閑話小題 ~センテナリアン

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   * 百歳まで生きる
 久々に会った友人から、先日、聞いたセンテナリアンとは、
< 100歳以上の人物のことである。センテナリアンの人数が世界最多で推計
70,490人となっている。これは国民4,400人につき1人に相当。 日本はアメリ
合衆国に次いで2番目にセンテナリアンの数が多く、2012年9月現在、推計51376人。
なお、調査が始まったのは1963年だが、この時は153人であった。その後、1998年
に1万人、2003年に2万人、そして2009年には4万人と、短期間のうちに数が倍増。
 多くの文化で、100歳まで生きることを願う旨を、祈りの言葉に取入れている。
ヒンドゥー教徒の間では、高齢者の足に触れた者は「100歳まで生きますよう」
と声を掛けられることが多い。
 スウェーデンの伝統的な誕生日の歌に「100年間生きられますように」との
一節がある。ユダヤ教で祈りを捧げる際、「100歳まで生きるかもしれない」
と言うのが一般的である。
 
 去年の暮、日本橋で毎年、第一土曜日恒例の学生時代の同期会に出席。
それぞれが3分程度で近況を語るが、最近、出席を始めた男が、
『私は110歳まで生きると決めた!』と、驚くべき言葉。それも本気に。
現在が健康なればこそ言えることだが… 10数年前に、75歳をゴールと心の中
で決めて、ここまで生きてきたが、その制限時間が、あと一年まで迫ってきた。
ならば、そろそろ寝たきりになる筈が、その兆候は全くない。宣言したことも
あってか、もう攻撃を始めて大丈夫と、卑しいのが露骨に… ? それもジャレか。
 で、先日、会った人が真面目な顔で、『百歳まで生きるとしたら、現在の預金で
少し足りない!』と心配顔。 内心でハッとしたのを隠して、「大丈夫、そこまで
生きはしないよ!』と受答えた。 私は『生きると宣言した75歳まで、あと一年。
その兆候は、今のところ全くなし!』と答えると、『実は、このセンテナリアンの
言葉でハッとして、生活態度を変える切っ掛けとなった。そのコーナーもネット上
にあるし、少し深耕してみた方がいい!』と… 問題は、年々落ちていく肉体と、
生活の質。
 ――
 [総合] 2020年1月16日(木) 午前0:55~午前1:45(50分)  
ニュース/報道>定時・総合 番組内容認知症医療の第一人者、長谷川和夫さん(90)
が、自らも認知症であることを公表した。その姿を一年に渡って記録。
専門医が当事者になって初めて気づいた大切なものとは。詳細自ら認知症である
という重い事実を公表した医師がいる。認知症医療の第一人者、長谷川和夫さん
(90)。「長谷川式」と呼ばれる早期診断の検査指標を開発、「痴呆」という
呼称を「認知症」に変えることを提唱するなど、人生を認知症医療に捧げてきた。
認知症専門医が認知症になったという現実をどう受け入れ、何に気づくのか。
誰もが認知症になりうる時代。長谷川さんの姿を通して認知症を生き抜くための
手がかりや希望をつむぐ。
 
