* 際どい話題ほど面白いため続編を…
 今さら品格もないが、あまり掘下げてはいけないテーマ。 興味半分で、
ネットで『シュガーレディ』と入れると、商品名とサイトが主に出てきて…?
そこで『シュガーパパ』と検索すると、あるある。
≪ 〜すぐ会えるパパ活アプリ〜
 他のアプリと比べて20代〜30代の起業家などの若い男性や、
  20代前半の女の子が多いのが特徴。
若くて可愛い女の子が多いので男性におすすめのアプリです!
 性別: 年齢層 3ヶ月プラン料金
男性:  30歳〜  9,266円
女性: 18〜24歳  無料        ≫ 

▼ こういう需給が多いんだろうな、娑婆には! 
 この番組の中で、コメンテーターと、紹介サイトの側の女性が、その是非に
ついて激しく議論をしていた。
・肯定:金銭的に困っている人が、若い美貌の対価で割切るどこが悪いに対し、
・否定:倫理的にみて悪いことは自明。所詮、売春は売春。
・肯定:それは金銭的に恵まれていればこそ想えること。人生に一番大事な時に、
   美貌を武器にセレブと接触し、学ぶことは必要なこと。それを武器に大学を
   卒業するのと、高卒では雲泥の差が出来る。その良し悪しは、各人の価値観
   による。世界をセレブと旅行できる幸運を得る何が悪い!…と延々と…続く。
 考えてみれば、専業主婦を狙い定めた結婚の形態と、酷似していてない? 
「シュガーパパ」と、「シュガーママ」が織りなす結婚生活。専業主婦のタガメと、
喰いつかれ生涯を終える蛙役の関係。そのショートレンジの関係が
「シュガーレディ」? 一時期、欧米でセレブとの結婚希望者の「美女クラブ」が
持て囃されたが、セレブが「誰が行くか!」で集まらず、自然消滅したようだ。
連れには、同格か、それ以上が必要条件ぐらいは、仲間内をみれば解ること。
 ツアーには、こういうシュガーカップルを時どき見かける。デナー時の会話も、
最小限しか語らない。添乗員も心得て、女性名を男性名の仮名で通している。
 美女サービス?を売るクラブにも、それぞれ売りがある。水商売には、目先の
生活資金目的の人が殆ど。 そこに仮想(仮装?)自由恋愛社会がある。
 誰が、何万、何十万も使うというのでしょう… で、「何が好きな人」が何年
かしているうちに、梅毒、エイズに相成った上に、更に、愛人や、奥さんに… 
伯母が日赤の婦長をしていた為、知りえた地元の??の下ネタと性病の逸話を、
父から口酸っぱく語っていた。「回数を重ねるうちに必ず、災難(性病など)に
行き当たる!」と。成金、成上りは、この辺りの情報がないため、夜の闇に呑込
まれてしまう。40歳以上のセレブなら、遊び慣れていればこそ、危ないのが多い。
それを、ネットで… その辺りの目利きを20歳そこそこの小娘に出来ようがない。 
それでも、若い女性と遊びたい、セレブと遊びたいのが、この世界?の魔力! 
世には隠れ変態もいる。 世の中、他に面白いことは数限りなくある。しかし、
ドツボ?に嵌ってしまうと、自らの世界が自ずと小さくなってしまう! 
 
追:この程度を完成させるに2時間も要した。何じゃいだが…、
 際どい内容なればこそ!   まぁ、いいっか! 

・・・・・・
5046,修羅場の極意 −1
2015年01月07日(水)
              『修羅場の極意』
  〜まずはアマゾンの内容紹介〜
 面白い本である。人生には、それぞれの人の修羅場がある。今では結婚し、
甘いハネムーンの後、修羅場を経験した後、4割が離婚に至り、その過半数
以上が貧困に陥っていく。 何度か修羅場に出あい、乗越えて生きていく
のが人生。 地獄は彼岸にあるのではなく、現世にある。
 −アマゾンの内容紹介と、目次であるー
≪ 敵を作り、嵐に巻き込まれた時、
   うろたえるな!  「時」を待て!  生き残りを懸命に考えよ!
