〜『絶望を生きる哲学』池田晶子
   * 幸福とは、ここに尽きている!   
<「不幸」とは、じつはそれらの事態そのものでなく、それらを不幸と「思う」
 ことにある。死ぬことが不幸なのではなく、死とは何かが知られてないことが
不幸なのである。 現在しか生きることができないと知ったら、現在において、
為すべきことを為し、現在において、愛するだけ愛する。
われわれの「幸福」は、十分にすぎるほど、ここに尽きていると私は思う。
                           〜「考える日々」>

▼ 池田晶子が亡くなってはや10年以上経過する。 彼女が宣う、人生は
「現在を生きる!」の一言に尽きる!と。とはいえ、過去も、存在するだろう
未来も、「現在」が(を)孕んでいる。 さほど多く残されてない時間の中で、
一日一日、一刻一刻を生ききるしかない。現在といえば「いま、ここ、わたし」。
永遠に向かい垂直に立つ。
――
   
   *なぜ「ない」ものが怖いのか   〜『14歳の哲学』より
< 生死の不思議とは、実は「ある」と「ない」の不思議なんだ。
 人は、 「死」という言い方で、「無」ということを言いたいんだ。
でも、これは本当におかしなことなんだ。「無」とは「ない」ということだね。
無は、ないから、無なんだね。それなら、死は「ある」のだろうか。
「ない」が、「ある」のだろうか。死は、どこに、あるのだろうか。
君は、たぶん、死ぬのを怖いと思っているだろう。死んだら何にもなくなる
じゃないかって、でも、何にもなくなることは「ない」はずだ。なぜって、
「ない」ことは「ない」からね。じゃあ、なぜ「ない」ものが怖いのだろう。
ないものを怖がって生きているなんて、何か変じゃないか。>

▼ 池田晶子の書籍を多く読んできたが、上記のエピクロスを噛み砕いた、
 個所が私にとって、ベストの部分である。父が亡くなる前に、死の恐怖に
慄いていた時に、エピクロスの一節、
【われわれが存するとき死は存せず、死が存するときわれわれは存しない】
を説き、一人称の死は、妄想と知った時の父の安堵した顔を忘れられない。
たった、これだけのことを知っているかどうかで、死の恐怖が10分の1、100分
に激減するのだから。
〈所詮は10の500乗の多宇宙の中の、この宇宙の生臭い塵でしかない『自分』…〉
 なら、生臭い人生、何おか言わん! となるとエピクロスの快楽主義に
毒され過ぎた私の脳レベルが露呈する。
最後は、「達磨さん、ちょいとコチ向け」ですか!

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2011/01/31
3233, 死は‘別れ’のとき ー2
* あなたと出会って良かった !
 昨日は高校の同級生の葬儀。 150人位の参列者で、同級生は15〜6人位。 
 通夜は11名で、通夜と重なっている人をならすと22〜3名。それぞれが
背負って生きてきた人生の全体が 垣間見えるのが葬式である。高校の同級生の
葬式といえば、次は誰かと互いに詮索し押し付けあうのが恒例。ところで葬式で、
火葬場の最後の別れの場面が人生模様の圧縮が表出する。実は、この場面の
立会いが好きである。悲しみと同時に故人と家族の愛が全体を包むからである。 
故人の奥さんの絶叫が涙を誘った。御棺の顔部分の蓋を閉めるとき、奥さんの声
が聞こえてきた。
「あなたの奥さんで良かった! 幸せな人生でした。 ありがとう。ありがとう。
ありがとうございました。ありがとう。ありがとうございました。」と。同時に
家族全員が号泣。そして娘さんが遺体を焼却炉に入れる直前に
「いや、入れないで!」と絶叫。 これまで、数かぞえ切れないほど、その場面に
立ち会ってきたが、これほどの感動的な悲しい場面は初めて。 会場の殆どの人が
涙を流し、立ちすくんでいた。奥さんと家族の感情が自然に堰を切ったように
出たのである。火葬場からの帰りのバスの中でも涙が止まらなかった。
 自分の家族に、果たしてこんなことを言ってもらえるだろうか。無いだろう!
  ところで、本人の死に顔は気の毒なほどやつれていた。 
すざましい苦痛との死闘があったのだろう。   ご冥福を! 

