閑話小題 ~ラスト♪ソング =3
『ラスト♪ソング』佐藤由美子著
* 欧米は、死についての話題を忌避しない
『世界のピアノが、NHK/BSで放映されている。世界の飛行場・鉄道など公共の
広場で通行人が気楽に演奏をする。(もちろん、NHKが企画したもの)。
欧州では、ピアノが生活に入りこんでいる。ピアノ曲目の演奏が、イコール…
人生になっている。 路上生活者から富裕層まで様々な人たちが登場する。
そして何ゆえに、そこに至ったかの人生のナレーションが入る。
~その一節から~
≪ ◉ どの話も読み終えるたびに思わず目を閉じて、そっと息を吐出すような、
悲しみに満ちたものだった。しかし、それぞれの患者は著者の歌に自分を取り
戻して、安らかに終わりの時を迎える。なかにはまるで奇跡のような話もある。
とりわけ印象に残ったのが最終章の沖縄出身の時子さんの話である。
<時子さんは空襲を逃れて名古屋から沖縄に疎開したが、沖縄戦で母と妹を
亡くして孤児になる。父も戦死していた。成人して米軍兵士と結婚して渡米し、
幸せな家庭を築いた。しかし、ベトナム戦争に従軍した夫は帰還後にPTSD
(心的外傷ストレス障害)に苦しみながら死んでしまう。なぜ自分だけが生き
延びたのか、と時子さんは呻吟する。>そのとき、著者は時子さんから聞いた
彼女の人生を書き留める約束をした。その約束が本書となって実を結んだのだ。
◉ 読了して気づくのは、音楽の力である。多くの人にとって音楽は実体験と深く
結びついて記憶されている。だから音楽を聴かせることで死の迫った患者に人間
らしさを回復させることが可能になるのである。本書にはその実例が集められて
いる。それに加えて深く心に残ったのは、著者の患者への真摯で誠実な姿勢。
著者はブログ(佐藤由美子の音楽療法日記)において以下のように述べている。
「音楽療法士で一番大切なのは患者との信頼関係です。どんなに優れた療法士
であっても、患者に信頼されなければ、セラピーはできません」。
セラピストと言えども、ホスピスにおいては患者との信頼関係づくりは容易に
できることではないはずだが、著者が実践しているのに私は驚く。≫
―
▼ 年齢を重なる度に想うのは、 <いま、ここにある自分が奇跡の存在>
のように感じること。それも、一つ間違えたら現在の自分は存在してなかった
…と。 フラッシュで、あの時、少し運が悪かったら、如何だろう? が、
あまりに多かった。 その都度、何とか幸運に助けられたことが多々あった。
助けられてきたのは、幸運の名の神様と深く信じるようになっていた。
母は、それを{守護霊}という。あまりに、幸運が続いたのは、母の実父の
霊が、人生の節目ごとに現われて守ってくれていたと…
追記: 偶然だが、去年の今日に「遊びの科学」をテーマに書いてあった。
人生に悔いなしと言えるのは、楽しみ尽くした実感、充実感があるか無しか。
<何でもいい、充実していたか如何か! …たった一度の人生だもの!>
…とどのつまりは、これ!
・・・・・・
6849, ドキュメント… 「遊びの科学」
2019年12月15日(日)
「遊びの科学」
<BS世界のドキュメンタリー
「遊びの科学」 2019年>
* 世界のドキュメント「遊びの科学」
価値観には、学び、遊び、働きの3つの要素があり、その中で、取分け
「遊び」が重要視される。他に「休み」を加えたい。 欧米の夏場の
長期休養が、これにあたる。何もするでなし、ひたすら別荘地でボットする。
本来、狩や、食べ物の収集以外は、ひたすら休むのが野生動物の生活習慣。
人間も然り。その中で「遊び」の必要性がある。死ぬときに、もっと遊んで
おけばと悔やんでも、もっと稼いでおけばとか、学んでおけばの悔いはない。
一般的に遊び4割、働き3、学び3の割合だが、背景の生活環境で変わる。
NHKの「遊びの科学」のドキュメントが解りやすい。
―
:番組内容:
動物も昆虫も遊び心を持っている。子ども時代に遊べば遊ぶほど
“優れた大人になる”ともいう。動物たちが遊び回るレア映像と、
目からウロコの学説で遊びの効用を科学する。
◉ コモドオオトカゲと、バケツや紙箱を使ってかくれんぼ。
水族館のタコは、清掃用のホースに合わせて踊っておねだり。
犬もヤギも、子グマがいたずらする映像も!
