* 熊さん、寅さんを加えた対談
 また、熊さん大家さんだが、何か4人が出てくると、話がスムースになり、
純化するので… それと内なる友達と雑談しているようでホッとする。
そこで、「キツネとハリネズミ」2者と、熊さんたちと対談させたらと思い
立った。案の定、やはり、不自然になったが、辛うじて物語になった。
――
大家さん: 私を司会に、キツネとハリネズミの対談の進行をあい至すことに。
  これだけでは、話がギクシャクするのは目に見えているので、助っ人に
  熊さん、寅さん、八つぁんに加わってもらう。
熊さん: 何で、俺なんだよ。今回だけ、実際の熊になったつもりで話すよ。
大家さん: そりゃ困るよ。あんたは呆けの熊だからこそいいんだよ。
  ところで、コンさんよ。エライところに引合いに出されたね。
キツネ: 大たい、人間様はオイラに良いイメージを持ってないね。子狡いとか。
  何でも餌にする雑食の奴とかね。
ハリネズミ: オイラなど、敵がくると丸まってさ… 食肉動物の子供がまず
  私の針の犠牲になるのさ。この前など若いライオンが余程腹が減ったのか、
  執拗に絡んできてさ。前足二本と、額に何本も刺さってさ。駄目なのを知ら
  ないでさ。 行動範囲の小ない専守防衛の代表格として引合いに出されてね。
  実際に動くのは嫌いでね… それにしても神様は、何でこんな針を…
  メスには、何時も手こづっているよ。余程、機嫌がよくないと絶対無理。
寅さん: 分かるわかる。
熊さん: 若いうちは、気にいった女性が近くにくると緊張してさ、気持ちと
  裏腹でハリネズミのように全身から針が立つような状態になってさ、困った
  ものだったよ。
ハリネズミ: 時々、キツネさんが羨ましくね。行動範囲が広くて、調子と愛想
  が良くてさ。
キツネ: いや、餌探しだけでヤットなの。その上に、他の野獣の餌になる危険が
  あるし。特に猛禽類が何処から襲ってくるか分からないしさ… 両親と兄とも、
  奴らに何処かに連れていかれ行方不明さ。 ハリさんのように、誰も見向きを
  しないで、日々を楽々生きているのを見るにつけ…羨ましい限りだよ。
  自分がいま、生きているのが不思議なくらい。だから面白いのもあるけどね。
八つぁん: まあ、互いを羨やんでも仕方がないよ。そう生まれてきたことが、
  宿命として早く受入れるんだね。 例えに使われただけさ。
大家さん: でもね、こと人間に関していうと、自分の武器の利点を知らなすぎ!
  もっと知っておくべきですよ。それを熟知すれば、それぞれの弱点をカバー
  出来るしね。
寅さん: ハリさんは行動範囲が狭いことと、ノロマなことが欠点だね。
  コンさんは、空の猛禽類の攻撃が命取りになる。そこで、岩場などで襲われ
  そうになった時に、岩を背にしてハリさんを盾にするとか。 猛禽類は、
  よほどエライ目にあったのか、ハリさんを見ただけで近くにこないからね。
  キツネは雑食だから、広いテリトリーの餌場を知っている。だから補完すれば
  いいんだよ。
八つぁん: 人間の成長とは、ハリネズミと、キツネの掛け合わせたように進化?
  していけば良いんだろう。人間は、10代、20歳代までは、ハリネズミ的で、
  成年期に向かってキツネ的要素が強くなっていくんじゃないか。それを成長と
  勘違いする間違いに気づかない。
大家さん: 確かに、その通り。小難しいことをいうと、実存主義と、構造主義
  の違いということになる。
熊さん; なるほど、身体の構造が違うから、構造主義ですか?
