閑話小題 ~ガヤ芸人 -2

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   * ガヤが… メインキャスターだと…
 時どき司会が語る謝罪の言葉…<うちのガヤがすみません>。それぞれ業界を
代表をした発言だが、軽くて、鋭くて、責任の一端も感じられない。だから面白い
のだろうが… その人選は、プロジューサーが当たるのだろう…
 局側も実際のところ忖度も何もない?ためヒヤヒヤの筈。 その人選には呆け、
突っ込みなど、バランスがある。 ≪笑点≫を例にとると、
<助平、ファンタジー、呆け、腹グロ、インテリ、ガヤなど、役割があり、それを
ワキマエてガヤをする。家内と私も日常会話で、ボケ、突っ込みを交互にしている。
問題は、老いるにしたがい、会話がブラックになっていくこと。

 最近、ガヤが市民権を得て、メインキャスターに格上げされて、如何みても、
ピンほけの説を自信を持って語ること! ミノモンタが調子に乗りすぎ、やり玉
に上げられた現象を鋭い言葉で切捨てていたところ、同じような立場に置かれて、
右往左往して、キャスターから降ろされた。自由、博愛、平等などの建前を、
真面に信じて、その中身を証左することなく、切捨てていれば、何時か吾身に
返り矢として、そのまま突き刺さる。

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4361, 嘘と真実 -2
2013年02月23日(土)          
    「うそつきーうそと自己欺瞞の心理学」チャールズ・V・フォード著
  * うそつき 
 この本は、「嘘と真実-1」を書いた後で、図書館で見つけた本である。
この年齢になり人生を振り返ると、鮮明に己の行蔵がみえてくる。そこには、
自分に対する都合の良い言い訳や、無意識の浅ましい自分の嘘が浮かび上がる。
特に青少年期にまず身につくのは自分を騙すこと。自分の未熟さを認めたく
ないため、ウソで自身に対する「日々是口実」になる。身勝手の本性に小理屈
をつけ、まず自分に対する言い訳を考え、それを信じてしまう。
だから生きていられることもある。
ー以下は、この本の訳者の‘あとがき’中で語られている至言と
 いわれるフレーズ。 これだけで、要約になる。
「人は自分にうそをつくために他人にうそをつく」 
          《まず人は自負心を保つために自分にうそをつく》
「人間は、自分のいうことを自分で『信じている』とき、より効果的うそをつく」
          《犯罪者の起点は、ここから始まる》
「うそをつく人間とつかれる人間の両者が共謀して事実をわい曲する」
          《基本的技法は相手の聞きたがっているウソを語ること》
「うそのつき手あるいは聞き手のいずれか一方が主犯というわけではない。
           うそは双方向通行の人間関係による力学的作用である」 
          《 落ち目の会社にある不信の構造に見られる? 》
「優秀なセールスマン同様に政治家もまた、選挙民を相手に、選挙民の聞き
 たがっていることを語る。この関係は双方的なもので、政治家が有権者
 自己欺まんを代弁することもある」
 《権力を求める政治家に自己愛的な人が多く、その特性がうそを助長する。
これ、恋愛もいえる。人が真実のなかに求めているのは『いいニュース』だけ」
 《集団内で相互に強化される自己欺瞞が、恐ろしい問題をひきおこす。 
                 現在の国内政治にも心当たりあり! 》
「正真正銘の真実を聞かされてがまんのできる人間はそうはいないものである」
          《逆にゴマすりも、熟練にまで高まると・・》
「幸福は、その希少性からして一つの精神障害として分類されるべきもの」
          《病的嘘つきは、脳機能不全と関連が多い》
「男が女に、また女が男に自分を見せる際には、隠れた本能的な力が
          ある種のうそを助長する」《だから恋愛が成り立つ》
「うそを語る特権なしには、文学をはじめとして芸術の世界は存在しえない」
「人間の語る身の上話などというものは、いかに筋が通り、もっともらしい
 ように思われるものであっても、その人の過去の歴史的事実とはあまり関係
 のないものだ…」《過去は、書き直され再編成され全く違ったものになる》
「…自分の人生に首尾一貫したものや意味を見いだそうというときには、
          正確な歴史的事実など重要ではないということもある」
「真実やうそというものは、それ自体では道徳的なものでも非道徳的なもの
 でもなく、単なるコミュニケーションの形態にすぎない。その道徳的価値が判断
 されるのは、他者との関係においてそれがいかに用いられるかによってである」
         《リアルのウソが効果ある》
「自分にうそをつくのが下手な人は、うつ病になりやすい」とあるが、
 人間は自分の真実の実像を見ていたら耐えられないのは自明である。そして、
「人はうそをつく能力は高いが、うそを見破る能力は低い」という欠点がある。
「うそは人間関係の調整、不安や苦痛への対処、種としての存続、個人として
 栄えるために不可欠の要素」がある。自分が「不完全である」という事実を
 受け入れられないために、他者を批判し、他者を犠牲にすることにより、
 自分への批判をまぬがれようとしている(自己愛)人間が存在する。
▼ 性悪説の上で、性善説を説けば良いのか? それは他者だけでなく、
 自分を見つめれば分かること。本当のことってあるのだろうか? 
本当と思っているだけではないか? 時間の経過で、うそも本当になり、
本当もうそになる。利口者の自己欺瞞、馬鹿の正直者、その間に揺れるのが心。
利口者の正直者もあるし、馬鹿の自己欺瞞もある。
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6919,読書日記 ~快活こそ悟り! -2 
2020年02月23日(日)
       <『老年を愉しむ10の発見』:
          ~ドイツ流「穏やかに生き抜く」哲学:ヴィルヘルム著>
 今回は
1章 人生には「さまざまな段階」がある
2章 自分に起こる「変化」と折り合いをつける
3章 「心穏やかに生きる」のに欠かせないもの 
 ―
  
