閑話小題 ~即席・ショートショート -2

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   * 10年後の「技術的特異論者」の呟き
≪ 今から十年前の、この随想日記を紹介しよう。成るほど「死にぞこない」である。

しかし、生死の際なればこそ、情報機器の進化の御蔭で、技術的特異の現象を味合うこと
ができた。まさか、83歳まで生きようとは… そして、10年前の、この文章を
読もうと思ってもみなかった。一年近く前に1万テーマを書上げた。これらの内容
を同月同日に読返すことで、脳の活性化が出来ていた。老いるとは、老いという
病気が重症化をしていくことでもあった。 じゃあ、生きていて良かったかと
言われれば、「実に良かった」のが現実。世界は日々変わっていく。10年前に、
「技術的特異点」が2045年と言われていたが、既に、到達してしまった。 
今では世界は、AIの判断を最大限に徴用する風潮になっている。そうするしか
ないもの、正しいのだから。身体は老化で動きにくいけどね、小さなロボット
に、これまで書いた随想日記をインプットすると、その時の気分に応じて、
呼出してきて、その関連映像を、自動的にゴーグルに360度の視界に呼出して
くれる。嗅覚、味覚も、脳の神経を刺激することで再現できるとは…  
自分の過去も、例えば20歳の1966年の映像が、瞬時に次つぎと現れる。
それは、10年前でも可能だったけどね。 当時、ドローンって有っただろう。
あれがAI化して進化して、配送の世界を激変させたの。自動車のAI化の技術が、
様ざまな分野に応用されてね。何でも自動化されて、人間を駆除してしまって。
通貨も今では、多くはネット決済。仮想通貨も当り前だもの。無用階級の
人たちが殆ど。何もできない… 誰の責任でもない。生まれが悪かっただけ。
当時、生命誕生から40億年来の革命って書いていたでしょ。まったく、その
とおりになってね。 情報化って、何もかもが、直に評価され晒される。
この時代、物語化する能力が重要になってね。 何とか、それで昔を語っている
から、娑婆?に繋がってるし。 ≫

 ―
▼ 即席のショートショートだが、10年後の視点からの独り語りは疲れる。
 8割かたは生きていないだろうが、死損なって、読返したら何と思うか。
以前、みた映画 「LUCY/ルーシー 脳が覚醒した女 」を想いだした。
【 ごく普通の生活を送っていた女性ルーシーは、台北のホテルでマフィアの
 闇取引に巻き込まれてしまう。マフィアは人間の体内にある物質を埋め込み、
その人間を海外に送り出すことで物質の密輸を行おうとしていたが、ルーシー
の体の中でその物質が漏れ出すアクシデントが発生。その影響により、普通の
人間なら全体の10%しか機能していない脳の機能が、徐々に覚醒していく。
脳の覚醒率が上がるに従い、超人的な力が解放されていくルーシーは、自分と
同じような人間を二度と生み出さないためにも、マフィアの計画を阻止するため
に動き始める。 …覚醒度が進んだルーシーは、他人の肉体、磁波、電波の制御
が可能になり、量子物理学、応用数学を含めた膨大な知識を脳にインプットし、
細胞核の無限の可能性を体感するようになります。】
 恐らく、このままの生活習慣を10年間も続け、情報機器の進化に馴化すると、
ヒロインのルーシーの数十分の一まででないとしても、脳力は、現在と比べて
数倍、数十倍にアップするのでは? それが世界中の人々ともなると… 
考え合わせると、人類の、そう遠くない未来に悲観的になる。
アッラーの御望みで、一度、清算を…>などと考える輩が出てくる可能性が。

・・・・・・
6233,閑話小題 ~「人は成熟するにつれて若くなる」
2018年04月07日(土)
        『人は成熟するにつれて若くなる』ヘルマン・ヘッセ (著),
   * 成熟は、若さを誘う
<「わがままこそ最高の美徳」>と同様、Amazon内検索で見つけたヘッセの本。
還暦、古希を過ぎて暫く経つが、肉体の劣ろいは感じても、気持ちは40、50歳時
と殆ど変わってない。後先が少ないためだろうが、好奇心だけは、ますます冴え
わたっている。老化で「バカの壁」が薄れてきたためだろう。私としては、
「成熟のため!」と思いたいが、如何考えても思い当たる節がない。
以下のヘッセの言葉は、鋭く私に問いかける。
 ――
             <☆は、思い立ったこと>
≪・<老年は、私たちの生涯のひとつの段階であり、ほかのすべての段階とおなじ
 ように、その特有の顔、特有の雰囲気と温度、特有の喜びと苦悩をもつ。>
 
