* 本当にどうなってる
 このテーマを書いてから一月以上が経つが、その後も、大阪直撃の台風と、
北海道の大地震が続いている。それも前回、書いた延長上の地区と捉えることも
出来る。さっそく、この異常気象に対する特番が幾つか組まれているが、当然の
ことだが、オウム教の死刑執行に関連付けてはない。地震と台風との微妙な関係
は実証が難しいため語られないのだろうが、地球規模の温暖化によるオゾン層
破壊に関連しているのだろう。今世紀中まで、人間がつくり上げてきた世界の
終焉の仮説も立てておくべきでは?
 ―
   * 何とも面白くなってきた!
 現在、モンゴル相撲に占拠されていた大相撲。 2人のモンゴル人横綱と、
大関の上位のアドバンテージ(張手、肘打ち風カチ上げ)の有効活用と、
逆に下位力士が張手が出来ないように稽古土俵で連合して潰しにかける暗黙の
システムが露呈。それにあやかっていた日本人横綱大関まで、引退の瀬戸際。
それがTVで映しだすため、彼ら自身が大混乱に陥ったアヤを楽しむブラックを
楽しむのが何とも味わいがある。ところが、先場所から、大関以上が開き直り、
アドバンテージを再開。さて今場所は? 数場所内に稀勢の里。来年中に白鵬
鶴竜が引退が順当だが、二年後の東京オリンピックまで現役の目標があるため、
平成5,6年生まれと、彼らとのサバイバルが、面白さを倍増させてくれる。

・・・・・・
4559, グレートジャーニーから見えてきたことは ? ー3
2013年09月09日(月)
  * 平等こそが生き延びてきた知恵! しかし欲望が人間を変えた
 実験によると、チンパンジーは平等に非常に敏感。これに仲間内の力関係が
絡むので、集団は非常に複雑でデリケートで、その研究から人間の本質が垣間
見ることが出来る。平等原理はアマゾンなどでは生きていくために必要なこと。
極限の生活で生きていく上で、常に分かち合うのが合理的であるからだ。
しかし、文明の進化?が、社会的階級と富の独占を生み出し、さらに
グローバル化が、それに拍車をかけている。 
≪ たけし〕 関野さんはいろんな未開地に行っていますが、人食いとか
 カニバリズムは見たことがありますか。
関野〕うーん、少なくとも、僕は見たことがないですね。
たけし〕「人食い人種」とか言うじゃないですか。
アマゾンやニューギニアで、そうした風習はなかったのかな。
関野〕 例えばマヤとかアステカで生贄の人間から心臓を取ったりしたことは
あったけれど、それを食べたかどうかは分からない。生贄にする人間は、
誰でもいいわけではなく、強い戦士でないといけない。 勇気をもらうとか、
そういう意味があるんです。しかし、アマゾンで生き延びるために相手を
殺して食べるということは、過去にも僕はなかったと思っています。理由は、
アマゾンの奥地で僕たち日本人はすぐに餓死するかもしれないが、彼らは
餓死することはあり得ない。・・・
たけし〕 パリ・ダカールで日本人ドライバーが地元の子どもを撥ねてしまい、
慰謝科として何十万円か払ったら、次のレースから子どもを放り投げようと
して侍つている奴がいたらしい。そういうバカなことが起きてしまう。
関野〕 結局、欲望が人を変えてしまう。食料や資源は40年以上も前に
ローマクラブが声明を出しているのに、経済が絶対的に右上がりでなければ
いけないと思ってしまうのは、やはり欲望のせいでずよね。欲望が膨れ上がる
ことによって、一部の人たちたけが富を独占しようとしているのが現代の社会。
アマゾンの人たちと暮らすと、すごく平等なんです。僕は人間が誕生した時に
平等でないと滅ぴていたと考えています。 なぜかというと、まず弱かった
ということが挙げられます。太古の人類は採取・狩猟で生きていたと思われて
いたんですけれども、最近は二本足で立って歩くようになった時は、
狩猟なんかできなかったと見ている。】
▼ レヴィ=ストロース構造主義などがある。アフリカや南米で残っている
「未開人」の地に何千年も変わらない社会がある。そこは彼らにとって意味の
ある極めて合理的な社会である。決して、西欧が文明の最先端にいるのでは
ないのである。その社会の特徴は平等。文明社会は変化の積み重ねの結果の
産物たが、未開社会は一切変わらぬ「静かな世界」が続いてきた。
そこは冷めた日常があり、美しさがある。変化はエネルギーを要する。
その熱い社会の方が優れているという進歩史観に促われてきたが、それを
根こそぎ覆す説こそ見直す時である。特に地球資源の枯渇でエネルギー問題が
出ているからだ。 私も含めて戦後から、このかた、欧米に追いつき、
追い越せで必死に生きてきた。そしてバブルの崩壊から、失われた20年から、
30年に入りつつある。ここで、考えるべきは、未開社会にある「冷たい社会」
のシステム。 ここに至って何が「東京オリンピック」である。
あれは、追いつき、追い越せの、高度成長期の残物でしかない。
「最後の止めが、これ!」ということが、見えてきた。とんでもない
劇薬であり最後のトドメ。年寄の冷水(酒)か? 
