閑話小題 ~AIロボット

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   * 脳ロボット
◉ 『翻訳ロボット』に驚かされたが、対話する『脳ロボット』には更に仰天。  
 ある人物のデーターを入力して、それを元に本人の脳を形作り、知人や、
自分と対話するAIが現実に出現した。これなら、その人物が亡くなった後でも
対話可能になる。19年近く7千のテーマを書き続けてきた効用として、不思議な
経験を度々する。
◉ この程度の文章でも… 資料集めを含め、2時間以上の集中したエネルギー
 をかけている。それが数年来にテーマとして書上げた同月、同日と偶然に
脈絡として繋がることが屡々ある。 その時に時間を超えた魂の融合のような
妙な心持ちになる。7千のテーマが、一つの魂の塊りとして無意識に働いている
ような…。その番組を見るうちに、ネット上のAIロボットが、別人格として
当人から独立し、独り歩きしているような… 「一人」から、「独り」という
言葉の変容。それまで要した1万5千時間の塊りが、魂として厳然として、そこに
存在している不思議さ。
◉ この19年の集積は、脳の外在化でもあり、それぞれの時節の魂の痕跡になる。
 それと毎朝向き合うことは、内省そのものになる。その時々の己と、現在の己
と対話をしていることになる。とすると、7千の内容が、その日の『自分』になる。
◉ 紀元1世紀~2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、
旧約聖書』とならぶキリスト教の正典だが、これもまたキリストの魂の外在化
ともいえる。皆で祈れば、現実に功徳になろうというもの。

 仮に『脳ロボット』とすると、これが進化すると、それぞれにデーターを集積
した歴史上の様々な天才ロボットの出現が考えられる。とすると、読書の効用が
クッキリと浮かび上がってくる。その実践から得た知恵と知識が教養として人格
を築き上げる。「脳ロボット」の効用は、それを直接、擬人化して対話をして
教えてくれる。そうこう考えると、あと5~6年、80歳までは生きたくなってきた。 
 …まずは、この風邪に引っ掛からないことだ。
毎日、この継接ぎの、同月、同日の脳ロボットとの会話を「対話」に格上げから!
つまらない本より、はるかに良いが、詰まらないのを選んだ自分に問題がある。

・・・・・・
6588,閑話小題 ~即席ショートショート
2019年03月30日(土)
    * ショートショート ―独白録―
 ≪  ~ その状況のわりに、何か楽しそうだね ~
 独白って面白いもんだよ… まあ8年も経てば、状況を受入れられるしね。
20世紀半ばの1946年1月に生れ、奇跡の時代と言われる高度成長真只中を生き
られた幸運を充分に味わえたしね。運命は早々に受入れた方が良いぐらいは
よ~く解っているさ。結局は両親との相性が良かったということ。 最後は、
ハードの着地だったが、規模の割には、上手く乗りきれた。 何はともあれ、
個人と、会社と、家族の三身を分けていたのが幸いしたね。事業設計から、
その辺りの方針どおりに運営してきたし。人生って何が起こるか分らないこと
を両親の教えられ育ったことと、創業期の1970年代の二つの大きなイベントで
肌身に沁みていたもの。そのイベントは「ドルショック」と「石油ショック」。 
創業期に、これに直面したお陰で、万一の備えの必要性を実感していたしね。
その割に阿波踊りをしたな~
   ~何で、これがショートショートなの?
 同じことを繰返すがね、振返ると、目先1年と、5・10年と、50年スパンを、
分けて考えられる時期にきたからね。 ここで整理も必要かとね。それには、も
う少し大胆な切口も必要かとね。 以前に『白い雲に乗って』のテーマで、
幼児・少年期の思い出話を書いていた。それと、450年前の御先祖様の語りと、
飯田橋駅前の居酒屋の店主の独り言。 感情移入が少なくて現在、読返しても
稚拙だけれども書いていた時には不思議な気持ちになっていたね。10数年前の
テーマだったけど。本当に白い雲に乗って里帰りをしているよう。そのまま、
詳細を表現すれば、日々がドラマの場面? 70年近く経ったんだからね。
73歳だよな。それなのに、朝っぱらから、こんなことを書いている。70年前は
今では大昔だもの。生れた直後が、太平洋戦争の敗戦直後で、実家は空襲で
焼け出されて、両親が10人家族を養うために必死に生きていただったもの。
 何か、魂の故郷を彷徨っているようである。間違いなく、その時、そこに
あった光景… 心象風景が見えてくる。 ≫