たくさん遊んだクモのメスは子だくさんで、
遊びを禁じられたハムスターは精神不安定で協調性を欠くー
ー人間も野山を駆け回り、転んだり擦り傷を負う「遊びのリスク」から学び
成長してきた。室内にこもりがちな子供たちの未来に、研究者たちは警鐘を
鳴らしている。番組内容動物も昆虫も遊び心を持っている。
子ども時代に遊べば遊ぶほど“優れた大人になる”ともいう。
動物たちが遊び回るレア映像と、目からウロコの学説で遊びの効用を科学する。
―
▼ 都会と地方の違いは文化の多様性にある。特に「遊び場の」質量が格段に
存在する。その蓄積の違いは、そのまま、人生の質の違いとして現れる。
といって、都会育ちが優秀とは限らない。それが代々となれば、いかんとも
し難い格差を生む。成績優秀な人は、実に遊び上手い。これまで、その効用に
ついて、多く書いてきた。
・・・・・・
2007/06/18
2267, 「遊び」
(゜∇^*)オハヨ♪
遊びの重要性は、両親をみていたり、学生時代などの経験から
「働き」と「学び」と同じくらい位置づけてきた。
その三つのバランスを如何に組み合わせるかが人生の豊かさと信じて、
年、月、週の計画に組み込んでいた。
人生で最後残るのは、特に「遊び」の中の充実感である。
「遊び」をネット百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』調べてみた。
ーーーーwww**ww*w(/⌒∇⌒)/~∞**www***w ーーーー
楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス (生体)解消などの目的で
生物がする行動の総称。普通は生命活動を維持するのに直接必要な食事、
睡眠や、自ら望んで行われない労働などは含まれない。
また、工学などにおいて作られる、ある一定のたゆみ、ゆるみ、余白のこと。
これを作ることを「遊びを持たせる」という。
ハンドル等、機械で人間が操作する部分の遊びは、不覚筋動を機械の動きに反映させない
という効果遊びとは、楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス解消などの目的で
生物がする行動の総称とされます。どのような時代においても遊びは存在し、
太古の昔から現代まで私達の心を楽しませてくれています。
人間以外で、動物は遊びの中で狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。
ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟すると
あまり遊ばなくなるが、ペット化(家畜化)された犬や猫などの動物は成熟後も
遊びたがる傾向があるようであり、野生動物でもカラスには、
成熟した個体に遊びと思われる行動が見られる。
フランスの思想家、ロジェ・カイヨワはホイジンガの著書「ホモ・ルーデンス」
に影響を受け、「遊びと人間」を執筆した。
その中でカイヨワは遊びを次の4つに分類している。
・アゴン(競争):運動や格闘技、子供のかけっこ
・アレア(偶然):くじ(宝くじなど)、じゃんけん、ギャンブル(競馬など)
・ミミクリ(模倣):演劇、物真似、ままごと
・イリンクス(めまい):メリーゴーランド、ブランコ
カイヨワの説は遊びはこれらの4つの区分に分けられるとしたものであったが、
遊びは必ずしもこれらの単一の要素からなるものではなく、
複数の要素を含むものも多いとする説もある。
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なるほど、と思うが・・・
「遊び」については、今まで何回か取り上げてきた。
人は良く遊び、良く働き、良く学ぶことが、良く生きることを目ざすことだ。
そのどれも必要なことであり、それぞれにとって、背後に二つを必要とする。
何ごとも楽しみになるまで追求すれば、しめたものである。
私の場合、ゲーム化が楽しみへ持ち上げるポイントであった。
ゲーム化に対しては批判もあるだろうが、何ごともやりかたである。
到達地点を設定して、その間の障害を乗り越えながらプロセスを楽しめば、
遊びへ転換する。
ゲームは、勝ち負けを争う遊戯、競技もしくは賭博として一般的に認められて
いるが、日本では、「ゲーム」という言葉を使う場合、漠然とした「遊び」と比べ、
「パッケージ化された遊戯の一形態」という印象を与える。
学び、働きに対して、遊びが一番充実していた!ようだ。
遊びは他の二つと違って、他者との対比の必要はない。
一番好き嫌いの主観的要素が生かせるからよい。
同じ人生、楽しまなくては!
何ごとも「遊び」まで持ち上がるまで集中すべし!ということか。
ー以前、カラスの遊びについて書いた部分を抜粋してみるー
カラスは「羽の生えた類人猿」というほどの高い知能が、
動物学者の研究観察から認められている。
その一つに人間と同じような“遊び”の感覚があることである。
・目的もなく電線の巻いてあるテープをはがしたり、
・空中でゴルフボールや小枝を落として奪い合うラグビーのような
行動で仲間と遊んだり、
・滑り台で、人間の子供のように滑り降りたり、
・くちばしでレールに小石を並べる行為も、電車が石をはじくのが面白くて
始めた“遊び”といわれる。
そのように無駄な行動を楽しむことをみても、彼らが知的動物であるといえる。
「無駄」なような行動も、「ラグビー行為は、オオタカなどの猛禽類に襲われた
場合に備えてのチームプレーの訓練」という見方もあるが、それを遊びにする
ことが、高度な知的行為である。
ーー イルカや、サルなど知的レベルの高い動物ほど日常の中に
遊びが入っているところが、注目に値する。 d=(^_^)=b
競争、偶然、模倣、めまい、か~~~!
