「ピカソになりきった男 」ギィ・リブ (著),
   * 贋作の世界
 「開運!なんでも鑑定団」は常日頃、見ている。殆どが録画だが、骨董などの
お宝の真贋と、値段の鑑定である。 特に借金の形に…、持っているお宝と交換
などに贋作が多い。その贋作専門の世界を知りたくなり、AmazonのHP内で検索
すると、面白そうな本が幾つか出てきた。その中の一冊が、これ!
贋作の世界の奥行きの深さが垣間見られる。この世界を知るにつけ、逆上せ
上った素人が、餌食になることが分かる。相手は詐欺のプロの住人。
  
  〜ネットによる粗筋といえば〜
≪ 本書は、「その朝、俺はピカソだった」ではじまる天才贋作画家ギィ・リブ
の告白手記である。波乱に富んだ彼の生涯は、まるでアラン・ドロンが出てくる
フィルム・ノアールのようだ。贋作画家の前に「天才」との冠が付いたのは、
ピカソ、ダリ、シャガールマティスルノワール、フジタ等、多数の画家の
 贋作を手掛けたこと、
・名画のコピーではなく、画家たちが描いたであろう「新作」を創造したこと、
 の2つの理由からであった。 ある美術評論家は、彼の腕前を評して
 「ピカソが生きていたら彼を雇っただろう」と証言している。

ギィ・リブはフランス中部リヨンの娼館で生まれた。父親は殺人犯、母親は
占い師の家庭で育ったが、少年期に家を出てリヨンの暗黒街で不良少年として
路上生活を経験。20歳の頃には天賦の才能を独学で磨き、水彩画で生活できる
ようになるが、その才能に目を付けられて贋作ビジネスに取込まれてしまう。
それ以来、2005年に逮捕されるまで30年間を贋作画家として過ごした。

ギィ・リブが贋作を制作する過程が興味深い。ピカソ、ダリ、マティスに彼は
なりきるのである。そのためにギィ・リブは何日間もかけて専門書を読み、試作
を繰返した。画家が、いつ、なぜ、どのように作品をつくり、いかなる精神状態
であったのか。画家のすべてを理解してから制作に取り掛かった。つまり、
ピカソがギィ・リブにまるで憑依しているような状態で彼は絵筆をとっていた。
それが彼にとっての創作活動であり、贋作が本物と認められることに彼は無上の
喜びを感じていた。そして、描き終るたびに用いた資料一切を廃棄し、本来の
自分に還っていった。

彼の告白によって贋作ビジネスの実態が詳しく明らかにされている。
驚くべきことに有名画商や鑑定家もそのビジネスに大きく関与していたのだ。
彼らは実名で書かれているので本書の記述は信じるに足りる。 アート市場に
おいて絵画の資産価値が増大するにつれて、作品の品質よりも画家のネーム・
バリューが重んじられてくる。「人は作家の作品ではなくサインに大金を払う」
ようになったのである。そうした市場では、ギィ・リブのように名作の模倣では
なく「新作」を描ける贋作画家は、少ないリスクで大金を稼げる制作者として
重宝されたのである。ギィ・リブの卓越した技術は有名画家の遺族によって
「本物」のお墨付きを得るほどであった。また、ある画家はギィ・リブの描いた
作品を「自分が描いた」と誤って証言した逸話が残っている。

現在もなおギィ・リブの贋作が世界中の美術館に展示され、オークションの
カタログに掲載されているという。認められるまで貧困の生活を余儀なくされた
画家は多い。彼がもう少し忍耐強ければ、いずれ才能が見出されて有名画家の
一角を占めたかもしれない。ギィ・リブは仕事に誇りを持ち、憎めない性格と
魅力を備えた男である。本書はアート市場の裏面のドキュメントとしてのみ
ならず、一人の男の波乱の半生の物語としても出色である。

『本物か偽物かそれほど重要な問題なのだろうか?もし絵がうっとりするほど
魅力的で、力強く、心乱されるものだったら、その絵が誰の手によるものかと
いうのは、本当に重要なのだろうか?』は印象的。彼には、画家として決定的
な何かが欠けていたのだろう。しかし「贋作」を書くことについては天下一品。
それも、すでにある絵を模写するのではない。
その画家のあらゆる特徴を捉え、存在しない絵を描くのだ。≫

