読書日記 ~『ゴリラからの警告』 ~2

f:id:horii888888:20200820053402j:plain

        <ゴリラからの警告「人間社会、ここがおかしい」  
                       山極寿一(著) >
    * コロナ禍にゴリラから学ぶ
 現地点から人生を振返る以前の自分は、『ゴリラ』みたいな存在! 
大学を含めた学生時代は、社会に出る前のゴリラに対する、人間社会に出る前の
執行猶予期間。そこで、自分の立場から幾らかの高みから社会というジャングル
から離れて見つめる知識、経験が必要とされる。アルバイトに、旅行、文学など
様々な愛好会に入って、広く浅く、狭く深く世界というジャングルを垣間見る
時節になる。幼稚園の砂場と同様… 学生時代は、非常に大事な時節。
人間の大元のゴリラこそが、自身の真の姿。このコロナ禍も、異常に過大化した
ロゴスが齎した災い。地球上の人間半減化への序曲とも解釈される。
 
   ~Amazonの読者読者の投稿が解りやすい!~
≪ ◉ 第二章は教育論で、特に大學とは何の様な所か、何を目指すべきかがテーマ。
 大學はジャングルであり、創造性という點で學問は藝術と相通じるという指摘には
納得させられます。確かにジャングルなので野垂れ死な無い様に、捕食されない様に、
毒草を喰らわない様にして必死で生き抜かねばなりません。
真の大學とは誠に厳しい世界ですね。此の第二章が一番勉強に成りました。

◉ 第三章は時事的な話題が集められて居ます。1、2章と比べて結論や方向性を
 あまり明確にしない傾向が感じられます。一番注目されたのは「シートン再考記」
(193頁〜)の中で、日本人が育んできた自然との共生文化が有ったからこそ我國で
霊長類の研究が発展し我々は多くを學べた、という指摘。此れからも大切にしたい
ですね。 …芥川の桃太郎の話は、芥川の事ですから其の深層は書かれて居る字義の
通りでは無いでしょう。此れも半分屁理屈なのですが、鬼は皆殺しにされるのでは
なく、生き残って恭順した鬼はその後仕返しに転じますから、厳密に言えばゴリラ
達に当て嵌まらない様に思います。本章では人と人との絆という観点からグローバリ
ゼーションに触れて居て、其の点は依存有りませんが、グローバリズムとなって
しまうと逆方向になってしまいますので要注意です。
第一章で指摘されて居るテクノロジーの問題も、テクノロジー其の物では無くて、
其れを利用する経済イデオロギーが原因でしょう。≫

 ――
▼ ホモ・サピエンスが、その特性のロジックを駆使して大自然を利用して
 地球を破壊するほど文化、文明を発展させてきた。それもオゾン層の破壊など、
限界に達して、大自然の反撃にあったのが、ここで発生した大地震、台風、
火山の噴火など。これに、このパンデミック。これらは一連で繋がっている。
だから、コロナ禍の行く末を考えると、悲観的になる。
一万年、いや数百万年スパンの問題だから。人間の文化、文明の問題から
問い直す課題になるから… 環境問題である! ゴリラの特徴に徳性がある。
ロゴスの異常の発達が、その特性〈徳性)を弱めてしまった! 
 都会の住人から見れば、地方出身の学生は服を着たゴリラそのもの。
そこから抜出すに数年はかかる。その±を、彼らは過剰ロゴスの異常さを知り
尽くしているため、友人のメンバーに入れる狡猾さがある。
 その都会のあり方が、根本から問われているのが、このコロナ禍。
それは簡単に答えなど、返ってこない大問題!

・・・・・・
6368,閑話小題 ~長岡弁に魅せられて ー2
2018年08月20日(月)
  * 「が」と「~すけ」の多用が特徴
「長岡弁」のキーワードでネットサーフィンをして、驚くのが多さ。
次々と限りなく出てくる。街中で育ったこともあって、比較的訛りは少ないが、
それでもあるある。必死に消し去るのに苦労した「長岡弁」を改めて凝視するのも
恥ずかしいような気がする。とはいえ、それらの言葉が、心、魂の故郷のような。
違和感もないが、親しみも何も感じない「長岡弁」。言霊は訛りの中に染みつく。
  ~以下はネット検索による~
≪ ex: 
「そういうことでしょ?」=「そいがろ?」、
「その物体を取って」=「そのがン取って」、
 「赤いのが良い」=「赤いがァが良い」、
「何をしているのだ」=「なぁしてが」、
「どういう事なのだ」=「どいがいや」
・理由を表す「~だから」が、「~だすけ」または「~すけ」と使われるが
 これは関西弁の「~さかい」、北陸弁の「~さけ」と同じ物。
前回の他の特徴は ①語尾が濁る、上がる(がぁ~、やぁ~)
       ②語尾を強めに発音
  【初級編】
 捨てる→ ぶちゃる
 投げる→ ほんなげる(ほげる)
 甘いもの→ あ~めぇ~がん
 おしゃべり→ しゃべくっちょ
 あのひと→ あのしょ
 だいすき→ でぇ~すきら
 おかね→ ぜん
 だから→ だぁ~すけん
 そうですか?→ そいがぁ~けぇ~
 そうなのです→ そいがぁいやぁ~
 やだけどさ→ やらすけさ
 めちゃめちゃ→ だいこっぱい
 【中級編】
おかねをなげるな →ぜん ほんなげんなんやぁ~
あの人は甘いものが好きなんですよ →あのしょ あ~めぇ~がん 
                  でぇ~すきらっけん
 【上級編】
あなたは何をしているんですか? →なぁ~なぁ してるがぃやぁ~
あの人はおしゃべりで困っています →あのしょ しゃべくっちょらすけんに 
                  やらいやぁ~        ≫