大家さん: そう言われれば、その通りだ。
八つぁん: 顔かたち、容姿が整っているだけで、人間の評価が違ってくる。
熊さん: そうだよ、付いているのは同じなのに。
寅さん: その上に、親の貧富が、そのまま、運命というより、宿命になって
  しまう。運命は変えられても、宿命だけは、どうもこうも。
八つぁん: 確かに、神様(自然)は、人間を不自由に、不平等にして、憎しみ
  あうようにして、建前として、『自由、平等、博愛』を理想の旗に掲げた。
熊さん: 理想と現実は、えらく違うね。
寅さん: だから面白いことを俺だって分かるよ。そこが熊さんと違うんだよ。
大家さん: だから寅さんは、寅なんだよ。比べちゃいけないと何時も注意して
  るじゃないか。
 <下をみれば底が無い、上をみれば果てがない、横をみれば情けない> ってね。
熊さん: 俺など、情けなくて情けなくて… まずは寅に馬鹿にされ続けてさ。
キツネ: まあ、生の危険に直面してないから、こんな生易しいことがいえるんだ。
ハリネズミ: ったく、その通り。俺なんて、滅多に餌に有り付けないし、餌にも
  ならないんだよ。そして、小さいテリトリーで、餌とメスの取り合いで齷齪し
  生涯を終えるんだよ。
八つぁん: とすると、外交的な寅さんは、さしずめ、キツネタイプ。熊さんは、
  ハリネズミタイプですか。
熊さん: そう言われると、思い当たる節があるね。いつもカカアが、ハリを
  オンたってさ。たまったもんじゃないね。
寅さん: 昨日だってさ、ダチがさ、猛禽類に目の前で浚われてさ。
  「ハイさようなら!」の声を残して空の彼方に消えていったよ。
  猛禽類は悪い奴の例えだよ。念のために…
大家さん: 司会が私だから、そろそろ、話を〆させてもらいます。
  熊さんは、カミさんや、寅さんと仲良くし、愚痴を言わないで怒らない。
  寅さんは、長屋の外で、いい気にならならないで、気を許さない。
  八つぁんは、長屋の住人を馬鹿にしたり、気を許さないことだね。
  エッ、私… そうさね、小さな長屋の大家の身分を自戒しないとね。
八つぁん: 寒む!
熊: 眠む!
寅: 腹減った!
――
▼ で、偶然だが、以下の3年、2年、4年前の文脈に続いていく。

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5069,あわいの力 ー�
2015年01月30日(金)
        ーあわいの力 「心の時代」の次を生きるー安田登(著)
  * 日本の「心(こころ)の三重構造」
 ここで、「心」の三層構造がシンプルに説明されている。これまでは、
< 仏の心を、「こころ」、移りゆく感情などを中心にした西欧的解釈を、
「心」と解釈してきたが、この三層構造は面白い! 〜その辺りから〜
≪ 「心」は、三層構造である。 
 ・一番上の表層が「心(こころ)」(=脳)があって、
 ・その下に「おもひ」(=内臓感覚があり)
 ・深奥に「しん(心)」(=芯=神)がある。
― 表層にある「こころ」の特徴をひとことでいえぱ「変化する」ことです。
 たとえば、去年まではあの人のことを好きだと言っていたのに、今年はもう
違う人を好きになっている。そんな移ろいやすい感情が「こころ」です。
こころ変わりという言葉があるでしょう。
― その「こころ」の下には、表層の「こころ」を生み出すもとになる動的な
 心的作用、「おもひ」があります。「おもひ」のなかで重要なのが「こひ」
という言葉です。「こひ」は、ふつうは「恋」という漢字をあてて恋愛感情を
いうことが多いのですが、本来は自分のなかに、なんらかの欠落感があって、
その欠落状態が埋まるまで、なんとも落ち着かない、そんな不安定な状態を
さします。たとえば、さっきまで目の前にいた子どもがいなくなり、その子が
戻ってくるまでは安心できない、そんな状態のことです。漢字で表記するなら
「乞ひ」がいいでしょう。雨が降らないから「雨乞い」をし、お腹が空いて
しかたがないから「物乞い」をする、そんな状態を「こひ」といいます。
 ・・仏教にも以心伝心がある。世阿弥は、心より心に伝ふる花と言った。
言語以前である。能は、「おもひ」を圧縮した芸能である。演技により解凍
された「おもひ」は、観客の深奥に隠れている「おもひ」と同期して目覚め
させる。「おもひ」の世界の言語は、歌(詩)である。
 能というのは、この「おもひ」を圧縮した芸能で、そして能を演じるという
ことは、その「おもひ」を解凍していく作業なのかもしれません。そこで解凍
された「おもひ」は客席にあふれていき、それがまた観客ひとりひとりの
「おもひ」と同期して、そこに何かを生み出す。それが能という芸能なのです。
― 一瞬にして相手に伝わる何か、それが「心(しん)」です。それは「芯」にも
通じ、「神(しん)」にも通じる、ちょっと神秘的な心的作用です。以心伝心と
いうときの「心(しん)」が、まさにそれです。言葉や文字を媒介とせずに、
一瞬にして相手に伝わる何か、それが「心」なのです。・・・ ≫
▼ <お能は、「おもい」を圧縮した芸能> この一言にお能の本質が言い
 表されている!「おもひ」は、「こひ(乞い)」も、解りやすい。人生は、
「おもひ」を求め流離う(さすらう)旅である。流離い流れついたのが、
現在の自分。「心・観・学・術・体」の、観が「おもひ」で、「学・術・体」が、
渡世(娑婆)で生きるということ。 この「心・観・学・術・体」は次回で!
