読書日記 ~『怒りを活かす人…』 ~1

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     <「怒り」を活かす人、「怒り」に振り回される人>和田秀樹著> 

 6年前に12回シリーズで『怒りの作法』をテーマにあった。ま6年前まだ心の傷
が癒えてない頃。心も病むと化膿し、放っておけば、死に至る危険をはらむ。
ならば、「怒り」の感情を凝視して有効活用をすればよいと… これを最大利
したのがヒトラー。これは大型シラミで何千万人を殺戮した。 スターリン
毛沢東も似たような者。 現在が、第一次、二次世界大戦前夜に酷似。プーチン
トランプ、習、そして、あの男。図書館を彷徨っていると、精神科医和田秀樹
の <「怒り」を活かす人、「怒り」に振り回される人>があった。 そこで、
 怒りに支配されたら、まず時間を稼ぐこと、そして、「怒り感情に振り回され
ない自己洞察を持つことの二つを上げている。この数年、様ざまな怒りを納める
ため、生活習慣を、フロー状態に可能な限り置くように、それに見合った一日、
週、月、年単位の行動スケジュールを組んでいる。 物語とは、喪失、挫折、
怒りを納めるために作られると… ハリウッド映画のベースは、情報過多で、
満たされない鬱憤やストレスを主役が破壊する物語がベースにある。
TVのドラマもしかり。四苦八苦を開放するために日々がある。8苦の中で、
一番のエネルギーが、「怒り」。それを如何に有効活用するか? 
 なかなか、含蓄のある精神科医の切り口が面白い… 
怒れ、哀しめ、喜べ、遊べ、もっともっと! 生きている内である。
そんなに自分を大事にし過ぎたら、比較地獄のシラミの人生を過ごすことに。
                           ~つづく
――――
4484, 怒らないって本当は恐い!  ―1
2013年06月26日(水)              『怒りの作法』小川仁志 著
 以前にも書いたが、生家が大家族で商売をしていたこともあり、自分の感情を
顕わにすることは絶対タブーの中で育った。 それもあって、
『情念の話術』ーヒトラーの魔力 ー を学生時代に読んだ時、私の常識と全く
逆の内容に驚いたもの。この本ではナチスの大衆誘導の手法を教えていた。
「大衆は女子供のようなもの。喜怒哀楽を込めた情念で煽って集団催眠にかける
手法である。右手を胸につけ右上にあげる。演説で大声を振り上げ怒りの感情を
大衆に訴え扇動する。それらの手法を日常の話術や、行動のエネルギーの源泉に
せよ。喜怒哀楽をエンジンとみたてフル回転し行動のアクセルにせよ」というのだ
から… 当時の私にとって、これは性格を変えてしまうほどのインパクトがあった。
私が怒りっぽくなったのは、これもある。これを人知れずノウハウにしたら、
突然狂ったと思われるはず。喜怒哀楽の中で、一番疎んじられている怒りこそ
(仏教の影響もあって)日本人に欠けている。切れるのではなく、コミニケー
ションの扉を開くための道具とすべしというのも納得できる。コミニケの中で
怒りの訴える強度が一番高い。もし人種差別の場合、笑って抗議しても、泣いて
抗議しても、怒りほどのインパクトはない。問題は、その表現の仕方である。 
これが『怒りの作法』の中で貫かれている主旨である。 怒りこそ感情の主。
逆に人間関係を一瞬にして破壊してしまう薬にも毒になるしろもの。そこに作法
が必要になる。ここで、アリストテレスの「怒りは、しばしば道徳と勇気の武器
なり」という言葉を紹介している。
《 それはまさに「正しく怒る」ことである。「怒らないこと」でなく、
「正しく怒ること」が大事ということ。 アリストテレスの「中庸」という思想
を見ると、このことがわかる。中庸とは最も望ましい状態のこと。怒りに対する
「穏和」を意味する。つまり、然るべき事柄に対し、然るべき人に、然るべき仕方
で、然るべき時に、然るべき間だけ怒る。これが賞賛すべき怒り方であって、
こうした怒り方の出来る人を穏和の人という。 怒ることは、必ずしも悪いこと