何かの偶然の重なりで娑婆に生まれ、ママゴトのような人生の中で、
ワッペン取りや、かけっこ競争や、ブランコ遊びをして、
ふと、気づくと孫に囲まれ、遊びの手助け!、 これが人生。
Bye♪ ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪
・・・・・・
2004/05/12
1135,「ライフ・レッスン」-13
ー遊びのレッスンー
遊びは仕事とともにもっとも大事にしなくてはならないことである。
何のために働くのかと問われれば、遊ぶために働いてますと真から
答えることができ、何のために遊ぶのですかと問われれば仕事を
じゅうぶんできるために遊ぶのです、と答えることが理想といえる。
遊びとはつかの間の気楽な時間ではなく、遊びのためだけに捧げられた、
実際の時間である。私にとって、この随想日記を書くことじたい遊び。
遊びでなくては絶対に1000回も書くことは無理である。
散歩もわたしにとって、最大の遊びである。
初めは腰痛対策であったが、いつの間にか遊びに昇華してしまった。
歩いて楽しいのである。
晩年になって過去を振り返ったときに、あの時は良かったという記憶に
残るのは、やはり無心で遊んでいた時である。それぞれの年代において、
それぞれの遊びの中で我を忘れて楽しんでいた時である。
ー抜粋
・われわれは趣味や遊びが何であるか忘れている。
家具つくりを趣味でしている人が、ある日突然「これを仕事にしよう」と
思い立つ。好きなことをして、それが仕事になれば、というかもしれない。
しかし趣味とは成果を気にしないで純粋に楽しむものである。
売るための家具をつくれば、もう趣味といえなくなる。
それは仕事である。そのことに気づかずに、好きなことを、純粋に楽し
めないことにゆがめていく人が少なくない。
・おもしろくって、一日中でもやっていたい、本当に好きなことを
やらずに、欲求を最大限おさえて生きていくなんて、何ておぞましい
人生だろう。遊びにかけているサファーを、われわれは並以下の人間に感じる。
しかし真剣に問われるべきは、われわれの大半が遊びのない世界に住んでいる
のは何故かということだ。
・自分自身に上質な時間をあたえてほしい。
愛する人とすごす上質な時間が必要だということを、誰もが知っている。
ところが、自分だけのための、ひとりですごす上質な時間もまた
必要なのだ。ひとり取り残された時間でも、気がついたらひとりになっていた
でもなく、純粋にひとりを楽しむ時間が一番大事だということを知って
ほしい。
・・・・・
~以前書いた文章~
ー遊びについて―
人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。
そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。まずその達人を事例で
考えてみる。一番身近では母がそのプロ?であった。
戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、
父とともに苦労の連続であった。そして長男、次男の連続の
不幸な死で今の重症のノイローゼーなった。
心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。
亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。
それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。
約40年近く遊びきって亡くなった。
日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。
毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。
子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。
遊びの重要さもそのため学んだ。
父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。
ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。
「遊び」を儒教的影響の為か、キリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。
子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。
ただただ無心に遊んでいた。
あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。
人間は生きていかなくてはならない。
その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。
その為に勉強もしなくてはならない。
しかしそれだけでは、それだけの人生だ。
それがクロなら、その対象の白が必要になる。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。
それを特に母の生き様から学んだ。
一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。
どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。
その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、
「馬鹿な?生き物」である。
遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。
そうすると、仕事も遊びになりうる?
天才はその典型であろう。
あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。
何でも遊びの対象にした「遊び心」を。
純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。
「遊んでないで、笑ってないで、もっと真面目にやれ!」
と暗示をかけられてないか?
私の趣味の一つにウオーキングある。
初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。
純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。
その中に純真な遊び心が躍動を始める。
何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。
それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。
パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。
そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。
「遊びになるまで集中する」という事か。
これから散歩だ!
ーーーー
2002/01/05
一人遊び
孤独に強い人とは、一人遊びができるかどうかにある。
一人で楽しみを見つけ・・・、書いていて気がついた、
それって「お宅」でないか。似ているがやはり違う。
それは一人遊びのできない人が表面を見て、いっているのでは?
結局中途半端のそれをいうのではないか?
