『クラウド時代の思考術』パンウドストーン著
   * 知識のプレミアム
 <多くの種々雑多な知識を知る者がたくさんの金を稼いでいた>
自分を振り返ると、どうだろう。一時期に稼いでいたが、ブラックスワン
消滅しただけで、背景に数知れない雑多な知識があった分、一時的にしろ
稼いでいた? いや15年の用意周到の自己配転など準備や計画的知識習得や、
雑多の経験があればこそである。計画をたてる前提に豊富な知識が必要になる。
その知識にはプレミアムが組みこんである。問題は、雑多な知識を、如何に
組みこむベースがあるかどうか。以下は、リアルなアメリカ的実証主義の内容…
問題は形而下の現象を、文章などで形而する能力。 それもこれも
思い詰めてないと、機会は知らぬ間に通り過ぎている。深く穴を掘ろうと
すれば広い幅が必要になる。その為には純真な好奇心と、それを追及できる
条件が必要となる。
――

≪「事実を知ること、覚えておくことになんの価値があるのか?」という問いに
 対して、第二章では、より直接的にわれわれのモチベーションを引き出して
くれそうな回答が提示される。 パウンドストーンの調査によれば、
「より多くの種々雑多な知識を知る者がたくさんの金を稼いでいた」というのだ。
知識の豊富な人々はたくさんのお金を稼ぐ。それは教育や年齢が一定に保たれた
ときでさえそうなのである。
(……)そこには知識に起因した大きな所得の格差がある。そしてそれは、
教育や年齢に起因するものではない。(p162-164)

教育レベルや年齢という要因を排除したうえで、なお"一般常識"クイズの
点数は所得の多寡と強い相関関係があった。
興味深いのは、所得との相関関係がもっとも強く見られるのは広範囲な一般常識
クイズにおいてであり、科学知識やスペリング・文法、文化的知識、スポーツに
関するマニアックな知識と、所得とのあいだには何の関係も見られなかったと
いうことだ。言い換えれば、専門的ではない事実的な知識の多寡が、所得と
大きな相関関係を持っていたのである。

 これは何を意味するのだろう? 
・“一般常識"と所得の相関関係はすでに明らかだが、これは因果関係なのだろうか。
 我々はクイズ本を読み漁り"一般常識"を身につけることで所得を増やすことが
 できるのか?
・あるいは所得が増えた結果として我々は物知りになるのか?
・それとも、第三の因子が"常識力"と所得のどちらとも正の相関を結んでいるのか?
(たとえば記憶力とか、好奇心とか、保護者の資力とか?)

パウンドストーンの推測は、これらすべてがそれぞれある面で正しいということだ。
そして生まれもった記憶力や両親を取り替えることはできないが、自ら学ぶことは
できる。外界に対し注意を払い、より多くのものを吸収していく態度が所得の上昇
につながるのである。 ≫


▼ この問題と教養の問題は別問題だが、「恒産あって恒心あり」か?
「恒心あって恒産あり」か? 両方相まってこそだが、好奇心がまず必要になる。
<売り家と唐様で書く三代目>というが、他人事の話ではない。その意味といえば
【創業 ー「初代が汗水たらして財を成した」さらに二代目までは家「会社」は
苦労して栄えたが、三代目は苦労知らずで育ち、遊びごと芸事「習字も唐から
伝わった書体文字の書き方」にうつつを抜かしたので家「会社」も没落し家を
遊んだ時に覚えた唐様の書体で「売り家」と書いて売りに出しているということ。】
このブログも「唐文字」のようなものですか。知識のプレミアムが「稼ぎ」だけ
でない。知識単独だけでも、管理さえ怠らなければ、それで充分プレミアムになる。
 
