閑話小題 ~何故にまた、巨大災害が続くのか?

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           ~NHK<地球大変動の衝撃 
             第5週『日本に迫る脅威 激化する豪雨』~
    
   * 地球大変動の衝撃
 NHKが<地球大変動の衝撃第5集 『日本に迫る脅威 激化する豪雨』>
を先日、見た直後の首都圏直撃の台風。今後の過ってなかった巨大台風の到来を
予測し、この傾向は一時的に治まることがない!と断言するシリアスな内容。
これに地震と火山噴火が加わるとしたら… 特に表日本側沿岸は如何なることに? 
とはいえ、一般庶民には、如何にもならないこと。首都圏で住むなら、埼玉?
温暖化が進む中で、このような異常気象が増える…?
純化して言えば「温暖化とは水の循環が極端になる現象」と言える。
 
 温暖化で、通常、陸や海から水分が大気中に蒸発、やがて雲を作り雨になって
循環する。蒸発する水分が大幅に増えた結果、水分を奪われた陸地では乾燥化が
進み、干ばつや火災のリスクも増加する。一方、熱帯の海ではさらに大量の水分
が蒸発し、大気中に含まれるようになる。しかも、海水が蒸発する時に奪う熱が、
形を変えて大気を運動させるエネルギーになるため、台風などの暴風雨が強く
発達しやすくなり、大気に含まれた大量の水蒸気は豪雨をもたらし、洪水や土砂
崩れにつながる。このように温暖化が進むと猛暑だけでなく、雨が降る所では
豪雨災害が深刻化し降らない所では干ばつが深刻化と両極端な現象をもたらし
やすくなると考えられる。国家予算は、支出が収入の二倍を超える中、破綻は
時間の問題。ある日、突然、現在の韓国並みの国家に… 恐ろしい限りである。
 その日本における客観的実態を、よくぞシリアスに映像化したNHK
NHKという存在意義の面目躍如の特集である。 少し褒めすぎ?
 ――
NHKスペシャル 巨大災害 MEGA DISASTER
地球大変動の衝撃 第1集 異常気象 “暴走”する大気と海の大循環

【収録内容】
■第1集 『異常気象 “暴走”する大気と海の大循環』
 東南アジアでは海面上昇に豪雨が追い打ちをかけ沿岸部の町を破壊、ロンドン
や東京などの大都市もこれまでの水害対策が通用せず未曽有の被害が予想される。
番組では、地球の“大循環”を可視化し、最新の観測データやシミュレーション
が明らかにしつつある将来の気象災害の姿を見つめる。

■第2集 『スーパー台風 “海の異変”の最悪シナリオ』
 台風は、熱帯の海にたまった熱エネルギーを温帯に循環させ、均衡を保とうと
する地球の巨大なシステムの一部でもある。しかし、今後も海水温が上がり
続ければ「スーパー台風」が頻発し、日本を襲う可能性が高まる。暴風によって
送電網の鉄塔が倒れ大規模停電が発生、高潮で都心まで浸水…、最新の
シミュレーションからは大都市の新たなリスクが見えてきた。大気や海水の
ダイナミズムが生み出す、地球最強の気象災害「スーパー台風」の脅威に迫る。

■第3集 『巨大地震 見えてきた脅威のメカニズム』
インドネシアや日本、チリなどで相次いで発生している巨大地震
地球を揺るがすほどの膨大なエネルギーは、どのようにして生まれるのか。
いま科学者たちは、地震波データを解析することで地下の構造をレントゲン写真
のように可視化する最新の“地震波トモグラフィー”を使って、そのメカニズム
に迫ろうとしている。番組では、地震波トモグラフィーが解き明かし始めた
地球内部の挙動から、巨大地震の発生メカニズムを読み解いていく。

■第4集 『火山大噴火 迫りくる地球規模の異変』
 地球の歴史上、繰り返されてきた火山大噴火。現代の私たちが経験していない
大噴火は、地球環境や人類にどれほどの影響をもたらすのか。火山研究の最前線
を取材し、その脅威の姿を見つめていく。

