* 3・11の、私の事情
 3・11からはや、まる7年になる。創業30年の会社の自主廃業と、東北大震災が
重なったが、こういう不幸は、えてして重なるものだが、それにしても…
 会社の万一用の「予備資金」に手を付けざるを得なくなったら、躊躇なく
会社清算をすると、当時、決めていた。が、冬枯れの時節とはいえ、その日が
到来し、年末から新年にかけ、まず独りで真剣に清算の見極めを考え始めていた。
 2001年の9・11テロ以来、中越地震、柏崎・刈羽地震リーマンショックと、
10年で、売上が3分の1近くへの減少の流れが止まらないのである。その背景に
情報化社会の到来もあって、首都圏からは日帰り圏に入っていたこともあった。
 社内留保や家内の保証を入れると、数年は維持できるが、これでは、何も
かも失うことになる。今、清算すれば銀行債権以外は、何とか清算が可能と。
そして年明けから、創業以来の右腕だったOと、財務の検討に入っていた。
 そして2011年の3・11に、事務所で話合いが終わり、立上ろうとした瞬間、
何か異様な揺れが始まった。これは遠くの大震災では?と、TVを入れると、
東北地区で大震災のニュースが。 「こういう事情の時に、こういうのが
重なることは、経験上、大いに有り得ることは知っていたが… 
 私に強い「意味ある偶然の一致(=シンクロニシティ共時性)」があるが、
あまりに出来過ぎと考えつつ… さて、この異常事態に如何すべきか?と。
そこに新幹線が不通とテレビのテロップ。県内の被害は、今のところ皆無なので、
まず当日の長岡への帰宅の心配。 それならバスは?と、電話で聞くと、通常
どおり運行、という返事。列車通勤客がバスに流れるので、サラリーマンの帰宅
時間前の17時に乗車と決めて、バス乗り場にいくと、空席があり何とか…。18時
過ぎに帰ってTVをみて驚いた。画面から絶叫に近いアナウンサーの避難勧告の声… 
「ああ、私の事業清算の、後押しが、これか」の内なる声。その混乱で、迷い
少なく、決断出来たことが不幸中の幸いになっていた。 350室で新潟駅前の
シリーズを終えて、新潟東バイパス近くに切替えるべきだった。まさか、9・11、
中越地震刈羽地震リーマンショック、東北大震災と、情報化社会の到来の
影響が、直に、ここまで衝撃を与えるとは、思いもよらなかった。事業とは、
そういうものかと、思い知った。 バブル期に一万円した「東京電力」の株価が
390円というから…25分の1。 バブル当時、私の友人が、3人の兄妹で、10,000株
を持っていたというが、如何したのだろう? 他人事ではないか。でも、自分の
「愛と死」?を見つめているような墓石の日である。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
当時の文章を、コピーしたが、書くこと、書き残すことの秘儀を実感させられる!
 
追記: そのホテルは、どうなってる? 引き継いだ運送屋が、4つのうち、
 3つを同ホテル名で引継いで運営しているが… 何の感情もわかないのは何故?
  死に分かれじゃなくて、生き別れ(一年、休業後、現在営業中) だから
  じゃないですか。 あれはあれ! それはそれ! これは、これ!
 
・・・・・・
3638, 大地震 ーつれづれに
2011年03月12日(土)

数年前に地元の中越地震、柏崎・刈羽地震を身近で経験したばかりなのに、
更に国家を揺るがすような大地震に遭遇しようとは。事務所のある新潟駅前では
震度4の震度だったが、揺れかたが広域の地震のような気がした。直ぐにTVを
つけたところ、リアルタイムに生々しい地震津波が中継されていた。
特に大津波が海の彼方から押し寄せてくるのを据付カメラが写しだしていた。
そういば先週みた映画「ヒア・アフター」で、ヒロインの一人が大津波
襲われ九死に一生を得る場面があった。 津波に飲み込まれ流される場面は圧巻。
しかし、これは現実である。TVの画面は長い海岸線に何波も線を描いて押し寄せ
てくる場面がリアルである。その上に、お台場のビルや、石油基地のタンクが
炎上している場面などが生々しい。夜になっても全国彼方此方から津波が注意報
が流されていた。観測が始って以来最大のM8・8の大地震。 規模は東北全体と
関東甲信越にわたっている。 この文章を書いている現在でも、現在進行形で
余震が発生しており、TVからライブで流れている。 江戸時代には、地震が多発
していたというが、1896年 明治の三陸地震 - 岩手県綾里 の津波高さ 38.2 M

