閑話小題 ~ ああ、地元長岡について

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   * オサマルところに治まって
 オサマルにも「治まる」「収まる」「納まる」修まる」などがある。
外国人からみたら、なんと難しいと感じるのは至極当然。で、テーマはオサマル
に治まった。折角、狭い世界から抜け出たが、元の木阿弥、何だったのか御前は?
である。気楽に生きるにはベストの環境のため、如何もこうも の人間になって
しまった。良くも悪くも、今年合併した「第四・北越銀行」のような人間性

…言い得て妙。 
・プライドが異様に高く、それが卑屈に歪み、近隣の顔色を見て即自対応をする。
あるのは家柄と、最終学歴と、外観と、最近得た、あらぬ噂話のみ。日本社会の
典型だが、それが長年かけて蓄積された情念が、厚く、意識を低く抑えている。
何やら己の性格分析そのものだが… 
・新潟~長岡間を職住を分けて31年間、過ごしたこともあり、その不気味さも
体感してきた。様ざまあって現在、新潟で住む幼馴染が年一位中学校の同級会で、
「ここは、民度が低い」と会う度に宣う。東京の葛飾に住む従兄も然り。
良くいえば、何処も、何れも、差別と、差異の中で、己を位置と、居場所律して
いる。それぞれの小さな地域社会を形成してあり、何かがあるごとに、所見が
塗り替えられる。それが犬に譬えると、それぞれの首輪をつけて、紐を引きづり
彷徨う姿は、何とも愛くるしい。

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7029,閑話小題 ~梅雨入りですか
2020年06月12日(金)
   * 甲子園野球が一回戦限りで
 苦肉の策としても、よくぞ決断したもの。球児にとって、甲子園に出場できた
だけでも喜ばしい。ファンも、選手も、これで少しは納得する。
  ネット・ニュースによると…
≪ この夏も、甲子園に球音が響くことになった。日本高校野球連盟が10日、
 春の選抜大会に出場予定だった32校を招き、「交流試合」を8月に開催する
と発表した。驚き、喜び、そして複雑な思い。春夏の両大会の中止が決まった
後の知らせに、球児らは様々な表情を見せた。≫
 ▼ 物足りないが、それでも空気を味わっただけでも良しとしないと…
   ――
  * プロ野球の観客席で写真で観戦!
<実際のサポーターの実物大の切り抜き写真を本拠地アメックススタジアムの
スタンドに設置するというもの。 ... 実際にはテレビ観戦になるが、自らの
姿だけは観客席へ送り込めるとして、ブライトンだけでなく、他クラブの
サポーターからも「グッドアイデア」と称賛の声が挙がっている。
しかし、これは韓国のアイディア。
<2020年5月8日-無観客で開幕した韓国プロ野球で、球場のスタンドに貼られた
観客に見立てたパネルが、中国でも注目。中国メディアの中国新聞週刊 ...
中国メディアの中国新聞週刊は6日、微博(ウェイボー)への投稿で、マスクの
観客の写真がプリントされたパネルがスタンドに大量に貼られたことを映像で
紹介。 ... >
 ▼ 日本でも取り入れればよい。それも大型にして… 大相撲、プロ野球も。
 特に甲子園で、出場できなかった選手の等身大のパネルを… 所どころに、
観客を紛れ込ませて… デジタルの世。利用しない手はない。

 追:パネルは大変なら、プリントの幟を客席に並べたら! 
   その位のことはやれよ!

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6662,閑話小題 ~日々・是・好日 ー2
2019年06月12日(水)
   
   * つれづれなるままに
         ~『こんな私に誰がした!』 ですか。
 口癖になって繰返しになっているのが、
『あっという間に、1日、1週間、1月が経ってしまう!』
リタイア後、日を追うごとに、その感が強くなっている。ストレスが
減っていることと、大して変わり映えのしない日程が、そう思わせている。 
 ところで、リタイア後、似た状況の人は、どう過ごしているか気になる?… 
アメリカの話だが、7割が、誰と会うでなく、身近のスーパー、HCでブラブラ
しているだけ。日本人は群れを好むとはいえ同傾向にある。 もっと旅行など
趣味の集まりや、ボランティア活動に専念と思っていたが… そうでもない。
それまで長年かけたライフワークと、教養のベースが有りか否か。