▼ こうして書けること自体が幸せである。いま思うと、軍事国家の縛りから
 解放されて、与えられた民主国家に国民の心と頭が塗り替えられようといて
いた時節。一家にとって大変な時代。その幼児体験、いや胎子体験が、人生に
色濃く影響していたようだ。これは同時代の人たち全てが同じ。どん底なるが
故に、青壮年時代は奇跡的な右上がり経済の恩恵を授かった。自分の人生に
心から感謝できるのが最も大きな収穫である。そして、地球上に生命が生まれ
出て40億年来の、最大の変革の『情報革命』に直面することが出来たことも、
大きな収穫である。 ならば可能な限り、その現象と本質を味わないと…
生れてきた甲斐がないじゃないですか。世界は、いや、宇宙は広い。そして、
他にも10の500乗もある宇宙の存在。 それを知ったのは、僅か数年前のこと。
まだまだ、知りたい、味わいたい。生きている内に。それにしても、このバカの
壁。何とかなりませんか。 まずは、老齢?からくる『面倒くさい』

・・・・・・
2007/02/10
2139, 白い雲に乗って ー1

  * 両親の思い出  
夜半に幻想的な夢をみた。小さな白い雲があった。それに乗ると、ふかふか
浮いて異次元の世界に引き込まれてしまった。そこは4歳の頃の世界におりたよう。
すべてが鮮明な蘇った当時の世界が浮かび上がってきた。
両親がいて、兄達と姉達、そして多くの従業員がいた。
そこは越後長岡の十字路のど真ん中にある当時の私にとって大きなビルの中。
一階が店、二階に事務所と倉庫があり、三階に家族の住まいと台所、四階には
従業員と姉達の部屋があった。白銀に輝くファンタジーの中に包まれていた。

三階の住まいに猿のタロー、そしてタマという茶色の猫がいて、そこでラジオ
から童謡とか歌謡曲が聞こえていた。店には若い女店員が多くいて、ぼくを
「ハッちゃん」と頭を撫ぜてくれている、正に当時の真っ只中にいた。
コロという生まれたばかりの白黒の小犬を運一・兄が拾ってきた。
そして三毛猫のタマとコロがジャレている。
その空間には何時も緊張感がただよっていた。

燕が飛んできて窓に当たって死んでしまった。初めて死をみた瞬間だ。
いやに首の下の赤い色が印象的だ。そこを出たところには大きな通りがあり、
多くの人が歩いている。小さな三輪車で駅の方に行くと右手に小さな公園があり、
その脇に池があり小さなスイッカスが水上を泳いでいた。

そうだ、ここは公会堂の裏にある小さな山の上に神社が祭ってある公園である。
周りを見渡すと植木の展示会が開かれていた、多くの植木鉢がところ狭しと
並んでいる。その先に大きい広場があった。それは阪之上学校の運動場。
何時も遊んでいる近所の子がいたので声をかけると、スーと消えた。
夢をみているのだろうか?いや、夢のはずがない。
ぼくは間違いなく、ここにいる!

 ズットここにいるのだ。
何で、ぼくは、ズ~ットここにいるのだろうか?
忘れたが何か遠い遠い旅をしてきたようだ。
何の旅だったのだろうか、僕はどこにいってきたのだろうか?
    
そこで、無性に悲しくなり大声で泣いてしまった。
泣いても泣いても、あの遠くのズット向こうの世界は戻れない!
ぼくはもう、あの遠い世界には返れないのだろうか?
ふと脇をみると小さなコロが悲しそうな顔をして、ぼくをみていた。
でも、コロがいたので安心をして三輪車を引っ張りながら家路についた。

 両親は忙しそうに働いている。
その横で姉達は今度法事で着る洋服を試着して笑っている。
その後に夕飯の時間がきて、丁度みんなで食べようとしていた。
父チャンがいて、ぼくもふくめて子供達が8人が勢揃いをしてご飯を食べた。
外がいやに賑わしいのでみると、長岡祭りの山車が次々と通っている。
三階の窓から手を振ると、屋台の上から男の人が笑いながら手を振り返した。
何かそれをみていたら、嬉しくてケラケラ笑ってしまった。

しばらくすると父親が今日の売り上げを持って、下にある店から上がってきた。
札を十枚ずつ数えて束にまとめて小さな金庫に入れている。嬉しそうな顔。
何か自分が白い雲の中で浮いているような感じがしている。
ふと目が醒めると、隣に両親が寝ていた。
あ~ぼくは、一人ではないんだ!よかったと独り言をいっていた。

ここは間違いなく大手通の世界である。
どうして、ぼくはここにいるのだろう!
それにしても、それにしても、どうして浮いているのだろうか?
    