  • 死者不明者 22,000 人が知られている。今回は、7メートルだったが、被害は、

死者が数千か、数万人になるのか。東北6県の人口合計と東京都の人口はほぼ同じ。 
もし関東に地震が起きて同じような大津波が襲ってきたと想定したら被害は莫大
になる。結果として、これまで起こっていた東北の地震は、この地震の予兆と
いうことになる。
今朝も、震度4の地震があった。これだけの大規模の地震に対して、即応は
無理のはず。救援を待っている被害者が多く存在してことを思うと心が痛む。 
まさか、まさか、まさか、で、今でも現実として受け止められないの大方だろう。
国内では部分的な地震は多くあっても、これだけ広域にわたった地震と、津波
は私が知っている限り初めてである。
そういえば、学生時代の友人が仙台飛行場近くの河口辺りに住んでいるが
大丈夫だろうか心配だ。病ある連れ合いがいるので動き辛いはず。
・・・・・・・
3273, 東京大空襲より65年
2010年03月12日(金)
一昨日の3月10日で東京大空襲から65年というが、新聞では殆んど扱って
なかった。 東京の住民10万人がアメリカによって虐殺されてのである。
その日にマスコミが取上げないのは如何いうこと?
長崎も、広島も、同様の殺戮をしているが、これも一般住民を狙った殺戮である。
日本人は人が良いのか、馬鹿なのか?
敗戦国へのソ連の扱いを見ているので、恐ろしくて言えないのである。
 
 ー「東京空襲」をウキィペディアで調べると
東京大空は、第二次世界大戦中にアメリカ軍により行われた、東京に対する
焼夷弾を用いた一連の計画的かつ大規模な戦略爆撃の総称である。東京は、
1944年11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、
4月15日、5月25日に大規模な空襲を受けた。通常「東京大空襲」と言った場合、
規模が大きかった1945年3月10日の空襲を指すことが多い。
太平洋戦争(大東亜戦争)中に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に
被害を与えた空爆である。死者、合計10万。
〜〜
以上だが、戦争とは、そういうものだとはいえ、罪ない虐殺は重大な犯罪。
その後、アメリカは朝鮮とベトナム、アフガン、イラクで同じような殺戮を
繰り返している。アメリカ支配者層の輩は、日本人などイエローモンキーと
して数段下に見下している。そうでなければ、こんな残酷なことをしない。
もっとも、スターリンソ連では国民を数千万も殺戮したし、毛沢東支配下
中国では文化革命下2000万とか3000万の国民が殺戮された。狂った
猿の最たるものである。アメリカは戦争を金融に当てはめ、金融工学で100年
にわたり世界の金融を支配していた。そして、このザマである。
その直轄支配国が、この日本である。マスコミも、自民党も、官僚も、
その宦官でしかなかった。それに最近になって気づいたのだから、私は何? 
それさえ気づいてないのが、現在の日本人の大多数。そして、これから10年、
世界は恐慌の嵐になる。「東京と名古屋に原爆が二発!東京は金融恐慌。
名古屋は輸出壊滅」と恐慌本の見出しにあった。もっとも、世界中が原爆が
落ちているようだが、目に見えないところが不気味。
・・・・・・・・・
2898,現在、歴史的転換期の真っ只中
2009年03月12日(木)
現在、我われは途轍も大きな歴史的転換期に立っている。
・東欧・共産圏と、ソ連の解体を20年前に見せつけられた。誰も自分
 の生きているうちにソ連が解体するなど想像すら出来ないことであった。
・その直後から、パソコンによるインターネットや携帯電話などによる
 情報革命を目の当たりにした。
・21世紀の初頭の2001年9月11日にはニューヨークの二つのビルに
 旅客機による自爆テロが起きた。
・そして今度は、アメリカ資本主義帝国の破綻と世界恐慌である。
 それとアメリカで歴史上初の黒人の大統領が誕生した。
この一連の出来事は、何か得体の知れない歴史的な転換期に我われが立た
 されていることを知らせている。
近代という名のロシアを含めた欧米主導の進歩と共同幻想が破壊したこと。
そして、欧米の暗示から醒めた世界中の民族と、これまでの欧米の文明の衝突
が数十年にわたり本格化する岐路に立っているのが、現在地ではなかろうか。 
そうすると、今年にかけてイスラエル国内?のアラブ地区での虐殺が象徴的に
際立って見える。世界の中東・イスラエル化が今度の行き着くところだろうか。
アメリカはイラクを捨てて、戦線をアフガニスタンまで下げようとしているが、
イラクからの名誉ある撤退のための方便とも考えられる。最終的には日本まで
下げてくる可能性もある。アメリカの国力が、この恐慌で大きく疲弊して
しまったからである。 そこで日本は大きな選択を迫られることになる。
・中国と距離を置いて、アメリカ、カナダ、ロシア・シベリア地区、
 日本のラインの同盟を組むか、
・中国、韓国、台湾、アジアと組んだブロック化の仲間入りをするか、
・何処とも距離を置いた欧州のスイス的な方向か、になるだろう。
どれをとるにしても、日本の国力があまりに疲弊しているので、大きな問題
が次から次へと起きるだろう。今までのアメリカのポチの存在であることは
不可能である。
私の人生だけでも、世界の激変を多く目撃することができた。時代の激変と
いう面で何世紀も生きたような気がする。濃厚な時代を生きることが出来た!
ということか。

