閑話小題 ~つれづれに…「新コロナ感染」について

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   * 日が経過するほどに、
 このパンデミックス、日が経過し、実態が表立つほどに、その実態の酷さに、
未だに現実として受け入れられないのが現実である。居酒屋、スナックなどの
現場で<「志村けん」が亡くなった翌日から、来客がバタッと止まった>とか。
日銭でまわる現場は深刻。駄目なら、何処かでというのが、状況では、働き場が
皆無。昨日の朝日新聞の一面トップが「世界恐慌以来の大不況」の記事。
非常勤で食いつないでいる店員が、まず首を切られ、次が店の廃業が通り相場。
必死に老舗の店を開いてきたところも、救いようがない。
 個人店は、飲食業だけでなく、物販も然り。TVをみれば、首長が口を揃え、
『ステイ・ホーム』と宣う度にドッキリ。働く意欲がなくなる。 9年通った
スポーツジムも、日ごと会員の姿が減っている。
 平日の昼の時間帯は、7~8割の中高年の男女の姿がみられたが、これも1~2割
に激減。 お風呂と、プールとホットヨガ教室は閉鎖をしているのを加えると、
1割ほどだろう。 夜の店で誰一人も来なければ、それは悲観的になる。…
…それも、この数年来の災害と、不景気風で、体力を使い果たした上の、これ。
 ―
‘暫くすれば客足が戻る’という想いこみが拭えないようだが、これも疑問。 
かくも日常が脆くも崩れ去るとは… 私も9年前に、10年にわたった数羽の黒鳥
の飛来で、事業清算に至ってしまったが… それでも10年のスパンがあった!
 しかし、この一瞬のフリーズは2~3ヶ月。考える間もなし!さて如何なる?
先行き予測不能とくれば…。 これは一種の自然災害で、怒りの矛先を見つけ
ようがない。 半年もすれば元に近い状態で収束しそうと期待したいが、これは
グローバルのフリーズ。 一人あたり月10万と、困窮家庭に30万のばら撒きも、
しれている。 誰も助けようがないのが実情。
 ―
「私の苦痛が少しは分かったか!」と、一瞬で凍り付いた世界中の相手に、
何も言っても仕方がない。 9年前に、「こんな有得ないような現実が次々と、
やってこようとは…」と思ったが、これは、そんなものではない。
このところ、午後から1~2時間のスポーツ・ジム通い。今日は行こうか、行き
まいか迷う日々。「8割方、人との接触を減らせ」なら、あとはジムの休会だけ… 
私の寿命が75歳と公言してきたが、あと数ヶ月になってしまった。私にとって、
それに相応しい事態の到来かも! こうなると、リタイアの年金暮らしは気楽
だが、やはり、不安感が強い。残った充実感だけが、心の支え。
 ―
 韓国と日本の、この問題対応の差が表立ってきた。韓国は成人病対策では
劣るが、こと疫病対策は万全。その比較を知る程に、ふるい上がる。日本は
東京オリンピックの開催で、初動が遅れてしまった。アメリカのニューヨーク州
と同じ道を辿りそうだ。いや、より悲惨の可能性がある。クラスター<集団感染)
対策に重点を置き、乗りきりを計ったが、失敗だったようだ。あとに残るのが
ニューヨーク州の地獄絵。あと数日で、それが表立つのか?独自の行動変異を!
というが、如何だろう! あとは寝室のTV前と、パソコン前で大人しく巣籠り
しかない。あとは、ミニチャリ… …ということは、本来の習慣を繰返せばよい。
今までの疫病絡みの映画の世界が、今では現実世界になって、現れてきた。
敵は進化する細菌対人類の英知。 さて、どうなるのか。何かしら胡散ぐさい
臭いが気になるとしても、目先、乗りきらないと。
  まさかこんな現実に出あうとは。