ではない。しかし、現代人は怒ることを出来るだけ避けようとする。もっと怒る
べきなのに。(p3)》
 以前は、今に比べれば、穏和に怒ってくれる人が多かった。でも現代は違う。
怒りを抑えることが良いとされ、それが沈殿してしまう。そして爆発し全てが
破壊する。 怒らないって、本当は恐いのである。
 
・・・・・・
4485, 怒らないって本当は恐い! ー2
2013年06月27日(木)
                『怒りの作法』小川仁志 著
    * 日本人はなぜここまで怒らないのか
 何故に日本人は怒らなくなったのか、その理由を幾つか取り上げている。 
   ーその部分を抜粋ー
・ 三木清は『人生論ノート』の中で、「他の感情から比べ、否定的にとらえ
 られるのは、怒りが憎しみと混同している点にあるとしている。三木は憎しみ
 は負の感情しかないが、怒りはそれとは違う正のエネルギーを秘めた感情という。
 したがって、まず怒りに課せられた誤解を解くことから始める必要がある。
 感情とは内側から生じてくる一種のエネルギーであって、それをうまく放出
 することによって、人間は人間らしくふるまえるのである。
・ なぜ怒りだけが抑圧されるかというと、そのイメージは、ほとんど常に
 暴力的言動に結びついているため。怒っている人の原因を聞くと、理解が出来る。
 しかし、その言動は否定することになる。互いの主観をみとめ、話し合い、理解
 するのが人間たる由縁だが、暴言や暴力に頼り、他者から理解してもらうことを
 諦めてしまうため現代人は動物化しているといわれる。
・ 権力者は、怒る人間より従順な人間を好みます。自らの保身のためである。
 長年かけて教育を始めとした啓蒙活動で人間の怒りを去勢し、従順な国民を作り
 上げてきた。・・・ 怒りという正常な感覚の一部を奪われてしまった人間は、
 他の感情ー喜と哀と楽も歪なものになっていく。笑えない子供、泣けない大人、
 楽しめない人間。極端までに怒りを嫌悪する現代社会は、こうした「異常現象」
 が顕著になっている。人間は、怒りそのものを抑圧されることによって、喜怒
 哀楽という自然を失い、不自然な存在に歪められていく。 「風土」論にみる
 日本人とは?といえば、 和辻哲郎の風土論がまっさきに上げられる。
 彼は世界の気候をモンスーン型、砂漠型、牧場型の三つに分けた。
 モンスーン型は、温暖湿潤なため温厚と同時に忍従的であるため従順な人間に。
 これに対し砂漠型は、厳しい自然に抵抗するため攻撃的になる。
 また牧場型は、自然を囲い込んで征服しようとするため、合理的に物事を考える
 ようになる。日本はモンスーン型、アメリカと欧州は牧場型。砂漠型は
 アフリカやモンゴル。中国はアジアに属するが服従しないという点では特殊。
 農村的なるもののエートスは、共同体を重視するため 近所と波風を立てない
 ことが、まず求められる。あの人は、どう思うかということばかりが気になり、
 常に頭の中に、自分を睥睨する他者の視線が紛れ込んでいる。 現在の日本の
 社会制度はほぼ農村出身者によって作られたもの。たとえば、学校。あれは
 目立たないことを教え、人と違う意見や行動を封じ込める場所。まさに教室と
 いう名の農村。もう一つ、気候と関連するものに地形がある。小さな島国の
 日本人は、外部に対して、まず慌て動揺する。
・ 個人主義化が、歪んで怒れなくなったことも注目すべきである。30年前の
 1982年頃は丁度個人主義が満開に達し、日本中が浮かれ出した。思想界では、
 ポストモダンというバラバラの個人を前提とした考え方が隆盛を極めていた。
 もう一緒に共通の夢、「大きな物語」を追いかける時代は終わったと・・・ 
 それ以降、個人主義が拍車をかけていった。そして誰も怒らなくなった。権利
 意識だけ高まった人を怒って面倒になるなら、自分の夢を追求した方がましだから。
▼ 怒れなくなった若者、切れる老人が多くなったのは、正しい怒り方が出来ない
 からである。デフレ時代の恵まれない時代背景に、どう怒ってよいのか、ただ