   第1章 人生には「さまざまな段階」がある
◉ 第一段階: 25歳まで
  早朝にあたる。無数の可能性がある。『したいと思いさえすれば、できるかも
 知れない』ということを意味している。逆に、試練の時でもある。挫折である。
 そこで何でも挑戦できる。その時の経験は、その後の人生の大きな糧となる。
◉ 第二段階: 20歳代後半から30歳前半には、クォーターライフ・クライシス」
 を迎えるかもしれない。30歳前半ともなれば、将来への展望が開かれていると
 思っていたことが、何時までも続くわけがないことを、おぼろげながら理解する
 ようになる。「いつか何かしなければならないと思うなら、そろそろ決断しな
 ければならない」という、自分から自分へのプレッシャーである。人生の半ばに
 さし向っていることを強く意識をし、ストレスがたまったとしても、何ものにも
 打ち負かされない力が満ち溢れていれば、年を取ることなど簡単に忘れてしまう。
◉ 第三段階: 40歳半ばから50歳辺り…
 現代人は、80,90,100歳まで生きることも珍しくない。とすると、人生の半分は
 40~50歳の間になる。この時点を境に、そこから訪れる年数は、過ぎ去った年数
 より短くなっていく。年をとることは、まるでストーカーのように私たちにつき
 まとう。体、心、精神を、そうした「人生の新しい段階」に自然に合わせようと
 すると、一方で混乱が生じる。それは「青春のいらだたしさ」を思いだたせ、
 それと同じように何年も続く可能性がある。
  人生この段階で、「泰然とした落ち着き」を持つことができるのは、おそらく、
 新し段階へと移りゆく人生の流れに逆らわず、それに身を委ねる心構えが充分に
 できているときだろう。 ミッドナイト・クライシス〈老化を自覚して無気力に
 なること】や、更年期を迎えると、人生に対する考え方が根本的に変化する。
 それまでは、ズ~ッと前向きだったのが、「私の人生は如何なるのだろう?
 私は何を達成したいのだろう。そのために何が出来るのだろう?」という視線が、
 強くなり、ここからは、後ろ向きな生活になり、人生の道は先細っていき、過去
 に目を向ける。人は自分の物の見方に束縛され、自分の生活状況と仕事環境、
 経験と人間関係に影響されていくのだ。
 ―
 
