映画評 /TV ~『体操しようよ』

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 先日のこと。 近くのSJから帰ってきた30分の一間。家内も川西のSJから
帰ってくる直前のフッと空いた時間帯。 何気なくWOWOWにチャネルをまわすと、
軽そうな…『体操しようよ』が放映されていた。 
 定年退職の堅物の初老の男の節目の狼狽するファンタジーモノ。
何とも、何処にもいる儚い男の姿。
【ひょんなことから地元のラジオ体操に通うことに…

              そこで起こる様々なハプニング。】

私にとっては近所のスポーツジムにあたる。
平日(10~17時)会員の時間帯は、主婦、夜の御勤め女性と、定年後の老人が主。
群れたがる人、私のように誰とも話さない人、誰もが実に楽しそうだ。
 このSJのうたい文句が『初心者向き』。 映画の背景と似ている。そこから
覗きみえるのが、それぞれの人生模様。平凡の日常の中で起こる軋轢、背負った
過去と孤独が、これまた味わいがあるようだ。田舎町の平々凡々の生活の中の
味わいが何とも… 
≪  ー映画解説ー
 草刈正雄が7年ぶりに映画主演を務め、定年退職を迎えたシングルファーザー
の主人公が、ラジオ体操を通じた仲間作りや家庭での主夫業に奮闘する姿を描く
ハートフルコメディ。「ディアーディアー」「ハローグッバイ」の菊地健雄監督が
メガホンをとり、草刈演じる主人公の娘役で木村文乃が共演した。
 :妻に先立たれて18年、娘と二人三脚で家庭を営んできたつもりの佐野道太郎
だったが、定年退職後、娘から突然、家事全般を任されてしまう。加えて、娘に
結婚を考えている恋人がいることを知り、ショックを受ける道太郎。
 自由な時間を持て余すため、ひょんなことから地元のラジオ体操に通うことに
なった彼は、体操会の会長や子どもたち、ご近所さんなど、さまざまな世代の
人々と関わりを通じ、それまで知らなかった世界を知っていく。 ≫
 ―
▼ 8年半前に31年間、手掛けた事業から撤退。準備期間を含め45年の事業生活も
 アッサリ終わってしまった。 事業は新潟駅前、家庭は長岡駅裏と職住を分けた、
ある意味、理想的二重生活であった。それが、今度は閉鎖的城下町・長岡の駅裏
での閉ざされた生活。 70キロ圏から、5キロ圏の縮小した池の生活。
そこで見えてくる様々な人たちの生態は、私のあい知らない世界である。 
 誰も、自分の経験と知識以外は知らないことが、分ってないなるが故の歪み。
それがそのまま、合せ鏡の自らの姿として直視せざる得ない現実の日々…。
止せば良いのに、そのまま、このブログに描写…  
 この『体操しようよ』は、私には、そのまま現実。半年前までの8年間のSJは、
週5日、ほぼ皆勤。 このままでは健康そのもので、早々、死ねないと… 今年
から週4日にしたが、 まあ同じようなもの!
 私の知る限り、人生計画を建てている人は少ない。それも人生としても、
波風が少ない環境が、そうさせているのか? ジム通いをしている私も、
〔首輪を付けた紐を引きづって群れているに過ぎない〕…ということ。
死んで三日も経てば、皆、同じ。生きているから、違うからこそ味が出る。 
 一世代上の男たちの行末は、本人と、その群れの崩壊。それでも死ぬまでは
生きていかなければならない。<その刹那を、味わうしかない!>ことになる。

  ~で、以下に続く…
 もちろん、これも偶然の不思議である。
同月同日の過去文を読み返すに、全てが、現在の自分を取り囲んでいる言葉。
なる程、これが「自らの分』そのままである。とすると、死んだとしても、
暫く、「自分」は、これらの言葉、メルクマールが、残る…? 

