* 中国の新羅ウィグル地区の弾圧の、その実は
北朝鮮の一般平民の奴隷化政策は、公開処刑と、資本主義社会との
戦時体制の枠組みが、構造になっている。
・金王朝(3%)の特権の存続が、まず第一に優先され、
・次が、それを支える体制(30%)
・その下に67%の平民〈奴隷層)
ギリシャの支配階層と同じで治まりが良い。それを批判するアメリカも、
奴隷層の、有色人種+無産階級が三分の二を占めている。上位への道は開けて
いるが、駆け上がることはホボ難しい。しかし、奴隷層は、一発当れば、夢の
階段を駆け上ることが可能と信じ疑いはない。 ミャンマーの動乱も、これを
目指す一部の軍部の利権保持のための軍事行動で、質は非常に悪い。
足元の日本も然り。地政学的に中度半端な位置をフルに利用して米朝の狭間で綱渡り。
中国、北朝鮮、ロシアからみれば、東京湾に大陸弾頭弾を一発、何かのミスとして
撃ちこみ脅せば充分足る。
日本の支配層は明治維新の薩長が、未だに政治のと財を握り、他を圧倒している。
それを翻そうとして成上りの田中角栄がアメリカの策謀で、抹殺され消えていった。
アメリカは、対中国、ロシア、北朝鮮の対抗と称し、第7艦隊を日本周辺に置き、
日本を実効支配ている。どてっ腹を、ナイフで突き刺してだ!
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5880,世界がもし100人の村だったら お金篇 ~2
2017年04月21日(金)
『世界がもし100人の村だったら お金篇
~たった1人の大金持ちと50人の貧しい村人たち 』
池田 香代子 (著), C.ダグラス・ラミス (著)
21世紀の初年度が始まった2001年の9・11テロかで時世界が様変りをした。
ユダヤ・キリスト教とイスラム教の対立の鮮明化である。これに中国の躍進と、
時代かかった北朝鮮が絡んだ複雑な様相が現在時点である。その結果、強者は
より強く、弱者はより搾り取られる様相になっている。当然、お金のない国家
対金持国家の対立が浮き彫りになっている。北朝鮮対アメリカ、欧州対中東、
中東の内乱、IS国家の設立がテロなどを誘因する原因となっている。
それそのままが、以下の数値で物語っている。
≪ ・2000年、世界のGDPは、ドルになおすと33兆ドル
2015年は 73兆ドル。増えた富は、一番豊かな人びとの元に貯まった。
・世界を100人の村に例えると、世界の富のうち
49%は、1人のいちばんの大金持のもとに
39%は、9人のお金持ちのもとに、
11%は、40人の、わりと豊かな人のもとに貯まりました。
50人の貧しい人のもとにあるのは、たった1%です。
100人の村では1人の大金持ちの富と99人の富がだいたい同じです。
・インターネットを使う人は28億人増えて 32億人。大よそ10倍に。
・中国では自家用車が300万台から1億2400万台に増えた。40倍である。
・世界の通貨、その国だけでなく、世界中で使われている。
44%がアメリカドル
16%がユーロ
11%が日本円
6%がイギリスポンド
3%がオーストラリアドル。
・世界の株の値打ちは、この15年で二倍近く増え、もうすぐに
世界のGDPと同じになります。 ≫
――
▼ 21世紀は、ネット環境が進化し、世界の半数近くが、情報端末を
持つようになった。今まで権力の乱用は、ネット上で一瞬で表沙汰になり、
権力者は、その座を追われる時代でもある。チャンスとリスクは裏腹だが、
そのバックグランドが、地域社会、国家内から世界に広がってしまった。
しかし、その基盤ルールのコントロールが、全くできてない。あるのは、
「弱肉強食」のルールのみ。そしてテロを含めた新たな戦い。
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6977,閑話小題 ~『私の家って、何処』 ~2
2020年04月21日(火)
* 『私の魂って、そもそも何 ? そして出自は何処?』
田舎から上京し独り住まいで、その冷たさを実感する時、まず感じるのが
両親の持つ温もりの有難さ。これが幼児の頃に不足をすると、精神のバランス
を崩し不安定になる。50数年前の、わずか数分のクロスで、少女に尋ねられた
「私の家って、何処なの?」の言葉が心に残ったかというと…
そこ頃、渥美清の『男はつらいよ!」のTV放送が開始した頃…
<全国の祭りを求て流離う人の好いテキヤの悲喜こもごもの物語> その男の
実家が、浅草の老舗の🍡団子屋。年に数回、気が向くと帰り、実家周辺や、旅先
で騒動を起こす。帰る家があればこそ、流離いが可能になる。瘋癲の中年男の
仏性に故郷の懐かしさを醸し出す『私の家って、如処?』が背景にある。
結婚まで、東京、四日市、神戸、金沢と流れて、最後は千葉で結婚した直後
に起業。 5年近く流離の身。その間、このテキヤの実家の団子屋の疑似家族の