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2009年01月31日(土)
2858, 人生を振り返り、俯瞰してみると −2
 63年を振り返ってみると、人生は自分しか歩けない一本道ということがわかる。
その時節ごとに、それぞれの時代背景があり、その度に色いろな人との出会いが
あった。その時どきには、それが全てに思え、またそれしか見えなかった。
前回書いたように、それぞれの年代を上から下へと断層面として眺めると面白い。
断層面としてみると俯瞰がしやすい。「父が現在の私の年齢の時には私22歳。 
そうか父は私を大きな期待と不安を持って見ていたのか!」とか等々。
十年単位の断層を見ていたら、「私の周期は9年」ということが見えてきた。
9,18、27、36、45、54、63歳である。 この時期に大きな節目に
なっている。これからすると、次は72歳になる。もしかしたら、あの世への御門
が待っているか? それとも今年?
ーところで、人生をビルに例えて階層を重ねてみたら解りやすい!
 屋上ー
8階ー80歳代以降は、一日一生で、毎日を味あう時期。
7階ー70歳代は、人生の整理の時期に入り、全てをシンプルに変えていく時期。
6階ー60歳代は、人生の豊穣の時、それまで出来なかったことを新たに始める時。
5階ー50歳代は、大きな人生の回り角、競馬で第三コーナーを回って直線に差掛
   かかる時期。
4階ー40歳代は、人生の八割がたが決まり、一息つけるが胸突き八丁でもある。
3階ー30歳代は、それまで蓄積した全てを創造に向けて吐き出す時期。
2階ー20歳代は、泥まみれになりながら、社会人としての基礎を身に付ける時期。
1階ー10歳代は、スポーツと勉強を通して、選別されていく時期。 学びの時期。
  それぞれにフロアーは一年一年ごとの10の回り階段になっているとイメージ
 すればよい。地下は母親の胎内?、それとも姉・兄?基礎構造は家庭、そして祖先。 
だから家庭は大事になる。しかし相方との長期の相性は、実際のところ5分5分
だから難しい。相手の家庭を見れば、絶対に止めておいた方が良い人は分かるが。
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2008年01月31日(木)
2493, 読書の腕前 −1
           [ォハヨ]○o。(>ε<☆)ノ
「読書の腕前」 岡崎武志著 ー 読書日記
面白そうなところを何箇所、書き写してみた。なかなか含蓄のある読書論であり、
何度も肯いた。
 ーー
川面に多くの舟が漂っている、私たちはひとりひとりが違う舟に乗って流されている。
中には錨を下ろしている舟がある。川の流れを時の流れ、舟を人生にたとえたらいい
だろうか。本を読んでいる時間は、動かぬ舟の中で、川の流れを感じるようなものだ。
川は永遠に流れていく。水がある限り、流れることをやめようとしない。そんな悠久
の流れを、ひととき止めたりを舟の中で感じる。本を読むということは、そういう
ものだと思っている。
 ーー
飯島耕一が「何もつよい興味をもたないことは /不幸なことだ /ただ自らの内部を
/目を閉じてのぞきこんでいる。/ 何にも興味をもたなかったきみが / ある日/
ゴヤファーストネームが知りたくて / 隣の部屋まで駈けていた。」
「生きるとは / ゴヤファーストネームを/ 知りたいと思うことだ」
 ーー
読書に費やしたこれまでの膨大な時間を、もっと別の有意義なものに置き換え
られなかったのか。そんなふうに悔やんだことは一度もない。一度もない、といま
気づいたことに驚いている。ほんとうに、一度もないのだ。そうして生きてきたのだ。
だから、明日からも同じように生きていく。
 ー―
「本を読むことで得る大切な収穫の一つは、他者を知ることだと思います」色川武大
「読書の楽しみの一つは、私にとってこの他人を生きること、他人になれる喜び
 かもしれない」 遠藤周作
「僕は本を読む労働のための忍耐力をつちかったのである」大江健三郎
 本は膨大な人間のモデルを提供してくれる。しかも、相手の忖度を気にせず、
 思うまま、自由にそのモデルと触れ合うことができるのだ。
 ーー
田辺聖子が読書論の中で、「もし出世と引き換えに何をとるか、ということに
なったら、それは何か」と、同年代の友人たちと、あるとき話題になった。
さまざまな意見が飛び出した。いい女房を持つ、硬骨に生きる、世間を捨てて
山頭火になる・・。しばらくして、誰かがしみじみ言ったことに、みんながうなる。
「出世せんでもええ、毎日読みたい本を読んでたのしく暮らせたらええなあ・・」
  −−
 以上だが、今のところ読書が人間にとって、一番良い習慣である。最近はインター
ネットというトンデモナイ手段が出てきたが、それでもジックリと他者と対話が
出来るのは本である。この本も、直ぐにアマゾンの中古本を発注したが、まだまだ
面白い箇所が多数ある。