・・・・・・
6476,閑話小題 ~居間の晩酌の味わい
2018年12月06日(木)
   * 独りの味わい
☆ 毎朝、4時前に起床し、この文章を書いたり、翌日分のテーマ探しをした後に、
 (3月末~11月末)信濃川の二つの大橋を一周のポタリングに一時間かける。
その後、朝食をとり朝風呂に入るが、これも慣れてしまうと至福の時間になる。
独りの世界に嵌るため。それが、過去文の文章に、そのまま現れ現在の自分に
語りかけてくる。
 夕方には17時から18時半まで居間で、iPadかTVを見ながら独り晩酌をする。
この時間も朝の時間帯と同様に至福の時間。 この習慣も、8年近くになるが、
そうそう長くは続かないことが分かっていればこそ、独りの至福時間を味合う
ことが出来る。また、午前中の、合間の読書時間も孤独の最たる時間になる。 
孤独は時空を超え、作家、思想家との魂の交流が可能になる。 この4月から
続けてきた早朝の、信濃川の土手沿いの自転車散歩も、今年分は終わりつつある。
昼の晴間に隔日位に12月半ばまで何とか行く。 これは精神の毒素を吐出して
くれるため、可能な限り続けている。これから毒素4ヶ月分が蓄積する…
ヨガとか、海外ツアー、週一のシネマ通いも、毒消しになっているが、ミニ・
チャリの習慣も効果的である。そのため、「毒素にやられた病人の程度が直感
で察知できるという想いこみ」が私に確かにある。 精神の毒素も必要。

☆ 緩やかな落ち着いた時間の中で、突然、過去の不快なフラッシュが湧き上
 ることがあること屡々。ソクラテスが、知識人と自認している人達にとって
耳の痛い人たちに、「無知の無」など、説教したため、怨まれ、非難されても、
平然としているため、知人が理由を聞くと、「ロバに嘶かれて、腹を立てる者
がいるかね」と宣ったとか。孤独の世界に住む者にとって、嘶きに対し、孤独
の壁の修正などの手入れが必要だが、耳を貸す必要など一切にないのである。。 
群れ犬には、孤独、孤立ほど辛いものがないが、一匹オオカミにとって、
孤独世界こそが至福の唯我独尊の世界であるためだ。

・・・・・・
4647, 閑話小題 ー「考えないこと」こそ罪 ー2
2013年12月06日(金)
* 「考えないこと」こそ罪 ー2
 人間が考えないのは、「馬鹿の壁」に取り囲まれているからである。
 その「バカの壁とは何か?」をネット検索すると・・・
《「養老 孟司の『バカの壁』を解りやすく説明してください」の問いに対し、
「人間は、外界からの刺激を感知する際に、その刺激に対してX(エックス)
という変数をかけている。例えば私たちは、自分が大好きな歌を聞くときには、
「その歌」×「限りなく大きなX」に導かれる値を刺激として受止めています。
一方、まったく興味のない歌を聞くときは、「その歌」×「限りなく0に近いX」
から導かれる値を刺激として受け止めています。そのため、前者の刺激が非常に
大きく、その人に対して多大な影響を持つのに対し、後者の刺激は「空気」
のような存在です(レストランの有線放送が良い例)。「バカの壁」とは、
こうした「外界からの刺激に対する無意識の判別」を指す言葉だと理解します。
もし全ての刺激に「大きな変数」をかけてしまうと、その結果頭に入ってくる
刺激に対応しきれなくなるため、刺激の必要不必要を判別するこの機能は非常
に重要です。それは外界の刺激に対する「目隠し、壁」としても働いている。》
▼ バカの壁は決してマイナスだけでない。問題は、自分のそれを意識できるか
 どうか。人間である限り誰もが考えている。問題は、より広く、より深く掘り
下げて考えようとしないこと。現在、アベノミクスのミニバブルが起きつつある。
15~6年前のデフレ直前1990年代半ばに似ている。その後に2001年の9・11テロ、
2008年のリーマンショック、そして、2011年の東北大震災が起こった。
現在の私の立ち位置の高台からは津波(恐慌)の本体が見えるが、眼下の海辺
近くの街中で、宴会で酔い遊んだり、仕事をしている人は、次の大津波
見えない。それを察知するに、自頭で考えるか、情報に対する己の勘しかない。
そこで、近い将来の犠牲者達が、高台に避難した人を不思議そうに見ている。 
笑っているのもいる。ところで、『そういうアンタ、考えているの?』と
言われると、『ウ~ン!』になる。石原慎太郎がつくりあげた尖閣列島
国境問題。下手をすると戦争だが、今の日本には、これで良い。目先に迫った
危機が、ピンとこないようだ。「考えない」のはの罪であり、罰になる。
最初の余波で浚われた罰を受けた私が言うのだから、間違いない。
・・・・・・
5379,閑話小題 ~70歳の峠は
2015年12月06日(日)
   * 70歳の峠は、いずれも厳しい
 昨夜は、学生時代の同級会に出席してきた。6年前から毎年、欠かすことなく
上京しているが、地方にいるせいか、首都圏出身の中は、何かホッとする。
去年、一昨年辺りから、メンバーに異変がおき始めた。病と、死の問題である。
次々と、脳梗塞・脳溢血、糖尿、ガンなどで、手術や、寝たきりになったり、
亡くなったりの話ばかり。毎年、この会が終わって東京駅まで、タクシーで
同乗していた二人の一人が、去年の会の前日に倒れ、急遽、亡くなったと、
この会の幹事から一月ほど前に電話があった。『同級会の一ヵ月後の一月に、
二番の脳梗塞から危篤、その直後、心筋梗塞が併発しアッケなく亡くなった。
そして、S君がステージ4の膵臓ガンで、数ヶ月前に手術。この会には