・・・・・・
3640, 大地震 ーつれづれに ー3
2011年03月14日(月)
* これからは原発放射能漏れと大爆発の可能性がクローズアップ。 
まず現在、何が起こっているか頭を整理してみよう。
明治三陸地震以来の岩手、宮城、福島県沖の活断層が400キロにわたり
起こった地震と大津波。世界的にみても、今回の地震は最大規模の一つになる。
1番 チリ地震(M9.5 1960年) 2番 アラスカ湾地震(M9.2 1964年) 
 3番 スマトラ島沖地震(M9.1 2004年) 4番 東北地方太平洋沖地震
(M9,0 2011年) カムチャッカ半島地震(M9.0 1952年) 

今回の規模は、日本の歴史的にみても、一番大きな地震津波。人的被害では、
関東大震災がある。
1923年9月1日(土曜日)午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80kmを震源
として発生したマグニチュード7.9による災害。死者・行方不明者 14万2800人。
地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生しめ
死者が甚大になった。今回のように、地震津波、石油の備蓄基地の火災、市街地
の火災、原子力発電の爆発と放射能漏れなど起こりえる全てが重なってしまった
震災は過ってなかったこと。 地震災害研究者からみたら、これほど研究材料の
多い災害はない。
* この土・日曜日のTVは、東北・関東大震災の報道で一色。
リアルタイムの生々しい内容に時間を忘れて終日、見入っていた。三陸海岸には
津波に対する警戒もあり監視カメラが多く設置されており、個人のビデオカメラ
なども含め多くの映像が映し出されていた。日がたつにつれてYoutubeなどから
多くの映像が出てくることになる。急な避難のため体一つで逃げてきた人が大部分。 
帰る家も金も無くした被災民は今後、大変だろう。年寄りなら生活保護があるが、
中年の人は、この大不況の中、生活していくのは大変。それでも、助かっただけ
でも良かった。 
ところで、福島原発から200キロもはなれた女川原発放射能の値が、
福島原発から流れてきた放射能で、普段の観測地値の400〜700倍になった
という。すると300キロ位しか離れてない新潟も何らかの影響を受けることに。
一回ごとの発表が、どんどん悪くなっているのが気がかりである。深刻な事態に
なっているのだろう。大爆発の可能性も考えていないと! 家に閉じこもって
いるしかないのか? 