 * また偶然だが、以下の内容が、丁度よい内容! お後がよろしいようで。
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5433,人生で最も大切な技術 ー? 純粋意識
2016年01月30日(土)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 心の本質、純粋意識の経験
 仏教の教えの真髄を、欧米人向きに説明するための、「純粋意識」が、明快
でよい「色即是空 空即是色」の心境が「純粋意識」であり、修行の一つが、
座禅になる。それにしても、明快な解釈である。 〜その辺りから〜
≪ 心の中には、絶え間なく流れ続ける思考の流れがあるという、それまで
 一度も気づかなかったことが見えてくるだろう。好むと好まざるとに関わらず、
感覚、記憶、想像から生まれる無数の思考が人間の心を永久に流れ続けている。
 ところが、人間がどのような種類の考えを抱こうとも、心の中には、一つの
特質が存在している。それは、あらゆる思考の基礎をなす根源的な意識である。
それは心が安らかな稀な瞬間にしか現れず、ほとんど動かないが、心の知力が
そのままそこに残っている状態でもそこに存在している。この単純に解放された
自由な存在は、「純粋意識」と呼ばれるものである。心を構成する内容が不在
でも、それだけは存在しているものだから、純粋意識と呼ばれるのである。
 心が心を観察する作業を一段深めると、この純粋意識とその働きによって
生まれる思考を経験するだろう。純粋意識は必ずそこにある、としか説明の
しようがない。この思考には生まれつき備わった性質があるのか。
特別に存在するのか。 答えは否である。
 では、色や形はあるか。同じく否である。そこに見出すのは、知(無知の反対
の意味での)の本質だけであるが、それ自身には本質的な特徴はない。純粋意識
に突入すると、心に本来備わっている中身が空の状態を経験する。この思考
ゼロの考え方は疑いもなく、西欧心理学には馴染みのないものである。
「思考をゼロにする目的は何か」
「第一、怒りなどの強い感情や考えが生じたら、何が起こるのか」。
 確かに、強い思考には誰でも簡単に屈しそうになる。なぜなら、人間を不安
や無分別にさせ、時には暴力的な発言や行為に走らせ、他者を苦しめ、やがて
後悔する結果を生じる、無数の新しい思考を増殖するのがこの強い思考だから。
このような雪崩現象が起こらないように、怒りのような激しい思考そのものを
つぶさに点検すれば、それが最初から煙や鏡のような存在でしかなかったこと
がわかるだろう。純粋意識から生まれる思考は、純粋意識に再び吸収される。
それは海から生まれた波が再び海に消えていくのと同じである。この原理が
理解できれば、心の平安に向かって大きく前進することができたといえる。
この瞬間以降は、思考が心の障害になる毒素が弱まり始める。この手法を習熟
するには、一つの思考が浮かんだ時、その考えがどこから来て、いつ消えるか、
どこに行ったか、を自問自答することである。取り留めのない散漫な思考に
妨げられない、この短い瞬間に、心の本質を熟視するのが良いだろう。
 過去の考えが沈黙し、未来の考えが未だ起らないこの瞬間こそが、光り輝く
聡明・純粋な意識の存在を気づかせてくれる。その意識は、頭で組み立てた
概念的な構築にへつらうことがない。この純粋意識を実際に体験することで、
仏教がいう心の本質を次第に理解できるようになるのである。≫
▼ 純粋意識で純粋意識を説明しているから、スッと理解できるのか。
 般若心経を忘我の状態で唱えている状態が純粋意識。では、仕事に
没頭の状態は、どうだろう? 少し違うか。 以前、大きな決断をする直前の
眠れない夜の二時半が、純粋意識に近い状態になっていた。その時、さあ、
どうする?と。 それでも、多くの間違いがあったが、自分としては、
考え尽くして決めたことと諦めがつく。思考の果ての、思考ゼロもある。
これも純粋意識とチト違うか。 で、これも偶然、以下につづく。
・・・・・・
4704,「考える」と、「思う」の違い