出席出来るかどうか? 他に某君も亡くなった。そういう僕も、○○ガンで、
数日後、手術の予定だが、会には何とか出席のつもり!』と悲痛の声。
 で、この寒さで、悪化した腰痛をおして何とか、出席をしたが、幹事と、
S君は、痩せ細った身体でギリギリ、出席をしていた。そして、出席をした
16人の近況報告の多くが、病と死の瀬戸際の話が大部分。それぞれの70歳の
峠は、病の面からみて、そう甘くはない。特に欠席している脳梗塞で、半身
麻痺の二人や、まだ生々しい進行ガンの話は、冬景色そのもの。
 帰りの新幹線の時刻の都合で、中途退座をSさんと二人したが、入れ
替わりに、長男が経費を不正に着服をし逮捕された、話題の服部料理学院
の服部(染谷)さんが来たところで、直接、その経緯は聞けなかった。
 同級生の話によると、これは「ネット・テロ」で、事実が先にマスコミに
流され、手の打ちようが無かったと・・ ここにもネット社会の影がある。
 誰も、「個人のイメージを売りにしている料理学校で、何故、公表前に揉み
消す方策をしない?」と思うが。学校法人は私学補助金などを受けていること
もあり、経理監査が非常に厳しく、揉み消すなど論外!という。 
70歳の峠は、いずれも厳しい! それにしても、『魚久』の料理は美味い!
 ここのマグロの刺身と、サワラの糟漬けが、特に絶品。
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5014,幸福優位7つの法則 -5
2014年12月06日(土)
            【幸福優位7つの法則】ショーン・エイカー著
 * 法則4:再起力~下降への勢いを利用して上昇に転じる
 人生で何事も思うようになることはありえない。 人は「うまくいったか」
「失敗したか」のどちらか二択で物事を捉えがちだが、ここに「第3の道」が
隠されているケースが多い。その為には、節目を自らつくり、強く打たなければ
ならない。予定挫折である。そこには、「失敗した後に学んで強くなり、最後に
上手くいく再起する力」が出てくる。心理学では「心的外傷後の成長」と呼ぶ。
多くのベンチャー投資家は、ビジネスで大失敗した人物しかマネージャーとして
雇わない。マイケル・ジョーダンは高校時には控え選手だった。
「私は何度も何度も挫折した。それがいまの成功をもたらした」と。 
第三の道は見えにくく、近視眼的に物事を見がちになるが、長期的な立ち
位置を客観的に認識する知識が必要になる。
≪ ◎ 第三のの道を見つけること
人間の脳は、勤勉な地図製作者のように、頭の中の地図をしょつちゅう訂正して
作り直している。複雑で変転するこの世界で、そうやって私たちをナビゲート
してくれている。 こういう能力は、何千年もの変化の過程を経て人の脳に
組み込まれた。人類は生存のため、環境の物理的な地図を作り、食料や
パートナーを得るための戦略を立て、それぞれの行動がどんな結果を
もたらすかをプランする必要があった。(略)・・何かを決断するときには、
このようなマッピングが頭の中で必ず行われる。このマップには「現在地」
(現状)が出発点として示され、そこからいろいろな道が放射線状に出ている。
道の数は決断の複雑さによって異なり、その瞬間の思考の明晰さによっても
違う。最良の決断ができるのは、明解でクリエイティブな思考により、可能な
道すべて把握し、それらの道がどこに続くかを正確に予想できたときである。
しかし、ストレスを受けているとき、窮地にあるときには、多くの人が一番
重要な道を見落としてしまう。それは、上方に向かう道。 危機や逆境から
延びる道は3つある。
1つは、いまいる場所をぐるぐる回る道。ネガティブなできごとは変化を
生まないため、いつのまにか出発点に戻ってきてしまう。
2つ目の道は、さらに悪い結果へつながる道。悪いことが起き後に、そこから
更に悪い状態になっていく。 こういう道があるために、人は事態に立ち
向かったり、難題に桃戦したりすることを逃れる。
3つ目に、私が「第三の道」と呼ぶ道がある。これは失敗や挫折から始まり、
人をより強くし、困難のさなかにこの道を見つけるのは易しいことではない。
経済不況でもその他の危機でも、そういうときに作られる脳の地図は
不完全なことが多いし、皮肉なことに、ポジティブで生産的な道が一番
見えにくくなっているからだ。無力感や絶望に覆われていると、そういう直が
存在することすら信じられない。 だから探そうともしない。しかしこれこそ、
ぜひとも探さぶければならない道である。そこで、「第三の道」を発見できるか
どうか、挫折に打ちのめされるか、そこから立ち上がれるかを、分けられる。
挫折を「成長の機会」ととらえられる人が、その成長を実現できる、
ということを多くの研究結果が示している。逆に、挫折を「この世の終わり」
ととらえるなら、その通りになる。 ≫
▼ 私の経験でも、節目で「第三の道」が現れ出てきた。
思いもよらないチャンスが、そこにあった。 それが運命を変えてくれた。
三年前の節目の「第三の道」とは何だろう。 足元を見直し、内省をより深く
すべきということ? 日々を味わう? 実際、自然の成り行きで、そうして
いるが・・ 今さら第三の道でもないか! 「死の淵に立ってこそ分かること、
後悔することを、今、経験しろ」ということか。 日々を楽しみ、味わって
過ごせば、第三の道を歩くことになるが。
・・・・・・
6111,閑話小題 ~「山椒魚」の悲しみ!
