閑話小題 ~現場の生々しい事態

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   * 第一ラウンドが終わり
 現時点では、新型コロナの感染から如何に身を守るかがメインテーマだった。
そして、その第二ラウンドに入ろうとしている。 まだ10万円の配布と、休業
保証の支払いあるため、何とか遣り繰りしている状態。しかし休業補償の対象店
も客足が戻るでなし、1~3割まで減った売上が、2分1~3分2まで戻ったら良しと
しなくてはならないが、根こそぎの業態変更で対処しないと… それが可能か
どうか? ~現在、通ってるスポーツジムのケースをみると…
元に戻るに、最低、2~3年の時間が必要? インストラクターを観ると、
殆どフリーランスのパート。 学生時代、体育会系所属だった子育て中の女子。
9年前の開店時のスタッフは、ヨガの先生がただ一人だけが生き残っているだけ。
私の見立ては、あと二年の存続は5分5分。いやもっと低いか?
客筋ターゲットが、‘フレンドリーで、ジム通いの初心者向け!’会員を如何に
引き留めるか。この辺りの問題は全ての業種に言える。としても、この応用問題
は厳しい。先日のTVで、廃業を決意した事業主が「こころが折れてしまった!」
と無念を滲ませて語っていたが… 何をか言わん。
 ―
   * そして第二ラウンドへ
小泉内閣や橋本内閣で内閣総理大臣補佐官を務めた岡本行夫氏が、新型コロナ
ウイルスに感染し亡くなっていたにも驚き。大型連休中の高速道路 10キロ以上
の渋滞なし 死亡事故もゼロという。居場所失い路上生活のインタビューも深刻。
雪崩れをうったような失業問題が押し寄せてくる。隠れテーマが、3密を象徴した
都市問題がある。「3密を拡大し、濃密にして合理的にしましょうよ」が、根底
から否定されるのだから、堪ったものではない。 3%人種にとっては、大した
ことはないが… それ以外の97%の平民にとって大問題。アメリカ並みの露骨な
格差問題が、そこに見え隠れする。 数年後の社会の姿は、「3、30,67%」が、
「1、9、90%」に移動する変動現象になるのでは? 何処まで続く…? 
イメージとして20~30ラウンドでは、いやもっとですか。 
次は世界恐慌? 第三次世界大戦? 細菌対細胞との生き残りをかけた最終決戦?

・・・・・・
6628,読書日記 ~『無知の科学』だってさ! -4
2019年05月09日(木)
      <『知ってるつもり――無知の科学』
        スティーブン スローマン,フィリップ ファーンバック(著)>
    * 知識の錯覚 「私たちは嘘をいきている」
 読むほどに、実は思いの外、私たちは無知であることに気づかされる。
それを学生時代に知り得たため、読書習慣を自らに課してきた。で、この程度。
しかし、情報機器の進化は、人間の脳の能力を遥かに凌ぐようになった現在、
逆に自らの「知っているつもり」を認めて、謙虚にへり下る態度も必要か!

  ~ 以下は要約した個所である。
≪ 私たちは驚くほど無知であること、自分で思うより無知であることを
 見てきた。また世界が複雑であること、私たちがみるより、遥かに複雑である
ことを見てきた。ならばなぜ、これほど無知な私たちが世界に圧倒されないか?
知るべきことのほんの一端しか理解してないのに、まっとうな生活を送り、
分ったような口をきき、自らを信じることができるのか。
 それは私たちが「嘘」を生きているからだ。物事の仕組に対する自らの知識を
過大評価をし、本当は知らないくせに、ものごとを理解していると思い込んで、
生活をしていることで、世界の複雑さを無視しているのである。実際にそうで
ないにもかかわらず、自分には何が起きているかわかっている、自分の意見は
知識に裏付けられた正当なものであり、行動は正当な信念に依拠したものである
と自らに言い聞かせる。複雑さを認識できないがゆえに、それに耐えることが
できるのだ。これが知識の錯覚である。 大人になるにつれて、探求を止めて
しまったことが、物事が複雑であることを忘れてしまったことに起因している
のかもしれない。「その先は、実は知っているが…」と、空白をつくるが、
実は、その中には何も入ってない。まず自らを誤魔化すことが、人間の甘さ。≫

