読書日記 ~『できすぎた話』 ~6

f:id:horii888888:20210616063815j:plain

   * そりゃ、欧米は焦るは! 
 豊かさの恩恵は、知識、情報の質量の格差に端的に現われる。
このコロナ禍も中国にとっては、頃合いからして、できすぎた話になる。
農耕が行われ出し1万2千年経過した現在、その結果として村、町、都市が
発生した。それが効率良しとした大都会に発展。その結果、地域社会の特性の
ある都市生活が各地に出来てきた。日本では7大都市が、それぞれの地区の代表
として特色が出来ている。このコロナ禍は、その根本を覆す疫病の流行になった。
これは忌々しきこと。効率よい3密空間こそ、善だったのが、それは駄目と…、
 
 今さらだが… 殆どの人たちは、解決するのは時間の問題で、元に戻ると信じて
疑わない。このパンデミックは、逆視点からして、いくら何でも出来すぎた話。
 それも、各人にパソコンのネット社会が普及を始めた現在、テレワークが可能
な時節に、この事態である。 一人っ子政策が出わたった中国にとっては、
これは非常に有効に働く。 流砂の民といわれる程、個人の意思は強固。そこに
スマートフォンとくれば、流砂の意思統一が可能になる。中国、インドにとって、
世界のネットワークは、長年かけて構築済である。

 その中で、群れを特性として成長をしてきた日本にとって、群れを良しとする
利点が失われ始めてきた。ネット社会は、同一が決して利点にならない。むしろ
害悪になる。徳性がないと、選択されないのである。

・・・・・・
7099,閑話小題 ~ジムも、徐々に客足が戻りつつあるが…
2020年08月21日(金)
    * 閑散としていたSJも
 コロナ禍の中で、閑散としていたジムも客足が戻りつつある。
元もと「平日10~17時コース」で、主婦と、水商売らしき女性と、老人が
主のため、コロナ禍の影響が少なそうだが、かなり危険なことは否めない。
事態が事態だけに、コロナ禍以前と比較すると3割程度か。ジム経営も、あと
数ヶ月も続くと資金持ち出しが多大になり、リストラの事態も必定か。
何が起こるか分らない時代の長期装置産業の難しさを垣間見た思いである。
 …9年余り、顧客の一員としてSJを見つめてきたが、次々とカテゴリーキラー
のライバル店が近隣に出店する中でのコロナ禍。そうそう順調な右上りは難しい。
お盆明けから、全員がマスク着用したエアロも、少し無理がある。
熱暑のマスクは、むさ苦しく厳しいが、パンデミックなら致し方ない。
 ―
   * 1~2月に誰が、予測しただろうか?
◉ 30歳代後半の男女2人が、コロナ禍の中で、仕事を失いホームレス一歩手前で
 彷徨う姿をNHKで放映していた。ミュージシャンの夢を諦めきれない男に寄添う
女性が何ともうら哀しい。上野公園の住人(ホームレス)と… 自暴自棄気味に
語る。最後の最後に、女性は仕事の最中に骨折して、NPOに飛込む。財布の中には
2千円のみ… 勧めもあって生活保護に! 生活保護は、治療費がゼロ。
女性の呟き、「ここが人生のどん底ね!」 たしか、武田鉄矢が、売れなくなり、
金を使い果たして渋谷の坂を歩いている時に、出てきた呟きと同じ。
◉ 何とか10万円の生活給付金と100万の事業継続給付金で食い繋いでいた困窮者。
 それも、そろそろ限界に達して、9、10月の秋口から、大きな社会問題になる。
年があけた来年は、弱者の者にとって想像すら出来ない事態の可能性が大。
◉ アメリカの新型コロナ死者、劇的な対策なければ9月に20万人に…
 3ヵ月前に10万だから、2倍のペースに加速。
世界に目をやれば、2200万人が感染、78万人が死亡。
これが倍倍でいくと… 1億人の感染と、500~1000万の死者も!
医療崩壊も生じる可能性もある。 劇的感冒薬が出てきて、1年もしない
うちに世界は元通りに… は難しい?