 ~ 丁度良いテーマが、去年に書いてあった… ~

そこまでして生きたいか?の、逆バージョン…

・・・・・・
6562,閑話小題 ~「老い」という名の「病」 ~1
2019年03月03日(日)
   * 老いるほど病は重くなっていく
 古希を超えると、娑婆世界が違って見える経験を日々味わっている!
年には勝てない自分を冷笑している小さな違った視線がある。 
 なかにし礼が、黒柳徹子との対談で80歳を超えた心象風景を、
「70歳超えとは、まるで違い、あの世からの目線の感が強くなった」と。 
もの心がついて70年以上が経過したが、10人家族の末っ子の立ち位置で、
比較的冷静に周囲、例えば家族など身近な濃厚な生活環境で育ったことが、
強み弱みになっていた。その中で生きるに、鳥瞰する本能が身に付いていた。
子供ながら、「冷静な目線と、気持ちをおさえ息を潜め、トリッキーにある
こと。秘密を守ること。」を必要とした。末っ子の立ち位置もある。
 このブログの最後の捻りは、その持味の名残り。コテコテの捻り? 
これを哲学的にいえば、「捻らずにいられない「発語」になる。
発語といえばを下ネタ表現なら「発情」。 黙って第三者の対話や、会話を
聴いていると、世間話は『発話』でばなくて『発情』かと… 。
 有名人が進行ガンをブログで発するのは『発語』。 恐怖の際なればこそ、
直に伝わってくる。 当事者の本人は悲劇の主人公だが、格別、変わった絵に
なる物語ではないことを初体験の本人は知らない。そこに、当事者と傍とは、
大きな溝がある。 「老いという名の病」への怒りが他に向かうのが老醜。 
その事例は幾らでも周辺に転がっている。これにアルツハイマーなどが絡み
周囲を巻き込む。「長生きすれば、それで良し」も、考えもの。
生老病死」の問題。特に『老病』の『老=病』の解釈。
成人病は、青年が、成人になって罹る病。特殊の事例を除くと、50歳超えの初老
からの病。「がん」「心臓病」「脳卒中」… 現在では「糖尿病」「高血圧症」
動脈硬化」 などとあわせて『成人病』と言われる。同世代で3割が、これで
亡くなっている。ストレスで、飲酒過剰、喫煙などの生活習慣が病の元になる。
生真面目で、現実社会にドップリと浸かり、トリップが出来ない人に多い。
何が悪いかというと、ストレス。日々、週間、月、年単位で、毒出しを習慣化
して措かないと、死に至る病を誘発する。 ストレス管理が「老いという病」
の予防になる。計画的トリップが、これ。 このブログの維持と管理が、私の
『ライフワーク』の一つ。作成中は、完全にトリップ状態。 それと他に… 

・・・・・・
6198,閑話小題 ~知識と所得 -7
2018年03月03日(土)
             『クラウド時代の思考術』パンウドストーン著
   * 知識のプレミアム
 <多くの種々雑多な知識を知る者がたくさんの金を稼いでいた>
自分を振り返ると、どうだろう。一時期に稼いでいたが、ブラックスワン
消滅しただけで、背景に数知れない雑多な知識があった分、一時的にしろ
稼いでいた? いや15年の用意周到の自己配転など準備や計画的知識習得や、
雑多の経験があればこそである。計画をたてる前提に豊富な知識が必要。
 その知識にはプレミアムが組みこんである。問題は、雑多な知識を、如何に
組みこむベースがあるかどうか。以下は、リアルなアメリカ的実証主義の内容…
問題は形而下の現象を、文章などで形而化する能力。それもこれも思い詰めて
ないと、機会は知らぬ間に通り過ぎている。深く穴を掘ろうとすれば広い幅が
必要になる。その為には純真な好奇心と、それを追及できる条件が必要となる。
――
≪「事実を知ること、覚えておくことになんの価値があるのか?」という問いに 
対して、第二章では、より直接的にわれわれのモチベーションを引き出して
くれそうな回答が提示される。 パウンドストーンの調査によれば、
「より多くの種々雑多な知識を知る者がたくさんの金を稼いでいた」というのだ。
知識の豊富な人々はたくさんのお金を稼ぐ。それは教育や年齢が一定に保たれた
ときでさえそうなのである。
(……)そこには知識に起因した大きな所得の格差がある。そしてそれは、
教育や年齢に起因するものではない。(p162-164)

教育レベルや年齢という要因を排除したうえで、なお"一般常識"クイズの
点数は所得の多寡と強い相関関係があった。
興味深いのは、所得との相関関係がもっとも強く見られるのは広範囲な一般常識
クイズにおいてであり、科学知識やスペリング・文法、文化的知識、スポーツに
関するマニアックな知識と、所得とのあいだには何の関係も見られなかったと
いうことだ。言い換えれば、専門的ではない事実的な知識の多寡が、所得と
大きな相関関係を持っていたのである。

 これは何を意味するのだろう? 
・“一般常識"と所得の相関関係はすでに明らかだが、これは因果関係なのだろうか。
 我々はクイズ本を読み漁り"一般常識"を身につけることで所得を増やすことが
 できるのか?
・あるいは所得が増えた結果として我々は物知りになるのか?
・それとも、第三の因子が"常識力"と所得のどちらとも正の相関を結んでいるのか?
 (たとえば記憶力とか、好奇心とか、保護者の資力とか?)