 シネマ館で、私と同年代の観客が多く見られる。このところ、映画そのものが、
デジタル機器の向上で圧倒的に面白味が増しているとしても…  僅か千百円で、
幻想世界にアッという間に誘ってくれる。それは家庭内の大型高感度TVでも可能。
問題は、それらを消費する時間が足りないこと。
 ところで、映画や、ドラマをただ万遍に見るのではなく、「何に対して、
何をみるか」の視野が必要ではないかと。遊びの分野に、小難しい話は何だが、
私は、ストレス解消。一日、週、月、年単位で、それらを潰していく。
 映画・ドラマの物語の中で、喜怒哀楽や感動を、味わうこと。 ベッド前の
ブルーレイに自己評価85点の録画が300本と、YouTubeも控えてある。ネットも
含めると‘何か陽気な自閉症’? 体感は少ないとしても、脳幹に直接、響く。

 現職に携っていた時は、目先を含めた将来と、現実社会のウエーブに
エネルギーの大部分を吸取られていた。 リタイア後の現在、先の心配、気遣い
のエネルギーが、フラッシュのように現れ出てくる記憶から、当時、気づかな
かったことがリアルに見えてくること屡々。それはそれは… 沈思黙考なれば
こそ、稲妻のような光と轟音に圧倒される。夜半の0~2時半の、サイレント・
ブルーの中で、フラッシュとして轟音と稲妻が襲いくる。
とはいえ、それもこれも、過ぎ去ったことは妄想の類? でしかない、 
今さら後悔しても… 成るほど、これが『日々是口実』ですか。
 
後記(2019年06月12日): 以下のテーマをみて、
 『こんな自分に誰がした!』の言葉が… 最近、何やら後悔すること多し?
 それでも、私の人生、けっこう気に入ってるけど! 
「しない成功より、してしまった失敗」レベル… の話だけれど。
 
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6299,読書日記 ~『こんな長寿に誰がした!』
2018年06月12日(火)
             『こんな長寿に誰がした!』ひろさちや(著) 
   *‘人生100年’は本当にいいことか?

 曽野綾子の、<人生の良いとこ60歳まで>説を、50歳ごろに知り、「10年間を、
30年分に圧縮して生きた経験」を何度か、ここで書いてきた。 現在から考えて
みて、これが良かったと深く実感している。60歳を過ぎて、遣り残し感が少ない
ため、気持ちに余裕が持てる。会社清算に対しても、節目の時節到来と… 
迷いなく処理をすることになった。
 この年齢に自分が到達しようとは思ってなかったので、年々、変わりいく、
年齢の日々が、何とも新鮮である。
 「年寄りとは、自分より5歳年上をいう」という言葉がある。成るほど、私の
「5歳年上」は、77歳になるが、やはり75歳が分岐点で、止まることない老化を
実感する年齢のようだ。 私も、あと良いとこ2~3年と実感はしている。
姉が二人、80歳に到達したが、見るからに厳しいそうだ。特に81歳が鬼門。
100歳まで親が生きたとしたら、それも矍鑠としていたら、周りは?
   
《 ー内容紹介ー
人生100年」は、本当にいいことか? 延命治療を選ばざるを得ない医療の現実。
「治るはず」と、現実を受け入れられない患者と家族。経験を若い世代に伝えず、
権利の主張ばかり覚えたシニア世代。 誇るべき長寿とは違う形で超高齢化を
加速するこの国のありように、宗教思想家が鉄槌を下しつつ、本当に幸福な人生
の締めくくり方を提案する。
  ーカスタマー・レビューー
【 生きることは苦しい。老人は長生きしたことが幸せか。枯れることが大事。
 知識ではなく知恵。病気のとらえ方。そして減ることのない欲。こういった
永遠の真理がつづられています。所々で、キリスト教徒と仏教の智慧と心理は、
過去はパーソナルな形で時代を超えて伝達されていたのですが、このような形
での伝達が不可能となった今、著者はこの作業を自分の使命と考えているよう。
真理を指摘するのは簡単だが、実践することが難しい。実践できないまでも、
頭の片隅に置いておく。それくらいかな、凡人にできるのは。】

▼ はからずして、ここまで生きた実感は、「ここまで生きて、21世紀の実相の
 一部を垣間見ることが出来て本当に良かった。 年々の老化現象はあるが、
この激変の時代の一年一年の時代の重みを経験出来るだけで、充分、価値がある。」
人生、100歳までは?だが、やはり75歳辺りが死に時か! あと2年半ですか。
紀州ドンファンという痴呆症老人を見るにつけ、死際の難しさを知らされた。
ここで、「死ねない病」について述べているが、最も恐ろしい病のようだ。
誰知れずに自分の死を申告し、清潔な環境の死の家に入居し、スッと死ねる施設
があれば… 自ら死ぬ権利があってしかるべきだが。健常状態で、せめて5年は!
2年半と変わらない? そう思って生活していると、毎日がエキサイティングに。
このまま医療制度が拡充されると、100歳まで死ねなというが… それこそ残酷。
程ほどに…
  