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4736,<つまずき>の事典 〜  ー4
2014年03月03日(月)
           <つまずき>の事典> 中村邦生編著
  * 言ってはならぬ、闘いが無益などと
 人生の終盤に、あまり良い結果ではなかった?が、自分の人生を
全面否定する気持ちは最小である。気持ちは「天気晴朗なれど、波高し」。
 この詩は、誰にでも訪れる人生の終焉で、励ましを与えてくれる。
《  言ってはならぬ、闘いが無益などと
   努力も傷手も無駄などと
   敵はなお息絶えず、怯むこともなく
   事態は相も変らず元のとおりだ、などと。
 ーアーサー・ヒュー・クラフ「言ってはならぬ、闘いが無益などと」P-44
アーサー・ヒュー・クラフはイギリスの詩人。ラグビー校でトマス・アーノルド
に習い、その息子マシューと生涯にわたる親交を結んだ。マシュー・アーノルド
の追悼詩の傑作「サーシス」はクラフを悼んだもの。「言ってはならぬ、
闘いが無益などと」は窮地にあってなお不屈の心をうたった詩として知られる
(引用は冒頭の一節)。また第二次大戦中にチャーチルルーズベルトへの放送
の結びにこの詩を引用し、イギりス国民を励ましたという逸話を持っている。
クラフには「一度も闘わないよりは、闘って敗れた方がましである」
という有名な言葉もある。  》  
  ーネットで、調べたところ、以下の訳があった。   
【 悪戦苦闘しても無駄だ、
  骨折り損だし、怪我をするだけだ、
  敵は一向に怯(ひる)まないし、逃げる気配もない、
        結局元の木阿弥だ、などと言ってはならない。
  希望を抱いて馬鹿をみるなら、心配が杞憂に終わることもある。
        もしかしたら、ここからは見えない戦場の一隅で、
  まさに今、君の戦友が逃げる敵を追っているかもしれない、
        君さえいなければ、勝利は味方のものかもしれないのだ。
  疲れきった様子で浜辺にうち寄せている波も、
       いくら苦労しても一歩も前進してはいないように見える。
  それでも、ずっと彼方の湾や入江では、じわじわと、
       そして、黙々と、大きな潮がみちかけているのだ。
  夜明けの時にしても、東側の窓からだけ、
       光が射してくるのではない。
  東の空に太陽が昇るのが、どんなに遅々としていても、
       西の方を見るがいい、天地はもう明るくなっているのだ。 
               ー平井正穂編『イギリス名詩選』より 】
▼ 現在の私に、一言一言が実感として響いてくる。 何もしない人ほど、
 いや出来なかった人ほど、「闘いが無益で、努力も痛手も無駄」と言い張る。
闘いもない、さしたる努力もない人生ほど、毒が溜まり、精神を腐らせている。
その毒を、他人に?に向け、吐き出すしかない人々の哀れさを、この節目で
タップリと見せて貰った。「世界は広い。そして深い!」人類は成功によって
導かれてきたが、その背後には99%の失敗と挫折がある。それが人生だ。