字のとおり、部屋に引きこもって自分の殻にこもった状態をいう。
山登りや釣りはやらないが、これなど一人遊びの典型である。
別にそれをお宅といわない。読書好きの人もお宅といわない。
自分の強みは孤独に強いことだ。人に何かを求めないこと、求めても
そこに何もないことを、経験上知っているためだ。
結局人間最後は一人だ。そこでボールを一人でバウンドさせていくしかない。
そうしていれば、人が面白そうと自然に寄ってくるものだ。
「禅」とは、その修行によって、字のごとく、単(一人)を示すことだ「示単」。
これはある有名な禅僧から直接聞いたことだ。そこで自分の好きのことを見つけ、
それを楽しむことから始めなくてはならない。その積み重ねが個性を作る。
ノイローゼになる人をみていると、これができない人だ。
常に人に何かを求めているか、頼っているからだ。
・・・・・・
2018/04/05
閑話小題 ~遊びについての断章
<「群れるな」寺山修二著>
昨日、「加山雄三とヨット」のテーマで遊びについて書いたが、手元に
図書館から借りて積上げてある10冊の本の中に、『遊びについての断章』が
あった。これまで「遊び」について繰返しテーマにしてきた。
「遊べるうちに遊んできなさい! 直に、泣くときが来るんだから!」と
諭され、数十年が経つ。確かに切ない場面が多々、あったが、その数倍、
数十倍、楽しいことがあったのが実感。遊びの価値を両親の後ろ姿に
学んだことに加え、学生時代に味わっていたこともある。
――
* 『遊びについての断章』
ー人生は遊びながら年老いて行く―
‘JRA’のCMのために書いた原稿。
実際に使われたものはこれからの抜粋である。このCMのなかでの寺山は
得意の肩かけコートで町をあるき、府中のスタンドをバックにたたずむ。
その後ろであの独特の語り口でこの断片を朗読していた。
――
かもめは飛びながら歌をおぼえ
人生は遊びながら年老いてゆく
*
遊びはもうひとつの人生である
そこにはめぐり逢いも別れもある
人は遊びのなかであることを思い出し、あることを忘れ、
そしてあることを捨てる
*
人はだれでも
遊びという名の劇場をもつことができる
悲劇 喜劇 活劇 メロドラマ
そこで人は主役になり、同時に観客になることもできる
*
ぼくは人力飛行にあこがれていました
飛行機はただの道具にすぎなかったが、飛ぶことは思想でした
ぼくあ大空を見あげて思いました
プライバシーなんかいらない
フライバシーがほしい、と
遊ぶことは 冒険することであり、
ためすことであり、知ることだったのです
ぼくは「運の悪い女」がきらいです
なぜなら「運の悪い女」には、人生が一つしかないからです
遊びは、不運な人たちにも
「もう一つの人生」があることを教えてくれるのです
だからぼくは、いつでも自分に掛ける
*
どういうものか「誰が故郷を思わざる」という歌をうたうと、
ツキがまわってくるんです
はじめて競馬場へ行ったとき
はじめて玉突きを覚えたとき
はじめて女を口説いたとき
だからぼくは
皆で一度、一緒に唄ってみたらいいんじゃないかと思っているんです
政治の悪い時代には、「誰が故郷を思わざる」でも唄ってみる
そういうもんじゃないのかな、遊びなんて
*
人生が終わると、遊びも終わってしまう
しかし、遊びが終わっても人生は終わらない
遊びは何べんでも終わることができるから、何べんでもやり直しができる
出会いと別れのくり返し
そこが遊びのいいところなんだね
*
人生では敗けられないが、遊びなら敗けられる
そして敗けを知ったものだけが味わえる風景というものがある
「誰が故郷を思わざる」なんて唄は
競馬をやったことのある者にしか、味わうことができない唄ではないだろうか
*
人生が、いつばん安上がりの遊びである
死が、いちばん高くつく遊びである
*
遊びは、人生の時刻表である
人はそこに立ち止まり、自分の乗る汽車をえらぶ
人生は汽車である
旅をしながら年老いてゆく
*
遊びは不幸な人間の第二の人生である
遊びは不幸な人間の第二の魂である
*
人は誰でも、もう一つの人生をもつことができる
それは遊びである
ドストエフスキーは言っている
「一杯の茶のために、世界など滅びていい」
*
夢の中で無くしたものを
目がさめてからさがしたって見つかる訳はない
現実で失くしたものを、夢の中でさがしたって見つかる訳はない
人は誰でも二つの人生をもつことができる
遊びは、そのことを教えてくれるのです
―
▼ 個人のHP内の検索で調べると、次々と出てきた。
まあ真面目に遊びながら書いだこと。