▼ 都会でも、郷土の人を仲間にしていると、どうしても抜けきらない。
 言葉は生きていく上で重要な役割をしめるため、都会暮らしでは一度、抜く
必要がある。地方訛りとチッと違うが、社会人として、『俺』から、『私』が、
一歩目。出来たら、『わたくし』。女性の『わたくし』は、人生をアップ
スケールをしてくれる。次の言葉が丁寧になるから。  ~つづく

・・・・・・
4164, 老年行動学 ー2
2012年08月20日(月)           
 * 自伝的記憶       
     「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤眞一(著)
 最近、思い出す頻度が高いのは20~25歳の頃のことが多い。当時の日記が
残っているためと思っていたが、その年頃は強い感情が満ち、自由で未来への
旅たちの時節。少しの決断が、人生を大きく左右に分けてしまい後悔も大きい。
多くの自伝的記憶は、この頃がピークになる。あの極度の緊迫感のあった日々は
過酷だが懐かしさが残る。  ー次の部分は、理解しやすいー
≪ 日常のできごとの記憶である「エピソード記憶」のうち、自分の人生に
 関する「自伝的記憶」だけは、20代をピークに、10歳後半から30代前半まで
の青春時代のできごとを、たくさん思い出すのです。なぜか青春時代よりも
今に近い、30代後半以降のことは、青春時代ほどには思い出しません。
この、青春時代の記憶を突出してたくさん思い出す現象を、
「レミニッセンス・バンプ」と呼びます。レミニッセンス・バンプは、老人に
限ったことではありません。中年以降の人ならば、誰にでも起こります。 
では、いったいなぜ、青春時代の記憶だけが突出しているのでしょうか? 
その理由の一つは、「強い感情を伴うできごとは、記憶しやすく思い出しやすい」
という、記憶の特徴が挙げられます。10代後半から30代前半にかけては、進学
したり就職したり、親元を離れたり、友と出会って友情を育んだり、けんかを
したり、恋愛をしたり結婚をしたりと、強い感情を伴うできごとが多くあります。
そのため、それらのできごとが、ことごとく心にしっかりと刻み込まれるのです。
また、親の監視下から離れ、なおかつ重要な仕事を任されることも、養うべき
家族もないといった、社会的責任のない青春時代は、人生でいちばん自由かつ
可能性に満ちたた時代です。親や地域の抑圧から解放され、社会からの抑圧は
まだない。ほんのひととき。その、今は失ってしまった自由と可能性に満ちた
時代に、人はノスタルジアという感情を喚起され、好んで思い出すのです。≫
▼ 自伝的記憶は、その時どきで再編成される。あらゆる可能性に満ちた青春
時代は、老いるほど懐かしいものとなる。俗世の縛りから解放され、そこはか
となく楽しい気分でいられる時間がある老人は、楽しいことを思い出しやすい。
人間は楽しい気分の時は楽しいことを、悲しい気分の時は悲しいことを思い出す
傾向にあるためである。人生のピークは、青春の真っ只中にあるため、その辺
の記憶が鮮明に戻ってくる。 老年は、自分の人生という物語の記憶を校正
している。過去の日々を思い出し、「日々是好日」というより、過去の
「日々是口実」を都合良くすることになる。自伝的記憶の再構成である。