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5831,閑話小題 〜しまった! ー「しまった!」の総括ー 18
2017年03月03日(金)           
          「失敗の心理」しまった!」ジョゼフ・T・ハリナン著
   * 「しまった!」の総括
 ランダムに印象に残ったところからテーマにしてきた。どれもこれも思い当る
 ふしがあるテーマ。須らく、さんまの「アフォ違いまんねん、パーなんねん」
――
・人は(90%は)間違るもの。
・手ごわいのが「あと知恵バイアス」〜更に危ないのは当人が気づてないこと。
・専門家によれば、視野のなかで高解析度をもつ範囲は角度にすれば親指の幅の
 僅か二度だけ。「見たつもり」「知っていたつもり」で、実は何も知らない。
・都合よく無意識でつくり変えた話でも、二度三度繰返すうちに、いつしか
 「記憶」そのものになってしまう。
・人はみな「意味」を探す だから物語化をして問題整理が必要となる。
・意外と大事な「色」の問題。黒いユニフォームのチームは、ペナルティを
 取られる可能性が高くなる。
・ギャンブラーは、なぜ自信満々なのか? 買った局面を度々、思い出すため。
・ドイツの音楽をBGMで流すと、ドイツワインの売り上げが上がる。
・状況は「偉大な杖」の如し〜ハロウィンで、首つり自殺を見逃しがちになる。
 正月に起こったことは、正月、思い出すことが多い。
・人間は「嘘つき」である。何故なら、情報伝達の間に、ほぼ歪んでいく。
・人間は、自分を人並み以上と思う。〜自分が無知蒙昧など微塵も思わない。
・馬鹿の一つ覚え。 〜一度覚えた方法を知ると、改善、改革しようとしない。
・人は馬鹿である。 〜学生と教員に単純なゲームさせ、洒落た服装の教員と、
 冴えない教員とでは、前者の場合は自信をなくし、後者には自信満々だった。
 〜さらに、コインの裏表を当てるゲームで、八百長で数回、当てるように
 仕組んだ方は自信過剰になり、裏表を当てる能力を持っていると信じるように
 なっていた。賭博場が、素人を誘い込むのは、これ。背後にある組織の力に
 気づくことなく独立をして失敗するのは、このパターン。
・人は自制しない。 〜いや、「出来なくなる」というのが、正しい。
・焦点幻想。 〜人は焦点をしぼる的を間違える。複雑の問題の場合に、
 簡単な方に注意の的を絞りがちになる。
・人生の資産は、時間をどのように使うかにある。
――
目次を見ながら、抜粋したが、どれも、これも、思い当たるふしがある。
基本は、志村けん加藤茶のコントの『呆け老人の対話』が、その要約。
突っ込みも、呆け役も、その要領を得ないで、遣り取りをしている。
あれが実は日常の真実の姿。 他人同士の中では、鮮明に見えるが、
これが自分のこととなると、全く見えなくなる、人間の悲しさ。
追)馬鹿に「楽観」も「悲観」もないが、再び、去年の内容の文脈に
 つながる。心底、人間そのものが「失敗の塊」と思う。 特に私は! 
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5101,悪夢の21世紀 ー6
2015年03月03日(火)
   * ニーチェが看破したキリスト教の価値観 
(12)≪ 思想家ニーチェは、来る200年はニヒリズムの時代になる、と言った。
 ニーチェが死んだのは世紀の変わり目1 9 0 0年だった。ニヒリズムは人々が
 共有できる大きな価値観の崩壊。キリスト教が約束した福音も近代主義の福音
 も、ヨーロッパが生み出した大きな価値観であった。人々の幸福を保証する
 ものだったはず。ニーチェはそんな価値観は脱ぎ捨てろと言った。キリスト教
 や近代主義の理想にとらわれては駄目と言った。そんな幸福はちっぽけなもの
 だし、人はそんな価値によっては幸福になれないと言うわけ。 ニーチェ
 キリスト教は人間を見苦しいまでに自虐的な存在にし、自由や平等や人権などを
 唱える近代社会は極めて偽善的で欺瞞的ないやらしい社会だ、と言った。
 今日アメリカがグローバルな正義として打ち出している自由や民主主義、平等
 や人権、公正な市場経済などは、ニーチェの発想からすれば、何とも欺瞞に
 満ちたインチキくさい正義だとの論理。ニーチェの言い分が全面的に正しいか
 は別としても、今日、最早、自由や民主主義、平等や人権、公正な市場経済
 など無条件に信じられない。この「正義」の背後に、「力」の競争や闘争が
 隠されていることに誰もが気づいてしまったから。だから、市場しか見てない
 者は、規制改革を徹底して行い競争を強化すれば経済は効率化できる、という
 ことしか眼中にない。成長戦略しか見ていない者は、教育から観光から
 エネルギーから人間の生命や医療まで、すべていかにG D Pを押し上げるか、
 の観点からしか見ていない。人権主義者は、女性の職場であれ、家庭であれ、
 学校であれ、人間関係を権力関係としてしか見ていない。政治学者や政治
 評論家は、もっぱら政治を民主化という観点からしか見ていない。ある種の
 ナショナリストは、すべて中国が悪い、韓国が悪い、という観点に立つ。
 一方、平和主義者は憲法9 条にしか関心がない。≫
▼ ニーチェは、近代社会を偽善的、欺瞞的、社会と看破し、その根源が
 キリスト教にあるとした。人生振り返って、哲学では、ニーチェに一番、
影響を受けていた。特に欧米主義にドップリ浸かっている自分に徐々に
気づく過程が私の人生だった。世の論説をみると、ニーチェが看破した
価値観に即して論じているようだ。そして、世界は益々動乱になっていく。
20世紀の半ば1946年に、地球上に人間として生まれ、21世紀を15年を生きたが、
あの世からの視線で見直すと、面白い時代の狭間を生きてきた事を思い知る。