温もりに、大いに助けられた。独身時代の流離は、心の芯は凍りつく寒々しい
ものがある。旅先で‘連れ’を一度、決めると、それは重荷! 常に身辺整理
をして、次の場面に備え、社会の裏表が見える立場に己を置く。何れの世界には、
TPOSの最適な女性、酒友が存在していることを経験から知りえていた。
で… 『私の家って…』のところには、出自の両親が待っている。
この幼女の純朴な問いかけ…『私の家って、如処?』の家を‘魂’に置換えて、。
『私の魂って、何処にあるの』は、人類永遠の哲学的問いかけ。幼女の問いは、
若かりし青年期に‘私って何もの?’のヒントを与えてくれていた。魂とは、
最後の最後は、その辺りに… アメリカのような多民族国家の住民は、その中で、
常に他者を合せ鏡で自問自答させられる。 逆に、小さな岩場で群れていると、
自分の出自を考える機会がないためか、その歪みに気づかない。
それ故に、その歪みが何か知り得ないため、ガラパゴスの意味さえ知り得ない。
哲学者への、この一連の『ポスト新型コロナ・パンデミック』は、如何なる
世界像が求められるか?に、<島国・日本の独自の土壌が生みだした
『ガラパゴス化』にヒントあり>と、哲学的な答えていたが、なる程納得できる
答えであって。但し、それは普及した世界的規格と、合い入れる前提がある筈。
それを言うなら、個性的人間そのものも、当てはまる。
魂といえば、20年程前に長岡花火を観入っているガン末期の老女への感想
を聞く場面があった。『私の魂の故郷は、子供の頃の想い出のすべて!』。
その年齢に近づきある日々。私の魂の故郷は、両親と過ごした想い出にある。
今では、家内と供にした秘・異郷先で感動した場面の想い出が加わわる。
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6610,閑話小題 ~あと数日で「平成」が終わり「令和」に
2019年04月21日(日)
* 行きつけのスナック二軒が廃業
あと10日もしないうちに、「平成」から『令和』に改元される。この影響は、
思いの外に大きくなる? 先日の中学校の同期会で知ったのが、この二次会で
行きつけのスナックが二軒とも直近に廃業したとか。両店とも40年以上の老舗。
同世代のママさんが営業していたが… 何か不景気風な感じだった。
<平成も終わりを…「止めるに年号変更を区切り」>と考えるのは至極当然。
同年代の客層のリタイアが主原因だが、年齢を重ねる度に飲む機会は減ってる。
<75歳を過ぎると活動範囲が狭まるため、金がかからないってさ!>と聞いて
いたが… 改元は、様ざまなカタチで私たちの決断を促す。 明日から数回、
「平成って、何だったのだろう?」をショートショート風に書いてみようか。
平成は1989年~現在(平成元年~ 現在) 昭和64年。 私は43歳。
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* シネマ・ 「シャザム」
子ども向きで、ドツキ漫才的だが、何かしら笑えて面白い。閉ざされた肉体と
精神を解放させて欲い欲求を、キセズして与えられた力で悪を対峙するところが、
最近のハリウッド映画の特徴。
≪ 解説:「スーパーマン」や「バットマン」と同じDCコミックスのヒーロー
「シャザム」を映画化。見た目は大人だが中身は子どもという異色のヒーローの
活躍を、独特のユーモアを交えて描く。ある日、謎の魔術師からスーパーパワー
を与えられた少年ビリーは、「S=ソロモンの知力」「H=ヘラクラスの強さ」
「A=アトラスのスタミナ」「Z=ゼウスのパワー」「A=アキレスの勇気」
「M=マーキューリーの飛行力」という6つの力をあわせもつヒーロー「シャザム
(SHAZAM)」に変身できるようになる。筋骨隆々で稲妻を発することができるが、
外見は中年のシャザムに変身したビリーは、悪友のフレディと一緒にスーパーマン
顔負けの力をあちこちで試してまわり、稲妻パワーをスマホの充電に使ってみる
など悪ノリ全開で遊んでいた。しかし、そんなビリーの前に、魔法の力を狙う
科学者Dr.シヴァナが現れ、フレディがさらわれてしまう。
遊んでいる場合ではないと気付いたビリーは、ヒーローらしく戦うことを決意
するが……。シャザム役はTVシリーズ「CHUCK チャック」のザカリー・リーバイ、
監督は「アナベル 死霊人形の誕生」のデビッド・F・サンドバーグ。 ≫
―
▼ 人生を重なるということは、それも晩年に近づくにつれ、心の中に、幾つか
の失われた過去の廃墟を持つもの。それらは、心の奥に鬱憤として抑圧され、
解放を待っている。その解放をする物語が観客の絶対的ニーズ。老いること自体
が、死に至る病。そのまま放っておくと、その病は重症化していく。 最近では、
TV映画、ドラマが、その役割を果たしている。 そこに更にダメ押しで…
成るほど、彼方此方が痛くなり、腰は前屈みになり、夜半、過去の廃墟の記憶が