・<老齢が苦しみをもたらすこと、そしてその終点に死があることは誰でも
 知っている。私たちは年ごとにいけにえを捧げ、諦めなければならない。
私たちは自分たちの感覚と力に不審を抱くことを学ばなくてはならない。>
  ☆ 生贄ですか、あれが生贄… 。

・<六十年、七十年来もうこの世にはいない人びとの姿と人びとの顔が私たちの
 心に生きつづけ、私たちのものとなり、私たちの相手をし、生きた眼で私たち
を見つめるのである。いつの間にかなくなってしまった、あるいはすっかり
変わってしまった家や、庭や、町を、私たちは昔のままに、完全な姿で見る。
そして私たちが何十年も前に旅の途上で見たはるかな山々や海岸を、私たちは
鮮やかに、色彩豊かに私たちの記憶の絵本の中に再発見する。>
  ☆ 最近、故人も、現に生きている人も、同列に思えるようになってきた。

・<見ること、観察すること、瞑想することが、しだいに習慣となり、訓練と
 なって、気づかぬうちに観察者の気分と態度が私たちの行動全体に浸透してくる。
望みや夢想や欲望や情熱に駆り立てられて、私たちは人間の大部分がそうである
ように、私たちの生涯の何年も何十年ものあいだ、あせり、いらいらし、緊張し、
期待に満ち、実現あるいは幻滅のたびごとに激しく興奮してきた。
―そして今日、私たち自身の絵本を注意深くめくりながら、あの疾駆と狂奔から
逃れて『ヴィータ・コンテムプラティーヴァ』、すなわち『静観の生活』に
到達したことが、どんなにすばらしく、価値のあることであるかに驚嘆する。>
  ☆ この過去文を読んで、毎日、実感している。

・< 若い人びとが、その力と無知の優越性をもって私たちを笑いものにし、
 私たちのぎこちない歩き方や、白髪や、筋だらけの首を滑稽だと思うなら、
私たちは昔、同じように力と無知をもって老人をせせら笑ったことがあったこと
を思い出そう。そして敗北感を味わうのではなく、優越感をもって私たちが年を
とってそのような年代を卒業し、ちょっぴり賢くなり辛抱強くなったと考えよう。>
  ☆ 上杉鷹山の言葉といわれる【 子ども叱るな来た道だもの年寄り笑うな
 行く道だもの来た道 行く道 二人旅これから通る今日の道通り直しのできぬ道】
が思い浮かんできた。 人生の何れかの途上で世界をみている。そうこう言って
いるうちにゲームオーバー、プッツン! そう簡単に死なせてくれないか?


▼ 老い先短くなると、寺山修司の<ふりむくな ふりむくな 後ろには夢がない>
 の言葉が空虚に聞こえてくる。 <ふりむけ ふりむけ 先には時間がない>
になる。だから、焦り、苛立つ老人が徘徊する。その一人ですか? 
 女子供に近づくな!というが、あと、老人を加えた方がいい。耄碌とは呆けに
妄想が加わるから恐ろしい。その世界に一歩も、二歩も、踏み込んでしまった。