・・・・・・
5466,人生で最も大切な技術 ー24 楽観主義と悲観主義
2016年03月03日(木)
『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 楽観主義と悲観主義、この二つの世界観
 楽観だけではモノゴトは上手くいかないし、悲観主義だけでは、面白くは
生きていけない。この年齢になると、「もう○○歳」と「まだ・・」と考える
かで、大きく違ってくる。『悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志
のものである。およそ成り行きにまかせる人間は気分が滅入りがちなものだ』
と、アランが『幸福論』でいうが、やはり意志が受止め方を変えていく。
 〜その辺りから〜
≪・楽観論者とは、この問題は一時的、制御可能、特定の状況と関係している、
 というふうに考える人。「そのような些細なことで大騒ぎするのは理に
適っていない。すぐに片づく。自分で解決できる。いずれにせよ、これまで
常に解決できた」をモットーにする。
・一方、悲観論者は、問題は長引くだろう(この種の問題は簡単に片づかない)、
やることなすことが裏目に出る(私には期待しないでほしい)と考える人である。
また、生まれつき精神的な欠陥があると思い込み、「何をしても結果は同じ」
と冷めていて、「生まれつき幸せとは縁がない」と結論づける。
現代人の多くが不安感に苦しんでいるが、これは悲観論と密接に関係している。
悲観論者は常に災難を予想し、慢性的な不安症にかかっていて、疑い深く
なっている。不機嫌で、苛立ち、神経過敏になり、世の中や自分への信頼感を
失っていて、常にいじめの犠牲になっている、捨てられる、無視されている、
などと取り越し苦労する。≫
 * 楽観論に対する論外な非難
≪・心理学の世界では長年にわたり、多少抑うつ的な人のほうがものの見方が
 「現実的」で、楽観論者は、苦痛の伴う状況よりは、愉しい出来事に長々と
思いをはせ、過去の実績や達成を過大評価する傾向がある、と信じられてきた。
仮にそれが真実なら、楽観論者に比べて、悲観論者の方が目を大きく開けて、
状況をより明快に評価する傾向がある、という理屈になる。また、その説が
正しければ、悲観論者は、「現実は必ずしも、笑えるほどに愉快なことばかり
ではないだろうが、物事はあるがままに見るべきだ」と考える。
・一方の楽観論者は、たしかに愛想は良いが、救い難いほど世間知らずで、
無警戒な夢想者で「夢から現実世界に戻されるのが落ちだ」という議論になる。
どうやら、以上が正当化されてきたのは、単に偶然が重なっただけらしい。
各種の研究が進展中だが、その結果、客観的で超然としていて用心深い、
と考えられていた悲観論者の判断は不適切、ということが立証されたのである。
日常生活で起こる、現実的な状況に注目すると、楽観論者のほうが悲観論者
よりも現実的かつ実用的なアプローチをとることが実証されている。≫
▼ 明石家さんま座右の銘は「生きてるだけでまるもうけ」という。
「生きてるだけでまるもうけ」は、「死」が視座にあればこそ言える言葉。
長門裕之の妻の故・南田洋子が晩年、この言葉を口癖にしていた。ならば、
生きているうちに楽しむだけ楽しまなければ!