・・・・・
2020/01/04
閑話小題 ~去年の同月同日の『どん底』を読返して
・・・・・・
6732,閑話小題 ~「分人」という言葉
2019年08月21日(水)
    * 自分の生成
 平野啓一郎の『私とは何か―「個人」から「分人」へ』に分人主義。
  ~ネット検索によると~
《 ◉ 人間が、相手によって、あるいは置かれた状況によって、言動が変わる
 のは普通のことではない。例えば、会社員が上司にはペコペコするが部下には
威張るといったように。「分人」と言われると、多重人格者や、統合失調症の人
を連想してしまう。 いろいろな自由に対応できる人生に、「分人主義」という
考え方を提唱。個々の関係性のなかの、それぞれの自分を、個人に対して分人と
呼んでいる。
「分人主義」。なにか仏教的な印象を受けます。その場その場で対応する自分
がいて、その場その場で使い分けをしている総体的な自分がいる。多様な切り札
をもっている、あるいは、いろいろな引出しを持っている自分である。
分ける。時間を分ける。それを無限に分ける。1/nでn>∞にする。
そうすると無になる。すべては空。時間を無限に切り分けた多次元世界に、
見えない世界、見えない自分がいるかもしれません。見えない自分を生かす自由
(というのがあるとしたならば、それ)を行使できれば、息苦しさをかなり軽く
できそうな気がします。仏教でいうところの「無我」に通底するような気がした。》

▼ 役者、政治家、役人などは、それぞれの役割を演じ、成りきる人をいう。
 人、生物、モノも役割があるため、彼らだけでなく、一般にいえること。
毎日、ブログを書いていて、過去の同月同日の文章を読み返す度に、誰だ、
この人?と思うことが多い。自分は毎日、生まれ変わっている実感がするから
続く。時代が目まぐるしく変化している中で、私たちも日々刻々変わっている。
としても、そこに見える「分人」たちの幼稚で、卑小な見識に、驚かされる。
成るほど、「内省」とは、このことかと。これをしている御蔭で、他者の、
軽さ、重さを計ることも出来るが… 先日のテーマ、『サードプレス』も、
様々な分人から、一歩離れて、真実の自己に出あう場所ということか。