    第2章:自分に起る「変化」と、折り合いをつける
 現在の私が、この最期の変化の局面に立たされているが故に、周囲の同年代が、
このような知識が皆無なるが故に、動転しているだけでなく、他者攻撃に明け暮れる
姿が痛ましい。人生の最終局面まで生き、経験を重ねればこそ、この財産を生かす
ことが、その人の後半、そして晩年に+にはたらくもの 。 毎日を、面白くて、
充実していくには、経験の熟成が成せる業? それなくして、余生は考えられない。
 晩年、右往左往する、あの「世人」の方たち… 自身と折合いが付けられなく
なって、周囲の血の臭いを探すしかない彼らには、何の自覚がない!
 ―

    第3章: 「心穏やかに生きる」のに欠かせないもの 
  ☆ 「生きやすさは」はどこから生まれるか
 何度も書いてきたが、51歳時に、5年半、軽い痴呆症だった母親を看送り、さて、
今度は自分自身の老いの問題が突きつけられた。余生は平均30年。そこを、どう
活きるべきか。まずは、還暦まで9年で、30年分を圧縮して生きる。好きな秘・異郷
ツアーを可能な限り参加。個人のHPを立上げ、ネット世界に重心を移動する。
50歳半ばから、1日1テーマの『随想日記』を掲載する。今までの事業一筋の考え方を
改める。明日、死んでも悔いを残さないように、世人と一線を隔す。
 母親を看送ったのは、2001年のは9月であった。9年前の事業清算と、19年前に、
毎日の生活習慣が激減していった。習慣の効用は、実に大きい。 ハッと気づくと、
後期高齢まで、あと1年である。快活で暇というのはない。有効な生活習慣こそが、
生きる術である。習慣といえば、『我家』である。ここを『こころ穏やかに生きる』
砦にして、そこの生活習慣を良質にすることこそ、最も重要になる。良質の生活習慣
こそが、心穏やかにする。
  ☆ 1日1日を味わいつくして生きる
◇ コーヒーの「一滴一滴」がよりおいしくなる境地
 夕刻の酒が美味いと、つくづく思えるだけで充分。早朝の一杯のコーヒーも然り。
好きな旅行も行きつくした感がある。それぞれの年代のメルクマールに秘・異郷旅行
の行先が鮮明に残っている。 最後に残るのは…『行蔵』の中にある熱い想い出と、
書き残してきた『文章』。そして、<いま、ここ、わたし> 。