 ~で、5年前の文章に続く 成るほど!
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4470, 最悪の結果に隠された、お宝は?
2013年06月12日(水)
   * この結果に意味があるとすると、それは何?
 「三羽の黒鳥(9・11テロ、リーマンショック、3、11震災)の到来で、
この結果に終ったのに何か意味(価値)があるか?」が、問いかけとして残る。
これまでの人生の節目で、最悪の状況こそチャンスが隠されていた。今回も下手
に切り抜けるより、早々に止めた方がベストだった。 この一連の三羽の黒鳥の
到来前に、日本は支配国アメリカによる意図的なバブル経済の生成と、崩壊が
あった。機を同じくソ連の崩壊と、中国の共産党支配化での資本主義経済の導入
で、世界を二分していた垣根が無くなった。更に欧州の経済統合による大混乱と、
アメリカの衰退が重なり、ここにきて一挙に混迷を深めている。 さて、私に
とっての今回の一連の隠されたベストの意味=価値は何だろう?の問いかけ。
《 森の生活からキレイサッパリと決別し、サバンナの生活というより、
 死に支度をすべし! そして、森の生活で、切り捨て目を背けてきたことに
対する再考。さらに、せっかく奇跡の星に人間として生まれたのだから、もっと
世界の広さと深さを知り、経験し、味わうこと 》が、結論。
「早々に隠遁生活に入り、老いと死に準備に本気に入れ」ということ。
 昨日の随想日記に書いたが、日本人男性の健康年齢(寝たきりや介護を受けず
日常生活ができる年齢)が70歳。死亡平均が79歳からして、9年の介護が必要。
80歳を過ぎなら分かるが平均としても、「70歳から10年間も、介護など誰かの
世話になる生活が待っている」とは思いもしなかった。「好きなことが出来る
のも、そう長くない」ことになる。9年間の不自由な介護状態なら長生きも
考えもの。 還暦を過ぎた辺りから生老病死の問題が、真正面からやってくる。
60歳までに、やりたい事をやり尽くした感があるので、焦りは少ないが、
甘くない近い将来が待っているのが現実である。そこで、「一日一日を、面白
おかしく生きる」しかない。また自分の「知識の球」「経験の球」の外側を少し
でも広げることだ。もっと人生の少なさに焦るべきは、身近な人の死をみれば
分かる。そういう年齢に入った自覚をより持つべきである。前期高齢者に入った
65歳が、森の樹上の生活も早々止めて、一度、森から離れ、世界を見直す時節。
「今さら、そんな小さな己の世界を広げてみたとて、何になる」というが、そう
としても、前向きに倒れた方が良い。知ること、行動すること、愛することを、
死ぬ瞬間まで少しでも広げることである。人生には多くの意味があって面白い!

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5567,閑話小題 ~魂の御馳走
2016年06月12日(日)
   * 魂へ御馳走を与えてますか
 TVを観ていると、【ご馳走をするからと誘われ連れていかれた先が美術館。
そこで、『芸術作品が、魂への御馳走』と言われて吃驚した】と粋な場面が。
 そこで私の魂への御馳走は何だったか考えてみた。幾つかの一つに、51回の
『海外ツアー』がある。資金的、時間的、精神的にも長年かけて、強硬な意思を
貫ぬかなければ不可能。心が折れそうな時、というより魂が衰弱した時、秘境、
異郷での大自然との邂逅や、立寄った美術館での名画との感動が魂への御馳走
になる。哲学の始祖であるソクラテスの、「人生の目的が魂の鍛錬」ならば、
大自然や、人類の歴史に残る芸術作品との触媒の感動で、自ら魂に滋養を与え
続けなければならなかった。40~50歳代に年2回の秘境・異郷旅行の感動こそが、
魂の御馳走であった。魂の疲れが感動の滋養を必要としため、惹きつけられた
のである。親は子供に、幼児期から一流の芸術作品や音楽をシャワーのように、
浴びせ続ける義務がある。 聞くところによると、家内は10歳代半ばまで、
あらゆる習い事に通っていたという。幼少期に、こういうのに多く接触させて
おかないと、俗にいう、「世間人」になってしまう。 彼らは、噂話という
『毒団子』の餌で、魂をやられ、ゾンビになる。 幼児時期から少年期の頃、
父親は暇が出来ると、私を連れて古美術店に行き、茶道具や、仏像、絵画に
触れさせていたのも、一流品を幼児期から触れさせるためだったようだ。 
そのお陰か、逆に、『そういう物は、自分が所有をするのではなく、美術館で、
幅広く鑑賞し、多くの作者の魂と触れるべきで、何故にわざわざ買うのか?』
と思っていた。 感動、感激、歓喜、感謝は、人間の感情の最たる部類になる。
それは、所有をしなくても可能なこと。 大自然が数億、数千万年かけて作り
上げた景観に自ら近寄り、荘厳な世界に我を忘れ、感動するのが魂への最高の
御馳走。大都会の良さは、美術館や大ホールが多くあり、一流の芸術作品や、
演劇などに多く触れる機会が多くある。地方の良さは、自然の懐が深いこと。
 どちらも、それを感じ、受止める基礎がなくてはならないが。せっかく、
地球に生を受けたのだから、魂へ滋養を与え、鍛錬しなかれば生まれた甲斐が
ないではないか。余裕がない? ならTVを通して滋養は充分に取ればよい!

