閑話小題 ~また大相撲ですか…

 

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   * 大相撲・談義
◉ この日曜から大相撲が始まったが、未だワールドカップラグビーの熱が
 残っているためかマスコミは騒がない。その上、天皇の即位に伴うパレード
「祝賀御列の儀」が重なれば尚のこと。初日の取組前に早速、怪我で横綱鶴竜
が休場を発表。初日の取組で大関豪栄道が負傷休場。水をさす結果に。
 全般に若手の台頭があり、それぞれ本番が面白いのが多くなったが、横綱
大関が、その特権を微妙に使って直ぐに休養、いや休場をしてしまう。その
最たるのが、これを利用して居残り組の、現在の、あの…。 これでは、神事の

建前に逆流して相応しくない。誰だって特典は使いたくということ。 

 鎮守の神社の祭りごとに砂漠の不毛の地からやってきた闖入者。
それでは利用できるルールを最大限に利用するのは当然のこと。参入を認めた
のがお門違い? 今どき、これほど割の悪い格闘技に国内でだけでは… 無理。

◉ その大相撲に暴力問題が生じている。白鵬などモンゴル人が、同国人内の
八百長システムを強制するために、飲み会に押しかけ暴行した事件辺りから、
力士社会の暴力が云々されてきた。
格闘技は、ルールを決めた上での暴力行為。それが分かってない部外者が、
あたかも正義の審判をしたつもりで報道し、それをマスコミが受けを狙って
騒ぎ立てる。 清く、正しく、美しくの建前が罷り通る社会に。グローバル化
社会で、そうは綺麗ごとではいかないのは「EUの壮大な失敗?」が、リアルに
示す。それは解っちゃいるが、その矛盾を総括して抱ていくしかない。それが
グローバル化の知恵。 特に日本は、敗戦74年から今までが良かっただけ! 
これから綺麗ごとでは済まされまい。
   
◉ 大相撲の妙味は立合いから数秒で間に、勝負が決すること。
 闘志を内に秘めた力士が無言の対話を交わし、立合いの一瞬に気力を充実
させてブツカリあう。そこに「小よく大を制する」の妙の味と、時に「霊気」
のようなオーラが漂ってくる。ただし土俵を下りればタダの人。
その辺りは、神主、坊主、俳優、政治家と同じ。そこには膨大の蓄積された
エネルギーが蓄積している。なればこそ、その接点の爆発は光り輝く!

・・・・・・   
6453,閑話小題 ~「公正世界仮説」という認知傾向!
2018年11月13日(火)
  * 言われてみれば、そのとおり!
人間には「公正世界仮説」という認知傾向があるというネットサーフィンで、
知った仮説だが、御隠居になった現在、この仮説そのままを前提に生きてきた
自分の愚かさを自問自答させられる内容である。世の中は、決して
『自由、平等、博愛』ではない。不自由で、不公平で、憎しみが満ちている。
間違いなく、<3,30,67%法則>の社会層で出来ている。その層の中でも、
さらに層が分けられている。都会の孤独とは、それが圧縮して露呈された中で、
ポツンと置かれるため、世の無常を敏感に感じ取る嫌世観が重なる。
その前提が、この「公正世界仮説」がある。それが、あるから恨み、妬みが
発生する。それが露呈しているのが、インド社会であり、中国共産社会の実態。
こういう視点も、この仮説が言わしめている。 ~先ずは、その内容から~
 
 ――
≪ 公正世界仮説とは「世の中は公平にできている」と考えたがる人々の傾向
(バイアス)のことで、社会心理学の分野でメルビン・ラーナーが最初に言及
したとされている。<一般に人間は「世界が予測可能、理解可能であり、
したがって自分の力でコントロールできると考えたがる」と…。>

つまり人は「世界が公平で、コントロール可能で予測可能であって欲しい」
という願望のようなものを持っている事を意味します。
予測可能な世界観は、ルールに従った者は利益を得られ、悪は罰せられるような
世界観。多くの人は「良い行いをすれば報われ、悪い行いをすれば罰が当たる」
と思い込んでいます。私たちも子供の頃からそう教育されてきます。しかし、
この世界の捉え方は時として認知のゆがみをもたらすと…。

私たちは成功者や富や権力を手にした人を見るだけで、
「その人はその富を享受するのにふさわしい行動を何かしたのだ」と考える。
その人があまり社会的に認められないやり方で成功したとしても、無条件に
何かしら人として優れ、尊敬に似た感情を抱いてしまいます。