2014年01月30日(木)
   *「考える」と、「思う」の違い  ー『散文』谷川俊太郎著より
 何気なく書いている文章に、「・・・と考える」と、「・・と思う」がある。
「思う」は、感覚的、無意識的というニュアンスがあり、これを受けて論理を
組み立てるのが「考える」。この読書日記で、同感したり、感激、感動、感謝
した内容を取上げ、自分の考えに論理だてるプロセスが「考える」ことになる。 
  ーその辺りから
《 思うという行為は、考えるという行為に比べて、より感情的であり、
 より不正確である。物思いという言葉にも表われているように、それは時には
余りにも漠然としていて、まるで自分を甘やかしているようにとれることがある。
けれどまたそれ故にこそ、思うことは考えるという行為に比ぺて、いっそう
未分化であり、人間のより多く部分をその中にまきこむ。考えるのが主として
理性の働きであるとすれば、思うのはおそらくまず感ずることにその基礎を
置いている。考えることは時に現実を離れて抽象的な理性の遊びに堕するが、
思うことの堕落はもっと肉体的な自己陶酔に向かう。こういう風に、思うと
考えるとを分けてみても、実際にはこのふたつの心の働きは、つねに亙いに
補いあってひとつである。思ったことを考えることでより精密化し、考えた
ことをもういちど思ってみることで、より全体的にすることを、無意識の
うちに私たちはくり返している。 ・・・ 》 ヽ(゚ロ゚(-_-;)ゝ アッ!
▼ 上記の《 》が、同感、同調した部分になる。 それを受け「▼」部分が、
「思い」「考える」ことになる。◎「考える」は、「言語を用いて」
「意識的に」「論理的・合理的プロセスを踏んで」のに対し [(ーヘー;)え〜と  
◎「思う」は、「言語を用いずに」「半無意識に」「思い浮かぶに任せ
(必ずしも、論理的・合理的とは限らない)」「悔しいと思った。」
「悔しいと考えた。」と、すると、後の方が少し違和感がある?「思う」が
どちらかと言えば受動的、「考える」が能動的な感覚のために、少し違った感覚。
英語では「考える」は「Think」。「思う」は「Feel」に近い。
 何かを考えるキッカケは感謝、感動、感激など、感じ入った場合が多い。
だから一流の芸術作品を多く見たり、大自然の神秘に触れたり、書物を通したり
して一流の人物に接して日々、新面目を見出すことが必要である。
「思う」を受けて「考える」ことは、受動から能動の切替ポイントになる。
積極一貫で人生に立ち向かう中で考えるしかない! /(@゚ペ@)ウーン

・・・・・
4337, 閑話小題 ー「私には友人が一人もいません」
2013年01月30日(水)
  * 「私には友人が一人もいません」
 ある政治ネタを中心にした関西系のバラエティー番組のゲストの一人が
何気なく発した一言が印象的であった。「私には友人が一人もいません。
だから、携帯電話には時おりくる仕事関係以外に電話は入りません!」一瞬、
その場が白けるほどのインパクトがあった。事業創業と独立独歩を人生の
コンセプトにし、また専攻が社会学だったこともあり、あまり人に好かれる
タイプでないと自認している。しかし、どの場面でも、気心が知れた人はいた。
大方が飲み友達だが・・ しかし、堂々とTVの前で「私には友人がいません!」
と言えるだけの強さは私にはない。 映画で、一匹狼の殺し屋が、独り部屋の
中で拳銃を弄っている場面が頭に残っているが、あの感覚なのだろう。
別に友人など求めず、単独に徹すれば、これほど自由なものは無いはず。
一人旅をたとえれば分かること。 知人に、一切、人を寄せ付けない人がいた。
仕事の能力はあるが、趣味は一切持たず、酒もタバコもやらず、奥さんと年に
数回、外食をする位とか。せいぜい家でTVを見るぐらい。情報化の時代に逆に、
こういうタイプが増えているのだろう。中学校の同級会で久々に会った旧友。
糖尿で片目が失明、仕事はリタイアし、ゴミ出し以外、外出をいないという。
ただ終日ボ〜っとテレビを見ているだけと涙目・・ 
家内が先に亡くなれば、似たような状態になるのだろうが、どうも私が先。
時代の変り目もあるが、社会的・金銭的にも恵まれているのにウツっぽい