「いいじゃないか、いいじゃないか、ヨイヨイヨイヨイ」ということ。
先がない私たちには、これでよいが? 
「それでは、落選した方が良かったか?」と、問われれば、
どうだろう? どのみち、大して変わらない?なら、踊るか!
・・・・・・
5291,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー?
2015年09月09日(水)
      ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
           〜心肺停止になって考えたこと 8! 中村うさぎ
   ☆ 「口先コミュニケーション」
 6月号を読んだ後、逆順の5月号の内容になる。私同様に、彼女もまた
世間様といわれる人たちを蛇蝎のごとく嫌っていて、その理由を、わざわざ、
「口先コミュニケーション」と項目を立てている。何も考えようとしない輩。
その言葉が、自らの想いや考えを伝えたり、まとめる手段ではなく、適当な
世間話の手段でしかないことを指摘する。彼らは、他者の理解など出来ようも
ないし、必要もない。何故なら、会話と対話の差異を知りようもないし、
対話など死際での家族とのやり取りか、窮地に陥った時ぐらい。『新潮45
の読者にも、世間様が存在することもあって、「口先コミュニケーション」
というお品のよい言葉にしたのだろうが、この一連の彼女の手記の多くが、
ドブネズミたちに言いたいこと、そのままが素直に書かれている。
   〜その部分を抜粋〜
≪ 私には、人の気持ちがわからない。同じ世界に生き、同じ空気を吸って
 同じ場を共有し、同じ風景を見ているつもりでも、おそらく私の目に映って
いるものと他人の目に映っているものはまったく違っていたりするのだろう。
我々は「主観」という名の脳内世界を現実世界だと思い込んでいて、
それがどんなに歪んでいても気づかないし、たとえ間違いを指摘されても
おいそれとは自分の世界を描き変えられない。 こうして我々は、すぐ隣で
肩を並ぺている人とまったく違う風景を見ながら同じ体験を共有している気分
になっているのだ。そして、同じ風景や体験に一緒に感動しては、相手と心が
繋がったように錯覚している。本当は、それぞれが全然別の物語を生きている
というのに。ああ、諸君。このようなことを私はずっと以前から了解していた
はずだし、他人が感じていることと自分が感じていることは違うのだと己に
言い聞かせ、それを思い知らされるようなことが起きても動じない心づもりで
あった。 『が、実際には、私は何もわかっていなかったのである。』
その証拠に今回、自分を理解してくれていると思っていた人々がまったく
理解もしていなければ信頼もしていなかったこと、私と仲良くしてくれている
と思っていた人が私を蛇蜴のごとく嫌っていて陰でその心情を吐露しまくって
いたことを知って、心の底から驚いてしまった。こんなのは世の中によくある
ことなのだろうが、少なくとも私にとっては近年まれに見る出来事であった。