逆に、不遇な境遇に置かれている人に対しては「ああいう目にあっているから
には何か原因があるはずだ」と推論してしまいます。これは被害者批判、過度な
自己責任論につながり、例えば夜に出歩いて襲われた女性に対して、
「夜中に出歩く女性のほうが悪い」などと、本来攻めるべき加害者では無く
被害者のほうに批判が向いてしまいます。

高身長のイケメンや美女は周囲から仕事が出来るように思われやすい傾向も、
良い特徴を持った人は他の部分でも能力があるというハロー効果のような
認知傾向を私たちは抱いています。
「世界は公正で、何らかのルールで回っている」と認知したい傾向は、人がより
良く生きていくのに必要だと言えます。真面目にコツコツ生きている人は、法律
に隠れて悪いことした人に天罰が当たることを期待しますし、悪人が罰を受ける
こと無くのさばる世界など認めたくないでしょう。
努力や良いことをした分だけ報酬や報いを期待してしまったり、何か悪いことを
した人には罰が当たるに違いない、と思い込むのはごく自然なことだと言えます。≫


▼ トランプ大統領をみて、誰も「公正世界仮説」を信じないが、アメリカの
 67%の殆どが、アメリカンドリームを信じ、この仮説の上で生きているという。
悪いのは、あくまで、やり方が悪い、チャンスに恵まれないからと… 
会社整理で、面白かったのは、「失敗した全責任は、御前にある!」という見方。
全責任などあろう訳がない。たまたま、歴史的断層のバブル崩壊、9・11、中越地震
中越沖地震リーマンショック、3・11地震に出会ってしまった。万一の対処は、
事業設計に組込んでいたため、骨折?で済んだ… が、そこで見えたのが、この
公正世界仮説」。それを前提に、それまで私も生きてきた。そして、それを機会に、
この論を信じて生きている世界(社会)の実態。 成るほど、社会は、これで成立
しているのである。 何を今さらだが… アメリカの属国の日本。 頑張ってね…