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5457,閑話小題 ~政治を哲学する
2016年02月23日(火)
           「世界の哲学思想」小須田健著」より
   * 政治に対して哲学ができることは?
 政治には、烏合の衆をまとめて理想の世界に導く役割がある。そのためには
哲学が背景になければならないが、目先の力学も必要になる。政(まつりごと)
を治めるのが、まず第一になる。ここで「政治とは様々な意見の対立がある
ことを前提とした上で、おたがいに共有できる土台を作れるかを目指す」と、
明示している。 高度成長期には、成長を。低成長期には、低成長の政策を
とるのが政治。哲学は、それらを鳥瞰した視点を持たなければならない。
だから哲学からは安易な答えは出してはならない。 ここで、政治についての
本質をズバリついている。 ~その辺りから~
≪ プラトンたち古代哲学者が活躍した時代から現代にいたるまで、哲学の扱う
 問題はあきれるくらい変わっていません。もともと哲学とは、千年単位で思考
する営みであるため、一年や二年といった短期的な問題に答えていくのには、
あまり向いていないところがあります。つまり哲学とは、政治や社会や、急務な
課題に答えるものではないのです。
 では哲学が、政治や社会問題に対してまったく無力かといえばそうでもない。
哲学は、どんな問題に対しても安易に答えを出してしまう私たちを戒め、
自制を促す力をもっています。数学の問題のように、ただひとつの明確な答え
が領域が確かにあります。しかし、現代の、政治・社会問題には簡単に割り
切ることのできない問題が山積しています。また、どんな問題にも正解がある
はずだと考えることは、危険な一面も併せもちます。このような人は、正解だ
と思えるものを見出したとき、それを錦の御旗のように振りまわして、自分以外
のすべての立場を否定する態度にでかねないものです。確信をもって他人を批判
する人々は、もはやその自分の確信そのものが誤っているかもしれないという
可能性をすっかり失念してしまいます。ある時点で正解と思われたものが、
いつまでも正解であり続ける保証など、どこにもありません。ですから、
「もうこれは正解でなくなったのではないか」と、絶えず自己吟味をして、
自分対して批判的な目をもち続けることが大事なのではないでしょうか。
これはけっして日和見の勧めではありません。わかることはわかり、解決できる
ことは解決していくべきなのはいうまでもありません。「今の自分にはわから
ないことがありうる」という観点を保ち続けることが大切なのです。
 哲学は、けっして万能の解決策を教えてくれる学問ではありません。
むしろ、適切なかたちで問題を提起してくれるのです。適切なかたちで問題を
提起することができれば、そのときに解決もある程度見えていることでしょう。
なんにでもわかったような顔をするのではなく、わからないことはわからない
と素直に認める潔さもときには必要なのです。
 民主主義の基本は、自分と遅う意見の持ち主の存在を認めることにあります。
ですから野党が存在しない一党独裁の国には、どういいつくろってみても本来の
意味での自由はないので。政治とは様々な意見の対立があることを前提とした
上で、おたがいに共有できる土台を作れるかを目指すのです。フランスの哲学者
スポンヴィルの言葉を借りるなら、「みんな一緒でエゴイストになれる」道を
模索するのが政治です。哲学的思考は、常に他の答え(正解)も在り得るのだ
ということを認識させてくれるものなのです。・・・≫
▼ 世界はキリスト教イスラム徒の原理主義戦争の様相を呈しているが、
 これは、中東と、欧米の風土の違いからくる宗教観の違いがある。砂漠では
家長が絶対的権力をもって、家族を導かなければならない。過酷な環境では、
民主主義や個人の自由の主張はマイナスになる。イスラム原理主義を強引に
推し進めようとするISが、猛威をふるっているが、これを欧米に持ち込もうと
しても、土台無理がある。とはいえ、欧米の世界支配で、中東などの世界から
資源を奪略してきた現実と格差が、ネットで公然となってしまった。それは
民族間の相克であり根が深い! 21世紀の世界大戦は、既に始まっている?
世界恐慌、格差問題の露呈、世界大戦の図式が不気味に現実になろうとする。
・・・・・・
6554,閑話小題 ~映画評 「アリータ バトルエンジェル」
2019年02月23日(土)
   * 昨日のシネマは
 これが思いの外、面白い。首を刎ねたり、胴体を真っ二つにするシーンの連続。
ロボットの胴体と、人間の胸部から上が生身のサイボーグのド派手なサイボーク
同士の戦いで残酷さが半減。ロボット同士では、無人飛行機の空中戦のようで、
味気ない。中途半端な人間臭いサイボーグがミソで、目を瞑らず正視できる。
月に4回、1100円×4=4400円を高いと思うかどうか。楽しみ半分、あとは閉じこめ
られたエネルギーの解放のセラピーの治療費と思えば安いもの。感覚的には3分1!
 ―
≪ :解説: 木城ゆきとによる日本のSF漫画「銃夢(ガンム)」を、同作の
 映画化を長年にわたり熱望していたジェームズ・キャメロンの脚本・製作で、
ハリウッドで実写映画化したアクション大作。 
 主人公アリータ役は「メイズ・ランナー」シリーズのローサ・サラザール
務め、いずれもオスカー俳優クリストフ・ワルツジェニファー・コネリー
マハーシャラ・アリが共演。数百年後の未来。スクラップの山の中から奇跡的に
脳だけが無傷の状態で発見されたサイボーグの少女アリータは、サイバー医師の
イド博士によって新たな体を与えられ、目を覚ます。しかし彼女は、自分の過去や
今いる世界についてなど、一切の記憶が失われていた。 やがてアリータは、
自分が300年前に失われたはずの最終兵器として作られたことを知り、そんな兵器
としての彼女を破壊するため、次々と凶悪な殺人サイボーグが送り込まれてくる。
アリータは、あどけない少女の外見とは裏腹の驚異的な格闘スキルをもって、
迫り来る敵たちを圧倒していくが……。
  :映画レビュー:
 2563年、没落戦争から300年後の人とアンドロイドが混在する世界で鉄クズの
山から発見された記憶喪失の少女型アンドロイドの話。
この時代には残っていない技術で没落戦争前に兵器としてつくられた心臓や脳に、
この時代の普通の女の子の身体を貰い再生した主人公。設定的にも映像的にも
ゲームの様な世界観。記憶はないながら備わっていたバーサーカーの血や機甲術
という戦闘スキルと、女の子としての心情とをミックスしながら成長し闘う様子
が切なく温かい。≫
 ―
▼ こういう特撮物の進化による面白さは止まるところがない。残忍なシーンの
 割には、後味の悪さが残らない。漫画を映画化したのも新鮮さを際立てていた。 
これでは週一、通っても飽きることはない。ところが、帰って直に韓国モノの
映画の録画をみたが、これが90点。こんなに毎日が面白く過ごしていて果たして
よいものか?と。 セネカの言葉、
<人生は短いのではない 我々がそれを短くしているのだ>
 確かに楽しむ者にとって、人生は短すぎる。また無為の人も。 
楽しまない者には、退屈な長い人生になる。 
何かしら快楽主義の臭いがする。快楽主義をネット検索すると…
 【快楽主義 hedonism】
快楽(ギリシア語hēdonē)こそ善の最終的な判断の基準であると考える倫理的立場。
一般には肉体的快楽,とくに性的快楽を追求する立場をいうが,哲学史的には,
何を快楽とするかは,各体系によって異なる。ソクラテスの弟子アリスティッポス
は,人生の目的を快楽の追求とした。ただしこの快楽とは肉体的放縦の所産では
なく,逆に魂による肉体的欲望の統御から生まれると考えた。この態度は次代の
エピクロス学派に続く。エピクロスとその学派は魂の平静を重んじ,健康で質素
な共同生活を通して得られる精神的快楽を重んじた。
 ――
記憶に残っているのは、心底笑っていたり、感動し、感激したことばかり。
それも、時節ごとに大波の上での一ときに… 快楽が最上というのではなく、
それはオマケ。そのオマケを求めて命さえ晒すのが人間。面白く、可笑しく、
哀しくて、平凡で、時にスリルがあって、虚無の深淵の際に立たされ、一瞬に
永遠をみたり、そして、そう遠くない近未来にプッツンと。それが人生ですか。
 