何故なら「周囲の人々」は心にもないお世辞や表面的な社交辞令などを言わず、
むしろ毒舌と呼ばれながらも本当に思ったことしか口にしない人々であり、
しかも言いたいことは相手に面と向かって告げる人が多いので、今回私を
驚かせた人々がずっとやっていたような口先だけのコミュニケーション作法
をすっかり忘れていたのだった。 だが、諸君、私は問いたい。
言葉が自分の想いや考えを伝えるものでなく、適当に相手をごまかすための
ものならば、我々は他人の言葉の何を信じればいいのか。そして、そのような
口先コミュニケーションが世間一般の常識なのだとしたら、「誠実さ」とは
いったい何か。そんなものは幻想なのか。少なくとも私は心にもない言葉は
絶対に言わないように心がけてきたし、たとえ相手にとって耳触りが悪くても
伝えるべきことはきちんと伝えてきたつもりである。それが「誠実さ」だと
私は思っていた。だが彼ら彼女らはそんな私を「幼稚」で「無神経」な人間
と思っていたようだ。 まあ、確かに「無神経」なのは認めよう。こんなにも
人の気持ちがわかってなかった私が繊細な感受性など持ち合わせているとは
思えない。しかし、それなら彼ら彼女らは、人の気持ちがわかっているのか。
少なくとも彼らは私が本気で語ってきた言葉を一切理解してなかったし
信用してもいなかった。私がどれだけ本気かわかっていなかったのだ。
彼らは私のことも自分たちと同様の口先人間だと思っていたのだろうか。
ならば、彼らはまったく私という他者を理解していなかったことになる。
そんな人たちに「人の気持ちがわかる」はずがないではないか。
彼らは私などより遥かに「空気の読める」人々である。だが、空気が読める
からといって、人の気持ちがわかっているわけではなさそうだ。(略)・・
・・ 私にとっては無意味な人間関係だが、それで彼らの世界が回っている
のなら、それでよかろう。永遠に空気なるものを読みながら、中身のない
価値なき言葉を吐き続ければいいのである。それが君たちの入生だ。
そして、そんな君たちの人生や処世術に、私は何の関心も持てない。
念のために言っておくが、私は彼らの人生に価値がないと言っているのでない。
彼らの人生には彼らなの価値がある。ただ、その人生においては、言葉に
価値が与えられてないだけ。彼らは言霊のない世界に住んでいて、そこでは
空っぽの言葉が行き来している。が、おそらく言葉ではなく別のものに
価値があるんだろうから、それはそれで、いいんじゃないかと思う。≫
▼ 死の間際から生き返り、改めて身辺を見たときの澄みきった感覚は、
 4年前の経験や、過っての色いろ味わってきた。 「うさぎちゃん」が
怒っているのも、彼女の、それまでの脇の甘さからくるもの。世の人は、
大体が、この程度のものと達観すれば、そこに慈愛が湧き出てくる。
それだけ、世人は口先人間が、目先で、口先で、空っぽのことで騒いで
いるに過ぎない。それを怒るとは、彼女自身も、同類になってしまう。
しかし、それらの多面をとらえて、全身で受け止めるのも彼女だからこそ。
『よくぞ、書いてくれた!うさぎちゃん』である。でもアフォか! 誰が?