 修羅場には独自のルールがあり、それに対応する作法と技法がある。
エス宇野弘蔵西原理恵子ら多岐にわたる達人から、どんな極意を学べる?
ヒトラーら反面教師の「悪知恵」とは? 外交と政治の修羅場を駆け抜け、
獄中で深い思索を重ねてきた著者が贈る、実践的アドバイス。              
 ○目次 ーはじめに――東京拘置所での谷底生活から
  I 偉人たちのサバイバル術
1章 助言者は絞り込め【マキアベリ
2章 逆説的発想で事態を打開せよ【イエス・キリスト
3章 「偽装」というテクニック【ドストエフスキー
  II 反面教師たちの失敗学
4章 破壊的影響力の秘密【ヒトラー
5章 悪知恵にだまされるな【オットー・ケルロイター】
6章 “正義漢"の勘違い【スノーデン】
  III 「獄中」の教訓は役に立つ
7章 独房で筆者の精神を救ってくれた教え【内村剛介
8章 経済学と小説の力【宇野弘蔵
  IV ヴァーチャルな修羅場、リアルな修羅場
9章 人間関係に役立つ神学者の言葉【ディートリヒ・ボンヘッファー
10章 ノマド的�処世術�【安藤美冬】
11章 不作為は悪【小説『インフェルノ』のラングドン
 対談 「最悪」のシミュレーションだけすればいい【西原理恵子
おわりに――「時」を見極めるということ ≫
▼ 人生は、いずれにしろ甘くはない! 修羅場の修羅は、阿修羅が語源。
 辞書によると、【阿修羅のもともとはインド神話における「アスラ」
という名の魔神であり、インドラ神と戦いを繰り広げた鬼神であった。
一般的には戦いの神としてのイメージをもたれており、そのため激しい
争いの場を、その名をとって修羅場と呼んだりもする。】とある。
身近な修羅場といえば、夫婦間の争い。 夫側の酒癖、女癖の悪さや、
互いの粗探し、金が無いことからくる争いが、修羅場の起因となる。
そこで、〜うろたえるな!「時」を待て! 生き残りを懸命に考えよ!〜になる。
・・・・・・
6143,読書日記 〜ウニヒピリ(潜在意識)
2018年01月07日(日)
     『ウニヒピリ〜 ホ・オポノポノで出会った「ほんとうの自分」』
                   イハレアカラ・ヒューレン (著),
   * ハワイの3つの意識
 ハワイ版「潜在意識と、その治療(洗濯)法の癒し本」というところか。
「本来の自分」であるインナーチルドに出会い、ケアする。そして宇宙に
開放してやる。「ハワイの地で、心、魂の洗濯」とイメージするだけでも、
開放される心持になる。ハワイに身を置くだけでも、本来の自分に戻れる。
    <最後の部分の要約が「肝心」。最後の方だけでもご覧のほど!>
   〜Amazon 内容紹介〜
≪・ネイティブハワイアンの伝統的な問題解決法「ホ・オポノポノ」。
 これを、ハワイ伝統医療のスペシャリストであり「ハワイの人間州宝」の
 故モーナ女史が、現代社会で活用できるようアレンジしたのが
「セルフアイデンティティ スルー ホ・オポノポノ(SITH)」です。
 そんなホ・オポノポノのなかでも、最も大切な「ウニヒピリ」(潜在意識)
について、初めてきちんとまとめられたのが本書。ホ・オポノポノを正しく
実践するためにも、必ず知っておきたい究極の真理です。クリーニングを通して
自分のウニヒピリと出会い、そしてケアしていくことで、ホ・オポノポノの目的
のひとつでもある本来の自分すなわち「セルフ・アイデンティティー」と出会う
ことができるはず。あなたが今までその存在すら気づかなかった「ウニヒピリ」、
その子は今でもあなたからのケアを必ず待っています。
・「ウニヒピリのケアをすることは、自分をほんとうの意味で解放し、全宇宙が