  コトバンクによると…
【 贋作とは、制作者あるいは制作年代などを偽って,買手をだます意図の
 もとに制作された美術品。現存作品もしくは実在した作品をそのまま模倣
したもの,特定の作者または時代の様式を模倣したもの,いくつかの原作を
もとにその諸部分を集めて作られたものなどがある。文献に残る最古の例は
ローマ時代のファエドゥルスが語るローマ人によるギリシア彫刻の贋作。
中世ではほとんどその例がないが,ルネサンス期に再び現れ,18世紀の考古学
の興隆とともに増加する。近代から現代にかけては鑑定家の目を欺くきわめて
巧妙な贋作も少くなく,19世紀でギリシアエトルリア,ローマ,ルネサンス
初期の彫刻の贋作者 A.ドッセーナ,20世紀ではフェルメールの贋作者
H.メーヘレンなどの例が特に有名。日本では,江戸時代初期から日本画の贋作
が行われるようになり,中期以後は在世の名人の贋作も現れた。】


▼ 実家の商売が戦前まで老舗の「古美術商」だったこともあり、両親の趣味が
書画骨董の収集。子供の頃から父に連れられ骨董店の散策に、連れていかれた。
そのうち、仏像や、茶器の真贋の眼が増していくのが自覚するようになっていた。
 家の茶室の床の間には、季節季節の骨董が並べられている生活環境にあった。
良いものを見続けると、二級品は、直に分るが、贋物の見分けは、非常に難しい。
 書画の世界には、「写し」という言葉がある。
言わば絵を描く際の模写に当たる行為です。これ自体は全く問題ありません。
特に有名人のものは、それを前提に高値で売買されている。
ピカソも、実は、多くの画家の模写を繰り返した画家。かれの摸写が他の画家
と違う点は、ただ真似をするのではない。少し変化させたり、自己流に写しかえる
のでもない。その原画を完全に自分のものとして消化し、自分だったらこう描く
という大展開をさせてしまうところだ。> そのピカソ自ら、「その出来の悪いの
が、私の作品かも知れない」とも宣っているとか。
ピカソ 『酒場の2人の女』 も模写である。
彼の名言「凡人は模倣し、天才は盗む」は、あまりに有名。
 