というところで、目が覚めてしまった。
幻想的な遥か彼方の遠い世界に舞い戻ったのだ。

ーーーー
2007/02/18
2147, 白い雲に乗って ー2
         b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
 先日のつづきの夢をみた。半分は覚醒をしていたのかもしれない。
前回の夢が契機になって当時のイメージがドンドン出てくる。
如何いうことなのだろうか?それは57年前の世界そのものである。
その世界から此方をみている感覚と、此方の感覚の間にある塀の上での
微妙な世界に立っているようだ。    
ーー
 白い雲に乗って再び、その世界(4歳)へ行ってきた。
そこは前回よりリアルな当時の世界があった。
中央保育園の面接があるというので、目新しい服を着せられて、
母の手に引かれて「同じぐらいの小さい子が多くいるところ」に行った。
そこは家から10分ほど歩いた小さな小路にあった。
面接のオジサンがニコニコしながら、色々なことを聞いてきた。
母に前もって聞いていたので、驚くほど上手く答えた。
恐らく入れるだろうと思った。
家(店)に帰った後、三輪車に乗って前の安栄館というビルの同じくらい
の友達のところに行った。やはり最近できた大きなビルのところの子だ。
何か遊んでいると楽しい!

 その数日後に場面が変わり、幼稚園の合格のしらせがきた。
手紙を待っていたが、何時までたってもこないので、お母さんが
「落第したのかもしれないけれど、そんなことがないはずだが・・」と言う。
ガッカリしていたところ、合格の葉書がやっと届いたが、凄く嬉しい。
クリスマスの飾り付けのため、二番目の姉の恭子と近くにツリーの飾りを買いに
二人で行った。大きな雪がフワフワと降っている。ツリーに吊るす色いろな
ものを二人で選んだ。小さな家とか、星とか、動物とか、人形などがあった。
それを袋一杯に買って家に帰って3Fの食堂で飾り付けをした。ラジオの
クリスマスの音楽を聴きながら、それを他の姉たちと飾りつけた。
ツリーの電飾がいやに奇麗だ!
こんな楽しい気持ちは初めてと喜んでいる自分を誰かがみている。
あれは誰だろう? 翌日の朝、枕元に箱に入ったサンタの贈り物があった。
雪が、ドンドン降っていて窓の下は雪で埋まりそうだ。
    
突如、周りを見渡すと誰もいない空間になってしまった。
何処に行ったのだろう、皆は!
白い靄がかかり、その中で恐ろしさが襲ってきた。
目をつぶって白い布団を被った。
  目が覚めると、そこは寝室の布団の中であった
               (o ・д・)ツ  バイ!
・・・・・・
2007/04/25
2213, 白い雲に乗って ー3
          (・_・) ノ オハヨウ!
 これは現在の日常の話。 
お風呂に入った直後の22時過ぎにクラッシックを聴きながら就寝する。
就寝30分後に爆睡を4~5時間した後、午前の3~4時に一度目が覚める。
そして冬時間の起床時間が5時半、夏時間は5時に起床する。
起床前の2時間が半睡状態の時間になる。その時間が、ある意味で
ゴールデン・タイムになる。夢をみたり、夢と現実の塀の上を遊ぶ?

 以前書いた「白い雲にのって」は、半覚醒で子供時代に立ち返った内容。
夢のような、魂の故郷を漂った白昼夢の世界の描写である(いや白朝夢か)。
白い雲に乗ったイメージで当時の思い出の世界に入ると、記憶がドンドン
出てくる。脳の奥行きの深さに驚いてしまう。

 ある意味で夢と同じぐらい深い脳の領域に思える。
50~60年前の赤ちゃんから幼児の記億の世界は、魂の世界である。
殆んど忘れてしまった、古い古い記億の痕跡への旅である。
立ち返って気がついたのは、それからの人生の激しい時代の記億より、
ず~と刺激の強い世界の思い出である。

 白銀色の毎日が新鮮な経験のシャワーを浴びているようで、愛情に包まれた
夢のような日々であった。ドラマをみているような、自分そのものが舞台劇の
小さな子供の役者を担っていた。