真の自由を得るために欠かせないプロセスです。ウニヒピリがクリーニングに
参加しなければ、記憶は再生されつづけるばかりで、過去の問題や傷を繰り返し
人生のなかで体験する状態から、決して自由になることはありません」
 (ヒューレン博士「あとがき」より)≫
  〜ビュアー評〜
・【 ハワイに伝わるシンプルな癒しの秘法「ホ・オポノポノ」では、
 「自分」というものを3つのものから出来ていると考えます。
1つ目は表面意識である「ウハネ」、
2つ目は超意識である「アウマクア」、
3つ目は潜在意識である「ウニヒピリ」です。
 ウニヒピリは心理学で言うところの「インナーチャイルド」に似ていますが、
個人的な記憶のみならず地球の誕生から現在に至るまでの全ての生物や無機物
が体験した記憶が保管されているところを指します。ホ・オポノポノによる
癒しはウニヒピリと繋がり記憶を徹底的にクリーニングしていくことによって
もたらされます。】
  〜ネット上の批評より〜
・【ウニヒピリの協力がなくては、インスピレーションを受け取ることができ
 ません。私たちの中にある3つのセルフ、表面意識(ウハネ※)、潜在意識
(ウニヒピリ)、超意識(アウマクア※)がちゃんと存在し、それぞれの役割
を果たす。そうすることで、初めてすべての存在の源である“神聖なる存在”
とつながります。表面意識から“神聖なる存在”につながろうとする人が多い
のですが、流れとしては、表面意識が潜在意識に降りて、そして初めて超意識に
上がって、上の“神聖なる存在”につながっていきます。その順番が大事。
ウニヒピリのケアがあって、初めて上とつながれるわけです。
 ※ウハネ…表面意識。私たちが日常で認識している意識。クリーニングを
  スタートさせる部分。ウニヒピリにとっては母親のような存在。
 ※アウマクア…超意識。ウニヒピリから届いたクリーニングの働きを、
  唯一“神聖なる存在”に届けることができる。】

▼ 要約すると、<自らの記憶に向けて、「どの記憶が問題を引き起こして
 いるのだろう」と問いかけた後に、「ありがとう」「ごめんなさい」
「許して下さい」「愛しています」の言葉を繰り返すことで実践される。
  大切なのは、ウニヒピリの存在を認めること>
 毎日、20〜21時に就寝、0〜1時から半睡眠状態に入る。それが「ウニヒピリ」。
そして4時に起床をして、前日に書いた、この文章が「ウハネ…表面意識」。
その修正が、「アウマクア…超意識」になる。クリーニングは、そのプロセス
で考える?ことで、衆人の視線を意識し修正することが、これになる。
過去の同月同日の文章数年分を読返している自分は超意識になる。
世間人とは、超意識が欠落している存在。 超意識の欠落は、表面意識も、
潜在意識も、狭く、浅いまま、群れたままで終世を向かえる。他人事でない、
自分のことでもある。それなら納得…? 神聖なる存在への意識ですか。
その存在に向けて、「正・中心・一点・無」ですか。5円玉を神聖なる存在と
すると、真中の穴(一点)が無? 本体の外側が… お後が宜しいようで。
・・・・・・
4681,閑話小題 ー何だろう?この現象は ー3 
2014年01月07日(火)
  * この現象から考えさせられたこと
 ふと気づいた仮説、静かに激怒した相手が、事故とか病気になっている
ケースが多いことから、これはユングの「意味ある偶然の一致」ではないかと
思い立った。その数週間前にシネマで『キャリー』という映画も見た事もある。
静かに激怒した相手が、事故とか病気になっているとすると、過去のトラブルで
多くの人が、事故や病気になっているはず? か?というと、そうでない! 