▼ そこでスマートフォンなるものが普及してきた。これを活用すると、凡人が
 天才の能力に近い人種にスケールアップすることができる。 世界中の脳が
ネットで繋がり現実社会を覆ってしまった。このお陰で、逆に何も知らなくても、
超小型pcに音声入力で検索すると、世界中の脳に繋がり、ベスト・アンサーの
情報が入手可能になったのである。 それが逆に、『知っているつもり』の
無知人間に陥ってしまう危険性が大きくなった。自分の縁る基地の軟弱化である。
 このブログを例にとると、外部脳と、自分脳とが、何時の間にかシースルー化
している。過去に書いた、文章を現在の私が読むと、その内容自体が、外部脳
と自分の脳の混合でしかないことに気づく。それをまた外部脳が読んでいる。
フワフワした脳を公衆に晒すことを継続することで、自らを変えているつもり
だが、そう甘くはない。私たちは「共同幻想」の世界に生きている。幻想という
嘘の世界に生きているが、誰も、そのことに気づいていない。その事実を話すと
変人扱いされるため、知っている風をして黙っているしかない。しかし、誰もが、
スマートフォンを手に入れ、情報基地を持ってしまい、知ったつもりの人間が、
互いに繋がってしまった。無知同士が互いに繋がると如何なる? この世界的
動乱が、この結果である。
 ランドアーという科学者は、1980年代に、コンピュータサイズを測るのと
同じ尺度で人間の記憶量を評価することを思いたった。現時点で評価すると、
ノートパソコン一台には長期保存用として250~500ギガバイトのメモリー
ついているが、0・5ギガバイトだと。 人生70年の間に、一定速度で、学習を
続けるとしても1ギガバイトである。これが10倍としても、大して変わりはしない
微々たる量でしかない。これは、あくまで記憶量の問題で、脳は複雑で、PCの
記憶媒体の質量とは比較できないが… それでも、昨今の情報機器の進化をみる
につけて、人間の脳は、進化する情報機器を前に、その限界がみえてくる。
 …としても、この情報機器の進化と、情報革命の諸現象は、あまりに面白い!
知ったかぶりね、知ったかぶりですか。情報化とは、浅くも深くにもなる、
その人の程度によって… 猿でないのに何でまた、掴んだまま手を離さない?

 追:偶然だが、一年前の内容が丁度良く、文脈でつながる… 
・・・・・・
6265,閑話小題 ~「これ以上はいけない」と宣告する境界線 -2
2018年05月09日(水)
             《『街場の読書論』ー歩哨的資質についてーより》
   * 歩哨的資質ですか!
 聖地や秘境との邂逅の場で、何やしらかが、「これ以上、立入るな!」と
無言の得体のしれない何かを感じたこと屡々。その時々に私の知っていること
など、ほんの僅かで、圧倒的未知の世界の一部から得る啓示に慄然とする。
<「存在しないもの」と「存在するもの」のフロントラインにおけるふるまい>
とは、分かりやすい表現である。人間は未知とのフロントを守護する歩哨ですか。
 考えさせられる内容のため、全文を数回に分け紹介しながら考えていく。
――

毎日新聞社高野山金剛峯寺で開いているセミナーで一席おうかがいしてきた。
 「公共性の再構築」という演題だったのだが、それは3・11以前に出した
ものなので、もう少し踏み込んで「社会制度の作りなおし」というテーマで
70分お話しする。
このところ繰り返し述べている「存在しないもの」と「存在するもの」の
フロントラインにおけるふるまいということをまた申し上げる。

私たちの世界は「存在しないもの」に囲繞されている。
 宇宙の起源を私たちは知らないし、宇宙の果てに何があるか
(というより「何がないか」)も知らない。
 時の始まりを知らず、時の終わりを知らない。
 『ヨブ記』で主はヨブにこう問う。

 「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。
だれがその大きさを定め、
だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめこまれたか。
その隅の石はだれが据えたか。
 (・・・)
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。
 深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
 死の門があなたの前に現れたことがあるのか。
あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。
あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。
そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」(『ヨブ記』38:3-18)
ヨブはこの問いの前に絶句する。

私たちは私たちの生きているこの世界の「外部」についてほとんど何も知らない。
 私たちは私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの、手持ちの言語では
記述できないものに囲繞されている。
私たちが理解できる世界と、理解を超えた世界のあいだには目に見えない境界線
がある。 「存在するもの」と「存在しないもの」のあいだには目に見えない、
手で触れることもできない境界線がある。けれども、その境界線を守護するのは、
私たちが「人間の世界」で生きてゆくために必須の仕事なのである。
 誰かが境界線を守護しなければならない。
 『ヨブ記』においては主がその仕事を担っている。
 主はこう言う。

「海がふき出て、胎内から流れ出たとき、
だれが戸でこれを閉じ込めたか。
(・・・)わたしはこれをくぎって境を定め、
かんぬきと戸を設けて、言った。
 『ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。
あなたの高ぶる波はここでとどまれ』と。」   (『ヨブ記』38:8-11)