・・・・・・
4926,パワレルな知性 ー4
2014年09月09日(火)
  * カフェという集い −?   『パワレルな知性』鷲田清一
 カフェといえば、TV番組の中にカフェ方式をとったのを幾つか見かける
ことがある。特に日曜日に多いのは、休日の居間をカフェに見立て、気楽に
一週間分のニュースを異種の人たちの対話を通して楽しませるため。
関西系の『そこまで言って委員会』『サンデーモーニング』『笑点』、
がそれ。知らないうちに、視聴者が、その場に居るような感覚になってしまう。 
そこでは、テーマを提示して、異種の業界の人たちに議論を面白おかしく進行
させ、楽しませるキャスターの役割が大きな要になる。 レギュラーには、
それぞれ役割があって、本人も、それをわきまえ対話に参加する。
バラエティ番組も、その傾向があるが。視聴者の多くが、非専門家を前提に、
各種専門家の議論を楽しませるのだから、出演者たちは大変のはず。
グローバル化とは、「多文化共生」になること。 カフェに似た文化に、
イギリスならパブ、スペインならバール。バールは、イタリア、スペイン
などの南ヨーロッパで軽食喫茶店、酒場のことをいうが、一日、一回は立寄り、
誰かと話す文化が深く根付いている。特に大都会は「異文化、多文化共生」
の傾向が強くなる。しかし、情報化の時代、世界中がネットで結ばれ、
異種の価値観が交差する中、逆に、自国の文化を知っていなくてはならない。
情報化だからこそ、カフェや、酒場などで直接、異質の人との対話の中から、
知見を得ることが重要になっていく。フィリピンパブとか、ロシアンパブの
痴的会話?でなく、あくまで知的対話が前提になるが・・ 
 最近、喫茶店が見直されてきたが・・ 

・・・・・・
6022,閑話小題 〜パノプティコンとは
2017年09月09日(土)
 ≪ パノプティコンとは、
・英国の哲学者・法学者ジェレミーベンサムが考案した円形の監獄。
 中心に監視塔があり、そのまわりに独房を放射状に配したもので、囚人同士
接触はなく、常に看守の監視下にあることを意識させるようになっている。
フランスの哲学者ミシェル=フーコーが著書「監獄の誕生」において、少数の
権力者が多数の個人を監視する近代の管理社会の起源とみなし、広くその名が
知られるようになった。
・中央の監視室はマジックミラーになっていて、囚人からは監視室内が見えない。
よって囚人は常に規律に従わなくてはならない。やがて誰に強制されるでもなく
自ら規律を守るようになる。この効果により、いつしか人は社会の矛盾に疑問を
持たなくなり、彼らの常識から外れた人を、「狂人」として排除していきます。
フーコー、民主主義を作り上げた権力を「生の権力」と呼び、それが一般常識
を作り上げたと考えた。 … ≫

▼ 日本には『神』が存在しない代わりに、『世間』が存在する。身近な人間
関係では、狭い分、相互監視システムが強く働く。島国・日本は国土が小さく、
雨量が多く、多湿の、均質の価値観に飼い慣らされている。その枠内で、静かに
呼吸し、お互いに気を配りあう。 誰もが、円環の内側の独房に閉じ込められ、
息を潜めて暮らす。見えるのは視界の三分の二と、監視塔。それが、私たちの
日常に組み込まれている「世間の視線」。実は、これが妄想。それに気づくのは、
「生老病」に直面した後の「死」に直面したとき。独房の住人は、監視室と、
視界内の、独房の思惑の呪縛に怯え暮らす。それらから少しでも自己解放する
には、運動時間で身体を動かすか、読書か、瞑想を取入ること。長年かけた
脱走の準備もある。まずは、自分が、この監獄の住人ということに気づくこと。
 妄想を取り払い続けないと、「あのゾンビ」になってしまう。外側の世界も、
内も、広く、深い世界が広がっているのに… 他人事ではなく、私を含めた、
それぞれの「自分」のこと。今では、スマートフォンという便利な小さなカメラ
という名の監視塔を各人が持ち始めたから始末が悪い?いや良い?