・・・・・・
5272,「エリック・ホッファー自伝」~⑦ 『希望より勇気を』
2015年08月21日(金)
            「エリック・ホッファー自伝」中本義彦訳
   * ホッファーが生きた時代背景と、弱者
 ホッファーは、自分の生きた時代背景と、そこに適応出来ない人々の
精神状態が、いかなるものか?を、自身をそこに置くことで詳細に観察した。
当時は、現在の断絶の時代に酷似しているようだ。情報機器を使いこなせない
中高年たちは、情報段差に呆然とするしかない。それでも、タブレット
スマホの普及がフォローをしてはいるが。物理的な金銭に加え、現在は
情報格差の問題が加わっている。  
≪ ホッファーが分析の対象としたのは、何よりも同時代の「気質」であり、
 そこに生きる人々の「精神状態」であった。近代人は、長きにわたって拘束
された神から逃れ、ようやく自由を手に入れたものの、今度は、
「かれ自身の魂の救済を、しかも四六時中、行なわねばならなくなった」。
自らに対して、そして社会に対して、自らの価値を日々証明し、自らの存在を
理由づけなければならなくなった。 これは容易ではないし、絶え間なく変化
する社会に生きる一個の人間にとっては途轍もない重荷である。
われわれは、往々にして、自分自身に満足できず、「自己自身と異なったもの」
になりたいと熱望する。そして、「真に欲していて、それを持つことができない
ものの代用品」を追求して多忙をきわめる。好ましからざる自己から自分を
引ぎ離し、文字通り「心を亡くそう」と試みる。かくて、「人生のあらゆる
部門に熱狂の噴出がある」のであり、「社会組織そのものが、一般に、心の病
に冒されやすい、すぐ燃えやすい体質になってしまった」とホッファーは洞察。
本書に鮮やかに描かれているように、この簡潔で力強い分析の源泉は、
彼自身の浮浪者としての原初的な生活の中にあった。
「金がつきたらまた仕事に戻らなければならない」生活に自殺未遂をするほど
うんざりしながらも、それを克服して「旅としての人生」を生き抜いていく
ホッファー、その彼は、季節労働者キャンプでのささいな出来事から、
自分も他ならぬその一員の「社会に適応しえぬ者たち」に興味を抱き始める。
そして、彼ら固有の自己嫌悪が放出する「生存競争よりもはるかに強い
エネルギー」こそが、人間の運命を形作るうえで支配的な役割を果たしている
のであり、「弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する」ことが、
人間の独自性であるという洞察に到達するのである。
 ここで本書の歴史的な背景に少し目を転じてみると、ホッファーは
路上にあった1930年のカリフォルニアには、浮浪者がかなりたくさんいた。
F・L・アレンの『ジンス・イエズタディ』(1939年)が記している、その原因
のひとつは、テキサス州からカナダ国境から大平原地帯で起きた異常気象。
1933年から二年余りにもわたって無数の嵐が起こり、過度の放牧で荒廃した
広大な地域で大量の砂が吹き上げられた。大恐慌ですでに苦境にあった。
この「黒い大吹雪」と大洪水によって、決定的な打撃を受ける。
 農業の崩壊は、町を衰退させ、住民は、「約束の地」西部へと逃れる。
そして、ホッファーと同年生まれのスタインベックが『怒りのぶどう』
(1939年)で鮮烈に描いたあの苦難を経験したのである。
「普通の安定した地位に留まることができず、社会の下水路へ押し流された人々」、
「居心地のよい家を捨てて荒野に向かった者たち」こうした人々の内面に欝屈する
「こんなはずではない」という不満と「別の人間になりたい」という変身願望を、
ホッファーは折に触れて感じていたのかもしれない。そして、自分の内面を
厳しく見つめ、自分が存在する歴史的世界を認識することによってこそ、
あの近代人の「情熱的な精神状態」を見抜くことができたのであろう。
 人間の抱く"情熱"の現実を見ようとしたホッファーは、常にその両面性を
指摘した思索者でもあった。われわれは、まずもって、情熱的な精神を
「創造の新秩序の発生」として見なければならない。情熱のない人間など、
その独自性を放棄した存在に等しい。しかし、同時に、それが「退行化」
そして死をも辞さない狂信になることに絶えず警戒を怠ってはならない。
 この世の悪を絶滅しようとする宗教的、民族的・イデオロギー的な熱狂の
罠に陥ってはならない。そもそも「山を動かす技術があるところでは、
山を動かす信仰は要らない」のである。
 情熱を飼いならし、加工し、創造的なカへと変容させること ーそれは、
きわめて困難な作業である。「抵抗しがたい渇望」は突然襲ってくるもの。
 しかし、われわれは、「希望」より「勇気」をもって、それをやり抜かねば
ならないのだとホッファーは訴える。自己欺隔なくして希望はないが、勇気は
理性的で、あるがままにものを見る。希望は損なわれやすいが、勇気の寿命は
長い。希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それを
やり遂げるには勇気がいる。闘いに勝ち、大陸を耕し、国を建設するには、
勇気が必要だ。絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の
存在になるのである。≫
▼ 考えさせられる内容である。時代に合わせ、自分を変えてるリスクと勇気
 こそが激動の世に求められる。それは常に不安定が伴うが、それを観察し、
楽しめる精神の強さが求められる。現在は、「情報革命による断絶の時代」。
『勇気』こそが、時代を切開くキーワード。人生を創造していく勇気!である。