・・・・・・
6605,つれづれに哲学 ~「遊び」について再び
2019年04月16日(火)
   * 遊びについて 
 これまで‘遊び’について、数多く書いてきた。 HP内検索で引き出して
よみ直すと、納得することが多い。人は、年代によって、その比重が変わる
としても、「良く遊び、学び、働くこと」の質量の拡充が必要である。
人生を振返えると、まず、「もっと遊んでおけば良かった」と、次に
「もっと学んでおけば」と。最後に「もっと働いておけば」と思うのが人の常。
その逆は少ない。「死を恐れる主要因は、やり残したことが多いため」。
その荷重が強いほど、「もっと楽しんでおけば」という後悔。底意地が悪い人の
性格形成の元が、これである。 目先の現実に溺れて、外海に出ようとしない
人たち。 地下の石牢の囚人のように、一生を常識の石牢の中で微かな光をみて、
外界の世界を思い知るしかない。その妄想は、所詮は石牢のそれ。遊びには、
うしろめたさが付きまとうことがある。それを払拭するには、遊びについての、
知識と経験が必要となる。内的、外的悩みや、心配事、不安を抱えた遊びでは
面白味が少なくなるが、それを背負って遊ぶことも遊びを面白くすることもある。 
忙中閑の遊びである。 躊躇するのは、その終わりに、虚しさ、寂しさを伴う
予感があるため。それでも、遊んだ後の爽快感と、満足感は、この上なく良い。
 遊びには、
・無邪気に遊ぶ解放されたものや、
・創造性の原点となる完全リラックスの遊びや、
・車のハンドルの遊び、
・日常からのトリップのための遊びがある。
 ウィトゲンシュタインが、「私の言語の限界が私の限界だ」と宣っているが、
‘遊び’も然り、<遊び楽しんできた限界が私の限界>。 その意味で、18年間
のブログの「テーマ日記」と、30年にわたる「秘・異郷ツアー」の集積には、
少なからず満足を…。 他人は人、私は自分の分際のこれ!と、思うしかない。
 これが際どい遊びほど、面白い! とくるから… もっと際どくともという、
後悔は有るか、無しか? 遊びは際モノほど面白いというが、過去形で想うと、
実に面白かった。

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2688, 「エリック・ホッファーの 人間とは何か」
2008年08月14日(木)                  
  ー遊びをせんと生まれけむー    -読書日記-
亡き佐治敬三氏がサントリーの会長だった頃(1995年頃)、
口ぐせのように言っていた言葉に「美感遊創」がある。
・「美」は、羊が大きいが語源。大きく艶やかな羊の美しさを表わしている。
  美に感応する心である。
・「感」は、感性、感動、共感。旅に出て自分の世界の外に出会って感動したり、
  絵画、音楽、映画、演劇などに感動することが人生を豊かにしてくれる。
・「遊」は、神代の昔から人間にとって一番大事なこと。
 「遊びをせんとや生まれけむ」と「梁塵秘抄」にあるように、人間は
 「ホモ・ルーデンス」。遊ぶことで人間性を回復し、活力を得る。遊び心。
「創」は、新しい断面、局面を切り開いて、個性のある創造をすること。
  一瞬の新しいものへのシュンパツ力。
 以上だが、この4つが人間の心の豊かさの要素である。確かに、人生はこれを
磨くプロセスであった。この中でも、「遊び」が人間にとって最も有用な行為に。
エリック・ホッファーの 人間とは何か」という著書に、遊びについて
次のように述べている。
《実用的な道具はほとんどすべて非実用的な関心の追求や暇つぶしにその起源
がある。最初に家畜化された動物ー小犬は、もつとも役に立つ動物ではなく、
もつとも遊び好きな動物であった。猟犬が出現したのはかなり後のことである。
最初に家畜化された動物は子供たちのぺットであった。おそらく,植物栽培と
灌漑も、初めは遊びとして行なわれたのである。車輪・帆、煉瓦なども遊びの
中で発明された可能性が強い。たとえば、南アメリカのアステカ人は車輪を
使わなかったが、足の代りにローラーをつけた動物の玩具をもっていた。
装飾が衣服に先行した。
  (字数制限のためカット2010年8月14日)