・・・・・・
5656,閑話小題 〜シダックス時代の終了
2016年09月09日(金)
   * カラオケ・シダックス時代の終了
 カラオケ大手の『シダックス』が80数店の閉鎖。大型店のため、これだけ
多くを潰すのも、まだ余力があるため。本体の経営体質がまだ健全だからこそ
出来ること。大人数でカラオケを楽しむ時代が終わり、小グループで楽しむ時代
になった上に、スマートフォンの普及が、カラオケを通しての社交から、ネット
を介在とした社交に立ち居地の重心を変ったため。それにしても、時代の変遷は、
あまりに激しい。会社整理に対して、何の疚しさ、後悔がないのも、この激変の
中では当然という諦念があるため。 そこで、シダックスと、カラオケ市場の
現状は、どうなっているかを、YAH00で検索した・・
≪ ☆ シダックスは全体の約3割の店舗を閉鎖
 シダックスは8月31日、本社機能もある渋谷の旗艦店「渋谷シダックスビレッジ
クラブ」をはじめとして、一気に44店舗の閉鎖を行いました。4月からすでに一部
店舗の閉鎖を開始しており、9月末には累計で80店舗が閉鎖される予定です。
これまで全国で約270店舗を展開していましたから、ざっと全体の3割のお店がなく
なる計算です。今でこそカラオケチェーンとしてのイメージが強い同社ですが、
もともとは社員食堂の請負事業で成長した会社であり、現在でも売上高の8割は、
食堂運営、病院給食などで占められています。ちなみに創業者の志太勤氏は著名な
起業家であり、ベンチャー・ビジネス支援や中小企業支援を日本の政策に盛り込む
よう、政府への提言を続けた人物としても知られています。
 カラオケ事業についても給食事業との関連性が深く、充実した食事のメニュー
を用意するなど、宴会での利用を想定しています。当初はこうした戦略はうまく
機能しましたが、カラオケの利用形態が変化してきたことから、同事業も低迷が
顕著となってきました。
 2012年には480億円だったカラオケ事業の売上高は毎年減少しており、2016年
には300億円となっています。しかしながら、日本におけるカラオケ市場全体が
大きく落ち込んでいるわけではありません。2015年のカラオケ人口は約4750万人
と2010年との比較では約100万人増えました。≫ とあった。
▼ 4年で市場規模が4割減とは、尋常ではない。カラオケを遊び、ゲームの一つ
 とみると、スマフォの普及が大きく影響をしている。カラオケ人口が微増を
しているから、一人あたりの客単価が下がっていることから、回数が4割
減ったということ。それと情報化による遊びの多様化が進んでいることもある。
 それと、不景気の影響と、団塊の世代の一線からの撤退?も大きい。
ああ、そういえばカラオケ投資で莫大な損失を出したことを思い出した。
たしかに私は、あまり頭の良い人間ではない。大バカというより、小ばかである。
 数十年かけた、純益を、たった一つのミスで失う恐ろしさが常に口を空けて
いる。 人生も同じことがいえる。ったく! それも有りだから、人生は面白い。
・・・・・・
4184, 閑話小題 ーつれづれに
2012年09月09日(日)
  * 元IBM社長が・・・
ネット以外は、あまりマスコミでは流れなかったが、元IBM社長が
アイフォンで女性の下着の盗撮をしたとか。男は50歳までは多かれ
少なかれ異常性欲者?たまたま超エリートが少し変わった趣味だったに
過ぎない、という同情もある。前科があったかどうかだが、
その後、マスコミが騒がないのは悪質で無かったためか。超エリートが、
その危険をかえりみず盗撮をするスリルの快感は本人しか解らない。
私など、最近、時どき深酒で、ある時間から記憶が無くなることがある。
「ハッとして起きてみたら留置場の中」なんてことがあっても不思議はない。
ネットの写真じゃ、満足できないのは分かるが。それにしても娑婆は面白い。
常にデジカメを持って歩いているが、気をつけないと!
  * 「あと20年以上生きそうな感じがする!」には驚いた
 中学校の同級会で隣に座った男の言葉。私など不摂生もあり、
あと5〜10年が限度と思い込んでいたので、実のところ驚いた。
飄々とた何か仙人を思わせる雰囲気を漂わせているが、この感じなら、さも
ありなんである。節制をしているから言える言葉。そこで自分を振り返ると、
どうみても十年以上は無理、せいぜい75歳。まず、そこを目標とすると、
あと8年4ヶ月。2021年1月15日である。何とか節制をすれば? 
しかし、現在の酒量からみて明らかに無理。毎日の晩酌が美味いのである。
 最近、20歳位の人を見ると、「私より50年以上も長く生きるんだ」
という思いが先に立つ。去年春の一連の出来事、人生の側面からすれば、
人生の整理に入るためにフリーハンドになるため。それにしても、自覚は薄い。
で、幾つまで生きたいのか、自分に問うてみた。80歳である。
そこまで生きるべく節制するか、一年一年、二倍濃厚に生きるかである。
それとも、80歳を目標に節制しながら二倍以上濃厚に生きるか? 
濃厚に生きなくても、実際に濃厚だから、このまま?