閑話小題 ~100歳まで生きる気の貴君に

 

   * 長生きすれば、良いってものじゃない
◉ 去年の秋口から、何かしら急速に老いを感じるようになった。
老いを感じたのは、還暦を過ぎた頃から… さらに年々の老化を意識しだした
のが自宅から長岡駅までの歩き。 10数分で、腰の鈍痛が我慢できないほど。
スポーツジムに週4~5回も通って、これである。年齢を重ねると「わくわく感、
ドキドキ感」が低くなるというが、映画も、秘・異郷先も、これだけは衰えない。
それと好奇心、感動、感激の心も然り。
 人生の良いとこは、60歳というが、私は75歳のようだ。それも、あと8ヶ月
で終わるが、10年程前から75歳が寿命と公言してきたが、あと5年は生きそう。
我ながら誤算である。 …しかし、その年齢を死期と設定したお陰か、
「より世界を広げ、より深く見てやろう!」と、世界観が変わっていた。
肉体的な老いを感じても、精神まで老いる必要はない。

◉ 21世紀に入って、いや20世紀末から、ソ連邦の崩壊と、情報機器の進化と、
それに伴うネット社会の到来を起因とする社会変動が生じている。 現在は、
パンデミック」である。まさか、一時的にしろ世界中が国境閉鎖の事態。
これも生きていればこそ経験できる歴史的事態である。
 
◉ 100歳まで生きようとする貴君へ。
・115歳が学者が言っている限界で、一番、長生きだったのが、122歳5ヶ月。
その次が119歳。115歳以上も生きた人は、世界中に50人にも満たない。
世界に76億の人口がいるが、115歳以上は、3人だけ。その内の2人が日本人。
しかし、現時点の100歳以上が7万人も存在するというから、周りは大変だ!
その上に、老化に対する医療も進んでいるため、先々、無制限で長寿社会化が
すすむ。あとは認知症の問題。90歳以上になると、6~8割が、これになる。
それに寝たきりを考えると、やはり現在の平均年齢が、死に時だろう。
そう思って気楽に生きた方が楽だよ、きっと。

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6627,読書日記 ~『無知の科学』だって! -3
2019年05月08日(水)
    <『知ってるつもり――無知の科学』
       スティーブン スローマン, フィリップ ファーンバック(著)>
   * 恐ろしいかな無知
・人生を長く生きてきて振返り思うことは、『無知』の恐ろしさ。それでも、
 何とか切抜けることがことが出来たのは、?? 著者が言いたいことは、
<人類は無知である、ということでなく、人間は自分で思っているより無知で
ある、ということ。私たちは多かれ少なかれ、「知識の錯覚」、実際には僅かな
理解しかしてないのに、物事の仕組を理解しているという錯覚を抱くこと。>
 会社の清算の決断と手順に入った時、幼児の頃から、両親から見聞きしてきた
ことと、そのプロセスから見えてきた差異から見えてきた生々しい現実。

・8年前になるが、新潟駅前の5つの物件が、一年以内で売却先が決まり清算
 終了したが、これは奇跡中の奇跡。先日のモーニングショーで鬼怒川温泉
倒産、放置されたままの3棟の廃墟ホテルの実態をレポートしていた。経営者は
夜逃げ、その後の処分が出来ないまま放置。私の最悪の事態の想定が、これ?