 初めての大きなショックが、柏崎の親戚の近くの海を初めてみた時である。
それまでは近くの公園の池しか見たことがなかった。
海のコバルト・ブルーを見たときの驚きは現在でもはっきり憶えている。
それと、舟と漁師の姿と磯のカオリも記億に鮮明に残っている。
よほどショックだったのだろう。

 ところで、私が生まれたのは第二次大戦の終戦の5ヶ月後の1946年1月15日である。
越後長岡の東神田で産湯をつかり、長岡駅から100㍍先繁華街の四つ角に三月後に
戻ってきた。百日風邪になり「もしかしたら駄目かもしれないと医者に言われた」
と、父は口ぐせのように言っていた。
 私の名前は八人兄弟の末で「八郎」というが、実際は九人目で、
もう一人2歳で亡くなった兄がいた。父が42歳、母が38歳の時の子供である。
そのためか、特に父親にはペットのように特別愛されて育った。
16歳、14歳、年上の兄と、その下に姉が4人、その下にすぐ上の兄がいて、
最後に私という構成であった。(2~3歳違いで、双子、年子は一人もいない)
終戦直後で両親は大家族の生活維持のため人一倍働かなくてはならない条件が。
産まれてから10年間の長岡のど真ん中の大手通の生活は刺激の強い環境にあった。

 東神田から大手通に連れてこられた生後三ヶ月後の記憶が残っている。
リンタクに乗せられて、大手通の家に行った記憶である。
そこでは、「福ちゃん」という喫茶店をしていたが、一年もしないうちに
止め、衣料品店に転業をした。

 そして2歳になった頃に、その店兼住宅を丸太を下にいれ、転がしながら、
近くの公会堂の前に引きずっていき、仮店舗を開きながら4F建のビルを建築した。
個人名義のビルは国内で始めてと市役所で言われたとか?その記憶が一つ一つ
記憶として残っている。人生を振り返って一番楽しい日々といえば、10歳までの
大手通のビルの立ち上げから、店の開店、そしてそこで起こった悲喜交々も日々。
 本当に刺激的な日々だった。
                  ヾ(@⌒▽⌒@)ノ バイ
・・・・・・
6225,閑話小題 ~贋作の世界 -1
2018年03月30日(金)
           「ピカソになりきった男 」ギィ・リブ (著),
   * 贋作の世界
 「開運!なんでも鑑定団」は常日頃、見ている。殆どが録画だが、骨董などの
お宝の真贋と、値段の鑑定である。 特に借金の形に…、持っているお宝と交換
などに贋作が多い。その贋作専門の世界を知りたくなり、AmazonのHP内で検索
すると、面白そうな本が幾つか出てきた。その中の一冊が、これ!
贋作の世界の奥行きの深さが垣間見られる。逆上せ上った素人が一番の餌食
になることが分かる。相手は詐欺のプロの住人。
  
  ~ネットによる粗筋といえば~
≪ 本書は、「その朝、俺はピカソだった」ではじまる天才贋作画家ギィ・リブ
の告白手記である。波乱に富んだ彼の生涯は、まるでアラン・ドロンが出てくる
フィルム・ノアールのようだ。贋作画家の前に「天才」との冠が付いたのは、
ピカソ、ダリ、シャガールマティスルノワール、フジタ等、多数の画家の
 贋作を手掛けたこと、
・名画のコピーではなく、画家たちが描いたであろう「新作」を創造したこと、
 の2つの理由からであった。 ある美術評論家は、彼の腕前を評して
 「ピカソが生きていたら彼を雇っただろう」と証言している。

ギィ・リブはフランス中部リヨンの娼館で生まれた。父親は殺人犯、母親は
占い師の家庭で育ったが、少年期に家を出てリヨンの暗黒街で不良少年として
路上生活を経験。20歳の頃には天賦の才能を独学で磨き、水彩画で生活できる
ようになるが、その才能に目を付けられて贋作ビジネスに取込まれてしまう。
それ以来、2005年に逮捕されるまで30年間を贋作画家として過ごした。

ギィ・リブが贋作を制作する過程が興味深い。ピカソ、ダリ、マティスに彼は
なりきるのである。そのためにギィ・リブは何日間もかけて専門書を読み、試作
を繰返した。画家が、いつ、なぜ、どのように作品をつくり、いかなる精神状態
であったのか。画家のすべてを理解してから制作に取り掛かった。つまり、
ピカソがギィ・リブにまるで憑依しているような状態で彼は絵筆をとっていた。
それが彼にとっての創作活動であり、贋作が本物と認められることに彼は無上の
喜びを感じていた。そして、描き終るたびに用いた資料一切を廃棄し、本来の
自分に還っていった。