・・・・・・
2007/06/18
2267, 「遊び」
                (゜∇^*)オハヨ♪
 遊びの重要性は、両親をみていたり、学生時代などの経験から
「働き」と「学び」と同じくらい位置づけてきた。
その三つのバランスを如何に組み合わせるかが人生の豊かさと信じて、
年、月、週の計画に組み込んでいた。人生で最後残るのは、特に「遊び」
の中の充実感である。
                
「遊び」をネット百科事典『ウィキペディアWikipedia)』調べてみた。
  ーーーーwww**ww*w(/⌒∇⌒)/~∞**www***w ーーーー
  
楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス (生体)解消などの目的で生物が
する行動の総称。普通は生命活動を維持するのに直接必要な食事、睡眠や、自ら
臨んで行われない労働などは含まれない。 また、工学などにおいて作られる、
ある一定のたゆみ、ゆるみ、余白のこと。これを作ることを「遊びを持たせる」と。
ハンドル等、機械で人間が操作する部分の遊びは、不覚筋動を機械の動きに反映
させないという効果遊びとは、楽しむ、娯楽、休養、リラックス、ストレス解消
などの目的で生物がする行動の総称とされます。どのような時代においても遊び
は存在し、太古の昔から現代まで私達の心を楽しませてくれています。

人間以外で、動物は遊びの中で狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。
ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟する
とあまり遊ばなくなるが、ペット化(家畜化)された犬や猫などの動物は成熟後
も遊びたがる傾向があるようであり、野生動物でもカラスには、成熟した個体
に遊びと思われる行動が見られる。

フランスの思想家、ロジェ・カイヨワホイジンガの著書「ホモ・ルーデンス
に影響を受け、「遊びと人間」を執筆した。
その中でカイヨワは遊びを次の4つに分類している。
アゴン(競争):運動や格闘技、子供のかけっこ
・アレア(偶然):くじ(宝くじなど)、じゃんけん、ギャンブル(競馬など)
・ミミクリ(模倣):演劇、物真似、ままごと
・イリンクス(めまい):メリーゴーランド、ブランコ
カイヨワの説は遊びはこれらの4つの区分に分けられるとしたものであったが、
遊びは必ずしもこれらの単一の要素からなるものではなく、
複数の要素を含むものも多いとする説もある。
 ーーーー  (^Q^)/゛ d(o^v^o)b !!(^Q^)/゛ \(^o^)/!!
 なるほど、と思うが・・・

「遊び」については、今まで何回か取り上げてきた。
人は良く遊び、良く働き、良く学ぶことが、良く生きることを目ざすことだ。
そのどれも必要なことであり、それぞれにとって、背後に二つを必要とする。
何ごとも楽しみになるまで追求すれば、しめたものである。
私の場合、ゲーム化が楽しみへ持ち上げるポイントであった。
ゲーム化に対しては批判もあるだろうが、何ごともやりかたである。
到達地点を設定して、その間の障害を乗り越えながらプロセスを楽しめば、
遊びへ転換する。ゲームは、勝ち負けを争う遊戯、競技もしくは賭博として
一般的に認められているが、日本では、「ゲーム」という言葉を使う場合、
漠然とした「遊び」と比べ、「パッケージ化された遊戯の一形態」という印象
を与える。

学び、働きに対して、遊びが一番充実していた!ようだ。
遊びは他の二つと違って、他者との対比の必要はない。
一番好き嫌いの主観的要素が生かせるからよい。
同じ人生、楽しまなくては!
何ごとも「遊び」まで持ち上がるまで集中すべし!ということか。
 
 ー以前、カラスの遊びについて書いた部分を抜粋してみるー
 カラスは「羽の生えた類人猿」というほどの高い知能が、
 動物学者の研究観察から認められている。
 その一つに人間と同じような“遊び”の感覚があることである。
・目的もなく電線の巻いてあるテープをはがしたり、
・空中でゴルフボールや小枝を落として奪い合うラグビーのような
 行動で仲間と遊んだり、
・滑り台で、人間の子供のように滑り降りたり、
・くちばしでレールに小石を並べる行為も、電車が石をはじくのが
 面白くて始めた“遊び”といわれる。
そのように無駄な行動を楽しむことをみても、彼らが知的動物であるといえる。
「無駄」なような行動も、「ラグビー行為は、オオタカなどの猛禽類に襲われた
場合に備えてのチームプレーの訓練」という見方もあるが、それを遊びにする
ことが、高度な知的行為である。
 ーー イルカや、サルなど知的レベルの高い動物ほど日常の中に
 遊びが入っているところが、注目に値する。  d=(^_^)=b
     