甘辛いフラッシュとして飛び出てくる。 +-3対1にコントロールをしていても。
充実感が足りない人生。それも世間的視野のみの、他者との比較しか持ちえない
人たちにとって、それは返り矢として己に向かってくる。そして「死霊」化する。
映画では、束の間のシャザムの私が、死霊を退治する。成るほどスッキリする訳だ。
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4044, 一時停止 ー4
2012年04月21日(土)
「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955~2010
* 他人との出会い
≪ 肉体的な成長だけで子どもがおとなになれるわけではない。肉体的な成長
に精神的成長が伴わなければ、人間はおとなになれない。その精神的成長とは
どういうものか、知識が増えること、感情が豊かになること、経験を積むこと、
考える力が増すことーいろいろな面から考えることが可能だろうが、そのどれも
が結局は<個>の自分の確立ということにむすびついていることに気づく。
群棲動物である人間は、ひとりで生きてゆくことができない。そこから
私たちは複雑な社会的構造を生み出し、〈個〉は常に自分と同等な〈個〉、
すなわち〈他〉との関係において生きてゆく。〈個〉の確立とは自我の拡張と
同時にその制限をも意味している。言葉をかえると、他人と出会ことによって、
子どもはおとなへと成長してゆくと言うこともできるのではないだろうか。
もしそんなふうに言えるとしたら、私にとって初めての他人との出会いは、
いったいいつのことだつたのだろうと考えることがある。もちろん人間にとって
最初の他人とは母親であると言うこともできるかもしれない。しかし、ほとんど
の子どもにおいては、母親は自分自身の延長のような存在であり、母親を他人
として意識しはじめるのは、むしろ彼がおとなになってからだろうと思う。
似たようなことは他の身内・家族などについても程度の差はあるが、おおむね
あてはまるだろう。 ≫
▼ 学校時代は、進学する度に変わる同級生が、他者を考える上に分かりやすい。
その時の面々が、その時の自らの分である。それは、自分の広がりでもある。
それが他人との出会いである。その範囲が広がれば広がるほど、その冷たさと
暖かさの差が大きくなる。その段差が、人間を成長させるのである。逆に言えば、
その段差が少ないと、成長が逆行していくことになる。自分を意識する前に
見知らぬものとの出会いがある。その境目が増えるにしたがって、己との枠が
でき、それが自分になる。それぞれの時代の相手の中に、自分の姿が合わせ鏡
となり、自分の姿の一部を垣間見ることになる。
・・・・・・
5150,知の逆転 ~⑧
2015年04月21日(火)
ー知の逆転ー 対談相手 オリバー・サックス
* 没頭している「平和の時間」こそが
午前中、4~5時間、仏間にある書斎コーナーで、本を読んだり、パソコン
に向かっているが、その時間はアットという間に過ぎてしまう。集中している
ためだろう。ネガティブになりがちな身の上?に、老齢化が重なっているため、
落込みへの解毒剤になっている。冬場を除いて、朝方の自転車散歩も加えて、
何とかポジティブ3にネガティブ1の比率を維持している。
ここで、<没頭している「平和の時間」が、最も望ましい>というが・・
この随想日記の習慣の効用である。没頭には、長年の継続が必要である。
ーその箇所を抜粋ー p149
≪ ・・私自身も、書き物をしたり考えたりすることに没頭しているとき、
あるいはピアノを弾ひたいたり音楽に浸っているとき、神経症やうつ病が
消えて、時間というものを意識しないで平和な時を過ごすことができます。
われわれは誰もがそういう時間を必要としているのです。フロイトの精神分析
では、楽しいことに没頭しているときの平和な時間という部分が看過されて
いると思います。彼の精神分析では、生は緊張として捉えられ、緊張が解ける
と何もない状態になると解釈されているわけです。しかし、ポジティブな
平和な時間というものは芸術や科学の基盤であり、最も望ましい状態では
ないでしょうか。≫
▼ 「平和の時間」は、外界の喧騒から隔絶出来て、気持ちが集中、脳も、
心もシンプルでいられる。週一のシネマも、ポタリング(自転車散歩)も
「平和の時間」。リタイア直後に立てたプログラムは、まず、ストレスによる
自己崩壊を避けるためだったが、結果として「平和の時間」の維持の効用に
なっていた。今までは会社の維持に向けられたエネルギーが、「平和の時間」
に向けられるから、悪いわけがないが、だがストレスは生半端ではない。
それが当り前だが! 知恵を使って、見方、支点を変えれば、逆境さま様!
ものは考えよう、面白いもの。 偶然だが、以下の内容が、丁度良く続く。