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5721,閑話小題 ~アメリカ大統領選挙 ~③
2016年11月13日(日)
   * メガトンクラスの衝撃に、驚愕!
 この選挙結果を総括していうと、こういうことになる。
< 泡沫候補の戯言に乗って、アメリカがグローバル化政策から、内向きへの
 大転換の道を選んでしまった。世界中のエコノミストも、政治家も、この驚愕
の選択に、今だに信じられない思い。とりわけ、日本にとって、最大級の衝撃。
これがメガトン級の地震なら、問題は、これから押し寄せてくる大津波である。
 明治維新も、太平洋戦争と敗戦も、1985年のプラザ合意による意図的な
日本経済のバブル化と崩壊による日本経済の弱体化も、アメリカのアジア支配の
一環としての力学の結果。 それが一人の泡沫の実業家の戦法、
グローバル化の恩恵を受けなかった下層白人に的を絞ったアン・グロ政策」
に賛同し、得体のしれない野心家に絶大な権力を与えてしまった。
 受けを狙って、まずは、日本に矛先を向けてくるのは必至。日本の改憲派
とって、非常にプラスになるが、その前に、近くの強盗に、家中の現金、資産を、
ごっそり持っていかれる。明治維新以来の、あるべき真の独立が、嫌が応にも、
突きつけられる。「前門の虎、後門の狼」の虎を中国に例えれば、後門の狼が
アメリカになる。今までは、後門の狼に尻尾さえふれば、前門の虎は、後門の
狼を怖れて襲ってこなかったが、これからは、違ってくる。後門の狼も、牙を
剥いて、襲いくる可能性も出てきた。
 2045年が技術的特異点になるというなら、今回のアメリカの選挙結果は、
欧米にとって、日本にとっても、『特異点』になるのでは? その中、日本は
東京オリンピックの乱痴気騒ぎが、始まっている。 江戸末期の、
「ええじゃないか、ええじゃないか!」の狂乱が、東京オリンピックそのもの。
「それも、ええじゃないか」で、目先、行くしかないとしても・・・
「まさか」の坂が次々と現れ出てきたが、2045年問題を含めて、これが21世紀。
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4259, しまった!  ー8
2012年11月13日(火)  ーしまった! 「失敗の心理」を科学する
                 ージョゼフ・T・ハリナン(著)     
   * 人は、聞いた話を自分なりに綺麗に改変する  
≪学生の被験者に、ある物語を聞かせ、後で、その物語を語らせると、大きく
 歪曲する事実があった。問題は、その話の程度が予想を遥かに超えていたこと。 
全談話の61%に情報の追加、省略、誇張、最小化をおこなっていた。
それを学生の42%しか、認めてなかった。それは学生が偽りだったとは思って
なかったことを示している。・・そのうえ、学生は話を聞き手の好みに合わせた
だけでなく、更に重要なことは自分の目的に合わせていた。特に面白い話の場合、
大幅に誇張したり、うそを加えたりした。後で聞くと、被験者の6割が、その話
に嘘を入れていた。人は談話をするときには、情報伝達をする目的と同時に、
ある目的を達成する手段になるもの、という結果になった。その意味で、対話の
目的とは事実を伝えるのではなく、印象を伝えることだと。もっと面白い作用は
聞き手だけでなく、話し手自身に対するもの。語り手が自分の作り話を、何度か
話しているうちに、作り変えた話が、その人にとっての記憶になるケースが多い。 
私たちは自分の嘘を本気で信じるようになるのである。更に悪いことに、本人に、
その自覚がないことである。≫
▼ 私が小さな地域社会で、アウトサイダーに徹しているのは、これを知って
 のこと。社会学を40年以上、独学してきて、その馬鹿馬鹿しさを知っていた。
逆に、それを独り楽しんでいる自分がいる。割切ってしまえば、これほど面白い
ものはない。B層の、さらに下のC層という何も考えない旧来の価値観から一歩
も出たことのない人たち。彼らにゾンビが多い。彼らは普通の風体をしているが、
中身はカラカラの干物。水気が失われているため、真っ当な人間に対する語り部
になるしかない。彼らの毒は、「作り話」として人に襲いかかる。 襲われ、
その毒に侵された人間は、その瞬間、ゾンビに変身する。そして地域社会の多く
がゾンビ化してしまう。彼らは思考能力ゼロのため、その自覚も無く、屍の
群れは今日も人を襲い続ける。これが城下町レベルでなく、情報化の御蔭で
全国区レベルになっている。
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4991,暴走する世間 -7
2014年11月13日(木)