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5202,「人生はドラマだ」の演繹論的アプローチ
2015年06月12日(金)
      ~『社会学~フシギなくらい見えてくる!』現代位相研究所(著) 
   * ドラマトゥルギー
 哲学では、古来から人生を演劇に例えて、役割、演出、観客の目線から、
人生の意味を考えていた。それを社会学者が研究対象にしたのが以下である。
≪ 「人生はドラマだ」といわれることもあるが、まさにそのようなものとして
社会を研究した学者がいる。アメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマンである。
ゴフマンは、人々が日常生活の中で、まるで舞台俳優のように演技し、周囲に
与える印象に気を配りながら行動しているという観点から、そのさまざまな実践
を詳細に描き出そうとした。ゴフマンのこのアプローチを「ドラマトゥルギカル
アプローチ」(演劇論的アプローチ)という。
ゴフマンの指摘によれば、私たちは常に「会社員」「親」「教師」「患者」と
いった社会から与えられた役割を状況に応じて演じ(役割演技)、自分の与える
印象を管理している(印象管理)。しかしゴフマンは、人々がただ自分の都合を
よくするために印象管理を行なっているといいたかったわけではない。
ゴフマンは、印象管理が時に舞台の維持を、つまりその場の秩序を維持するため
にも行なわれている、という点に着目した。「この状況では誰がどういう役割を
果たすべきなのか」という「状況の定義」が参加者に共有され、それぞれが役割
演技を行なうことで初めて、日常生活が成り立つと考えたのである。
 たとえば教師が生徒の前で、自分のわからないことを巧妙に隠そうとしたとする。
もちろんこれは自分の体面を守るために行なわれていることでもあるだろうが、
その一方で「学校の授業」という状況を守るためにも行なわれている。
教師は生徒に勉強を教え、生徒は教師の授業を聞く。「学校の授業」は、「教師」
「生徒」という役割に基づいた一つの舞台であり、これが壊れてしまえば、
まさに学級崩壊になってしまいかねない。
しかし、人は一方的に与えられた役割を演じるばかりではない。役割から敢えて
距離をとり、そこに役割から離れた別の自分を示そうとする場合がある。これを
「役割距離」と呼ぶ。「学校をサボる」ことを考えてみるとわかりやすいだろう。
往々にしてそういう場合、学校をサボって何かしたいことがあるというよりも、
それによって「生徒」という役割から距離をとることが第1の目的だったりする。
ゴフマンは、ドラマトゥルギーという観点を通じて、日常生活がごく些細な
不具合で破綻する壊れ物であり、役割演技と役割距離との駆け引きによって成り
立つ動的なものであるということを示そうとしたのである。「人生はドラマだ」
という言葉の通り、この観点は一見当り前のように思えるかもしれないが、
「現実が事実としてどうであるか」ではなく、「人々にとって現実はどう成り
立っているか」に視点を転換させることによって、人々のコミュニケーシヨンの
あり方を研究するために重要な役割を果たしているのである。 ≫
▼ 「世間様」の人々も、それが現実という幻想なら、それに同調するのも、
 一つの在り方であり、役割ということになる。硬く、蛇蝎のように嫌うことも
ないのである。旅行の効用の一つに、日常から「役割距離」を置いて、自分を
改めて見つめる効用がある。「印象管理」も、目新しい言葉だが、「役割演技」
に、必要なこと。その名人が、かのクレオパトラ。自分の美貌をわきまえ、
それを際立たせる「印象管理」が、抜群だったという。創業の組織つくりが、
そうである。役割を想定して人材を集め、訓練を入れ、役割を実行させる。
会社整理も、この視点からすると興味深い演劇になる。軟着陸?だからいえる?