 呆然として立ち竦み、怒りの沈殿が、個々人の中で憎しみに変わろうとしている。
 そういえば、北朝鮮の女アナウンサーのコメントは常に怒った内容。そして威嚇
 したもの。内向きの統制が目的のためもあるが、明らかに支離滅裂。とはいえ、
 その対極にあるような日本も間違いなく変。何のポチは怒りを悪と洗脳されたか。
 
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4487, 怒らないって本当は恐い! ー3
2013年06月29日(土)
                    『怒りの作法』小川仁志 著
   * 怒るとは哲学することである
 考えるきっかけのひとつに「感動すること」がある。ところが、ここで
「怒るとは哲学をすること」と、いう。突然、死に直面すると「まだ遣り残した
ことが多い自分が何ゆえ死ななければならないのか?」という怒りが沸くという。
そして当然、「死とは何?」に行きつく。 怒りは対象を根こそぎ否定し、
一歩踏み込むことになる。 ーその辺りからー
 ≪ 哲学の端緒としての疑う行為とは、「何かおかしい」という、現実に対する
怒りなしには生じえないのです。その意味で、哲学はその出自においてすでに怒り
と密接に絡みあった営みであるということができます。哲学の父とされる
ソクラテスよりも、さらに前の時代の哲学者たちは皆、自然現象のメカニズムに
疑いを投げかけ、これは決して神の仕業などではなく、世の中を構成するもっと
理屈の通った原因によるものにほかならないと考えた。現代社会とは異なり、容赦
ない自然の猛威に為すすべもない時代、彼らは苛立ったことでしょう。自然は何から
できているのか、世界は何でできているのか、いったいこの世の本質とは何なのかと。
その精神を受け継ぎ、哲学は西洋社会で鍛え上げられてきたのです。世の中を説明
するための原理として耐えうるように。そしてデカルトを生み、カントを生み、
へーゲルを生み、二ーチェを生み、今なお多くの哲学者たちが西洋社会で怒りを露わ
にしています。それは現実に迎合したり、諦めを隠ぺいするために「真理」を妄信
したりするような行為とは正反対の、いわば現実に対する知的抗議ともいえる営み
なのです。 怒りは言葉を生み出します。怒ることを「黙ってはいられない」など
と表現することがあるように、怒りは人に対して言葉を発するよう仕向けるのです。
それはまさに哲学の営みにとって不可欠の要素であるといえます。・・・当たり前
のことに怒る、わからないことに怒る、権力に怒る、従順なだけの民に怒る、自分
自身の人生に怒る。怒るとは、生きるうえでの情熱の尺度であり、それは悩み続ける
人生を引き受ける営みにほかなりません。まさに怒るとは哲学することである。≫
▼ 問題解決には、粘り強い思考が要求される。単に感情をぶつけ合うのでなく、
エネルギーを出し合って、ベストの道筋を考え出すのに怒りを利用すればよい。
創業は、正に怒りの連続になる。目に見えないものを独り信じ、一つずつ積み
上げていく。そこに計画通りにいかない苛立ちと不安と怒りが、自分の行為の
エネルギーになる。また考えるヒントになる。哲学者の中島義道の著書の中で、
彼が怒りっぽいことを具体的に書いていたが、この本を読んで、納得。この一連の
出来事の中で、多くの怒りに直面してきた。その都度、目を背けないで、怒りの
本質を凝視してきたが、成るほど、そこに経験者しか知りえない道理を見ることが
出来た。手の裏を返してきた彼等。 ああ、そうだったのか! という気づき。
それもあって、「怒るとは哲学することである」という言葉は、実体験で理解できた。
 結局、人間は色いろな究極の場面で、品性が出てくるもの。それも、マイナーの
方が表立って噴出してくる。年齢を重ねるほど、哲学(考えること)する必要性が
ある。何故、あの時、あの人は、あれだけ怒ったのだろう?
何故、私は、あの時怒ったのだろう? あの時の感動で何が変わったのだろう? 
感情の最たるものは怒りと感動?