 知れば知るほど、経験を積むほど、知らないこと、未経験の己の小さな壁を
しることになる。やはり挫折体験と、そこからの再生の繰返しこそ必要になる。

・・・・・・
5493,幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 〜?
2016年03月30日(水)
    『幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 ー』池田 晶子(著),
               NPO法人わたくし、つまりNobody (編集)
 池田昌子は、青少年や女性向に簡潔に哲学について、語りかけるような
文章が支持を受けた人で、生前に書かれた本は、ほぼ読んだというより、
手に取った。簡易であればあるほど内容は奥深い。この切り口は、壮年、
老年向き。次回からは、各章のテーマを取上げるが、今回は総論の紹介。
  〜アマゾンの内容紹介〜  ー死の問題は哲学の究極のテーマ。
《 悩むな、考えよ。混迷の時代を照らす、ゆるぎない言葉がここにある。
 日常の言葉で哲学の核心を伝え、「哲学エッセイ」という新たな分野を拓いた
池田晶子。累計30万部のロングセラー『14歳からの哲学』をはじめ、その著作は
没後の今なお、人生を真摯に考える読者から熱い支持を受けて読み継がれている。
本書は、池田氏の著作の中から、目まぐるしく移り変わる時代の中で、私たちが
物事を正しく考え、よりよく生きるための指針となる言葉を11のテーマ別に精選、
1冊にまとめた「言葉集」です。時を超えて変わらない真理と、人の世への
洞察にみちた池田晶子の言葉を、今こそぜひ味わってください。
 -- 〜アマゾンのレビューだが、どれも含蓄がある。‐‐
☆ 2007年に病死した池田晶子さんの文章を「死」と「生」という切り口
からまとめた本。第1章では30人の哲学者、宗教者の「死」に関する見解を
紹介し、それに対する池田さんの考えを述べている。あくまで「死」という切り
口で、これら30人の偉人たちの思想すべてがわかるわけではないが、どういう
思考様式をもった人たちだったのか、という池田さんなりの解釈がわかり、
ときおり「そういうことだったのか」と新鮮な発見をするところもある。
難解な哲学書などには歯が立たない私からすれば驚異の理解力の人である。
あと、池田さんは、世間一般では誇大妄想と避けられがちなヘーゲル
(少なくともカントよりは)評価している、というのがチョッとした発見。
 --
そもそも、もはや語りえないことについてどう語るか、という状況において、
「1.語りえないことを考えることをやめて生活のための生産活動に戻る」
「2.何かを信じないと落ち着かないので宗教に行ってしまう」
「3.そもそも哲学的なことは考えたことが無い」
「4.しつこく考え続ける」の4パターンがさっと思いつくのだが、
大半の人(科学者も含めて)は1を選んでいるのに対し、池田さんは
最後の4を選んだ(選んでも生きていける)稀有な人なのだろうと思う。
 --
「14歳〜」で青年、「41歳からの哲学」で中年、
そのほかの本が老年などをターゲットを網羅できたので、
『もう(書かなくても)いいのではないか。』などと漏らしておられる。
―――
▼ 老いを実感し、得体の知れない不安に取りつかれようとする日々に、
 身近に置き手軽に読むに丁度よい本。「悩むな、考えよ」が人生の要諦なら、
考え続けなければならない。「考え、楽しみ、達観する」のが、老いの秘訣?
・・・・・・
4396,宇宙は何でできているのか −2
2013年03月30日(土)
             「宇宙は何でできているのか」村山 斉 (著)
  * 私たちの住む宇宙は、10の27乗.10のマイナス35乗の世界 ー2 
【 宇宙は10の27乗メートル、素粒子は10のマイナス35乗メートル。これが、
 私たちが存在する自然界の「幅」。その両端にある宇宙研究と素粒子研究の
 あいだに62桁もの「距離」がある。ところが最近、まったく関係なさそうに
 見える2つが、実は密接につながっていることがわかってきました・・】 
  これが、この本のポイント。
今回は素粒子になるが、どうも10の−35乗という世界の実感が沸いてこない。
137億光年の彼方より私を逆照射して、更に8桁小さい素粒子の世界を科学の言葉
として突きつけられたのである。それを実感じろという方が無理。
 「人間の大きさを一として、外界は137億光年の広がり、内は、その広がり
を逆算した、更に8桁も小さな素粒子。そして、宇宙と素粒子は同じようなもの? 
何なんだろう、これは?  ーまず、この辺りのポイントの箇所を抜粋ー
≪ ちなみにリンゴー個と原子-個の大きさの比は、天の川銀河と地球の大きさ
 の比と同じぐらい。天の川銀河がリンゴだとすると、地球の軌道は原子1個
程度の大きさしかない。さて、原子1個の直径は、10の−10乗メートル。
かつては、これが「この世でいちばん小さい素粒子」だと考えられていました。
しかし、やがて原子も「内部構造」があるーつまり「もっとバラバラにできる」
ことが判明します。原子の中心には「原子核」と呼ばれるものがあり、その
まわりを「電子」がくるくると回っている。先ほどの「原子の直径(10の−10M)」
とは、電子が回る軌道の直径だったわけです。そして、電子の軌道から原子核
までの距離は、決して近くありません。地球と人工衛星ぐらいの距離感を
イメージする人が多いと思いますが、原子核の直径は電子の軌道よりはるかに
小さく、10のマイナス15乗メートル。電子の軌道の10万分のーです。もちろん
ミクロの世界の話ですから、私たちの目から見ればどちらも同じようなものです
が、実際は5桁も違う。富士山の標高と地球の直径でさえ、4桁しか違いません。
原子核から見ると、電子ははるか彼方を飛び回っているのです。この原子核
発見によって、「素粒子」のサイズは一気に小さくなりました。ところが、
話はそこで終わりません。原子核にも「陽子」や「中間子」といった内部構造
があり、その陽子や中間子も、いくつかの粒子によって形づくられているのです。 
その粒子が「クォーク」と呼ばれるもの。いまのところ、クォークこそが真の
素粒子」だと考えられています。その大きさは、どんなに大きく見積もっても
10のマイナス19乗M。かつて「素粒子」だと思われた原子とは9桁、その真中に
ある原子核とも4桁違うのです。さらに重力と電磁気力、そしてあとで説明する
強い力と弱いカも統一すると期待されている「ひも理論」は、素粒子の大きさは
10のマイナス35乗Mだと考えられています。≫
▼ 世界は「ウロボロスの蛇」(蛇が自分の尾っぽを齧っている絵)で、
 宇宙研究と素粒子研究の二つが密接に繋がっていて原理的に同じという。 
天の川銀河がリンゴだとすると、地球の軌道は原子1個程度の大きさ。
これが10の−10乗。素粒子は−35乗」と言われても、実感など出来ようがない。
ただ「物は事の変化の過程の有り様」という意味が少し分かるような気がする。
振り返れば過去は夢幻でしかない。いや現在もである。「実は宇宙のエネルギー
の96%が、他の宇宙からループ状の管の先から無限に注ぎ込まれている」
と言われても、「何それ?」の話になる。 まあ、面白い!