      「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹(著)
   * なぜ日本の男はマザコンなのか
 世間が、そのまま家庭に入り込んでいるため、そこにあるのは甘えの構造。
その延長を男は、酒場の女将に「ママ」として求める。マザコンは、どこか
乳離れしない母子関係の名残。 ーその辺りからー
≪一般に日本では、恋愛が恋愛として完結しない。恋愛関係はいずれ壊れるか
壊れなければ「母子関係」に移行するかのどちらかになる。奇妙なことに、
日本の家庭で夫婦がお互いをよぶときに、「ママ」「お母さん」や「パパ」
「お父さん」がつかわれる。子どもが親をよぶときの名前が、そのまま夫婦の
呼称になっているのだ。これは、そもそも夫婦がお互いに個々の人格として向き
合っているのでなく、あくまでも子どもを媒介として向き合う関係を示している。
そして面白いことに、飲み屋のおねーさんや、バーの「ママ」、クラブの
「ちーママ」も「ママ」。つまり夫の場合、家庭の外に複数の「ママ」が存在
することになる。妻に家庭外に「パパ」がいることもあるかもしれないが、
それは、愛人関係など特殊な場合だろう。妻にとっては、家庭での「パパ」は、
ただちに「父子関係」を意味しない。だが夫にとっては、家庭内外での複数の
ママとの関係は「甘え」の関係であって「母子関係」を意味する。ようは、
男はいわば複数の「家庭」をもってることになる。さらに夫の側が、家庭は
「癒しの場」や「憩いの場」だというときには、根底にはこの「母子関係」
がある。つまり、自分が癒される場所、憩える場所だと考えている。
しかし妻の側にとって、家庭はあくまでも「夫を癒してあげる場所や、夫を
憩わせる場所」なのである。そこにある癒される自分のちがいは決定的である。  
阿部さんは日本では、西欧のような「個人の時間意識」ではなく、
「共通の時間意識」があるため、母親と子供の関係も、母親が90,70歳
でも、息子は息子であり、いくつになっても、母と子の関係が続く。 ≫
▼ 日本の夫婦間の喧嘩で常に妻から出る罵声、『マザコン!』。
 外向きは亭主が上だが、内情は、妻のほうが上位にある。これは「母子関係」
が、知らぬ間に夫婦間に移行したため。私など、マザコンファザコンの上に、
4人の姉の存在もありシスコンが加わる。これが悲しいかな大家族の末子の宿命。
家の中は「憩いの場」は一切なく、常に緊張をした「集いの場」で、無言で
大人しくするしかない。そう自分とは、家庭内の他者と、家庭外の他者から、
形づくられていることが分かる。健全な家庭こそ、全ての基本になるが、
ファザ、マザ、シスコンの歪んだ私が健全の家庭をつくってきたのだろうか?
ところで健全な家庭って存在するのか?程度の問題? マザコンファザコン
が絡みあった二人が家庭をつくるのだから、それは大変なことである。
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6088,閑話小題 ~改めて想う、親の愛
2017年11月13日(月)
   * 相性のあった両親に出会えて
 ある席で、中学校を卒業後、大手メーカーに勤めながら、夜間高校を卒業。
地方公務員試験に合格し、公司として無事、勤め上げ、今は年金暮らしという男。
後日、『あなたの話を聞いて、頭が下がる思いだった』と、問いかけると、
『実は、親父が大酒飲みで、家に金を入れず、生活に瀕していた。自分が長男の
ため、少しでも早く自立したかった』とのこと。逆に私といえば真逆で、9人
‘きょうだい’の末っ子の立ち位置もあって、両親、とりわけ父親に間接的に、
溺愛されて育った。その人の生き様から、特に「私は愛情のベースの上で生きて
こられた」と、つくづく思い知らされた。その温もりの体質が「幸せな一生」を
引き寄せてくれていた。大きな節目の判断ごとに、『父だったら、どうするか?』
の自問自答と、読書習慣から得た知識と知恵が、自らを救ってくれていた。
最後の最後まで、家族を、とりわけ不祥の末っ子の幸せを祈ってくれていた。
人生を総括すると、時代背景と両親に恵まれ、時節の出会う人に恵まれていた。
こういうのを「運」という。 その「運」とは、「判断」の結果をいう。
判断が良ければ「幸運」、悪ければ「不運」と。判断を誤らないために、
心の芯を純白にして、正しい判断を…  私の多くの判断ミスは、
・1990年前後のバブル崩壊への対応と、
・1995年の「ウィンドウ95」から始まったネット情報社会の到来からくる
 「断絶の時代」への社会的大変動への読みと、
・2001年の9・11テロの歴史的転換の事象への認識と対応の甘さと、
・2008年9月のリーマン・ショックの大波、とりわけ地方経済影響。