パウンドストーンの推測は、これらすべてがそれぞれある面で正しいということだ。
そして生まれもった記憶力や両親を取り替えることはできないが、自ら学ぶことは
できる。外界に対し注意を払い、より多くのものを吸収していく態度が所得の上昇
につながるのである。 ≫


▼ この問題と教養の問題は別問題だが、「恒産あって恒心あり」か?
「恒心あって恒産あり」か? 両方相まってこそだが、好奇心がまず必要になる。
<売り家と唐様で書く三代目>というが、他人事の話ではない。その意味といえば
【創業 ー「初代が汗水たらして財を成した」さらに二代目までは家「会社」は
苦労して栄えたが、三代目は苦労知らずで育ち、遊びごと芸事「習字も唐から
伝わった書体文字の書き方」にうつつを抜かしたので家「会社」も没落し家を
遊んだ時に覚えた唐様の書体で「売り家」と書いて売りに出しているということ。】
このブログも「唐文字」のようなものですか。知識のプレミアムが「稼ぎ」だけ
でない。知識単独だけでも、管理さえ怠らなければ、それで充分プレミアムになる。
 
 ~丁度よく、4年前の文章に�壓がっていく。
・・・・・・
4736,<つまずき>の事典 ~  ー4
2014年03月03日(月)
           <つまずき>の事典> 中村邦生編著
   * 言ってはならぬ、闘いが無益などと
 人生の終盤に、あまり良い結果ではなかった?が、自分の人生を
全面否定する気持ちは最小である。気持ちは「天気晴朗なれど、波高し」。
  この詩は、誰にでも訪れる人生の終焉で、励ましを与えてくれる。
 《  言ってはならぬ、闘いが無益などと
   努力も傷手も無駄などと
   敵はなお息絶えず、怯むこともなく
   事態は相も変らず元のとおりだ、などと。
  ーアーサー・ヒュー・クラフ「言ってはならぬ、闘いが無益などと」P-44
アーサー・ヒュー・クラフはイギリスの詩人。ラグビー校でトマス・アーノルド
 に習い、その息子マシューと生涯にわたる親交を結んだ。マシュー・アーノルド
 の追悼詩の傑作「サーシス」はクラフを悼んだもの。「言ってはならぬ、
 闘いが無益などと」は窮地にあってなお不屈の心をうたった詩として知られる
(引用は冒頭の一節)。また第二次大戦中にチャーチルルーズベルトへの放送
の結びにこの詩を引用し、イギりス国民を励ましたという逸話を持っている。
クラフには「一度も闘わないよりは、闘って敗れた方がましである」
という有名な言葉もある。  》  
   ーネットで、調べたところ、以下の訳があった。   
 【 悪戦苦闘しても無駄だ、
   骨折り損だし、怪我をするだけだ、
   敵は一向に怯(ひる)まないし、逃げる気配もない、
         結局元の木阿弥だ、などと言ってはならない。
   希望を抱いて馬鹿をみるなら、心配が杞憂に終わることもある。
         もしかしたら、ここからは見えない戦場の一隅で、
   まさに今、君の戦友が逃げる敵を追っているかもしれない、
         君さえいなければ、勝利は味方のものかもしれないのだ。
   疲れきった様子で浜辺にうち寄せている波も、
        いくら苦労しても一歩も前進してはいないように見える。
   それでも、ずっと彼方の湾や入江では、じわじわと、
        そして、黙々と、大きな潮がみちかけているのだ。
   夜明けの時にしても、東側の窓からだけ、
        光が射してくるのではない。
   東の空に太陽が昇るのが、どんなに遅々としていても、
        西の方を見るがいい、天地はもう明るくなっているのだ。 
                ー平井正穂編『イギリス名詩選』より 】
▼ 現在の私に、一言一言が実感として響いてくる。 何もしない人ほど、
  いや出来なかった人ほど、「闘いが無益で、努力も痛手も無駄」と言い張る。
 闘いもない、さしたる努力もない人生ほど、毒が溜まり、精神を腐らせている。
その毒を、他人に?に向け、吐き出すしかない人々の哀れさを、この節目で
 タップリと見せて貰った。「世界は広い。そして深い!」人類は成功によって
導かれてきたが、その背後には99%の失敗と挫折がある。それが人生だ。