・・・・・・
5128,閑話小題 〜副操縦士の心の闇
2015年03月30日(月)
   * 副操縦士の心の闇
 世に多く存在する‘うつ病’を持つ人は、副操縦士の心の闇の一端を理解
出来るだろう。子供の頃からパイロットを夢みて、すべてを捧げてきた純粋な
青年が、その世界の過酷の実態を知り、会社と社会を恨むようになり、
それが蓄積をしていったようだ。 報道によると《 ・・元恋人は同僚の客室
乗務員で、副操縦士と昨年5カ月間交際していた。副操縦士は普段は優しかった
が、仕事の話になると急変。「給料が安い」と怒りをぶちまける一方、契約が
更新されるか、不安を見せていた。突然、元恋人に怒鳴り散らしたかと思えば、
トイレに長時間こもったりした。「墜落する!」と叫んで目覚める夜もあり、
ある時、「いつか僕は全てを変えることをしてみせる。誰もが僕の名前を知り
忘れないだろう」と語ったという。当時、元恋人は気にもとめなかったが、
墜落を知って思い出したという。元恋人は精神疾患とは薄々気づいていたが、
本人は内緒にしていた。副操縦士は格安航空会社の親会社ルフトハンザ航空
によると、長距離便の機長になることを夢見ていた。「健康の問題から自分でも
不可能と分かり、思い詰めて(故意の墜落を)してしまったのではないか」と、
元恋人は話している。》 
 重度の‘うつ病’で病院から「勤務不可」と診断書を出され、自棄になり、
機体もろ共の思いが、こういう結果になってしまった。4年前の一連で、長年の
備えをしてあり、過去の経験も含め、想定内として辛うじて大きく落込むことは
無かったが、それでも一つ判断を間違えると、重度の‘うつ病’が、口を空けて
いた。だから図書館やネットで、節目時に読むべき本を探し、貪り読むしかない。
その危なさを楽しめるまで、突詰めれば、後は、時間薬が解決してくれる。
 副操縦士にとって、操縦士としてのエリートコースから外れ、格安航空会社の
待遇が、あまりに悪く、その不満で、‘うつ病’になり、その立場さえも、維持
出来なくなれば、スチュワーデスの彼女との付合いも、結婚も失われてしまう。
 操縦士というスペシャリストが、突然、その資格を失えば、恐慌一歩手前の
欧州では、新たな就職先は皆無。あるのは失業者か、ワーカーしか残されてない。
私が彼の立場なら、燃え尽き症候群になっている。 二年前に、高校の同級生が
老舗の自営店の不振から、‘うつ病’になって、自死をしたが、他人事では
なかった。ドップリと、小さな世界に浸かると、他の世界が見えなってしまう
のも致しかたがないが・・ ホテル業を30年していた中で、2〜3年に
一度は、自殺者が出るが、当事者として、その自殺理由が警察から報告がくる。
それには、そこに至る深い理由と、闇を垣間見ることができる。 過去を振り
返ってこそいえる戯言、『生きている内が花』などの世界は、そこには皆無!
そう遠くない近未来に、うつ病より恐ろしい?「余命○ヶ月!」が待ている?
 で、偶然だが、以下へと、物語は続く! 明日が無いという恐ろしさ!
・・・・・・
5858,物語で経験する「生老病死」 −6
2017年03月30日(木)
       <老いの風景 ー物語で経験する「生老病死」〜石光勝(著) >
   △ 4S主義の応用で、旅行先を決める
  強みに帆をたて、風に従い船を勧める。これが人生にもいえる。
 4S主義をライフワークの「秘異境ツアー」に応用すると、以下のとおり。
1・スぺシャリゼーション(特化・絞りこみ) 
  = アフリカ、南米、インド大陸とか、当初は日本から見て秘異境、欧米圏
 の外側に、絞りこんできた。現在では重点を欧米圏に移行したが、もう南米、
 アフリカ、中東などは無理。
2・シンプリフィケーション(単純化
  = 行先をシンプルなゲームとみたてる。一点豪華主義で、国内旅行と
 国内レジャーを捨て、シンプルに秘異境ツアー先の「至高体験」を目指す。
3・スタンダゼィーション(標準化)=30〜40万×2人×年2回の150万の予算
 をたて、シーズン際のエコノミーの格安を狙い目にする。10回を超える頃から、
 決行手順の標準化が出来てくる。
4・セグメンテーション(絞りこみ)
  = 趣味を‘ツアーゲーム’に集中。日常が比較的自由の装置産業の強み
 を生かし、新聞・雑誌の広告、旅行代理店から送付のパンフレットから行先を
 絞りこむ。 地球を碁盤目に見立て、行った先の狭間を埋めていく。
 思いきって行った僻地近くを狙い「線」にして、その後の三角点で面にする。
・例えばスペイン。「マドリッド・トレド・バルセロナのコース」の次は、
「南スペイン・アンダルシア」を、三点目が「北スペインの巡礼ロード」に。
・北欧だったら、「トロムソのオーロラ」と「北欧4国の旅」の次に、
アイスランド」と。
・南米は、「ブラジルのイグアスの滝と、リオのカーニバル」の次に、
「ペルーのインカの旅」。「ベネゼーラのテーブル・マウンテン」、
そして「南米南端のチリ、アルゼンチン」と埋めていった。