 競争、偶然、模倣、めまい、か~~~!
何かの偶然の重なりで娑婆に生まれ、ママゴトのような人生の中で、
ワッペン取りや、かけっこ競争や、ブランコ遊びをして、
ふと、気づくと孫に囲まれ、遊びの手助け!、 これが人生。
                   
・・・・・・
2004/05/12
1135, 「ライフ・レッスン」-13
   ー遊びのレッスン
 遊びは仕事とともにもっとも大事にしなくてはならないことである。
何のために働くのかと問われれば、遊ぶために働いてますと真から
答えることができ、何のために遊ぶのですかと問われれば仕事を
じゅうぶんできるために遊ぶのです、と答えることが理想といえる。

 遊びとはつかの間の気楽な時間ではなく、遊びのためだけに捧げられた、
実際の時間である。私にとって、この随想日記を書くことじたい遊び。
遊びでなくては絶対に1000回も書くことは無理であった。

 散歩もわたしにとって、最大の遊びである。
初めは腰痛対策であったが、いつの間にか遊びに昇華してしまった。
歩いて楽しいのだ。

 晩年になって過去を振り返ったときに、あの時は良かったという
記憶に残るのはやはり無心で遊んでいた時であろう。それぞれの年代に
おいて、それぞれの遊びの中で我を忘れて楽しんでいた時である。

ー抜粋
・われわれは趣味や遊びが何であるか忘れている。家具つくりを
趣味でしている人が、ある日突然「これを仕事にしよう」と思い立つ。
好きなことをして、それが仕事になれば、というかもしれない。
しかし趣味とは成果を気にしないで純粋に楽しむものである。
売るための家具をつくれば、もう趣味といえなくなる。それは仕事である。
そのことに気づかずに、好きなことを、純粋に楽しめないことにゆがめて
いく人が少なくない。

・おもしろくって、一日中でもやっていたい、本当に好きなことをやらずに、
欲求を最大限おさえて生きていくなんて、何ておぞましい人生だろう。
遊びにかけているサファーを、われわれは並以下の人間に感じる。
しかし、真剣に問われるべきは、われわれの大半が遊びのない世界に
住んでいるのは何故かということ。

・自分自身に上質な時間をあたえてほしい。
愛する人とすごす上質な時間が必要だということを、誰もが知っている。
ところが、自分だけのための、ひとりですごす上質な時間もまた
必要なのだ。ひとり取り残された時間でも、気がついたらひとりになっていた
でもなく、純粋にひとりを楽しむ時間が一番大事だということを知ってほしい。

 ーーーー
20022002/01/05
 一人遊び

孤独に強い人とは、一人遊びができるかどうかにある。
一人で楽しみを見つけ・・・、書いていて気がついた、
それって「お宅」でないか。 似ているがやはり違う。

それは一人遊びのできない人が表面を見て、いっているのではないか?
結局中途半端のそれをいうのではないか?
字のとおり、部屋に引きこもって自分の殻にこもった状態をいう。

山登りや釣りはやらないが、これなど一人遊びの典型である。
別にそれをお宅といわない。読書好きの人もお宅といわない。

自分の強みは孤独に強いことだ。人に何かを求めないこと、求めても
そこに何もないことを、経験上知っているためだ。
結局人間最後は一人だ。そこでボールを一人でバウンドさせていくしかない。
そうしていれば、人が面白そうと自然に寄ってくるものだ。

「禅」とは、その修行によって、字のとおり単(一人)
ということを示すことだ「示単」。
これはある有名な禅僧から直接聞いたこと。
そこで自分の好きのことを見つけ、それを楽しむことから始めなくては
ならない。その積み重ねが個性を作る。