■第5集 『日本に迫る脅威 激化する豪雨』
 2014年、西日本の太平洋側では平年比301%の史上最多の雨が降り、全国的にも
記録的な大雨によって土砂災害や水害が相次いで発生した。最新の研究から、
日本列島に流れこんだ大量の水蒸気(暖湿気)が大雨を引き起こしていたことが
明らかになってきた。番組では、地球規模の大気と海の異変から日本を襲った
今年の異常気象を徹底的に解明。激しさを増す豪雨に私たちは、どう備えれば
よいのかを考えていく。

 ――
▼ 地元ではタブーかどうか? 柏崎刈羽原発が稼働して以来、地元の積雪が異常
 なくらい年々、減ってきた。世界最大の原発規模というのも、誰も口には出さない。
しかし東北大震災以来、その脅威を口に出すように… 彼らは、そこが地震帯の
真上にあることを知っていた上に、この計画を強行した事実が表面化してきた。
本来、地震と火山大国には、原発建設は無理があったが、目先の利権に、政治家、
利権団体も、目を逸らして… まあ、酷いことを…。とはいえ、資源貧国の日本に
とって、必要悪でもある。経済成長は国家としては絶対条件である。太平洋戦争の
敗戦以来、このかた。アメリカに次いだ経済規模に成上った付けが、返り矢として、
そのまま、災害として表立ったとみると、皮肉と言えば皮肉である。終戦直後に、
この日本に生を受け、ある意味、『起承転結』を、人生として経験できたことは
最たる幸運だったということか。 成るほど、その手応えは確かにあったような!
 
 で、脈絡として以下に続いていく。 これも偶然だが!
・・・・・・
6389,心に残った言葉 ~とにかく全部書け! ~1
2018年09月10日(月)
    * 未来とは、今である。
              ーマーガレット・ミード―
 この随想日記を含めて、ダイアリーなどに小まめにメモをする習慣があるが、
数年前からは、この二つ以外のメモをすることが少なくなっていた。何でもいい
からメモは、その時点時点の心象風景を表現している。随想日記に全身全霊を
入れているため、日々の魂の刻印になる。それを毎朝、書きしるし、過去の同月
同日分の幾つかを読返すのは、内省になる。その上、キーワードでHP内検索が
出来るのが非常に便利。 例えば『娑婆』と入力をすると、17年分、6千数百の
テーマの中から文章を検索、羅列してくれる。正しく「未来とは、今である」
として、いま現在、考え、書いていることが未来の今に、再会可能にしてくれる。
ネットサーフィンで、ある名言集のブログに、「未来とは、今である」があった。
毎日、書き続けるのは、今を未来に刻印することでもある。目標、夢は必要と
明確に示した内容である。

≪ 将来の夢や目標が明確になっている方は、
 いまやらなければいけないことも、おのずと見えるもの。
一方で、まだ将来の目標が定まらず、
いま何をしたらいいのか悩んでいる方も多いとおもいます。

わたしのまわりでも、
「今後のために いま何をすべきなのかわからない」
という話を聞くことがあります。
そんなとき、映画『メンフィス・ベル』のシーンをおもいだすことがあります。

メンフィス・ベル』は、第二次世界大戦中の英国にある米軍基地を舞台と
した映画。とても危険な任務のなか、爆撃機メンフィス・ベル」は、これまで
唯一、24回の出撃を無傷でのりきっています。25回目の任務を終えて故郷に帰る
ため、最後の飛行に向かう10人の若き乗組員のストーリーです。

最後の目的地に向かう途中、メンフィス・ベルと並んで飛行するのは
初出撃となる「マザー・アンド・カントリー」。
その新人無線士がメンフィス・ベルの無線士ダニーに無線通信をおこないます。

新人「 こちら、マザー・アンド・カントリー メンフィス・ベル応答願います 」
ダニー「 何事だ? 無線は緊急用だぞ 」
新人「 すみません、ちょっと質問が飛行日誌についてですが、
   無線連絡はすべて書き留めた方がよいのでしょうか? それとも。」
ダニー「 ぜんぶ書け、何が重要かは、後からわかってくる もう切れ 」
新人「 どうも、お邪魔を 」