 
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4497, 怒らないって本当は恐い! ー12
2013年07月09日(火)
                      『怒りの作法』小川仁志
   * 怒らない作法
 矛盾しているようだが、ここで「怒らないという方法」について言及している。
≪ 怒らなくても問題が解決する時に、あえて怒る必要がない。その場合、静観
する勇気も必要で、淡々と処理をする。相手が怒っている場合、特に注意すべき。
ネガティブの人、卑小な人を相手にすると、同じレベルまで落ちる危険がある。
 ニーチェは、他人の成功を妬んだり、自身の弱さを他人への復讐心に変えていく
ような人間を「ハエ」と表現、そこで「そんなハエを叩いて人生を過ごしてはいけ
ない」と警鐘をならす。もう一つ、人間が一人考え行動できることに限界がある。
そういう限界に謙虚になるのも必要なこと。怒って解決できる物事ばかりでない、
気が熟するの待つことも必要である。その間に、知恵を増やすか、仲間を増やし、
力を増やしてから、改めて怒れば良い。その意味で、信長型ではいけません。
待つという意味では秀吉型でも足りない、家康型でなければいけません。・・・≫
▼ 一連の事業撤退のプロセスで、地方経済の惨状認識の実感と周囲の段差に驚き、      
 怒りさえ感じた。商売柄、津波の到来が早い立ち位置にあっただけだが。 
ニーチェは、「ハエ」と表現したが、私は「シラミ」である。そういう私もシラミ
だが、ただシラミを自覚している。いや自覚できないのがシラミだから?私は?… 
だから、そろそろ気持ちに余裕が出来て、改めて見渡すと、危険度が増している
のが分かる。民主党も酷いが、自民党も酷い。あの戦犯の?二人が首相と副首相
になり、更に悪い間違いをしようとしている。その付けを支払うのは国民である。
その自民党に国民が多く支持しているのだから。政治的にみて憲法改革は必要。 
甘い餌で釣ることもありだが。怒るには覚悟がいるが、怒らないことにも覚悟が…。 
その場をともかく遣り過し、タイムラグを置く。そのため「シラミ」と頭の中で
繰返す。これが一番、効果があるが「三ヶ月に一度は、嫌なことはある」と覚悟。
面白いもので慣れる。シラミ、ハエは事実は事実であると確信すると割り切れる。
「娑婆娑婆」である。その意味で、この経験は私の人生の物語にとって必然だった。
受け止め方の問題でしかないが・・・
 
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6255,閑話小題 ~トルストイの幸福論
2018年04月29日(日)
   *  ブッダの例え話
 確か中村天風の著書の中でも取上げていたが、佐伯啓恩の『反・幸福論』で、
ブッダの例え話」が、人生を考える上で参考になる。
《「若い時から放縦な生活をし、金と名声を得るために書物を書き、雑誌を書き、
欲しいものはすべて手にいれたトルストイは結婚を機に、すべてのエネルギーを
家族の幸せ、幸福な家庭生活を築くことになります。しかし、その果てに浮かん
でくるのは『それが一体何のためなのか。』という執拗に浮かんでくる疑念。」 
その挙句に彼は「人生は無意味である」という真理に到達して、もはや生きる
ことができなくなってしまった。 トルストイブッダの例え話を知り、
「これこそまぎれもない人間の真実だ」と絶賛した比喩話を取上げている。
【 ある旅人が猛獣から逃れて、そばにあった井戸に逃げ込みます。ところが
 その井戸の底には竜が待ち構えている。旅人は外へでることも出来ず、底に
降りることも出来ず、中途の隙間に生えている灌木につかまっています。