・・・・・・
4404, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ -4
2013年04月07日(日)
  * 第三時限 いい加減にしなさい 
           ー「隠居大学」天野祐吉、お相手 赤瀬川原平 
「遠き日は 年とるごとに 近くなり」 という句があるが、最近、特に
感じているのは私だけでないだろう。御隠居は日々この感慨を持ちながら
人生を振りかえ鳥瞰し、残された一日一日を噛み締め味わう楽しみがある。
隠居生活は娑婆(雑多な日常)から隠れることであって、人生からの御隠れ
ではない。起承転結の「転結」を「転々」に変え、転がりながら最期を
迎えること。 それもこれも、どうでもよいこと! ーその辺りを抜粋ー
≪ 天野: 力を抜いて自分をコントロールする上で、老人力は非常に重要な
 要素じゃないですか。前回のゲストの外山滋比古さんは、忘れるということ
 がいかに重要かという話をしてくれたんです。第二の人生で定年まで、
 一生懸命詰め込んだような知識は、第二の人生で自由に生きるというとき
 には何の役にも立たない。そんなものは、思いっきりきれいに忘れて
 しまったほうがいい、というふうに。
赤瀬川: いらないものを捨てたら、キャパが広がりますしね。
天野: そう。頭の容積は決まっているわけだから、サラ地にして、
 新しい作物をつくりましょうという話をしていただいてね。
 そのときにも赤瀬川さんの『老人力』のお話を思い出していたんです。
 老人は忘れっぽいということで世の中はいけないことのように思っている
 けれど、そうではないんだと。たとえば、若い人は失恋なんかしたら大変で、
 その苦しみや悲しみを忘れることができなくていつまでもメソメソ悩む。
 でも老人は「忘却力」を身につけているから、すぐに忘れてしまう。
赤瀬川: ええ、強い忘却力を持っていますね。
天野: そう、これまでマイナスイメージでしかなかった「忘れっぽさ」
 をそんな悪いもんじゃない、というふうに書かれていた。あの本は、
 ものすごいベストセラーになったけれども、どういうつもりで買ったので
 しょうね。老人はまだ社会に役に立つとでも思ったのでしょうね。実際は
 違うのに。・・ ボケたとかモウロクしたのが、老人力がついたとか
 ポジティブに書かれて悪い気がしないですよね。≫
▼ 「神様(自然)は、老いの苦悩苦痛を和らげるため、忘却と鈍感さを
 与えて下さった」という解釈がある。老いて今さら気ばんでも致しかたが
 ないし、運命に従うしかない。忘却といえば、この随想日記。書き上げ
 アップロードをした瞬間、内容は勿論、テーマすら綺麗さっぱり忘れて、
 頭は翌日のテーマと内容になる。直後から次回分の書き直しを始めるからだ。
 だから数時間後でも、その文に対し第三者になっている。この最大の収穫は、
 過去に書いた同月同日分12年分の文章に出会うこと。時空を超えた自分に
 毎朝出会うのも良いもの。また「(自)己の分」の限界も見えてくる。
 それを第三者に曝すのも自虐だが「所詮こんなもの」という諦観が出来る。
 「いい加減にしろ、先は短いのだから娑婆気を減らせ」ということ。
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4771,ぼんやりの時間 ー4
2014年04月07日(月)
             「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
  * 「ぼんやり」と響き合う一文字 ー�
 響き合う一文字で、言葉の意味を考える方法もあるのだ。
そして、以下の5文字がよい。その最初が闇とは・・ 
闇は人を思索の世界に誘う。「ぼんやり」とは、闇の世界で迷子に
なっている状態なのか。 その5文字は
1、「闇」―蛍と星とダークマター
2、「独」―独りでいること
3、「閑」―逆茂木に囲まれて
4、「怠」―「1日4時間労働」の夢
5、「懶」―心の余白 である。
   ☆ まずは「闇」から
《 消えてはまた光って飛びつづけている。お前さんは、眠るのを忘れて
 しまったのか、恋人が見つけられず、そうやってふらふらしていたのか、
いつまで舞いつづけるつもりなのか、とらちもないことを思って見守って
いるうちに、蛍の光はふっと消えた。力を出し尽くしてくたびれてしまった
のかもしれないし、劇的なめぐりあいがあったのかもしれない・・
崖の上に何本かの椎の木が闇につつまれている。その梢の間に光るものがあり、
一瞬、それもまた蛍かと思ったが、星だった。蛍の光とは違って、星の光は
ずっと小さく、冷たい感じだった。 夜空の闇の広さを見ながら、宇宙では
やはり闇が主役なのだという思いがわいた。ごく感覚的にいえば、
銀河の壮麗さは、澄みきった大気に包まれた闇があってはじめて私たちの
視界に入るのだろうし、月を見る楽しさも透明な闇の濃さに左右されるはず。
花火の豪華けん麗さをひきたてるのも真の闇で、真の闇を失えぱ、花火は
いくら塀を競っても人をひきつけない。蛍だって、闇があるからこそ光を
放つことの意味が出てくる。夜の景色の基調は、なんといっても闇なのだ。 
・・ いや、本音をいえば、私は光より闇、陽より陰、実よりも虚、
緊より緩、作為より無為、色よりも空などが、よほど、この世の仕組みを
つくっているのに大切な役割を果たしているはずと思っている。・・ 》
▼ ここで、宇宙を支配しているダークマターダークエネルギーを引合に
 だし、宇宙を本当の主役は暗黒物質とその エネルギーとして、考えると
闇の大切が、人生論で「ぼんやりのたいせつさが」が、重なりみえてくる。