・・・・・・
5831,閑話小題 ~しまった!   ー「しまった!」の総括ー 18
2017年03月03日(金)           
           「失敗の心理」しまった!」ジョゼフ・T・ハリナン著
    * 「しまった!」の総括
  ランダムに印象に残ったところからテーマにしてきた。どれもこれも思い当る
 ふしがあるテーマ。須らく、さんまの「アフォ違いまんねん、パーなんねん」
――
・人は(90%は)間違るもの。
・手ごわいのが「あと知恵バイアス」~更に危ないのは当人が気づてないこと。
・専門家によれば、視野のなかで高解析度をもつ範囲は角度にすれば親指の幅の
 僅か二度だけ。「見たつもり」「知っていたつもり」で、実は何も知らない。
・都合よく無意識でつくり変えた話でも、二度三度繰返すうちに、いつしか
 「記憶」そのものになってしまう。
・人はみな「意味」を探す だから物語化をして問題整理が必要となる。
・意外と大事な「色」の問題。黒いユニフォームのチームは、ペナルティを
 取られる可能性が高くなる。
・ギャンブラーは、なぜ自信満々なのか? 買った局面を度々、思い出すため。
・ドイツの音楽をBGMで流すと、ドイツワインの売り上げが上がる。
・状況は「偉大な杖」の如し~ハロウィンで、首つり自殺を見逃しがちになる。
  正月に起こったことは、正月、思い出すことが多い。
・人間は「嘘つき」である。何故なら、情報伝達の間に、ほぼ歪んでいく。
・人間は、自分を人並み以上と思う。~自分が無知蒙昧など微塵も思わない。
・馬鹿の一つ覚え。 ~一度覚えた方法を知ると、改善、改革しようとしない。
・人は馬鹿である。 ~学生と教員に単純なゲームさせ、洒落た服装の教員と、
  冴えない教員とでは、前者の場合は自信をなくし、後者には自信満々だった。
  ~さらに、コインの裏表を当てるゲームで、八百長で数回、当てるように
 仕組んだ方は自信過剰になり、裏表を当てる能力を持っていると信じるように
 なっていた。賭博場が、素人を誘い込むのは、これ。背後にある組織の力に
 気づくことなく独立をして失敗するのは、このパターン。
・人は自制しない。 ~いや、「出来なくなる」というのが、正しい。
・焦点幻想。 ~人は焦点をしぼる的を間違える。複雑の問題の場合に、
  簡単な方に注意の的を絞りがちになる。
・人生の資産は、時間をどのように使うかにある。
――
目次を見ながら、抜粋したが、どれも、これも、思い当たるふしがある。
 基本は、志村けん加藤茶のコントの『呆け老人の対話』が、その要約。
 突っ込みも、呆け役も、その要領を得ないで、遣り取りをしている。
あれが実は日常の真実の姿。 他人同士の中では、鮮明に見えるが、
これが自分のこととなると、全く見えなくなる、人間の悲しさ。
 追)馬鹿に「楽観」も「悲観」もないが、再び、去年の内容の文脈に
 つながる。心底、人間そのものが「失敗の塊」と思う。 特に私は! 
  ・・・・・・
5101,悪夢の21世紀 ー6
2015年03月03日(火)
   * ニーチェが看破したキリスト教の価値観 
(12)≪ 思想家ニーチェは、来る200年はニヒリズムの時代になる、と言った。
  ニーチェが死んだのは世紀の変わり目1 9 0 0年だった。ニヒリズムは人々が
 共有できる大きな価値観の崩壊。キリスト教が約束した福音も近代主義の福音
  も、ヨーロッパが生み出した大きな価値観であった。人々の幸福を保証する
 ものだったはず。ニーチェはそんな価値観は脱ぎ捨てろと言った。キリスト教
  や近代主義の理想にとらわれては駄目と言った。そんな幸福はちっぽけなもの
 だし、人はそんな価値によっては幸福になれないと言うわけ。 ニーチェ
 キリスト教は人間を見苦しいまでに自虐的な存在にし、自由や平等や人権などを
 唱える近代社会は極めて偽善的で欺瞞的ないやらしい社会だ、と言った。
  今日アメリカがグローバルな正義として打ち出している自由や民主主義、平等
  や人権、公正な市場経済などは、ニーチェの発想からすれば、何とも欺瞞に
 満ちたインチキくさい正義だとの論理。ニーチェの言い分が全面的に正しいか
 は別としても、今日、最早、自由や民主主義、平等や人権、公正な市場経済
  など無条件に信じられない。この「正義」の背後に、「力」の競争や闘争が
 隠されていることに誰もが気づいてしまったから。だから、市場しか見てない
 者は、規制改革を徹底して行い競争を強化すれば経済は効率化できる、という
 ことしか眼中にない。成長戦略しか見ていない者は、教育から観光から
 エネルギーから人間の生命や医療まで、すべていかにG D Pを押し上げるか、
  の観点からしか見ていない。人権主義者は、女性の職場であれ、家庭であれ、
  学校であれ、人間関係を権力関係としてしか見ていない。政治学者や政治
  評論家は、もっぱら政治を民主化という観点からしか見ていない。ある種の
 ナショナリストは、すべて中国が悪い、韓国が悪い、という観点に立つ。
  一方、平和主義者は憲法9 条にしか関心がない。≫
 ▼ ニーチェは、近代社会を偽善的、欺瞞的、社会と看破し、その根源が
 キリスト教にあるとした。人生振り返って、哲学では、ニーチェに一番、
 影響を受けていた。特に欧米主義にドップリ浸かっている自分に徐々に
気づく過程が私の人生だった。世の論説をみると、ニーチェが看破した
価値観に即して論じているようだ。そして、世界は益々動乱になっていく。
20世紀の半ば1946年に、地球上に人間として生まれ、21世紀を15年を生きたが、
あの世からの視線で見直すと、面白い時代の狭間を生きてきた事を思い知る。