そこへネズミが出てきて灌木を削り始めた。もうどうしようもありません。
ところが灌木の葉には甘い蜜があることを見つけた旅人は、その蜜をチュー
チューと吸い始めるのです。
 トルストイはこの旅人を自分が置かれた境遇だと感じている。しかも下に竜が
いると思えば、もはや密は甘くないのである。トルストイはこれは自分だけが
置かれた境遇ではなく、すべての人が置かれている境遇だというのである。
「これは決して作り話ではない。これは真実の論じ合う必要のない,凡ての人が
知っている真理なのだ」とトルストイは言っている。
かつて家族や芸術はトルストイにとって「甘い蜜」であったのである。
そして金や名声ももはや密にはならない。唯一の真理は、底に落ちるにせよ、
ネズミにかじられるにせよ、上に這い上がるにせよ、とにかく「死」なのである。
その真理は即ち「死」ということになる。
トルストイは このあと「人生論」などを書いて試行錯誤を重ねながら、
彼なりの「死生観」や「人生観」に形を与えようとする。】
「人間の生は根本的に矛盾をはらんでいる。どうしてかと言うと、人は幸福に
なろうとして生きている。この幸福はあくまでも私の幸福であり、人は自分の
幸福を得るために生命の力を感じる。ところが自分の生命はやがて死によって滅び、
無へ向かっていく。人が幸福を追求しているということは、実は個人の生命と共に、
幸福の可能性を消滅させる方に刻一刻と接近しているということになる。」》

▼ 灌木が、「残された己の人生」という解釈がある。所詮は最期は、竜に呑み
 込まれる運命にある。ならば甘い灌木を吸い味わい、一刻でも、現実から目を
逸らす。それでいいじゃないか。宇宙の一瞬を感じることこそ生きること。
中村天風の例え話は、猛獣に追われた旅人が断崖にしがみついたツルを一匹の
ネズミが噛り付いて、今、まさに落ちようとする姿を人生に例えていた… 
ツルが人生、ネズミは時間、猛獣は現実。谷底が死ですか。

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5158,不幸不利の7つの法則 ~�
2015年04月29日(水)
 そこで、幸福優位の7つの法則の真逆の言葉を書いてみる
  ~不幸不利の7つの法則~
法則1: 不幸感の強い人は、周囲に人に違和感と、悲哀感と、絶望感を与える
  2: 心のマイナスへのレバレッジ化が強くなり、ドブ沼にはまりこみ、
     その毒を周囲にマイナスを振りまく
  3: 何事にもマイナス要素に対し敏感になり、何事もマイナスに考え、
     粗探しを求めて彷徨う、あの人たち
  4: 下降の勢いを他人に向けて、結果として傷口の血を周囲に塗りつけ周る
  5: ゾロ・サークルの円が、日々、小さく、固くなり、自分の首を絞める
  6: 20秒ルールが、悪く働き、下降曲線が身につき、悪い習慣が増強される
  7: ソーシャルに毒を撒き続けることで、その毒が返り矢で降りかかる
 多くは、四苦八苦に打ちのめされ、「貧すれば鈍する」の負の連鎖で、恨みを
買う劣者のスパイラルに入っていく。「順境には枝を、逆境には根を張れ」の
とおり、ただ、ジッと下を向いていれば良いものを。傍からみれば、私の現状は、
まさに、上記の法則のように見えているのだろが、何とか『不幸不利の法則』の
スパイラルから逃れている。 子供の頃から現在に至るまで、様々な『不幸不利」
の事例を見てきたが、それはそれは残酷なもの。とにかく、不幸不利の状況に
立たないことだが。 備えを普段からつくり上げておくしかない。
とはいえ、全ての人には、死という挫折が待っている。死ぬまでは生きている
のだから、死を悟る瞬間までは、幸せに生きなくては! 