・・・・・・
6001,「自己実現」と「自我実現」
2017年08月20日(日)
   * 「自己実現」と「自我実現」の違い
 自己実現を果たすべく生きてきたが、「自我実現」でしかなかったのか?
そういえば私も、40代後半から、事業面だけでなく、私的ライフワークに、
シフトを大きく変えていた。
  ~ネットに、理解し易い内容があった~
≪・『「自己実現」は、スイスの心理学者であるユングが考えたもので、
 彼は人生の前半は「自我実現」を目指し、後半に「自己実現」に取り組むのだ』
 と言いました。
 私がみなさんの相談にのっている感覚だと、30歳台~40歳台頃に、この
「自我実現」から「自己実現」へのコーナーを曲がる人が多いなと感じます。
 自我実現から、無意識と共に歩む「自己実現」に入ってきている人はたくさん
 いるはずです。
  ☆<その人生の前半に目指す「自我実現」と、
    人生の中盤から目指していく「自己実現」の違いは何でしょうか?>
 =ユングいわく「自我実現」とは、「社会的に評価されるようなこと」
  分かりやすく言うと、
【やると決めて、それができた!→みんながすごいと言ってくれたり、
 自分も達成感がある→自分を褒められる、認められる】
 そんな感じが、自我実現モード。
「意識的・理性的に予想していた(意図していた)成功や実現を得ていく」とか
「(目に見える形で)何かできたら、自分を認められる」というのは、自我実現
 的といえます。
=それに対し「自己」とは、意識だけでなく、無意識も含んだものを意味します。
 ですから、「自己実現」というのは、 潜在意識や無意識という訳のわから
 ない要素が突入してきますので、思い通りにいかないことも増えます。
☆ <え?自己実現って、やりたいことを実現することではないの?>と思うかも
 しれませんが(それが普通の反応かもしれません)
 人生中盤以降で取り組む、ユングのいう「無意識と共に歩む自己実現」とは、
【どうなるかを決めて、その通りに実現させてナンボ】(自我ワールド)から
【どうなるかわからない世界も、自分の中に取り込んで統合していく】
 (自己ワールド)という世界になってくるという意味があります。
・でも・・・いままで、どうするか決めて、結果を出したら自分を認めてきた、
 コントロール好きの「自我」にとって、どうなるか分からず、訳も分からず、
 成果が見えないというのは、コントロール不可能ですから、ストレスフルで、
 怖いものです。そうなると、自我にとって、自己は脅威になり、必ず、自我は
 抵抗します。
「わけのわからない事とか、どうなるかわからない世界を取り込むなんて、
 振り回されるし嫌!」
「そんなの不安で耐えられない」
「成果が見えなかったら、どうやって自分を評価するの?」
「成果がなければ、誰も認めてくれないんじゃないの」
このような思考の自分は、ヤングな自我実現モード。 …  ≫

▼ 何気なく使っている、「自我」「自己」も、無意識が含まれるかどうかで、
 分かれてくるという。「自己ワールド」と、「自我ワールド」の境目を明確
にしておかないと、自己分裂に陥ることになる。そう、「他者の自我」に、
「自分の自己」が、押しつぶされる「群れの自己」いや「群れの中の自我」に
陥ることになる。それが「世間」という群れの正体、「劣化した自我ワールド」
の立派な一員の姿である。
オバマ前米国大統領と、トランプを、例えてみると、「劣化した自我ワールド」
は、明らかに? 腐った裸の王様のシャッポを被ったアメリカの混乱、天罰と
言えば、それまでだが… 面白いことも確かである。

・・・・・・
5636,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー最悪の想定
2016年08月20日(土)
   * 最悪の想定
 新しい分野へ一歩踏みこむ場合、そこに不安と、苛立ちが立ちふさがる。
不安状態から、行動にうつるためにはどのようなステップを踏めばよいか。
カーネギーの『道は開ける』では、非常に簡潔な下記の3つのステップを
紹介している。
一、「起こりうる最悪の事態とは何か」と自問すること。
二、やむをえない場合には、最悪の事態を受け入れる覚悟をすること。
三、それから落ち着いて最悪状態を好転させるよう努力すること。
『道は開ける』 ~悩みを解決するための魔術的公式 P.53~

この道理を、学生時代に読んでいたお陰で、どれくらい難関で、助け
られたことか。特に、最悪を想定し、そこから、計画を設定していく。
創業では、事業失敗からくる自己崩壊の回避である。
 賭け事で、一番確率が良いのが『創業』という。それでも5~6%の確率。
失敗の94~95%の想定をして事前に手を打っておかなければ、踏み出せない。
事業整理を、まだ止めときでない時節に、決断を出来たのは、創業計画段階で、
最悪の想定をしていたため。そこが出発点のベースになる。その辺りを「畜群」
には知りようがない。長年かけた人生設計、事業設計など分かりはしない。
 事業の失敗を想定して
・息子も含めて、親戚縁者は会社に入れない
・15%は家内名義の給与を与え、別通帳にしておく
 当然、連帯保証に妻子はしない
・当月の20日締め、月末払い(実質的現金払い)を守る
・手形決済は、問題外
・合法的裏金を長年かけて準備する。例として(会社が私に掛けた生命保険の
 掛金7~8割が、契約解除と同時に戻ってくる契約で、その期ごとの経費で
 落ちて、その存在は、帳簿上から消える。しかし現在は禁止されている。)
(妻子への無税相続の贈与)などなど。これも長年かけなければ効果は少ない。
 だからこそ、畜群の視線の幼稚さが浮上がって見えてくる。まさかの最悪が
 起るのは事業であり、人生である。 当然、畜群に、その後、次々と酷い最悪
 が襲っているが、本人は、そのことに気づかないから始末が悪い。
『それにしても、まさか自分がネ!』は、同世代なら、全て人の問題である。