ノイローゼになる人をみていると、これができない人だ。
常に人に何かを求めているか、頼っているからだ。

――
2002/02/24
遊びについて-1

人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。
そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。

まずその達人を事例で考えてみる。
一番身近では母がそのプロ?であった。

戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、
父とともに苦労の連続であった。そして長男、次男の連続の
不幸な死で今の重症のノイローゼーなった。
心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。亡くなった時、医師の要望で
心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。

それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。
約40年近く遊びきって亡くなった。
日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。
毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。

子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。
遊びの重要さもそのため学んだ。重点としてだが父は「働く人」、
母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。
ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。

「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。
子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。
ただただ無心に遊んでいた。
あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。

人間は生きていかなくてはならない。
その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。
その為に勉強もしなくてはならない。

しかしそれだけでは、それだけの人生だ。
それがクロなら、その対象の白が必要になる。
どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。
それを特に母の生き様から学んだ。

一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。
どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。
その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、
「馬鹿な?生き物」である。

遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。
そうすると、仕事も遊びになりうる。
天才はその典型であろう。

あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。
何でも遊びの対象にした「遊び心」を。
純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。

「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」
と暗示をかけられてないか?

私の趣味の一つにウオーキングある。
初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。
純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。

その中に純真な遊び心が躍動を始める。
何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。
それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。

パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。
そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。
「遊びになるまで集中する」という事か。

これから散歩だ!

・・・・・・
2001/12/21
[164] 目的と手段

目的の達成の為の手段’がときとして逆転してしまうから面白い。
‘手段の目的化’に転化してしまう。旅館やホテルの二代目にそういうのが多い。
営業の為のゴルフを始めたのが、いつの間にかゴルフが目的になり、
営業が反対に手段になってしまう。
何処でもある話と同時に,自身にも過去に数え切れないほど経験がある。
手段を楽しむ事は大事な事だ、そうでなくては目的は果たせないといっていい。
といって目的を忘れて手段に没頭してしまうのが、人間の人間たるゆえんである。
以前‘ダンスと歩行’という文章を書いたが(後記)まさしくその喩えがピッタシ。
目的は達成したと同時に次の目的の手段になる。
ドアについたら次の部屋のドアへの出発点になる。
至近の例で旅館の二代目が商工会議所の部会の長に選ばれ、
イベントにウツツをぬかし廃業に追いこまれた例。
どこかの街のことだが、やはり二代目が青年会議所理事長になり‘街の活性化’
とかを政治家やゼネコンに煽てあげられ、真にうけて社長業を放棄・・・・・、
いまや????とか。まあこれだから娑婆は面白い。
目的が何かも解ってないから、手段が出てこないのか。そう考えれば彼にとって
逆転も何もないのか!そのあたりが本当のところか?

ーー他人のことをいえた事か!どこかの馬鹿(私のこと)、
自画自賛のホームページにウツツをぬかし、つまらん事を飽きもせず毎日書いて。
馬鹿の脳内をさらけ出し恥さらして!-カミサンには冷笑され・・・・。ーー

ーーーーーーーー
H0609歩行とダンス

 丸山圭三郎と黒鉄ひろしの対談集で“歩行とダンス”という二人の対話が
面白かった。“ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。
ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的である。
それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか!?ある!”と。
非常に含蓄のある面白い内容である。人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容。
今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、“よしこの仕事とチーク・
ダンスをして、ドアまでいってやれ”と一人笑った。大手商社に勤めている友人
と酒をのみながら右の話をしたら、本人いわく
“私はさしずめ、ホーク・ダンスだな!。好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間
でまわってくる。それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!”
当意即妙であった。ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、それをダンスと
してリズムをとりながらパターンをマスターし、かつ楽しみまで高めてドアに
向かう事となると誰にでもできない。ついドアを忘れたり、ダンスを忘れて
しまう。ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。
そしてその反対に逆の人も。 2001/09/28