ところで、毎年、小、中、高、大学と同級会に出席しているが、上に進むにつれ、
不幸不利の人の割合が、少なくなる。 これだけは、仕方がないことだが。
 『泣いても、笑っても、同じ空!』である。
 ~参考~ 「幸福優位の7つの法則」
法則1 ハピネス・アドバンテージ~幸福感は人間の脳と組織に競争優位をもたらす
法則2 心のレバレッジ化~マインドセットを変えて仕事の成果を上げる
法則3 テトリス効果~可能性を最大化するために脳を鍛える
法則4 再起力~下降への勢いを利用して上昇に転じる
法則5 ゾロ・サークル~小さなゴールに的を絞って少しずつ達成範囲を広げる
法則6 20秒ルール~変化へバリアを最小化して悪い習慣をよい習慣に変える
法則7 ソーシャルへの投資~周囲からの支えを唯一最高の資産とする

・・・・・・
5888,閑話小題 ~タクシードライバー
2017年04月29日(土)
   * タクシー車内は
 わけアリの運転手が、様々な事件に遭遇するドラマ
『女タクシードライバーの事件日誌』~主演・余貴美子と、
タクシードライバーの推理日誌』~主演・渡瀬恒彦のドラマのほぼ全てを
何度か見ている。 渡瀬のドライバーは、元刑事の経歴を持つタクシー運転手が、
元刑事の視線を通して、乗客が関わる事件を解決する推理ドラマ。
2017年初夏に第40作の撮影が予定してあったが、主演の渡瀬が2017年3月に
死去したため、2016年放送の第39作で最後となった。
 余貴美子のドライバーは、亡き夫が事件に巻き込まれ死亡。 ドライバーを
しながら事件の真相を追うもの。 タクシー車内は、考えてみれば妙な空間。
一瞬だがフッと気が緩んでしまう運転手と客の目的地までの共有空間。
 景気話とか、ドライバーの身の上話が、色いろ考えさせられる。
 ~10数年程前、一度、書いた内容を検索したもの~
【 25年ほど前に、札幌でタクシーに0時ごろに乗ったとき、
 運転手に「深夜の勤務は幾らほど出るのか?」と聞いたところ、
その内容に一瞬にして酔いが醒めてしまったことがあった。
「札幌はね~、最悪の景気なの。私も問屋を倒産させてしまって~
最後の生き残りをかけて運転手をしているの。といって今さら正社員じゃ
無理なの。夜のタクシーは、殆ど私と同じ立場の中途半端の中年が小金を
稼ぐため、タクシー会社と契約して夜間だけ車を借りているの。
客を拾えなければ収入はゼロだから必死。何処で客を拾うか、ハンターと
一緒で勘が頼り。とにかく生きていかなくてはならないからね~辛いよ!」】
 ~いま一つ~  地元で、<稼ぎは、どのくらい?の質問に>
【 自分が子供の頃に、両親が離婚をして母親の女手一つで育てられ、
 生活の為、中学卒業と同時に働きに出たの。しかし、中卒じゃ、給料が
低いし…職を転々をした後、水商売に。そこで知り合ったホステスと結婚し、
店を開いたけれど、家内は一人娘を捨てて客と駆け落ち。結婚をして出て
いった。母親は今も元気で同居をしている。手取り17~18万と、母親の
年金だけで、蓄えはない。人生に良いことは、あまり無く、虚しい。
これで母親が亡くなったとしたら、と考えると… 】
――
 海外の刑事ドラマや映画にも多く、加害者、被害者の立場で遭遇する
ストーリーが多くある。今では車内に録画機能がついているため、客も気が
許せない。来年あたりから、相乗りが認可されるというが、そこに更に
ドラマが生じるのだろう。大都会の移動空間の小さな密室に、様々な
‘人間的、あまりに人間的なドラマ’を乗せて、今も走っている。
・・・・・・
4426, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー9
2013年04月29日(月)
        「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲
  * 日本人は実は会社が大嫌い
 これまで年功序列と終身雇用の日本的システムこそが人々を幸福にすると
信じて疑わなかった。が、実はサラリーマンは昔から会社が大嫌いでガマン
して働いていただけ。それが出来たのは高度成長でパイが拡大していたため。 
バブル崩壊で景気が落ち込むと、日本的雇用制度が虚構の上で成り立っている
のが露呈してきた。 著者は、ここで、
