち残こり、西村が優勝。内村から
西村の時代を印象付けた内容。
―
2日間、快晴のため、早朝のミニ・チャリ(ポタリング)が出来たのが幸い。
TVで、スポーツ、映画、ドラマの観戦も、息を抜かないと、ストレスになる。
その点、10年近く続けてきた信濃川土手への自転車散歩は、毒抜きに効果的。
「ストレス蓄積ほど悪いものはない」という持論で、この数十年、生活をして
きた。それでも、単調な生活パターンの中で、73年分の記憶のフラッシュが
湧き出てくる。良いことも悪いことも。だいたい、悪いことが多いが、可能
な限り後味が悪くなる選択をしないよう心掛けてきた。それで、これ。
なるほど、良いこと3に、悪いこと1の割合が心が平安の幸せ状態。無理する
こともないが、心がければ、何とか維持可能。
・・・・・・
4983,暴走する世間 -1
2014年11月05日(水)
~暴走する「世間」―世間のオキテを解析する~佐藤直樹 (著)
ーまずは、アマゾンの解説から
< 日本社会の見えないオキテ、それが「世間」である。事件が起きマスコミ
で報道されるたびに「犯人」にたいして極端なバッシングが起きるのも、
「空気を読め!」という無言のプレッシャーが生じるのも、携帯を使ったいじめ
が起きるのも、「世間」という同調圧力のなせるわざ。「お世話さまです」
「おかげさまで」といった物言いにさりげなく顔をのぞかせ、いじめ・うつ病
・自殺の引き金にもなる「世間」。バブル崩壊以降とみに暴走しはじめた
「世間」の危ない構造にメスを入れる長編評論> ~~
~~森林(現役)の生活からサバンナ(御隠居)へ、住居を移動したことで、
見えていた世界が様変わりをした。社会から、世間への移動?それとも、逆?
いずれにしても、ますます、独善になっていく自分がいる。 世間的強制力に
アタフタするのは、やはり個人が確立してないため。
実は社会も、世間も共同幻想でしかない。そう思えば楽だが、それが比較的
楽に出来るのが御隠居の身分。 ーその辺りからー
≪ 社会も個人もいない「世間」のなかで、「世間」的強制力をともなって、
個人に責任を押しつける「自己責任」や「心理主義」が強調された場合、
「世間」はますます住みにくくなる。しかし「世間」は、日本人であれば、
生まれたときから取り囲まれ、あるものと親から教えられ、そのなかで生きて
きたから、それを意識的に取りだすのがとてつもなくむずかしい。
これに加えて、「世間」は具体的なものではなく、ある種の共同幻想、つまり
人々のアタマに宿る観念である。人によって「世間」は広かったり、狭かったり
するが、それは「世間」とは関係そのもののことであって、本質的には人間の
アタマに宿る共同幻想だだから。共同幻想とは、複数の人間に宿す観念である。
厳密にいえば二人の間だけでは、共同幻想とはいえない。たとえば恋愛関係
などのように、二人の対になる関係においては、世間は存在しない。
この二人の関係を、思想家の吉本隆明さんにならって「対幻想」とよんで
おくことにする。
「世間」は三人称的な関係で、三人以上の人間が共同して生みだす幻想。
なぜかといえば、「世間のオキテ」といったようなルールや規範が存在する
ためには三人以上の人間を必要とするからだ。「世間」は幻想であるから、
ないと思えば、ない。「世間のオキテ」も、ないと思えば、ない。げんに外国
で生まれ、日本に住んでまだ間がない外国人には、「世間」も「世間のオキテ」
も間違いなく、ない。だから原則として外国人は、「世間」には入っていない。
かなり長く日本に住んでいる外国人でも、日本の「世間」のなかに入ることが
できるのは、まれである。外国人が「日本人はとっても親切だ」というのは、
かれらがはじめから「世間」に入っておらず、そもそも「世間」の外にいる
「お客さん」であるから、親切にされるにすぎないのだ。 問題なのは、
「世間」が具体的なものではなく、共同幻想であるがゆえに、それを否定
するのが相当にむずかしいということである。具体的なものなら、捨てるか、
近づかないようにすればいいが、共同幻想は観念そのもののことだから、
そうはゆかない。簡単に捨てることができないし、そのなかで生活している
以上、近づかないでいるわけにもゆかない。だからこそ、「世間」の存在は
なかなか意識化できないのだ。しかし、これを意識化する方法がある。
それが、「世間学的エポケー」である。・・・≫
▼「あの老人、一度も恋をしたことが無いんだって!現実に溺れすぎて」
という強烈な言葉がある。共同幻想の前の「対幻想」の幻想である。
その共同幻想も、何も考えもせず、ただ、成り行きで染められた幻想で
しかない。Uターンで地元に帰った時に感じたのが、城下町という特殊の世界。
専門が社会学だったことと、10年間の外界経験から、これが特殊ということ
が分かっていた。で、アウトサイダーに徹し、そして、事業場を新潟にした。
これが「世間学的エポケー」これも事業設計、人生設計の一つ。
予め世間を特殊世界と割切って捨てれば、これほど楽なことはない。一般的
には御隠居になって気づくが、気づかないままが殆ど!あのゾンビの群れ。
~~~
2073, 金は人を幸せにするか?