2017年12月06日(水)
   * 山椒魚と「わたくしめ」
 井伏鱒二の『山椒魚』を読み返し、「人生とは、それぞれが谷川の岩場に閉じ
込まれて終えるだけのことか」と、学生時代に受けた衝撃を思いだした。あれから
50年が過ぎ、齢70年を2年も過ぎた。必死に岩場から這い出て、様ざまな岩場を
彷徨ってみた。思いの外、面白かったが、中途半端な彷徨いだったことも事実。
人生の黄昏時期に改めて読み返すと、なかなか味わい深い。ネットで「山椒魚」 
「あらすじ」で検索すると、簡潔にまとめた内容があった。
≪・谷川の岩屋をねぐらにしていた山椒魚は、あるとき自分が岩屋の外に出られ
 なくなっていることに気がつく。二年の間岩屋で過ごしているうちに体が大きく
なり、頭が出入り口に「コロップの栓」のようにつかえるようになってしまった
のである。ろくに動き回ることもできない狭い岩屋のなかで山椒魚は虚勢を張るが、
外に出て行くための方途は何もない。彼は出入り口から外の谷川を眺め、メダカの
群れが先頭の動きにあわせてよろめいているのを見て嘲笑し、渦に巻き込まれて
沈んでいく白い花弁をみて「目がくらみそうだ」とつぶやく。
・ある夜、岩屋のなかに小海老がまぎれこみ、山椒魚の横っ腹にしがみつく。
山椒魚を岩石と勘違いして卵をうみつけているらしい。しきりに物思いにふけって
いるらしい小蝦の様子をみて山椒魚は、屈託したり物思いに耽ったりするやつは
莫迦だと言う。しかし山椒魚がふたたび出入り口に突進し、栓のようにはまり
込んだりといった騒ぎをはじめると、はじめは狼狽していた小蝦も失笑する。
・その後、山椒魚は外へ出ることを再度試みるが徒労に終わり、涙を流して神に
むかって窮状を訴える。彼は岩屋の外で自由に動き回っている水すましや蛙の姿
を感動の目で眺めるが、そうしたものからはむしろ目をそむけたほうがよいと
考え目蓋を閉じる。彼は自分が唯一自由にできる目蓋のなかの暗闇に没頭し、
寒いほど独りぽっちだ、と言ってすすり泣く。
・悲嘆にくれるあまり「悪党」となった山椒魚は、ある日、岩屋に飛び込んで
きた蛙を閉じ込め、外に出られないようにした。蛙は安全な窪みのなかに逃げ込ん
で虚勢を張り、二匹の生物は激しい口論を始める。二匹のどちらも外に出られず、
互いに反目しあったまま1年が過ぎ、2年が過ぎた。蛙は岩屋内の杉苔が花粉を散ら
す光景を見て思わず深い嘆息を漏らし、それを聞きとめた山椒魚はもう降りてきて
もいいと呼びかける。しかし蛙は空腹で動けず、もう死ぬばかりになっていた。
お前は今何を考えているようなのだろうか、と聞く山椒魚に対して蛙は、今でも
別にお前のことを怒ってはいないんだ、と答える。
―(注)明日どうなるかわからない無名作家だった井伏鱒二が生活を続けていた。
山椒魚」の冒頭近くには、「人々は思ひぞ屈せし場合、部屋のなかを屡々、
こんな具合に歩きまはるものである」という文があるが、「山椒魚」はこのような
作者の生活、世に出られない焦り、そして時代の閉塞からくる「思ひぞ屈した」
状況を反映しているものと考えられる。そのような「思ひぞ屈した」感情はまた
井伏の初期作品に共通するユーモアの基底をなしているものでもあるが、しかし
中村光夫は井伏と「山椒魚」を次のように述べている。<氏の「思ひぞ屈した」
憂鬱は、この醜い両棲類に代置されることで、明瞭な形を与へられ、自己を限定
され、理想化されたので、この点では氏の後の小説のどの主人公も、この一匹の
山椒魚に及ばないのです> ≫

▼ 初老性鬱症も、こんなものか? このブログにも、そのままの屈折が色濃く