《 大卒内定率が50%を下回るのも、3人に1人が非正規雇用になるのも、
 中高年のサラリーマンにうつ病が急増するのも、日本人がアメリカ人の2倍
(イギリス人の4倍)の割合で自殺するのも、すべて、機能不全を起こした
日本的システムから生じる同根の現象》という。誰が好きこのんで年功序列
終身雇用のラインにいるのではない。それなりの理由があるため。
  ーその辺りを抜粋してみるー
≪ バブル最盛期の1980年代後半に行なわれた、仕事の満足度に関する
 日米比較調査がある。おそらくほとんどのひとは、日本と米国のデータが
すべて逆になっていると思うだろう。この調査結果は衝撃的で、私たちの「常識」
を根底から覆す。カリブォルニア大学と南カロライナ大学によるこの調査は、
日本の厚木と米中西部イソディアナポリス地区の製造業七業種の労働者それぞれ
4千人あまりを対象とした大規模なものだ。彼らは日本と米国の仕事観に際立った
違いを明らかにした。
* 結局のところ「いまの仕事にどれほど満足ですか」との質問に対し、
 満足との回答は米で34%、日本はその半分の17・8%。不満は米では
 わずか4・5%に対し、日本はその三倍の15・9%にのぼる。
*「あなにの友人にこの会社であなたのような仕事を希望したら、あなたは
 勧めますか」の質問には、米では63・4%が友人に勧めると答えたのに対し、
 日本はわずか18・5%だけだ。逆に勧めないと答えたのは、米が11・3、
 日本が27・6%だ。
*「いまあなたが知っていることを入職時に知っているとしてこの会社の
 いま一度、この仕事につきますか」の質問では、「もう一度やりたい」
 との回答は米ではじつに69・1%、日本は23・3%と三分の一にすぎない。
 二度とやりたくない」は米ではわずか8%、日本は39・6%と回答者の
 四割にものぼる。
*「いまの仕事は、入職時の希望と比較して合格点をつけますか」に対しては、
 合格点は米33・6%に対し日本はわずか5・2%にすぎない。否定にいたって
 は米の14・0%に対し、日本は62・5%と過半数を超える。もういちど
 繰り返すけれど、これは雇用崩壊が騒がれるようになった最近の調査結果
 ではない。80年代は日本企業が世界に君臨し"ジャパン・アズ、ナンバーワン"
 と呼ばれた時代であり、一方のアメリカでは、家族経営を信条としていたIBM
 コダックAT&Tなどの大企業が次々と大規模なリストラに追い込まれていた。
 それにもかかわらず、アメリカの労働者のほうが日本のサラリーマンよりも
 はるかに仕事に充実感を持ち、会社を愛し、貢献したいと思っていたのだ。≫
▼ アメリカの平均的家庭はプロテスタントで、働くことの価値の宗教的
 裏づけがある。日本にあるのは、儒教朱子学の勤勉と、藩への滅私奉公の
意識ぐらい。それもアメリカの占領政策により、骨抜き。特に私は従属が大嫌い。
そのため会社に入らないで済ませるため、自分で会社を作る道を選んだ。
振り返ると、それが正解? 調査結果の内容は、国民の民度の問題でもある。
これでは経済の荒波が来れば、ヘチャルわけ。使われるのも大変だが、
使う方はモット大変。 * これらの質問の逆を考えて、何人肯定出来る? 
日本人と同じ比率? 肯定肯定、絶対肯定!と、感謝の言葉を繰り返す日々。

・・・・・・
5523,若者よ、外に出よ! ー� トルコ編
2016年04月29日(金)
             ~『人生の教科書』 なかにし礼
 トルコは日本人にとって何か懐かしいような馴染深い感じがする。
東西の境目の地勢的位置がトルコという国を特徴付けている。それと、
極東アジアの小国が、敵国・ロシアのバルチック艦隊を撃破したことも、
彼らにとって大きな衝撃として今でも残っていて、異様な親近感がある。
  * トルコで自分の中の神秘を知る
≪ トルコのイスタンブールという街は紀元前からずっと途絶えることなく
 現在も生き続けている街だ。そんな街はイスタンブール以外にない。
パリなんて街として始まったのは12世紀からだ。ニューヨーク、ロンドン、
東京、みんなまだ新しい街と言っていい。 紀元前から栄えていまだに続く
大きな街はイスタンブールだけなのだ。ボスポラス海峡を挟んで2キロ先に
アジアがあり、手前がヨーロッパという風景の素晴らしさ、東洋と西洋の文化