また、逆の立場のトラブルの相手が、静かな怒りのエネルギーを私に向けている
ので、私は、今頃、とうの昔に死の病か、事故で亡くなっているはず。
事業の立ち上げを幾つか経験してくれば、その分、軋轢がある。それを避けての
創業など無理。この仮説から演繹法帰納法が具体的ケースでみると解りやすい。
演繹法は、まず仮説を立て、その証明の要素を集める。帰納法は、節目時に
因縁のあった人との軋轢で激怒した相手が、その直後から3〜4年以内に事故か
病気が生じる現象。そこから、これユングシンクロニシティでは?と行き着く。 
これを書いていて、「バカくさ!」と思える部分と「偶然にしては出来すぎ!」
が交互して結論は出ないが、両方とも否定ができないところがある。
 現に、自分が、ここに、生きていること自体が偶然の積み重ねの結果。 
大気圏を持った惑星が、宇宙に存在すること自体が奇跡。さらに生物が存在し、
知識を持ったサルが、ここに存在いていること自体、奇跡も奇跡。このテーマ
自体が無知蒙昧丸出しの仮説である。自分に都合の良い要素を集めて、勝手に、
さも不思議そうに思い込んでいるだけ。それも、一時的にしろ、私自身が信じて
いたのだから。 人間は自分の言葉を持ち、物語をつくって生きていく動物。
その思いを書き出すことで、如何に好い加減な考えで日常を過ごしている己に
気づかされる。それでも一応、経験も知識も、積み上げてきて、これ??
 ここで、気づいたことは、静かな怒りの相手を改めて見つめると、怒りだけ
でなく、むしろ感謝する対象である。怒りと感謝が相まっていることに気づく。
夫婦の関係と同じである。だから、犬も喰わない。まあ、未熟ということ!
以前から怒りなどマイナーの念に囚われた枠外に出る鍵として、10回、目を
つぶり「ありがとう」の言葉を繰り返していた。そうすると、そこから一歩、
外に出ることが出来る。 感謝を間違いなく、互いに忘れている。
この人生の節目の意味を考えると・・ ひたすら、ひたすら祈るしかない!』
 /   _ノ  \
 |   ( ●)(● <おっと、それ以上は言うなよ…ったく!>
. |     (__人__)____
  |     ` ⌒/ ─' 'ー\     
  |       /( ○)  (○)\    
.  ヽ     /  ⌒(n_人__)⌒ \    
   ヽ   |、    (  ヨ)Ωチーンi~   
   /    `ー─−  厂   /     
   |   、 _   __,,/     \   
・・・・・・・
3574, 10分ルールと、30、60、90秒ルール ー1
2011年01月07日(金)
時間ルールに、「10分ルール」「90分ルール」、そして30、60、90秒ルールがある。
 * まず、「10分ルール」と「90分ルール」から
   ー10分ルールー
 10分ルールは、理性的に配慮して安全な状態なら、10分じっと耐えると、
その環境や行動に脳が順応することをいう。弱点だと思い込んでいた性質が、
この10分ルールで変えることも可能になる。最近、テレビのバラエティーでよく
あるのは、最初の10分間に一番面白そうな情報を流して引きとめてから、
オープニングが始る場面に多く行き当たる。 これは10分間、視聴者に予告を
含め馴染ませれば、チャネルを変えないという「10分ルール」を利用したもの。
 このルールを知っているといないのとでは大きな違い。既に亡くなったが、
ある知人に「とにかく一晩寝てから、怒りなさい!一晩で、怒りの大部分は
消えてしまう。」と諭されたことを思い出した。これは半日だが。
これは突発的なことに直面した時に、まず90秒、そして10分間、ジッと耐える
ことをルールと捉えた法則。これまで決断するまでに、計画が固まった後に
時間をおき、判断し、その後に決断をする。それは計画段階のことだが、
目先の思いもよらない事態に出くわした時に、90秒ルールと、10分ルールを
知っていると良い。考えて見ればヤクザの脅しは、逆の立場で、その辺の
人間の弱みを知っていて、即効がが勝負と知っていて脅しをかけてくる。
だから、ある時間耐えれば良い。
 次は、ー90分ルールー
 映画は、人間の生理的なサイクルが90分ということを知っており、
大よそ90分であった。最近は120分を越えるものが多いが、90分を過ぎると
実際に嫌になるが、その辺から飽きさせないようストーリーが組み立ててある。
・・・・・・
5411,新年に 〜情報と知識の違いについて
2016年01月07日(木)