 父親が死期を悟り、その恐怖に七転八倒をしている中で、人生を振返り、
<「太平洋戦争」が、あまりに大きな出来事であったと… > 呟いていた。
「社会は突然、何が起きるか分からない。常に備えは怠りなく」と家宝の教えの
伝授をしてくれた。時は昭和40年代後半。ドルショックと石油ショックが起きた。
創業に向け動き出した直後で、人生の出発時の環境として最悪の事態。考えて
みれば、その最悪の事態が力を試すという面では良かった。 何はともあれ、
前向きに、無心に、真正面に、全力を持って立向かえば、悪条件が好条件に好転
すると、信じるしかなかった。「想い」とは、死んでも、何かを通して、世に
残るもの。残らないのは、残さないから。 残すこともないが…
 太平洋戦争から70年以上も何事もなかった、平和な島国の日本に、真っ黒な
暗雲がたちこめてきた。これだけは「ケセラセラ、なるようになる!」の世界。
<相性にあった両親と時代に出会えた幸運に感謝し、戦争回避を祈るしか。>
役者の顔ぶれが、劣悪すぎ。 世界が燃え上る空気感とは、こういうこと?
金のバラまきで、一部は浮かれているが。所詮は、あぶく。戦争は残虐である。
・・・・・・
5356,そこに困っている人がいれば ーベストエッセイ ①
2015年11月13日(金)
           ーベストエッセイ 2015(文藝春秋)ー
  * そこに困っている人がいれば ー角田光代
 毎年のベストエッセイを特集した単行本で、面白いのが揃っている。
その中からランダムに面白いエッセイを幾つか紹介する。物書きのプロは
流石と、思い知らされる。このエッセイに、タイの仏教色が滲み出た国民性
が、色濃く表現されている。江戸・明治時代は、こんな仏教色豊かな空気が
日本にも漂っていたのだろう。 ~その辺りから~   
 ≪ 完全な仕事で、遊べるような時間どころか、ゆっくり食事をする時間も
 ないほどのせわしなさだったのだが、数日間、バンコクにいった。タイに
初めていったのは一九九一年。もう二十三年も前で、以後、七度訪ねてきてる。
町はどんどん変わる。スカイトレインができ、地下鉄が走り、ピンクのタクシー
が多く見られるようになり、飛行場も場所が変わった。毎回、驚いている。
 二十三年前の旅は、私にとってははじめての自由旅行だった。宿もいき先も
決めない、一カ月の滞在だった。私がその後、二十年以上ひとり旅を続ける
ようになるのは、あの旅がすばらしかったからだ。何がすばらしいって、人。
食事もおいしい、光景もすばらしい、ものすごい体験もたくさんした、けれど
魅了されたのは、すれ違うだけのような関係の、多くの人たち。地図を開けば、
何か困っているのかと人が近づいてくる。ここにいきたいと伝えると、自分は
用もないのにいっしょにバスに乗りこんで、目的地で下ろしてくれる。炎天下、
バスがくるのをいっしょに待って、運転手に私の目的地を説明してくれる。
あまりのバスの混雑に辟易していたら、席を譲られそうになったこともあった。
目が合うと、みんなにこっと笑う。
 それから訪れるたびに、町の変化と同様に、人の顔つきも変わってきた。
バンコクはどんどん大都会になり、人の顔つきも都会のそれになった。
町も人も、洗練されたのだと思う。 パリとか、ニューヨークなんかと同じ
ように。そうした都会では、旅人がひとりで歩いていても、ふつうはだれも
声をかけてこない。と、思っていたのだが、今回、びっくりすることの連続。
方向を確認するために地図を開くと、「どうした、どこにいきたいのか」
と歩いていた人が近づいてきて、ていねいに道案内をしてくれる。ある場所
をさがして迷いに迷い、店番をしている人に訊くと、「こっち」と歩き出し、
目的地まで連れていってくれるではないか。なんにも変わっていないと、
驚きをもって思い知った。なぜ、都会的に洗練されたなんて思い込んでいた
のだろう。私が旅した二十三年前に生まれてなかっただろう若い人たちも、
戸惑う位親切で、あたたかい笑顔を見せる。ありがとう、とタイ語で言うと、
「まいど!」と笑顔と日本語が返ってきたりする。
 バイクタクシー乗り場をさがして、あるビルの駐車場にいたスタッフに、
乗り場が近くにないかと訊いた。バイクタクシーでどこに行くんだ、と彼が訊く。
私は目的地を言った。地図には載っていないムエタイジムだ。その彼は、
場所は知らないがジムの名だけ知っていると言い、ついてきてと手招きをして
歩き出す。どこにいくかと思っていると、車の走る大通りに出て、空車を
見つけては手を上げる。止まったタクシーのドアを開け、運転手にムエタイ
ジムの名を告げる。みな知らないらしく、首を横に振る。この人、私が
とめないと、ジムを知っているタクシーがあらわれるまで、えんえんと、
タクシーを止め続けてしまう! 自分の仕事を放ったまま、と気づいた私は、
もういいんです、だいじょうぶです、自分でさがしますと彼に伝えた。
いいんです、戻ってください、ありがとうございますと言い続けると、釈然
としない顔つきで、彼は駐車場に戻っていった。この国の人たちは、困って
いる人を見ると、平気で自分の時間と労力を差しだすのだ。
 二十三年前からずっとそうだ。だれかを助けたなんて彼らは思っていない。
そうして助けられた日本の若い女が、その後、人において圧倒的な信頼を持つ
に至ったなんて、考えることもない。例のジムは、その後にさがしあてて
乗ったバイクタクシーの運転手が、すれ違うバイクタクシー仲間にさんざん
訊きながら、なんとかたどり着いてくれたのだった。「文藝春秋」九月号}≫
▼ フィジーでも、その国民性の純粋さ、暖かみに驚かされた。
 イギリスから独立した国で、欧米と南太平洋の大らかさが、ほどよく
ミックスされている。近くにあるフランス領ニューカレドニアとは、
えらく違う空気。何か地中海の飛地にいるような感覚で、原住民は、
片隅に追いやられているような。海産物や果物など自然の幸が豊かで、
キリスト教が、プラスに働いているようだ。天国より、煉獄が似合って
いる私など、10日もいれば飽きあきするのだろうが。