このシーンが今でも気になるのは、ダニーの
『 ぜんぶ書け、何が重要かは、後からわかってくる 』という言葉。
それは、人生にも当てはまるのではないかと感じます。すべてを書き留める
ように、社会のなかで大きく目をひらき、耳をかたむける。そして、経験し、
感じ、考え、学び、そこから小さなヒントを得る。 その繰り返しのなかで
いつか自分にとって、本当に必要だとおもえるものが見えてくる。
だから、いま何をすべきかわからなくても、あせってその答えをだす必要は
ないとおもうのです。わからないのであれば、自分が好きなことに本気で打ち
込めばいいとおもうのです。そこにも必ずヒントがある。

若い命をかけて、メンフィス・ベルやマザー・アンド・カントリーに乗り
こむ乗組員たち。今日死んでしまうかもしれない彼らも、目の前のことに
全力をつくし、明日のために教えを請い、明日のためにアドバイスをする。
その姿から、どんな状況であってもすべては今にかかっているということを
学び、今日の名言『 未来とは、今である。』が心にきざまれます。  ≫


▼ 「何で、こんなことに全エネルギーを注ぎ込むのか?」
 私の場合、面白いという手応えと、充実感があるため。とにかく、書き
留めておけば、来年か、10年後の自分だけでなく、誰かが読んでくれる。
私にとって、「今こそ、未来そのもの!」 永遠である。

・・・・・・
5292,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー⑦
2015年09月10日(木)
         ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
             ~心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
  * 私の物語、私が書かずに誰が書く
 一年前に50回に渡ってー「事業人生を決心して45年」の語り直しー
を書いていた。思い浮かぶままの書きなぐりだったが、傍目からみたら、
バイアスがクッキリみえていたのだろうが、それが、その時の私自身である。
それも他人に向けて書いた内容ではなく、自分自身の旅路をそのまま書き
残したもの。あとで余禄も書いてあったが。  ~その辺りから
≪ 我々は皆、それぞれの思考や感覚の癖によって歪められた主観世界に住み、
自分に都合よく書換えた物語を生きている。登場する他者たちもリアル世界
の存在ではあるものの、そのキャラクターは主観者によって解釈され色付け
されるため、被害妄想的な物語を紡ぐ者にとっては迫害者となる一方で、
同じ人物が別の人間の目には英雄的存在として映っていたりするわけである。
 したがって、どれが本当の物語なのかは誰にもわからない。いや、本当の
物語などないのかもしれないのだ。マリー・アントワネットヘンリー8世
いった歴史上の有名人物も、その語り継がれたエピソードを忠実に再現しても
なお、解釈のしようによってその人物像はいかようにも描かれ得る。
私は私の物語をできるだけ正直に書こうと心がけてはいるが、己の主観の歪み
からはどうしても逃れられないため、公正なる第三者(そんな者がいるとして)の
目から見ると、かなりバイアスのかかった物語になっている可能性も大いにある。
それを考えると「正直でありたい」などという‘夢'というか、途方もなく
誇大妄想的な万能感に基づく放漫な野望なのかもしれないのだ。
 だが、私はそれを承知していてもなお自分の物語を書かずにはいられない。
私の物語を私の視点で語れるのは、この世に私ひとりしかいないからだ。
私が書かなくて誰が書く、といった心境である。いや、ぺつに誰も書かなくて
いいけど。どうせくだらない物語だしね。 しかし私は、ただでさえ少ない
脳みそをぎゅうぎゅうに絞っては、必死で己を表現しようとしている。私が
「言葉」を諦めないのは、自分の物語を諦めたくないからなのかもしれない。
私が体験したこと、私が感じたこと、私が見てきた世界の風景を、ありのまま
に届けたい。それは何故か? 私は何を伝えたいか? おそらくこういうことだ。
 私が何者なのかを、私は知らない。自分が何のために生きたかもわからない。
そんな無知蒙昧な私が己の人生を通して、どのような答えに行き着くのか、
私とは何者だったのか、私の人生にはどんな意味があったのか、それを
読者に問いたいために、私は私の物語を書くのである。 
 正確なジヤッジを下して欲しいから、できるだけ正直に書きたい。
私の主観によるバイアスも含めて、私という人間を客観的に解読して欲しい。
その結果、とんでもない詐欺者だという結論を下されようが、ただの頭の
おかしい自己顕示欲女だと言われようが構わない。私は他者の目にどう映るか…
それが知りたいから、私は書く。間違っていようが狂っていようが、私の中の
本気の言葉を書き続ける。「言葉」は私の神であり、「言葉」は私自身である。
そんな私の言葉を信じなくても構わないし愚弄したければしてもいいが、
わざと歪曲するのは許さない。無意識から生まれた曲解であれば仕方ないけど、
故意にやったらそれは悪意だ。私に対する、いや、私の「言葉」に対する
侮辱なのである。・・・ ≫
▼ 人の口は歪曲そのもの。その歪曲を許せないとは! とすると、
 己の歪曲もまた許せないことになる。そこから悩みも矛盾も出てくる。
物書きだから、仕方がないとしても・・『日々是口実』と自覚を持てば、己も、
他者の歪曲も許せ、見逃せる。 自分の物語を書き出すことは、自分の歪み、
壁に気づくことになる。 それこそが自分自身であると自覚することになる。