・・・・・・
5466,人生で最も大切な技術 ー24 楽観主義と悲観主義
2016年03月03日(木)
『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
    * 楽観主義と悲観主義、この二つの世界観
  楽観だけではモノゴトは上手くいかないし、悲観主義だけでは、面白くは
生きていけない。この年齢になると、「もう○○歳」と「まだ・・」と考える
 かで、大きく違ってくる。『悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志
のものである。およそ成り行きにまかせる人間は気分が滅入りがちなものだ』
と、アランが『幸福論』でいうが、やはり意志が受止め方を変えていく。
  ~その辺りから~
≪・楽観論者とは、この問題は一時的、制御可能、特定の状況と関係している、
  というふうに考える人。「そのような些細なことで大騒ぎするのは理に
適っていない。すぐに片づく。自分で解決できる。いずれにせよ、これまで
常に解決できた」をモットーにする。
・一方、悲観論者は、問題は長引くだろう(この種の問題は簡単に片づかない)、
やることなすことが裏目に出る(私には期待しないでほしい)と考える人である。
また、生まれつき精神的な欠陥があると思い込み、「何をしても結果は同じ」
と冷めていて、「生まれつき幸せとは縁がない」と結論づける。
 現代人の多くが不安感に苦しんでいるが、これは悲観論と密接に関係している。
 悲観論者は常に災難を予想し、慢性的な不安症にかかっていて、疑い深く
 なっている。不機嫌で、苛立ち、神経過敏になり、世の中や自分への信頼感を
失っていて、常にいじめの犠牲になっている、捨てられる、無視されている、
などと取り越し苦労する。≫
 * 楽観論に対する論外な非難
≪・心理学の世界では長年にわたり、多少抑うつ的な人のほうがものの見方が
 「現実的」で、楽観論者は、苦痛の伴う状況よりは、愉しい出来事に長々と
思いをはせ、過去の実績や達成を過大評価する傾向がある、と信じられてきた。
 仮にそれが真実なら、楽観論者に比べて、悲観論者の方が目を大きく開けて、
 状況をより明快に評価する傾向がある、という理屈になる。また、その説が
正しければ、悲観論者は、「現実は必ずしも、笑えるほどに愉快なことばかり
 ではないだろうが、物事はあるがままに見るべきだ」と考える。
・一方の楽観論者は、たしかに愛想は良いが、救い難いほど世間知らずで、
 無警戒な夢想者で「夢から現実世界に戻されるのが落ちだ」という議論になる。
どうやら、以上が正当化されてきたのは、単に偶然が重なっただけらしい。
 各種の研究が進展中だが、その結果、客観的で超然としていて用心深い、
と考えられていた悲観論者の判断は不適切、ということが立証されたのである。
 日常生活で起こる、現実的な状況に注目すると、楽観論者のほうが悲観論者
よりも現実的かつ実用的なアプローチをとることが実証されている。≫
 ▼ 明石家さんま座右の銘は「生きてるだけでまるもうけ」という。
 「生きてるだけでまるもうけ」は、「死」が視座にあればこそ言える言葉。
 長門裕之の妻の故・南田洋子が晩年、この言葉を口癖にしていた。ならば、
 生きているうちに楽しむだけ楽しまなければ!