「存在しないもの」に向けて「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上は
いけない」と宣告する境界線がある。 高野山奥の院に足を踏み入れたときにも
「フロントライン」に近づいた感覚がした。
 弘法大師がそこでとどめた「高ぶる波」の微かな波動が感知された。
 聖域というのは、そこで完結している場所ではなく、何かとの「境」なのだ。
 機能的には「かんぬきと戸」なのだ。  
                      ~つづく  ≫

▼ カナダに初めて行って、ロッキーの景観に圧倒され自失茫然とした。
 その時の内なる声、「もしかして、これを見ずして死ぬところだった!
とんでもない! 
 夜半8時過ぎの薄暮のなか、バンフのレイクルイーズの周辺を家内と散策した
時のこと。家内が疲れ果て帰った後、更に独りで湖畔を歩いていると、何やしら
リスやカワウソ、ビーバー、鹿?などが威嚇する鳴き声。それでも女性一人が、
次々と帰ってくるのに励まされ歩いていると、今度は雷音が、「もう帰れ!と
言わんとばかりに聞こえてきたため、Uターンをして帰った。
世界的カーレーサーの明言、『限界までは誰でも行ける。問題は、その先、
どの位行けるか!』。 イスラエルケニアタンザニア、シリア・ヨルダン
など秘境、異郷ツアーで味わうのは、その歩哨の感動体験の感覚。
<これらを見ずして、誰が死ねようか。見なければ、体験しなければ、それは
存在しないことと同じ。聖域とは、聖地とは、大自然の懐とは、そういうところ!>

追:【そんなことこそ大変だろうが、拘ることもないさ。中心を穴が空くほど
 凝視して、捨身になれば、一瞬でも解放されるよ、自分という柵から! 
折角、宇宙の彼方から観光旅行で、『光』を見に来たのだから。
 縛ってるのは自分以外、誰も居ないよ。 分かってはいないのは私自身。】

・・・・・・
「読書日記・映画鑑賞日記」のコーナー
2007/05/11
2229, 人生張っています -2
                (σ・з・)σオハYO!!
            『人生張ってます』-読書日記
 対談を終えてのインタビューの感想がまた面白い!
ーー
 さすがの中村うさぎも、毒気を抜かれて「まだまだ、うさぎは青かった」と。
「私はそれなりに地雷を踏んできたなと思っていたが、世の中には私の
踏んでない地雷がいっぱいあるものだと、勉強になりました」と脱帽。

 30歳前後位で、女はみんな迷ったり模索するじゃないですか。
その時に暴走しちゃったらするんだと思うんですね。
私の買い物もそうかもしれない。
5人の場合も折り合いがついてないのかもしれないが、
「私はこっちの道を行くと決めた」というのがあって。
こんな人にはなってはいけない。

「あなたはあなたなりの道が用意されているわけで、それはあなた自身が決め
ないといけないんだ」ってこと。誰かから決めてもらって押し上げてもらって
押し上げられた人は誰もいない。ある程度のところで決断して、捨てるものは捨て、
受け入れるところは受け入れて、自分の売りとか生きていくキャラの方向性を
決めないと。「これが私なんだ、こんな私はどうよ?」という腹のすわり方は、
読者も見習ってほしい。

 私のそういう瞬間は、第一次、第二次があるとして、第一次は離婚でしょうね。
あの旦那をわたしの人生から簀巻きにして放り出したところで、これでいいや
と思ったんです。それから浪費癖ですね。開き直ったんです。
「浪費作家・中村うさぎ」という名が売れるとは、想像もしてなかった。
ドン底にはまった時に、そのドン底がネタになるんですね。
ネタにしようとやっているわけではない。
    
 ーー
解)以上であるが、冷静かつ真面目に彼女等と自分を見据えている。
それよりも、すざましいウンコ話をパソコンに打っている自分が面白い?
秘境旅行は、一度の旅行に一通りの人生のトラブルが圧縮して立ちふさがる。
その一つが『デモノ・ハレモノところきらわず』である。

食事と飲み物と、時差の関係で、何時何処で、もようしてくるかわからない。
今まで、一度も失敗が無かった方が奇跡である位、何度も危機一髪の事態に陥る。
そんなことを恐れていたら、秘境旅行などできやしない。何とかなるものである?
だから、このエゲツナイ話が身に沁みるのである。
書き写すかどうか迷ったが、今さらである。
読まない方が良いですよ!と 言いながら・・・

こういう話は、タブーなのだろうが、この本は誰もが嬉々として
話しているところが怖い!ところだ。
  ー内容は、明日のお楽しみ?に!
  三人分の対談者の内容を書き写してある!
                ☆^(*≧ω≦)ノ~~~βyё βyё

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