・・・・・・
4927,パワレルな知性 ー5
2014年09月10日(水)
   * 専門主義と、教養     『パワレルな知性』鷲田清一
 人生を振返ると、あらためて教養の必要性を感じる。仕事や、目先の事象に
影響する経験や知識でない純粋に知っておくべきことがある。古典文学、芸術、
音楽、大自然の景観に感動することや、世界の果てから、あらためて現在の
自分を振返ることも、教養である。その積み重ねが、複眼で問題を見ること
を可能にする。見識が狭いと、その枠内でしか考えることが出来ない。
 ーその辺りからー
≪ 学者や専門家は、ながらく、みずからの知的努力を一つの専門領域に絞り、
専門外の領域に対しては、越権行為としてみずから禁じてきた。逆に、専門外
の意見は、受け入れようとしなかった。しかし情報化の時代に、そんな態度は
とれなくなってきた。 ・・協同するプロたちにとって、組む相手はいずれも、
じぶんの専門領域からすればアマチュアだということだ。とすれば、ほんとうの
プロというのは他のプロとうまく共同作業ができる人のことであり、彼らに
じぶんがやろうとしていることの大事さを、そしておもしろさを、きちんと
伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けること
のできる人だということになる。一つのことしかできないというのは、
プロフエッショナルではなく、スペシャリストであるにすぎない。
 このことが意味しているのは、ある分野の専門研究者が真のプロで
ありうるためには、つねに同時に「教養人」でなければいけないということ。
「教養」とは、一つの問題に対して必要ないくつもの思考の補助線を立てる
ことができるということ。いいかえると問題を複眼で見ること、いくつもの
異なる視点から問題を照射することができるということである。このことに
よって一つの知性はより客観的なものになる。そのためには常日頃から、
じぶんの関心とはさしあたって接点ない思考や表現にふれるよう、心懸けて
いなければならない。じぶんの専門外のことがらに対しいつも感度のいい
アンテナを張っていること、そう、専門外のことがらに対して狩猟民族が
もっている感度の良さが必要である・・≫
▼ 穴を深く掘ろうとしたら、間口を広くしなければならない。その間口
の広さが、知識の幅になる。ここで、スペシャリストとプロフェッショナル
との違いが分かりやすい。そのために、人の話を聞くこと、本を読む、何事
にも興味を持つ、一流のものに接する、とにかく変化する、など長年かけた
習慣が必要になる。情報化の時代、専門主義では大波に一瞬で流されてしまう。
それにしても我が教養の少なさを実感する。これも自覚できるか、出来ないか
の違いでしかないが! 高学歴ほど、それが分からないから始末が悪い! 
知れば知るほど、知らないことが多いことに気づくはずなのに、である。
知れば知るほど、膨大な未知の世界の存在に気づくはずなのに、である。 
専門分野も、掘り下げれば下げるほど、専門外の知識が必要になって然る
べきだが? 掘り下げが中途半端だから、視野狭窄になる?