・・・・・・
3641, 大地震 ーつれづれに −4
2011年03月15日(火)
* ところであの男、大丈夫だろうか?
学生時代の友人が、仙台飛行場近くの阿武隈川の河口の漁村に、終の住家に選んだ。
このM9の地震津波が直撃したのでは?とブログに書いたら、それをみた友人
から電話が入った。仙台区若林区荒浜は多くの犠牲者が出ている。生きていて
欲しいが・・・ いや生きているはずである!
――
3040,卒業40年周年か〜 −4
2009年08月01日(土)
昨日届いた、この手紙を本人の了解無しに公開すべきかどうか一日かけて
考えた上で判断をした。私の40年ぶりの問いかけに充分に答えてくれた手紙で、
自分の人生を心を込めたダイジェストとして書かれた手紙を貰うのは初めて。
私一人の心におくより、記しておく方が良いだろうと勝手に判断させて貰った。
‘学生時代の卒業間近に真剣に対話した延長線上’の手紙上の対話だから魂が
入ったのだろう。それとキャリアの転勤生活で鍛えられた人生の極みの経験の
積重ねがある。学生時代の友人との対話というより、高潔な精神と魂の対話を
させて貰ったような気持ちである。私にとって一期一会の対話になった。 
それだけ良い学生時代を過ごしてきた証明にもなる。  
ーー
* 奥野君からの手紙
お懐かしい堀井さんのお便りを頂戴し学生時代の記憶が一気に甦りました、
本当にお久しぶりでございます。合気道の道場、同志社学習院への合同稽古、
合宿打上げ時の泥酔・不味い学食・ご自宅に泊めていただいての佐渡旅行等々
四十年前の皆さんのお顔と行状のあれこれが懐かしく浮かんで来ました。
堀井さんは当時から将来は事業家の道を目指して行くのだろうなと私なりに
思っていました。どうして? と問われれば、同僚に比べて社会経済の出来事
への関心が強かったとお答えします。その方向に真直ぐに進まれたのですね。
しかも大成功されて本当にすばらしいですね。
 プログも拝見させていただき堀井さんの人生の一端を垣間見ました。
暖かな生活が伝わってきました。
その後の小生ですが資生堂に入社し最初の赴任地名古屋をスダートし所沢、
福岡、東京、札幌、仙台、名古屋、広島、東京、仙台と転勤族の暮らしを送り、
56歳時に早期退職をして現在地に居を構えました。最終の役職は支店の責任者
でした。50歳台に入ると親しかった先輩、同僚、後輩等が次々と鬼籍に入られる
ようになりその方々の浬繋のお顔を拝む都度、一度の人生を思うように生きら
れましたか、満足されていますか という思考が強くなってきました。 
仕事は化粧品の製造、販売業務なので二十歳前後の若い女性が多く気持は若く、
楽しく送れた自負しています、が人生の残り時間があとわずかになってきたと
感じ始めると、時が無性に愛おしくなり、100%の自分の自由時間をはやく手に
入れ、日ごろより感じていた、生物として本来の姿、自然の中で自然と共に
暮らそうと決めた次第です。 日常生活は太平洋の日の出をワンちゃんと一緒
に拝み作った野菜を食し蔵王連峰に沈む夕陽に1日の健康を感謝する毎日です。
趣味は海釣りとゴルフです。自宅のすぐ目の前が海です。阿武隈川下流
にて魚影が濃く、黒鯛、サヨリ、ヒラメ、カレイ、海タナゴ、アイナメ、スズキ、
ハゼ、イシモチ、アナゴ等々を釣ってきては命をいただく感謝をしながら食して
います。 季節とともに変わり行く波と風と海水の濃淡をみて釣り時をきめます。
時の刻みが止まっているように思える一時です。
ゴルフはシーズン30-40回といったところです。自己目標が年1回以上30台
のスコアーをだすということでやってます。ちなみに今季は5月に38が出て
満足しています。 家族状況ですが29歳の時妻を娶り子供は息子が一人です。 
妻は若かりし時準ミス瀬戸で容姿はそれなりだったのですが6年前に○○○○
を発症し・・・。 最新治療を受診しているのですが○○疾患の為大変厄介な
病気です。現在私のサポートが少々必要な状態です。
そんな事情で立教会や同窓会といった宿泊のともなう集いは参加を断念して
います。息子は堀井さんの八と同じように名を新八(しんばち)といいます。
丸の内の○○生命国際投資部で海外債権の売買業務に携わっています。
平均睡眠時間は4・5時間との事です。親より出来がよかったのはカミサンの
弟が岐阜大の教授をやっているのでそのようなDNAをすこしばかりひきついで
くれたのかなとおもってしまう親馬鹿です。
ざっとした近況ですが一献傾けながら積もる話をしたいと思いつつ
先の事情でそれもかなわず拙文とあいなりました。 状況が好転したらぜひ
お会いしたいですね。堀井さんとご家族のご健康をお祈りいたします。 
                        7月28日 奥野和男
―――
* 奥野君への手紙        
            2009年07月22日 (今日、本人の手元に届く)
学卒40周年記念に参加をしてクラスの名簿に貴君の名前をみて懐かしく、手紙
を書いています。卒業前の半年間(S43・9〜44・2)日記をつけており、それを
20数年前に倉庫の隅から見つけ出しました。書いたことすら忘れていたので、
タイムマシーンで当時に戻ったような気持ちで読み返しました。 
8年前に始めた私のHPの中央の下にある分類のブログに書き写してあります。
ブログに同月同日に毎日載せたものです。従って、毎年半年は、当時の日記を
毎日読み返しています。その時、貴君が、あの馬小屋のような寮に卒業間近かに
訪ねてきて、これから社会に出るにあたって多くを語ったことや、佐渡に広瀬君
などとご一緒したことを思い出しています。 
先日の会では石川譲治君や、服部学園の園長の染谷(服部)、川村、福田君
などの顔が見受けられました。その前日に銀座に合気道の面々が集まり、一杯
やりました。三崎、木矢、伴、鈴木(加藤)、高杉です。三崎さんは10年前まで、
新潟に16年近く転勤できていて、2〜3ヶ月に一度のわりで古町などで酒を飲んで
いました。 ところで私は、その後
ジャスコに一年在社後に、
産業能率大学に途中編入をし、
・その後金沢の「いとはん」(その後ジャスコに吸収)に一年半在社、
・千葉の郊外に貸しビルをつくり、その中に居酒屋の養老の滝のFC店と、
 やはりFC店の焼きたてのベーカーリーを二年間従事(その当時に結婚)
・家の事情で実家の事業(衣料量販店と衣料専門店)を5年間従事をし、
・34歳から新潟駅前でビジネスホテルを30年近く経営をしています。
 