                             ーつづく
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2007年01月31日(水)
2129, 熟年離婚とセックス
              Σ(≧д≦)LOVE   オハヨウ!
 図書館で借りてきた昨年の「文藝春秋・11月号」に、
熟年離婚とセックス(千人調査)」という特集があった。
55歳あたりから急激な精力減退を実感し、歳を重ねるほどに後退?当初は自己存在
の喪失の感覚になりかけて焦燥感になったが、今はバイアグラの力を借りて…何とか?              (●?∀?))ヾ☆*。
こういう話は、気心が知れている人に酒を飲んだ勢いの時にしか聞けない。
といって、下ネタは具体的な話をしてはいけないという男の暗黙のルールがある。
「実際のところ同年代は?」と思ってところ、千人調査のアンケートというから
丁度良いタイミングであった。少し際どい?が、男にとって切実の問題である。
このレポートの概要を主観をこめてまとめてみた。
ー調査対象が1947~1951年生まれの男女500人ずつを対象に調査ー      
・性生活が全くないが、何と52パーセント。年数回が17、5?。 月一が11?。 
 月2~3回が11?。週一以上が8,6? 全くない人が半分いる反面、月一以上が
 3割もいる。なるほど!
・相手が 妻が85?、特定の妻以外の人、12?、不特定が3?。
・不倫に関しては、83?は無し、過去にいた9?、現在いるが8?。
 やはり男が20?と高く、女は6?。収入の額が高くなるほど、不倫の率が高い。
 年収1千万以上の男性の三人に一人がしているのに対し、150万以下では、
 4?になってしまう。それなりの収入ができると 助平根性がでるようだ。
・寝室別室が35?。
 −−
この世代は、性や恋愛に対するタブー意識を破ってきた性解放世代。
といって、本当に恵まれていたのは都会の文化エリートか、不良といわれた
(性の方だけにエネルギーを絞って) 社会的に頓挫した両極端だけの人たち。
その世代より一年上ということで、私の同年代は団塊世代の露払いとして、
「競争が少ない幸運?」に恵まれてきた。特に男はその対象が団塊の女性のため、
男一人に女がトラック一杯という需給のバランスで恵まれていたはずだったが・・
実際は?、やはり恵まれていた!? 少し年代が下とはいえ、3割が毎月一度
以上あるというし、半分以上がセックレスというのも驚きである。
まあ、三分の一辺りというところ? ハイ!
  『で、どうした』 「少し安心しました!」
  『ほれで?』   「黒田節を思い出しました」
  『何、それ?』  「使わないと錆びますと!」 
                      (。・ω・。)ノ? バイ
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2006年01月31日(火)
1764, 袖に涙のかかるとき・・
「袖に涙のかかるとき」と検索をしたところ次のHPのコーナーに行当たった。
リハビリに励んでいる人達の「名言・名句」だから深く魂に響いてくる。
深い心の底から、人間を、健常者では知りえない世界を、見つめている。そして
「生きている、それだけで素晴らしい!」ことを知っている。
 実際に絶望の淵に立たなければ、その言葉の奥行きは解らない。
  −− 
あるHPの ー心に残る名句名言集ーより
 リハビリに励んでおられる患者さん、家族の皆様から寄せられた 
”心に残ることば”を「名言・名句集」としてご紹介いたします。同じ障害を
もった皆様に、これらのことばが少しでも励みになることを念じております
□病気になってみえてくる一番大切なことは、人間の生命が生きてそこにある
ことが実に不思議な、貴重なことだと気づくことである。    (西江孝之)
 そうです。生きているってこと自体がすごいことなんですね。これからは、
生きていることに感謝してまいります。□言う言葉がないから、よく家内に
頑張れ頑張れって言っていたが、失語症なった多くの人達の場合は、実は見え
ないところででも頑張っている。              (西江孝之)
 私もつい「頑張れ!頑張れ!」といっていました。そんな自分を恥ずかしく
感じました。□君は看よ。双眼の色。語らざれば憂い無きに似たり。(良寛
       ことばはでないけれど、主人の表情はとってもすてきです。
 字数の関係でカット(2008年01月31日カット)
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名言、名句に対するコメントも味わい深い! そして全ての名言・名句が深く
心を揺り動かす! 誰もが病に倒れしみじみと、この言葉を味あう日がくる。
そして、如何に人生の表面しか生きてなかったことを思い知ることになる。
他人事ではない! 健常の今日という日々を噛みしめて生きなくては!