・当然のことだが、多くは、自分が実際には何も知らないということを知らない。
我々が話す殆どは、抽象的知識に頼って、それを、勝手に繋ぎ合わせているに
すぎない。社会の大部分は、錯覚した知識の中で生きているのが現実である。
性欲過剰?の恋愛感情をみれば、知識と情感に置換えてみると解りやすい。
刷り込まれた思い込みを互いに重ねて熱でブレてしまうが、熱から覚めれば、
「誤解から理解」になり、ハイ、さようなら! 殆どのことは、わかっている
という感覚に過ぎない。
 ―
   * 思考の目的は何か?
 思考の目的は、「行動」であると… 特定の状況に応じた行動を選ぶための
最適なツールは、情報処理をする知的能力である。そこで記憶が過去の最適な
因果関係を直感し、因果関係を察知する思考が出てくる。この能力がありながら
何ゆえに、世界の仕組の察知に疎いのか。それは…誰かが、情報を発すると、
それ以外のことが本質以外のことは忘れる。無意識が除去するためである。
我々の知性は、個別のモノや上京について詳細な情報を得るように出来てない。
新たなモノや状況に対応すれば、個別具体的な詳細情報より、大元にある規則性
だけを理解していればよい。その一例は映画の観劇で理解できる。大筋は記憶
出来ても、具体的な映像の殆どは、消え去っている。だから二回目、三回目の
方が遥かに面白く感じるのは当然である。
 ―
   * 知識の集合知
 自分の頭のなかにある限られた知識と、因果関係の推論のみに頼っていたら、
それほど優れた思考は生み出せないはず。人類が成功を収めてきたカギは、
知識に囲まれた世界に生きていることにある。今やネット社会。そこで、
「検索」で、地球上のあらゆる蓄積されてきた情報が気軽に入手可能になった。
そこで問題になるのは、自分と、以外の頭のシームレス。これで、何でも
「知っているつもり」になってしまう。毎日、拙い頭の中を公開している。
シームレスなればこその+-が、そこにある。

 ―
▼ としても、万人がスマフォを携帯している時代。クイズ王などで東大、
 京大の若者が、思いもよらいな難しい問題をすらすらと解いている。
そこに凡人がスマートフォンを持って、自由に使わせたら、同等か、それ以上の
脳力を発揮できる。そうこう考えると、この情報革命は生命誕生以来の大変革期
にあるというのも決してオーバーでない。そして、互いの脳の間が、シームレス化
していくのも実感する。知ったつもりを凝視し、まず量を熟し、質を高めること。
〈 ある人が、アメリカに行ったいいが、営業をしようにも英会話すらままなら
ないまま途方に暮れて涙をしていた時、近づいてきた老人が、その訳を聞き、
翌日から、そこで英会話のレッスンをしてくれた時の約束が…
「わかったふりをするな!」である。 『何にも知らないくせに!』 何をまた。

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6264,閑話小題 ~世間話のでき方 -2
2018年05月08日(火)
   * 世間教のおバカは自分のこと
 前に、「世間話のでき方」のテーマを思い立ち書いた。また「世間様」の
批判だが、前回の文脈からして如何に、風評が言い伝わるうちに、歪められるか、
物語として書換えられるかの恰好の事例になった。
・まず自分の話からして、都合よく脚色をつける。
 <修理後に、カツ屋に行こうと信号を渡って店に入いろうとしたらパトカーの
サイレンが聞こえてきた。まさか違うだろうと思いつつ、カツ丼を注文したが、
何か気になるため、帰り道は、万一と考え、大通りを避けて帰ってきた。帰りの
道すがら、万引きをして追われる男の気持ちとは、こんなものか?」が修正がある。
少し難しい話になるが、カントの「もの自体」の説明になる。主観が入るため、
描写そのものが無理。主観という歪みが入るのである。世間話なら、ほぼ嘘が
拡大する。この文章も私の歪んだ主観で折角の情報を面白おかしく歪んでいる。
その歪みを上から、下から目線で楽しんでこそ、面白みが倍増する。
・家内の一時停止違反の話を聞いて、脚色して話を面白くしたのを、家内が
間抜けな亭主がパトカーに追われてカツ屋に逃げ込んだ話に脚色。それが伝わる
うちに、警察に捕まり、連行されミッチリ絞られ…に発展していく。世間様とは、
そういう世界の人達をいう。これが世間教徒の姿と私の歪みを白状する。
・幼児の頃から、両親の会話の中に、その正体「全部、嘘かデマカシ」を知って
いたが、黙るしかなかった。(実はこれも脚色)。18歳から30歳近くまで地元を
離れ、34歳から新潟駅前で事業を始めて31年、職住を分けて、可能な限り同級生
以外に近づかないことを旨にしていた。これも歪み。先年に亡くなった親戚に、
半径500m、直径1kの人(世界各地のほぼ大部分になるが)、小さな小池の現実
に嵌って?生涯独身だった(これも私の歪み)。それぞれの歪みが自分になる。
カントではないが、それぞれが分厚い色付きの歪んだサングラスをかけて、身近
な人の風評をなぞって一生を終えるのが人生。 その歪みを少しでも自覚する
ため人は旅をし、読書をし、自然に接し続けなければ生きている甲斐がない。