2001年の9・11のテロと、去年の9・15の金融恐慌以来、苦戦をしていますが、
何とかやっています。どちらかというと、創業屋的な人生だったと思います。 
30歳前半までに問題を吐き出し、後半は、それまでの勢いで何とか辿り着いた
というところです。ところで、貴君の住所をグーグルアースに入れてみたら、
仙台空港の南10キロほどの漁港のようなところで驚いています。
資生堂に入社して、都会にドップリと浸かっているかと思いきや、
その正反対の場所で。実際のところ、東京のアスファルトジャングルなどより、
遥かに良いことは、新潟飛行場の周辺をみれば分かります。それだけでも良い
人生を過ごしてきた貴君の姿が目に浮かびます。(それぞれに価値観があるで
しょうが) 
何かチャンスがあったら、会うのも面白いでしょうね。それでは、お元気で。 
あの日語り合った、延長の気持ちで思いのまま書いてみました。 堀井八郎  
 
追文)8年前より、ブログを開いています。暇のおり覗いてください。
 検索に堀井八郎を入れると出てきます。当時の写真や、先日のクラブや、
同級の二次会の写真があります。 分類には当時の私の日記があります。  
 〜 22・23・24歳の日記のコーナー 〜
 ー−
ー11月19日ー 1968年
・11時起床。
13時半に同級の奥野君が私の部屋に突然くる。1〜2年の時、
  席が隣のこともあって親しかったが。専門課程になってから疎遠になって
  いたのに。話をしたかったのだろう。人生について、倫理観について、
  その後読んだ本で感銘したことを必死に話をしていった。
特にケネディの自伝に感銘を受けたというのが印象的であった。

見違えるように自信を持ったらしい。男っぽくなったという言葉がピッタシ。
4時間ばかりして帰っていった。もうこうして彼と話合うことは無いだろう。
アパートから一時間以上かけてきたのだから、自分のメッセジーを伝えた
  かったのだ。

それにしても最近多くの人が吹き付けるように来るのに驚く。聞き役に
  徹していることもある。それと大学最後の時が来ているためだろう。