 出ている。「日々、是、口実」の一つになるが、<井の中の蛙大海を知らず」+
「されど空の深さ(青さ)を知る」というが、狭い岩場にいても、空が雄大なことを
知ることができると? 人生を振返るとき、限りないエネルギーを私という器に
閉じこめら、山椒魚のように鬱屈した己を省みて涙する。また夫婦間の軋轢も、
似た(妻=蛙)ようなもの。お互いの首を縛りつけた紐を持ち合い、締付けあい、
罵声を投げあう。蛙を他者として、色いろな人を当てはめると、これまた面白い!
「誰?」「あ・な・た」 いや「めだか」に… もちろん、冗談です。
ノイローゼにも… 自殺もしたくなるわ、屈折もするわ… そこを何とか?
「にっこり笑って、ハンカチーフ」が、人生のコツ。最近は、B級グルメを食べ
ながら… が効果的と気づいた。まあ、可愛いものである。
 蛙が死んだ独り身は、それはそれは寂しい孤独と、孤立が待っている。
生臭い「死」と「生」の境目にある岩場の中の生きものの感じる孤独とは?
「呆けていなけば、やってられません」ということで… お後が宜しいようで。
――――――
2011年12月06日(火)
3907, ルソーの孤独
 2009年12月1日の随想日記「人生に関する小題」の中で、
現在の私を予感させる文章があった。
≪【 わたしは地上でたった一人になってしまった「孤独な散歩者の夢想」は、
 64歳のときに書き始め2年後の死ぬ直前に終わった文章、ルソーの絶筆である。
「第一の散歩」から「第七の散歩」まであり、その後「八、九、十」がメモの
ような文章が続く。冒頭で、「こうしてわたしは地上でたった一人になった。 
人なつっこい人間でありながら、万人一致の申合せで人間仲間から追い出されて
しまったのだ・・ わたしは、かれらから離れ、すべてのものから離れたこの
わたしは、いったい何者か」と問う。「自分に残されたことは、すべての世間から
放逐された自分はいったい何者なのかを探求することだけなのだ」と自覚する。】
私の周辺の倒産時の男たちの気持ちは、まさに、このようだ。多くの取引先、
部下を路頭に迷わせ、自分の存在の卑小さと、嫌らしさに自己嫌悪を独りする。 
自分は何者なのか? ただ、歩くこともままならぬ、折れてしまった、
これ(私)!である。≫
▼ この文章を書いたのが二年前。そこから、清算を決断するまで売上下降が続く
とは夢にも思わなかった。そしてトドメが東北大震災。税理事務所の30年来の担当
Jさんが、「初めは気が張っているが半年も過ぎれば、ジワジワとボディーブロー
として効いてきますよ!」と忠告してくれた。地方の大方の会社に、この大不況が
直撃していることも事実。大津波の前兆の波が、特に敏感な立ち位置の当方に先に
直撃したが、本体の波が来るのは今年から来年にかけて。
(但しG20が時間稼ぎをして来年に先送り)どのようにシュミレーションを
しても、本体の津波がやってくれば海岸線に近い三次産業、輸出関連産業は、
致命的大打撃を被る。ところが津波に一番危ない会社ほど、大津波に気づかず
高台に逃げていく人を嘲笑う? ルソーの孤独感は、独り死に直面した時に
誰もが経験することになる。ネット上にブログを10年間書き続け、墓としての
思いを入れ続けてきたので、ルソーの孤独感は無い。しかし、この10年間に
多くの友人知人が亡くなっている。亡くなる直前に、ルソーのような絶望的な
孤独感にさい悩されたはず。  このルソーの孤独は、虚無という真っただ中
に漂う私が、壊れていく恐怖が伴う。談志も死を前に強がりを言っていたが・・