が交差し、融合し、新たなものを生み出してきた街。人類の歴史が濃縮された
街が今もなお残って生きている。そこに飛び込んでいくことは計り知れない
刺激を与えてくれるはずだ。コンヤという街がある、「スーフィー」という
イスラムの愛の神秘主義者たちの街だ。高い帽子をかぶり、白いスカート状の
服を身につけてクルクルと無限に回って踊る。セマー(旋回舞踏)という
踊りだ。これが素晴らしい。彼らは踊ることによって自分の中の奥底にある
愛に達する。その恍惚によって踊っている人は皆笑っている。すべての
雑念を捨て去った美しい舞踏は、スーフィーという愛の哲学者たちによる
人類の神秘の領域を垣間見せてくれる。イスタンブールとコンヤを旅したら、
もう「夢がない」なんて言っていられない。 ≫
▼ 「今までの旅行で、何処が一番よかった?」と、ツアー仲間から、度々、
 聞かれることがある。しかし、その都度、答えに窮し、「3分の2は優劣を
つけがたい」と答えるが、「それでは3つ挙げて」と、決まったような質問。
そこで、その都度、相手をみて変えるが、文化的カルチャーショックの
大きいのは、「エジプト・トルコの旅」と、初回の「欧州30日間の旅」である。
イスラム圏のエゴ丸出しの文化も、想像の域を遥かに超えたもの。
世界は広く、深い。そして濃厚である。現在、欧州では「トルコに近づくな!」
が合言葉だそうだ。テロだが、今ではパリと、ベルギーが、次の要注意国。
こうして過去の文章を読んでみて、憑かれて行ったものと我ながら感心する。
行蔵として、残るから良い。「行きたいうち、行けるうち、元気なうち」だ。
若者だけでなく、壮年も同じ。 壮年のうちだったからこそ、行けたからだ。
老年は? 高めなら、いくらでもある。少々の勇気と、金と、元気があれば。
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   ーH0805 エジプト・トルコ感激の旅  -トルコ編 ー
 トルコといえばキノコ岩等の奇岩の群れカッパドキアが有名である。
トルコ中央に位置しているアンカラの南東に広がる高原地帯にある。
中世にイスラム教徒の圧迫により逃れ逃れたキリスト教がたどりつき、奇岩を
くり抜き洞窟教会や住居をつくりあげた聖地。まさにSF映画やアニメ漫画に
出てくるような現実ばなれした奇景そのもの。“本当にここは地球上?”と
息をのんでしまうほど。
 その近くにあった地下都市・カイマルクも異教徒からの目から逃れる為の
秘密地下都市群。あちこちに蟻の巣穴のように縦横に掘られており、地下の
マンションと形容できた。一万人以上が何世紀にわたり隠れ住んでいたという、
信仰の深淵さをみた思いであった。そして、その帰りのバスの中より夕景の
“大きな 丸い真赤の月光”も生まれて始めてみる生涯忘れられない光景であった。
 イスタンブールの地下宮殿と呼ばれている地下水道の貯水池“イエレバタン
サライ”も非常に印象的なものであった。十二列×八mの列柱が336本
整然と並んでおり、その一本の柱の下に神話に出てくる女神、メンドーサの
石首が土台になっているのが神秘的。バック・グランド・ミュージックに
ベートーヴェンの第九が厳かに流されていたが、その場の雰囲気にぴったり。
 トプカプ宮殿では、かのオスマントルコ帝国が、何世紀にわたって世界中
より集めた秘宝がところ狭しく展示してあった。リンゴ大の四十数カラットの
ダイヤモンドや純金の椅子には驚いた。宮殿もその絢爛たる宮廷生活をしのばせ、
四〇〇年間のスルタン(皇帝)の日々が目に浮かぶようだ。
 また、イスラム寺院のブルーモスクやアヤソフィアも、その荘厳な内部も
圧倒された。私自身、気功をやっている為か、右手がいたくなるほど、しびれ
たのには驚いた。 これだけの深い歴史の国に四日間だけで、ほんの一部しか
触れる事はできなかったが、この国の“光”の一部はしっかり見たつもりである。 
 最後に行った巨大市場、スークも面白かった。五千の貴金属、みやげ物を
売っているが、ほとんど偽物の金銀の貴金属商品という。そういう目でみると
逆に面白いものばかりであった。殺人的なスケジュールの十日間の旅であったが、
中味の濃い感動・感動そして感激の日々であった。(1996年.1月30日~2月8日)