尤もらしい理屈を並べなくとも、回数を重ねるうちに、自然と、そうなる。
一線から離れた気分気ままよりも、様ざな問題が重なっていた極限状態で、
極限の地に行けばこそ感動が大きく、至高体験になる。要約すると、何事も
<特化し、単純化し、標準化し、その時点ごとに対象を絞り込み、集中する>
 問題は、その引出しと、中味。 その為には… ?
・・・・・・
4763,最後だとわかっていたら
2014年03月30日(日)
  * 最後だとわかっていたら  ーひと言でいいのですー吉川直美編より
 アメリカのマレック という女性が、わが子を亡くしたときに書いたもの。
2001年の同時多発テロで、貿易センタービルに一機目が激突したあと、救助の
ために最初のビル内に突入した数百名のレスキュー隊の一人で、行方不明に
なってしまった29歳の消防士と言われたが、それは誤報
 ー母親の悲しみが、そのまま直に伝わってくる文章である。少し長いが・・
 ーー
      『最後だとわかっていたなら』(サンクチュアリ出版)より
あなたが眠りにつくのを見るのが 最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが 最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが 最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって 毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても 分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたなら 
一言だけでもいい・・「あなたを愛してる」と わたしは 伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくる でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして私達は 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも 明日は誰にも 
約束されていないのだということを

愛する人を抱きしめるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら 今日でもいいはず

もし明日がこないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための 
ほんのちょっとの時間を どうして惜し んだのかと