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5532,若者よ、外に出よ! ー⑪ 天空のショー
2016年05月08日(日)
                『人生の教科書』なかにし礼
   * 天空のショー
 人間わざ、大自然、そして宇宙へと、対象が一つずつ、ランクアップする。
自然現象、宇宙のテーマは、『人生の教科書』にはない、私の経験の話題になる。
 オーロラは太陽系の天空のショーで、地球上の自然現象ではない。だから、
その神秘な輝きに何か得体の知れない現象が感動を呼ぶ。テーマが、
「地球は」から、「宇宙は」に変る。 ~ネット検索によると~
《 天体の無数の星星の間に輝くオーロラは、太陽から大気圏内へ、光や熱
 だけでなく、太陽風を降り注いでいる現象。この太陽風は、太陽の表面の
爆発によって放出されるプラズマ状の電気を帯びた小さな粒でできている。
この太陽風の粒は、地球の磁場を横切ることができない特性を持っていて、
地球の側面からは入ってくることはできない。それに対し、地球の北極や南極
の辺りの磁力線は地球に対して垂直になっているため、太陽風の粒は、地球に
入ることができる。こうして地球に入ってきた太陽風の粒が、オーロラを発生
させることになる。この極地方から入ってきた太陽風の粒が、地球から100~
400Kmのところで、酸素原子や窒素分子などと衝突すると、光を出す。
これがオーロラの正体である。》 
 北極近くの天空をキャンパスにした神秘的な光のウネリは、気ままに姿を
現したり、消えたりする。その魅力は、映像では知ることは出来ない。
外に出続けた結果、出会えたのが、これである。~10数年前の文章をコピー
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2003/10/14
923, アイスランド旅行記ー3
   2003年10月14日(火)
ーオーロラハントー
 数年前に、ノルウエーのトロムソにオーロラハントに行ったことがあった。
その時は「何だこんなものか」という程度で、期待とは全く違うものであった。
薄い雲がスジ状に光っているだけであった。だだ行きの飛行機から見たオーロラ
がカーテン状に広く光っていたが。今回も5日間で一日しか見えるチャンスが
無かった。夜になると寒くなる為か曇ってしまうのだ。
感動するような大きなオーロラのはそうそう見ることができないのだ。

 そしてたった一回だけの私にとって一生もののオーロラが出たのだ。
天空に展開した時の感激は、想像をしていたより遙かに神秘的かつ荘厳であった。
写真など撮っている余裕など無く、ただ呆然と見とれるだけであった。
これをどう言葉で表現したらよいのだろうかと考えていた。
 天空の黒をキャンパスに、滝が降るように頭上の両側に壁になり揺らぐ青白光の
波がこの世のものと思えない、神秘的なものであった。。
あとは「 ・・・・・  」である。

 取材できていた共同通信社のカメラマンが、
「このオーロラをどう東京の友人に説明したらよいか解らない」話しかけてきた。
「これは実際、この目で見るしか理解はできないでしょうね」と答えるしかなかった。
その時、涙が出そうになっていた。
 以前ツアー仲間から、この体験談を聞いたことが何回もあったが。
「もういつ死んでもよいと思った!」
「聞くと見ると大違い、実際見なくては!言葉で表現できない」
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H1201自然の神秘
-オーロラ-
旅行に行く度にツアー仲間よりオーロラのすばらしさを聞いて、機会を待って
いた。「この冬が十一年に一回のあたり年で五泊六日・三食付、十四万九千円」
の新聞広告に引きつけられ、ノルウェーのトロムソのオーロラ・ツアーに参加。
スカンジナビア半島の北極圏に位置した、北海道を思わせる質素だが、
豊かな上品な街というのが第一印象であった。丁度クリスマスのシーズンに入り、
それぞれの家が電飾で飾られておりお伽噺に出てくるような街並みであった。
トナカイにソリとサンタクロースがぴったりマッチするような絵画的景色であった。
帰りに一泊二日でデンマークコペンハーゲンに立ち寄ったが、街中がネオンで
飾りたてられており、ディズニーランドを思わせるこの世とは思われない
“夢の国”という印象であった。特にチボリ公園の電飾が印象的であった。