・・・・・・
6023,閑話小題 ~相撲談義
2017年09月10日(日)
   * 今日から大相撲…
・今日から大相撲が始まるが、4人の横綱のうち白鵬を含めた3人が休場で
興味は半減。まだ白鵬あっての大相撲。 若手が力をつけてきたが、横綱の器
は、見当たらない。休場が多いのは、結論でいえば、『ガチンコ(真剣勝負)』
が、拙いということか。 所詮は興業の世界、みる方からすれば、真剣勝負が
面白いが… やる方からしたら大変である。 ガチンコ相撲を見るにつけ、
朝青龍が不祥事で追放された幸運もあるが、白鵬は褒められて然るべき大横綱
 腕白相撲、高校相撲をみていると、強そうなのが多い。それと、若手力士にも
多く見かけるが、まず目先の大関横綱の既存体制を維持しないと。
当然、上位陣に強いのが勢揃いするが、ここは死闘の場。 張り手が、上位の
特権のように使われるが、相撲は番付階級社会。下位力士が上位に張り手は、
やり辛い。やれば、稽古場で、リンチ状態の「可愛がり」が待っている。

・奇数の隔月に15日間、相撲がTV中継をしている。その間、平均して2~3時間は
みているが、特に4kTVを入替えてから、臨場感が格段アップしたため、面白さが
増したことは、何度か、ここで書いてきた。特に「初日」と「千秋楽」の緊張感
が良い。また土俵の溜り場の観客の服装と表情と反応。そして、待合の付人や、
呼出し、行司の所作も臨場感を醸し出す。

・解説は「北の富士」が特に秀でていて、次は「舞の海」。先般亡くなったが、
千代の富士」と、「元・大乃国」辺りが良い。 相撲ファンの「有名人」が、
放送に加わるのは「当り、外れ(適、不適格)が大きく」いただけない。
 
・大相撲をテーマにすると「ああ、私も歳をとったもの!」と、自ら思いしる。
幼児の頃からラジオで取組を聞いていたので、ファン歴は65年にもなる。
特に最近、横綱、三役より、幕下、十両の若手の有望な力士に興味がいくのは、
老いたためか。相撲取りは、潰しの効かない、大怪我の危険を伴った格闘技。
将来を考えたら、躊躇する職業。好きだからこそ、選択するとしても、だから
応援したくなるのだろう。

・・・・・・
5657,閑話小題 ~SJの現場で!ー②
2016年09月10日(土)
   * 週、5回のヨガにチャレンジ
 先々週は週に5回、先週は4回、続けて参加したが土曜日の5回目の予約チップ
を2時間半前に取りに行ったところ、既になく、目標達成はならずなかった。。
今週は、4回続けてきたが、今日は如何に?と思いきや、先週同様、昨日から
腰痛が出ている。 過ぎたるは及ばざるがごとくで、週4で十分が実感。
 先日、ヨガの待合の行列の前の同世代の人に、知りあいが声をかけてきた。
『週に5回、出席しているが、欠かさず参加して何が良くなったか、今のところ
分からない』と。私の実感と同じような疑問。先週の土曜には、少し、腰痛気味
だったため、予約チップが無かったのが良かったと思っていた。
そこで、行列の間、同じ状況の私が答えは何だろう?と、暇にまかせて考えた。
『効果云々は、その人によるが、週5回は、毎日になる。好きで、調子が良く
なければ、出来ないこと。思うに、<大好きになるため>ではないか。
大好きになれば、参加する理由はなくなる。理由は<好きだから>になる。』
 大好きとしても、週5がキツイなら、週4に減らせばよい。週3回、予約チップ
を取りに行くのもキツイなら、それだけ好きになれないとことになる。
これは、人生すべてに言えること。継続は力であり、愛であり、知恵の母である。
 連日、続けることが出来るのは、集団でこそ可能。意思薄弱な私に、独りは
どだい無理。 蓄群と、群れる人たちの弱点を突きながら、自分は、群れヨガに
参加している。何をか言わんやである。 添乗員の付く、ツアーに参加して
世界の僻地に行けないのに、こと日常生活で、群れたがる人たちを冷ややかな
目線で見ている私が、ここにいる。 「集団セルフマッサージ」として費用
効果としては、最善だが。腰痛からして、今日は止めにする。 お暇なことで!