そうである、もっともっとボ~っとするべきである。
・・・・・・
4030, 一時停止  ー谷川俊太郎ー自選散文
2012年04月07日(土)
        「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955~2010
 図書館で借りてきたが、直ぐにアマゾンで購入した。谷川俊太郎の詩集や
特集の雑誌を何冊か、読んできた。その散文集なら面白くないわけがない。
谷川の詩も文章も、ストンと心に落ちて振動する。青年期に、谷川の著書を
読んでいたら、人生は変わってはず。 言葉を仕事にしている詩人の書いた
文章は、分かりやすい。読み手の目線を常に意識しているためだ。
  * 「青年という獣」1957年 ーより
≪・・生きているということと、生活しているということとの相違をもっとも
 てっと早やく云えば、前者を非人間的、後者を人間的と云って 差しつかい
ないだろうとぼくは思う。生きるとは、コスモスの中に生きることだが、生活
するとは、人間の社会の中に生きることだ。現代ではこの違いを理解する人は
少ない。下手をすると、コスモスなどという言葉は野暮な言葉で、悪くすると
危険な言葉にされかねない。青年は意識的、無意識的にかかわらず、これに
抗議する。青年は生きようとするものであって、生活しようとするのではない。
一見如何にソシアルに見える彼の行為も、その意味では本当にソシアルになり
得ないものだとぼくは思う。何故なら、人間以外のものになることを、いやいや
ながらでもあきらめてこそ、始めて人は人間になれるものだからだ。
人間は生活という唯一の現実によって人間になる。青年は生活以外のすべての
夢によって青年になる。青年は人間である必要はないのだ。彼は自分の夢を
喰って生きる位の非人間的な強さをもつていなければならぬ。
倦怠はおそかれはやかれ彼を襲うのだ。その前に彼の肉体がまだ新しいうちに、
青年は彼の役割を果さねばならぬ。ビリイ・ザ・キッドは若かつた。
彼は太陽や風や、残酷な青空や、愛らしい女を知つていた。彼はコスモスと
その中の生命に気づいていた。彼は人間や、その生活などを知りはしなかった。
彼が強かつたのはそのためだ。彼は死のもつ非人間的な意味だけに気づいていた。
死のもつ人間的な意味などに気をとられなかつた。彼の手が震えなかつたのは
そのためだ。そのためにこそ、彼は人間としても偉かった。彼は人間を代表して、
コスモスの真只中に立つてひるまなかつた。彼は人聞を殺すことで、
コスモスと戦った。 ≫
▼ 創業は、全く経験のない思い込みの未知の生命体を創り上げること。
 それは「生きる」分野にある。それは創業という獣的行為。生活のためで
あっても、それを創るには人間性を、普通の生活者の考えを、根こそぎ捨てて
かからなければならない。ここで、「青年は生活以外のすべての夢によって
青年になる。青年は人間である必要はないのだ。彼は自分の夢を喰って生きる
くらいの非人間的な強さをもつていなければならぬ。倦怠はおそかれはやかれ
彼を襲うのだ。その前に彼の肉体がまだ新しいうちに、青年は彼の役割を
果さねばならぬ。」とある。新たな事業を始めよう決心した瞬間から、非人間的
になる。獣にならなくては創業など不可能。何時の間に獣から普通の生活者に
なっていた。地元の生活者の中の創業は獣の姿を曝すことになる。 
本当の生活者になるのは、これから。 
・・・・・・
5866,閑話小題 ~トランジション 人生の転機に :トランジション理論 ~1
2017年04月07日(金)
   *  節目(過渡期)を乗り切る
人生には多くの節目時がある。青少年期までは、幼稚園、小学、中学、高校、
大学と、区切りが明確にある。その後は、結婚、子供の誕生、転職、子供の
旅立ち、リタイアなどの区切りがある。その間に大病、事故などの危機と、
思いもしないチャンスがある。そこで、如何に対処するか、その準備があるか
ないかで決まる。節目云々というより、備えを整えているかどうかの問題。
 男女とも20、30、40歳代の前半辺りの体質と社会的立ち位置の変り目に、
厄年としての転機が待っている。専門が社会学もあって、ライフワークとして
の読書のテーマが、人間性の問題。 ~その辺りを、ネット検索をすると~
≪ ブリッジズのいう「トランジション」は、日本語では「過渡期」と訳すのが
 分かりやすい。例えば、転職をみると。現在の会社を離れようと思い始めて
転職活動を行い、別の会社での採用が決まって、新しい会社で働きだすまでの
期間がトランジション、すなわち過渡期です。
 私たちは、スパッと気持ちを切り替えて転職することがなかなかできません。
多くの場合、会社を辞めるかどうしようかと思い悩む時期があります。変化を
求める一方で、変化を恐れる気持ちもあり、「変わりたい」「変わりたくない」
という両極端の感情の間で揺れ動くわけです。
 この時期は、前回の記事でも触れた「ニュートラルゾーン」(中立期)と
呼ばれます。心理的につらい日々が続く期間ですが、決して避けるべきもの、
無意味なものではありません。むしろ、ニュートラルゾーンは、トランジション
において最も重要な時期です。 
 とはいえ、転職が簡単ではないのは、転職活動自体だけではなく、
過去・現在の自分(BEFORE)と未来の新しい自分(AFTER)との間に挟まれた
中途半端な状態であるニュートラルゾーンがあなたを苦しめるからです。
ブリッジズのトランジション理論は、このニュートラルゾーンを含む過渡期
をどう乗り切るかについて有益で具体的なアドバイスを与えてくれています。≫