 ~以下の文章が、シリアスなるが故に面白い永遠のテーマ!
「恒産あって、恒心あり」でしょう、娑婆は。 その基準は、その人による!

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6190,閑話小題 ~夫婦で目安の預金が…
2018年02月23日(金)
  * 夫婦で目安の預金が3000万円
 何か論理に飛躍があるが… 朝日新聞にシリアスなテーマがあった。
< 65歳の夫婦の場合、90歳まで生きるとすると、3000万が必要! >
ドキッとする内容だが、これだけ持ってないと枕を高く寝てられないという内容。
「だから、どうした」の話は欠落している。あくまでも、計算上の三段論法。
「65歳の無職夫婦の平均年金が255万で、支出が321万で。90歳−65歳の25年で、
66万の赤字で、年70万のマイナスとして合計1700万と、その他の車の修理、
家の修繕、など特別経費で1000万として合計3000万という論理。概ね長生きする
妻の立場からすると、考えておくべき深刻な話。 とはいえ、金欠で餓死する
という話でもない。
▼ 一世帯平均の預金が1700万というが、均したボリュームゾーンの真中は、
 400万で、3割は預金ゼロという。400万なら、毎年、マイナスが66万なら6年で
底をつくことになる。一週間前に、近所に救急車が一日、4回も来たのが不思議
だったが、数日後に、この記事を読んで、「金欠のため搬送後に、逃げるように
帰ったのでは?」という考えが頭によぎったが、これは一方的な妄想?だが。
私が預金ゼロなら… 健康で、そこそこの準備は必要だが、死んでしまえば、
経費ゼロ。
 アテネの時代から現在の欧米社会に至るまで、3%の特権階級、30%の市民
階級と、67%の奴隷階級が存在してきた。三分の一の人達には2~3千万の
預金が、未満の人達には概ね400万ぐらい、0~100万が、三分の一を占める。
グローバル化、情報化社会で、今まで、表に出なかった階級社会が、面前に
つき付けられてきた。これで朝鮮戦争などの有事があれば、更なる厳しい
現実に直面することになる。