            〜『残酷人生論』池田昌子
   * 情報と知識の違いについて
 以下の文章は、哲学者の故池田晶子が20年前、Windows95が
世に出てきた頃に書かれた文章である。その後の激変したネット情報化社会
の現在でも、そのまま通用する内容。 高度をコードと捻っているところが
面白い。知識とは違った有効な生情報も、情報社会に生きるものにとって
重要な要素である。情報と知識の違いを簡潔に説いている。〜その辺りから〜
≪ 前に、情報は「しょせん」情報だと言いました。高度情報化時代なんて
 のは、要するにコード情報化時代、コードを引っこ抜いちゃえば、タダの箱。
タダの箱を前にして、人はやっぱりタダの人だと。とはいえ、そのタダの人が、
タダの人のままに広くコミュニケーション可能になるということは、やはり
画期的なことで、オンライン・ショッピングなんぞには私はもとから興味が
ないが、この点に関してならば、さしものコード情報化時代にも希望の光は
射している、と思える。
 ヒラ社員がわからず屋の部長の頭越しに、いきなり社長と交渉できるとか、
無名の新人が、阿呆な編集者をパスして、堂々作品を発表できるとか、地位と
肩書なきゆえに虐げられてきたタダの人々に、その実力を発揮できる機会が
平等に開かれるということは、文句なく素晴らしいことだ。これはほんとに
よいことだ。 それがほんとに可能になれば。
 普通に人は、とくに日本は、地位と肩書が偉ければ偉いと思っているが、
情報優先のネットの上では、そんなの何の意味もない。すると、旧態依然の
権力機構は、やがて軒並み崩壊するだろう。年功序列、性差別、情実、根回し、
御挨拶、地位と肩書ゆえに威張っていた無能な人々が、地位も肩書もないが
しかし有能な人々に、おいおとされてゆくことになるのだ、なんて愉快! 
これは革命!
 ところで、地位も肩書もないが有能な人というのは、タダの人であっても、
やはりタダの人ではない。したがって、情報ネットによって実現する平等社会
とは、裏を返せば、これまで以上に実力本位の競争社会である。
実力がなければ、たとえネットの上であれ、やっぱり何の意味もない。
 競争の現場がネットの上に移り、余分な障害物が減っただけのことであって、
何のための競争か、ということを考えずに競争している人間社会の在り方と
しては、以前と何ひとつ変わっていない。
それだから私は、やはりこう感じざるを得ないのだ。
 情報化時代  それが、どうした__と。
 人がまず理解していないのは、情報は知識ではないということだ。
情報は外から受け取ることによって流通する。しかし知識は、或るAがなぜ
Aなのか、と立ち止まり考えることによってのみ知られ得る。情報は流通するが、
知識は決して流通しない。流通する知識は知識ではない。すでに情報だ。
なぜなら、考えて知る、とは、自ら考えて知ることしか意味しないからである。
したがって、そこに在る同じAであっても、情報と知識とでは、知られる仕方が
正反対を向いているわけで、その差がまさしく、無知と知との差だ。
 さて、人は多くの情報を知ることによって、いったい「何を」知っていること
になるのか。我々は「何のために」競争しているのか、それを知っているのか、
どうか。 私は思うのだが、今後しばらく押し寄せてくる情報ネット化の大波は、
折にふれ人類を訪(おとな)う大掃除としてのあの大洪水のようなものと。
洪水の引いたあと残っているのは当然、地上に広く流通していたあれこれの
情報群ではなく、もとより流通することのあり得ない、星のように高く光る
あれら普遍的な知識だけであるはずだ。(一九九六年四月号)≫
▼ この随想日記も、押寄せる情報群の中から、選んだエキスをパックにし、
 知識化する有効な手段になっている。一度、パックすれば、毎年の同月同日
に読み返し知識の再認識が可能になる。それにしても、絶対的知識量の不足に
今さら驚いているが、それを自覚出来ているだけ、少しは、まし?
<情報と知識とでは、知られる仕方が正反対を向いているわけで、その差が
 まさしく、無知と知との差だ>は、これを書き続けて実感すること。
読みっぱなしで、忘却の彼方に消えていく内容の読書感の記録が無かったら、
「無知と知」の差ぐらいは軽く出来てしまう。無知の人間は、考えるしかない。
『世間』という、あの群れの特徴は、身近な情報を、考えないで横流しをして
いる輩たちをいう。それが、彼らの現実だからである。 で、絡めとられ
ゾンビの一員になった粗末な人生が、巷に溢れている。考えないのは罪である。