・・・・・・
4907,ホントに大事なお金の話 -5
2014年08月21日(木)
  * 真のお金持ちは紙袋を持つ
 元ネタは、プレジデントオンラインー2010年8月頃の記事
              『なぜお金持ちは紙袋を持つのか?』
  ー面白いと思った部分の要約をするとー
◎ お金持ちはなぜ紙袋を好むのか? 彼らは紙袋で移動してもOKだからだ。
 運転手付きの車、タクシー移動とドアtoドアで雨にも濡れない。
 だから紙袋でも平気。必要なくなれば折りたたむことも、処分することも
 できる紙袋が、一番使い勝手がいい。
◎「海外ではいい時計や靴がセレブの証だ」というが、本当のお金持ちに
 とって、それも無意味。なぜなら予約の際すでに彼らの身分は割れている。
 お金持ちは決して粗雑に扱われないルートで予約するし、定宿は決まっている。
 一流ホテルとなれば、常連の顧客の顔を覚えていないわけがない。安い時計に
 スーパーで買ったシャツでも、彼が歓待されるのはそういうわけがある。
◎ ブランドショップにもいない。ものを買うなら知り合いから少しでも
 安いものを買うのが基本。
◎ さらにお金持ちは「ブラックカード」や「プラチナカード」も持たない。
「ゴールド」ですら必要ない。「年会費がバカ高くてもったいない、普通の
 カードで十分」。必要な局面ではコネがあるので優遇されるし、不必要な
 場所で自分がお金持ちであることを、ことさら触れまわるのはリスクが大きい。
◎ また彼らは絶対に見栄を張らない。元もと、「お金持ち」であることを人に
 知らせる必要がない。ランチは1円まで割り勘。でも慈善事業に多額の寄付を
 している。使い切れないお金を持てる人は、それに振りまわされない独自の
 価値観をしっかり持っている。見栄を張ると無駄な出費も多くなります。
 本当のお金持ちは絶対に見栄を張らない
▼ ここで著者がいう本当の金持ちは、上の上の人たち。百億以上の資産を
持つ人たち。上の中といえば、純資産が10億以上。上の下が1~2億。 
上の下から上の中ギリギリが、その嫌らしさが現れ出てくる。知識同様、
その辺りの「似非」が金持ちを演じたがる!金持ちのラインは10億の現金か、
純資産である。 47年前の学生時代に、一ヶ月間の大名旅行をした時、
ここでいう大金持ち?の子弟が多くいた。 身なりからして違う人種。しかし
お金には、非常に敏感で細かい。何気ないオシャレでブランド品をさり気なく
着こなしていた。見栄を張るのは一部の人たちのみで、開放的でフレンドリー。
漂う空気からして、それまでの友人とは違っていた。周囲の思惑など気にしない
で、紙袋などを平気で、何処にでも持って行く。その紙袋が実にセンスが良いが。
こういう存在を身近で見る初めての機会だった。 当時、その段差を、さほど
意識はしなかったが、現在、考えると、上記の通り。
時おり海外ツアーで、それらしき人を見かけるが、まずユニクロを着ている
ことを隠さない。アンダーとして割切っている。元もと隠す必要がない。
ブランド品を着ること自体、自分のセンスに自信がないため、ブランドで、
それを覆い隠すしかない。 TVドラマで、セレブ世界のドロドロした社会が
出てくるが、その世界を知らない人が演出したものとしか思えない。実際は、
あんなものではない。それぞれ独自の価値観を持って振り回されない人が殆ど。
この一連の経験から見えたのは、それぞれ独自の価値観の質の格差。 
その視点の質は、隠せないようだ。 

・・・・・・
6002,「死ぬまでは苦しまなくちゃ」の覚悟
2017年08月21日(月)
         ー 「世間の捨て方」ひろさちや著 ―
   *  死ぬまでは苦しまなくちゃ
 「身内の最期の悶絶を見て、早々の安楽死を望むが、それは現象の問題と
いうことを忘れているのかも」という問いが、内から浮かび上がってきた。
悶絶の末、「もう、いいや」という諦念へのプロセスも最期の最期には…
考えさせられる。還暦、古希を過ぎた人には、その覚悟は出来ている?

≪ 森鴎外の次女の小堀杏奴が、こんなことを書いてました。
 鴎外の長女莉莉と次男不律が同時に百日咳にかかったときのことです。
生後半年の次男が死んで、長女も危篤になり高熱が出て、あまりに可哀そうで
見ていられないと言って、医者は「モルヒネを打ちましょうか」と提案をし、
安楽死をさせようとした。すると、医者であった鴎外は「自分もそう思う」と
同意し、奥さんも賛成、まさに注射を打とうとする時、奥さんの御父さんが
やってきて、その場面をみて、こう怒鳴ったという。
「馬鹿もの!何をやってんだ。人間はそんなに苦しかって、死ぬまで苦しまな
ければいけないのだ」 その一言で長女の命が助かりました。
鴎外はお義父さんに完璧なまでにやられました。でも、「俺も医者として
言いたい」と思ったのでしょう。その数年後に、安楽死の問題を取扱った
高瀬舟』を書いてます。…≫

▼ ハッとする問題の提示である。私は常日頃から、
<駄目だとしたら、早々に「モルヒネ」を打って安楽死をして欲しい>
 と家内に言っている。子供のケースとは、前提が全く違う。しかし、
「余命3ヶ月・半年」と宣言され、死ぬまでの間、これまで生きてきた
エネルギーを使って悶絶する?のだろうが、鴎外の義父の言った「人間は
どんなに苦したって、死ぬまでは苦しまなければいけないのだ」の言葉が
杖になる? 人生経験を味わい尽くした老人なればこその言葉である。
「どんなに苦しくとも生きろ」という人の基本である。宗教心を持つ人間に
とって当り前のことだが。神様に頂いた命。苦しいときは苦しいまま生きる
ものだという真理を忘れ、どうしたら楽になれるかを追求しがちなのが人間。
しかし、「せっかく頂いた命を面白おかしく生きる」のことも大事である。
死んだ瞬間、元もと無かったのと同じことになるのだから。