▼ ここで、8年、10年周期とかの人生の周期論を、幾つかテーマにしてきた。
 生命として、大よそ10年単位で、大きく体質も社会的立場が変っていく。
問題は人生の設計図とか、志が有りや否か。節目をチャンスとして打てるか? 
変身出来るかどうか。その決断を孤独の際でしたかどうか。
 最後は、「孤独の世界を持っているかどうか」になる。
・・・・・・
5501, 愛と孤独 ~池田晶子の言葉 ~⑤
2016年04月07日(木)
     『幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 ー』池田 晶子(著),  
  < 孤独の味わい方 >
   * 不自由なのは誰のせいか
《 人が、自分の自由に気づこうとしないのは、ほんとは自由なんか欲しく
 ないからである。ほんとのところは、自由になんかなりたくないのである。
なぜなら、自由になったら、何もかも自分でしなければならないから、
そのことをほんとは知っているからである。
生きるも死ぬも、私の自由だ
ああ素晴らしき哉、絶対自由、この絶対自由が、しかし人は深いところで
怖いのである。生きるも死ぬも自分の自由だなんてそんな怖い自由はイヤ、
それで、生きるも死ぬも考えるのも、社会やら国家やらにまかせて不自由と
言いつつ、じつは安心していたいのである。》    ~『残酷人生論』
 ☆ 自由とは「生き方の幅」で、その幅が大きいほど、より自由といえる。
自由は、「~からの自由」と、「自らに由る選択肢の自由」がある。
むしろ、不自由の中にこそ自由を見出せることがある。羊は羊、囚人の不自由
の中の自由も、そこにある。所詮は、その人の妄想でしかないのが自由である。
一時なりとも解放された感動、感激の一瞬の自由の味わい、至高体験のそれ!
  * 他人の悪口が気になる人へ
《 人間には、自分の中の気になるものを、自分の外に見つけ出すという妙な
 癖があります。自分の中のそれが気になるからこそ、他人の中のそれが気に
なるのですね。よくあるでしょう、誰かの悪口を言っているその人が、
自分が悪口を言っているその人にそっくりだということが。つまり、人間は、
自分の中にあるものだけを他人の中に見る。裏返せば、人間は、自分の中にない
ものを、他人の中に見ることはできない。当然ですよね、だって、ないものは、
ないんだから。ないものは、気になるはずがないんだから。 》~『人生は愉快』
 ☆ 時間薬の効果で言えることだが、5年前の会社清算の一連が、当事者と
しての内なる、記者としても目線でみえてきた現象の面白さは格別である。
プラモデルの趣味の人に、それが壊れたとて、喪失感は少ない。それは、
楽しんだ結果でしかないからだ。所詮、悪口とは、その人間そのものの影!