忙しさを理由に その人の最後の願いとなってしまったことを
どうしてしてあげられなかったのかと

だから 今日 あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも いつまでも大切な存在だと言うことをそっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」
を伝える時を 持とう  そうすれば もし明日が来ないとしても  
あなたは今日を後悔しないだろうから
    「最後だとわかっていたなら」ノーマ・コーネット・マレック 
▼ もし漠然と80歳が自分の寿命と考えていて、来年にでも余命半年と突然、
 宣言されたと仮説をたてると、現在の年齢が68歳として、差し引き11年が
失われることになる。自分の未来を子供とすると、その衝撃と哀しみが、
この詩に重なってくる。そうすると、いま何をすべきかが浮かんでくる。 
『人生をもっともっと深く愛しなさい! 家族・友人を大事に、親切にし、
供にあることに感謝しなさい! もう一度、人生を見つめ直しなさい!』になる。 
今日一日、清く正しく美しく、何事にも興味を持って、感謝して生きることだが。
若き日の追憶で、もっともっと、人生を燃焼しておけばと後悔するが、
それを何故、いま現在しないのだろう?
・・・・・・
4022, シングルイン、31年間の総括 ー4
2012年03月30日(金)
  * あの日から今日で会社の一周忌
 あの日から、今日で1年になる。17時を持って弁護士二人、女事務員二人、
私と、役員二人が同席の中、「今日の17時を持って会社は消滅をしました。
ご苦労さま!」と弁護士が宣言、全員起立をし深々と頭を下げた瞬間、31年間
の(株)ホテル・プロジェクトは消滅した。3つの会社実印と通帳の全てを
弁護士に引渡し、総務・経理関係全ての弁護士事務所への引継ぎが始まった。 
3月18日に会社解散を決めた瞬間から整理手続きが始まったが、全てドラマ
仕立てのよう。 翌日31日9時から、銀行に弁護士と事情説明にまわり、午後
13時に従業員全員を集めて解雇の言い渡し。その後に退職手続きに入った。 
修羅場には異常に強い方だが、不安そうに事情を聞いている従業員の姿を目の
当たりに見て、「気の毒。悪かった。」という言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、涙が
溢れ出てしまった。 弁護士の手順は慣れたもの。一つずつ流れが進んでいった。 
丁度、東北大震災と原発事故の進行が重なり、現実離れした映画の渦中にいる
ような日々。新潟駅周辺には、自国に逃げ出す中国人と韓国人が溢れていた。 
自分では冷静と思っていたが、実際は動転していたようだ。「交通事故だけは
気をつけて下さい。普段の数倍の確率で起きるのが通例で、大よそ一割の人が
事故にあいます。」と、弁護士に何度も注意された。実際にマスコミが騒ぎ出す
のは、その一週間後になった。弁護士が「直接原因は、東北大震災」と流した
ため、ニュースは全国レベル。家に隠れるのは精神上悪いので県外のホテルでも
行っていようか、弁護士に相談すると、「ここで後ろ向きの行為は、良くない。
家にいるべき」という。これも一理と納得。 日曜日18時のドキュメント
「バン記者」のスタッフから、「一連を取り上げたい」と早速電話が入ったが、
もちろん断った。毎月、月次決算のために30年間、事務所に来ていた会計
事務所の担当が、「あなたは、処理過程を楽しんでいる。何が起こっているか、
理解していないのでは」と、呆たようにいう。腹を据えてしまえば、後は冷静
にコトに従うしかない。全力で事に取り組めば、自然と体が浮いたように動く。 
それが活き活き楽しんでいるように見えたようだ。 冷静に振り返ると、
創業の生みからみれば、万一の準備を備えていれば、苦しみは数分一。
それが第三者には見えない。長年かけ準備をし30年も続けた事業は、行蔵
として強く残るもの。 死や人生と同じである。考えれば考えるほど、
この事業に心底、感謝している。 結果に、悔いも、未練もない。
「 ご覧のとおり、そのまま結構! 」
・・・・・・・
30年前の3月31日を前にして
2011年03月30日(水)
  * 創業30周年の日を前にして ・・
 そういえば、明日が30年前の命がけで始めたホテル開業の日である。
当時の名前はベンクーガーホテル。その一月前の2月28日にホテルの一角で
デザイン学生服をオープンをしていた。いま思い出しても、良い時代だった。
一瞬で消え去る学生服メーカーのネーミングをホテルにつけるという奇抜さが
話題をよんだ。平日はホテルに集中。土日は学生服を販売する変ったホテル。
チンケといえばチンケだが。 当時は、まだ高度成長時代の真っ只中、創業前
に人材を集めるのが大変な時代。当時と現在の、時代の格差に驚きざるをえない。
ホテルなど誰も経験者がいない中で、右往左往の緊迫した日々が懐かしい。 
何かにガムシャラに前に向かえば、そこには求めるもの答えがあった。
私たちは時代背景の中でしか生きることが出来ない。そして、30年後の現在、
当時より客室の価格平均が三割以上も下がっている。平均給与は数倍に上がって
いるに関わらずに。ドルショック、バブルとバブル崩壊、2001年の9.11テロ、
2008年の9・15のリーマンショック。そして、この大震災。その中で特に日本
は、その都度大きく変動した。自分の人生を振りかってみて、時代の要請に
そって能力をつくり上げ成功と挫折をしながら生きていく、それが人生だった。
事業は30年が大きな節目になる。その節目がきた。