2006年12月06日(水)
才八∋ウ_〆(∀`●)
お金に関しては、何度か書いてきたが・・
先日の書評「金は人を幸せにするか?」は題材として面白い。
毎日新聞の『「豊かさ」の誕生…』=W・バーンスタイン著の書評で、
その内容が紹介されていたが、なかなかよい。建前でいえば、
「お金で幸せが買えるかって?冗談じゃない。幸せは心の問題だろう。
それが金で買えれば、世の中の金持ち全部幸せのはず。
質問そのものがナンセンス」が正論である。
しかし本音のところ、 「金は何でも買うこともできる自由の塊、何で
そんな建前をいうのか? そんなことを言えるのは充分ある人のこと。」
と、陰の声がささやく。
「貧乏の極みで家庭は崩壊、借金で高利貸しに追われ、最後は不幸のどん底、
投身自殺を図ったが死に切れず・・・」
これなど不幸のカタチで何処にもあるパターンである。
倒産や失業では金欠が当面の切実の問題になる。
人間の品性は「金欠と女性問題」で露わになる事例を山ほどみてきたので、
間違いなく「金のないのは、人を不幸にする」ということだけは断言できる。
幸せになるのもいるが、それは珍しいから小説の種になる。
私の持論は、「金で8割の幸せは買えるが、あとの2割は金で買えない。
その2割こそ一番大切なことである。しかし8割は買える。
幸せとは、したいことがあり、それをやり遂げた心のさまである。
それは金では確かに買えない部分もあるが、しかし金=自由であるから、
やり遂げる手段としては、最有効になる。」である。 理屈として、
「買えるものは買えるし、買えないものは買えない。買えるものは金があれば
こそ買える。金が無ければ‘買えない’範囲が広くなる。そのぶん自由度が
狭くなる。自由は人間にとって非常に大きい幸福の要素である。
自由度を大きくするには、より多く金が有ればよい。生存レベルで必死の人
にとって、{生活手段としての資金の確保から解放されることが幸せである}
のは当然のことであり、お金は資金確保からの解放を意味する。
生存レベルの資金確保の束縛から解放された人は逆に、 幸福感が
「生活資金確保の段階」からアップスケールしているのだから、身近な世界の
人との比較や、違うレベルの欲望の達成の幸福感でなくては、幸せなれなくなる。
金が無くなって「お金だけが人生ではないお金は決して人を幸せにはしない」
と、言うに丁度よい言葉の羅列にはなるが。
・・・・・・
5713,つれづれに哲学 ~レヴィナスの、「他者の顔」
2016年11月05日(土)
* レヴィナスの「他者の顔」
仏壇の横に、30年前の実家の法事の集合写真を置いてあり、度々みている。
40数人の参列の7割方が故人である。30年来の時々に、写真を見る習慣が、
私の生き方に大きな影響を与えていた。そこから、生き残っている親戚縁者も、
「散る桜」でしかないと、故人達が呼びかけてくるような。
生きている不思議と意義の実感。亡き縁者の顔の背後に無限の存在を直観が、
死の不安を解消してくれる。遠くない日に私も阿弥陀の世界?に入っていく。
生れてきたからには死ななければならないのが世のならい。自分の内に取込め
ない「他者」の「顔」が、自分の周りを囲んだ壁の外に、自らを誘う。
レヴィナスは、こう宣う~
≪ 自分の解釈の中にすべてを取り込んで、自分中心の世界を創っても
「イリヤ」の恐怖から逃れることが出来ない。彼にとってイリヤから抜け出す
カギは「他者」の「顔」。もし、他者の顔が、「汝、殺すなかれ』と訴えたら、
人間は理性からでなく、無条件で他者に倫理的な責任を負わざるをえなくなる。
人は自律などできないのである。他者とは自分の世界に取り込めない、その外側
にいる無限の存在です。その「顔」に責任を持つことで、わたしはイリヤの恐怖
が渦巻く私の世界から抜け出し、永遠に向かう。≫
▼ ここでいう「顔」とは、
<実体的な顔のことでなく、他者の他者性を 意味する概念>として捉えられる。
お互いの顔は、他者を通した「無限」の広がりの入り口になる。キリスト、仏、
を通した教えを例えると理解しやすい。自分の世界に固執すると、私はイリヤ
から抜け出すことができない。その行き詰まった結果、自己崩壊に至る。
その挫折が、己の殻を打破る。留まると、そこに「世間様の壁」が、強硬に立ち
塞がってくる。で、ゾンビに! 他者の顔を見ることで、その背後にある永遠の
直観こそ、「イリヤ」の恐怖を和らげてくれる。生まれ生れ、死に死にていく!