彼の告白によって贋作ビジネスの実態が詳しく明らかにされている。
驚くべきことに有名画商や鑑定家もそのビジネスに大きく関与していたのだ。
彼らは実名で書かれているので本書の記述は信じるに足りる。 アート市場に
おいて絵画の資産価値が増大するにつれて、作品の品質よりも画家のネーム・
バリューが重んじられてくる。「人は作家の作品ではなくサインに大金を払う」
ようになったのである。そうした市場では、ギィ・リブのように名作の模倣では
なく「新作」を描ける贋作画家は、少ないリスクで大金を稼げる制作者として
重宝されたのである。ギィ・リブの卓越した技術は有名画家の遺族によって
「本物」のお墨付きを得るほどであった。また、ある画家はギィ・リブの描いた
作品を「自分が描いた」と誤って証言した逸話が残っている。

現在もなおギィ・リブの贋作が世界中の美術館に展示され、オークションの
カタログに掲載されているという。認められるまで貧困の生活を余儀なくされた
画家は多い。彼がもう少し忍耐強ければ、いずれ才能が見出されて有名画家の
一角を占めたかもしれない。ギィ・リブは仕事に誇りを持ち、憎めない性格と
魅力を備えた男である。本書はアート市場の裏面のドキュメントとしてのみ
ならず、一人の男の波乱の半生の物語としても出色である。

『本物か偽物かそれほど重要な問題なのだろうか?もし絵がうっとりするほど
魅力的で、力強く、心乱されるものだったら、その絵が誰の手によるものかと
いうのは、本当に重要なのだろうか?』は印象的。彼には、画家として決定的
な何かが欠けていたのだろう。しかし「贋作」を書くことについては天下一品。
それも、すでにある絵を模写するのではない。
その画家のあらゆる特徴を捉え、存在しない絵を描くのだ。≫

  コトバンクによると…
【 贋作とは、制作者あるいは制作年代などを偽って,買手をだます意図の
 もとに制作された美術品。現存作品もしくは実在した作品をそのまま模倣
したもの,特定の作者または時代の様式を模倣したもの,いくつかの原作を
もとにその諸部分を集めて作られたものなどがある。文献に残る最古の例は
ローマ時代のファエドゥルスが語るローマ人によるギリシア彫刻の贋作。
中世ではほとんどその例がないが,ルネサンス期に再び現れ,18世紀の考古学
の興隆とともに増加する。近代から現代にかけては鑑定家の目を欺くきわめて
巧妙な贋作も少くなく,19世紀でギリシアエトルリア,ローマ,ルネサンス
初期の彫刻の贋作者 A.ドッセーナ,20世紀ではフェルメールの贋作者
H.メーヘレンなどの例が特に有名。日本では,江戸時代初期から日本画の贋作
が行われるようになり,中期以後は在世の名人の贋作も現れた。】


▼ 実家の商売が戦前まで老舗の「古美術商」だったこともあり、両親の趣味が
書画骨董の収集。子供の頃から父に連れられ骨董店の散策に、連れていかれた。
そのうち、仏像や、茶器の真贋の眼が増していくのが自覚するようになっていた。
 家の茶室の床の間には、季節季節の骨董が並べられている生活環境にあった。
良いものを見続けると、二級品は、直に分るが、贋物の見分けは、非常に難しい。
 書画の世界には、「写し」という言葉がある。
言わば絵を描く際の模写に当たる行為です。これ自体は全く問題ありません。
特に有名人のものは、それを前提に高値で売買されている。
ピカソも、実は、多くの画家の模写を繰り返した画家。かれの摸写が他の画家
と違う点は、ただ真似をするのではない。少し変化させたり、自己流に写しかえる
のでもない。その原画を完全に自分のものとして消化し、自分だったらこう描く
という大展開をさせてしまうところだ。> そのピカソ自ら、「その出来の悪いの
が、私の作品かも知れない」とも宣っているとか。
ピカソ 『酒場の2人の女』 も模写である。
彼の名言「凡人は模倣し、天才は盗む」は、あまりに有名。
 
 知れば知るほど、経験を積むほど、知らないこと、未経験の己の小さな壁を
しることになる。やはり挫折体験と、そこからの再生の繰返しこそ必要になる。