トロムソに近づいた機中より見た、天空を背景にしたカーテン状の白いオーロラが
一番初めに見たそれであった。最終日の夜半三時よりみたオーロラも青色、ミカン色
と自然がおりなす天空色彩ショーであった。オーロラも必ず見れるという訳にいかず、
3~4回来ても見れない人もいるという。一生に一回は見ておくべき自然のパノラマ
であった。             (H11.12.10~12.15)
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写真
https://retrip.jp/articles/10962/
http://keiki-porori.com/archives/7892
http://4travel.jp/travelogue/10633722

録画
https://www.youtube.com/watch?v=lBiB6a9ERa0

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4435, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか -5
2013年05月08日(水)
 * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道    
      ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー
≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が
 一定速度で進むという前提に基づいている。 時間を秒、分、時間、日、月、
年、10年、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。
客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。
しかし、主観時間は、そのように捉えるべきものでない。主観的時間を考えるに、
「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。
客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持ってたら、
それは今でなく、過去と未来になってしまう。今とは、それが千分の一秒前と、
千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思い
がちだが、数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは
時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。「クオリアとして知情意を
感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持って
いると考えるべきだ。ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ
主観的今。両者の定義は異なる・・ 私たちの心は、「今」しか考えられない。
過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。
私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。過去を思い出せるが、
エピソード記憶に残っていることを思い出しているに過ぎない。過去はクオリア
ではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。
人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。
今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、あなたにとってのすべての
時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、
もはや主観的な「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは
死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は主観的には生まれて
いなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は
過去にさかのぼるほど圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全に
つぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。
物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか
死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・ つまり自分が死んだ後の無限の
時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。そんなのは無いのである。≫
▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。
 過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。「自分が死んだ
後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去
も未来も、ゼロに潰れる。「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は
奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば可能な
限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを
考えること。所詮、未来も、過去もない。それで良いのだと。亡くなった両親を
考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。
クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、
この「今」を生きるべきである。主観的時間が幻想としてもである。今しか
活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。
・・・・・・
4061, 我事に於て後悔せず
2012年05月08日(火)
 * 我事に於て後悔せず。  宮本武蔵五輪書』より   
         ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。
一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。 後悔するのは腐った?
のような人物がするもの。 ー以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。
≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。 小林秀雄は「わが事に
於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、「その日その日が自己
批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。
別な道が吃度あるのだ、自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。後悔などといふ
お目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は
語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。自分の過去の
行動についてあとから、あれは間違っていた、などとそのたびに後悔するよう
では、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことは
できぬ、というのだ。 小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いた
かったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる。
◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロ
だと、どうして思うのか。』スタンダールパルムの僧院」これぞ言葉の中の
言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくは
ほかに知らない。武蔵の箴言はいささか道学者くさいが、ここには自己であること
の純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたる言葉。
◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。
 公爵夫人の性格には二つの特徴があった。彼女は一度欲したことは
 あくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。
◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。
 しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。あとで冷静に
 返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己に
 たいする忠誠とはかくのごときものであるかと若い日に讃嘆させられて以来、
 これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、
 ぼくを導いてきた小説の主人公ではないか、とバカにしてはいけない。 ≫ 
▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人
 と思いがちだが、実は無私の人である。彼は無私に徹しなければ物事は成就
しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。そこで自分を
押し殺し、己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。  
後悔は、実践の中では後々、害になることもである。