のが目だってきた。
  * アップル株が
 アップルの株価下落が止まらず、ここ数日で時価総額で6兆円以上下落。 
時価総額世界一から転落、アメリカの石油大手のエクソンモービルが返り咲き。
「アップル」株の時価総額は、昨年9月には60兆円と世界一の時価総額になった
が、週末には、38兆円に減少、昨年9月から現在までに22兆円、率で38%が減少。
カリスマ的創業者ジョブスが亡くなった影響が、ここで表面化したのだろうか。 
問題はiMac,iPod,iPhone,iPadに次ぐ新商品が打ち出せるかどうか。
「あれは、ジョブスの強烈な個性が生み出したものだった」に終わる可能性が
出てきた。 彼が元気だったら次に何を打ち出したのだろう。やはり、居間の
テレビになるのか。家内が言うに、「知人間で情報ギャップが大きくなった。
検索が出来ない上に、それ以前に無気力な人が目だってきた。」とか。
それも、iPhoneが解決する。 
・・・・・・
5799,ミネルバ大学という未来の
2017年01月30日
   * 100%アクティブ・ラーニングを提供する「未来の大学」
 NHKの番組のテーマだが、これが驚きで、何もかもが刺激的である。
恵まれた時代背景の中で、学生時代を過ごせたのが大きな財産になっている
からこそ、このシステムの素晴らしさが理解できるのだろう。まだ開校して
二年半で卒業者が出てないが、このシステムは非常に良い。
  〜まず概要から〜
≪ ★アクティブ・ラーニングとは、教員からの一方向的な講義で知識を覚える
 のではなく、生徒たちが主体的に参加、仲間と深く考えながら課題を解決する
力を養うのが目的。そうした力を養う授業手法として、議論やグループワーク
などが挙げられることが多い。 想像してみてください。世界中から集まった
クラスメイトと一緒に4年間、世界の7つの国際都市に住みながら、現地の企業、
行政機関、NPO等でのインターンをする学生生活を。授業は午前中の2コマだけ。
午後は事前課題と自由時間で、その国の暮らし、文化を体感し、多様性を身に
つけることができる学生生活を。これはミネルバ大学の生徒が経験する日常です。
ミネルバ大学は2014年9月にサンフランシスコで開校した全寮制4年制総合大学。
 1年目の授業は約30-40%が最新のITプラットフォームを活用した反転授業形式の
クラス、残りは現地の行政機関や企業、NPO等でのプロジェクト学習やインターン
で行われます。カリキュラム設計を担当したStephen Kosslyn教授は前ハーバード
大学社会科学学部長で、認知科学脳科学の分野で30年以上の研究実績があります。
Kosslyn 教授は、カリキュラム設計にあたり、学部卒業生に求められる技能は、
特定分野の専門知識ではなく、むしろ、その学生が将来どんな職業に就いても、
活躍できる「学び方」だと考えました。 そして、その4つの技能である、
クリティカル思考、クリエイティブ思考、プレゼンテーション能力、コミュニ
ケーション能力は知識のインプットではなく、継続的な実践・フィードバック
による鍛錬でのみ習得できるとの考えに基づき、生徒がこれらの技能を効果的に
習得できる学習ツールを開発しました。
★Active Learning Form という新しい学習ツール
 ミネルバ大学での授業は、全て18人以下のセミナー形式で行われます。
生徒は事前課題を提出後に授業に臨みますが、授業の進行は従来の大学とは
大きく異なります。授業はActive Learning Formと呼ばれるオンラインプラット
フォームを通じて行われます。この授業には、以下の特徴があります。
・教師はファシリテーションに徹し、10分以上話していけない
・リアルのクラスでできる作業をより効率的に実施できる
・全ての授業が記録され、何度でも見返すことができる
・教師と生徒の関係をより緊密にできる
 授業は議論を喚起するような質問から始まり… (略) ≫
――
▼ 私の学生生活での武澤ゼミのシステムが、少し、これに似ていた。
 週に二回のゼミ。20人が一室に集まり、二時間、与えられた企業内トラブルの
ケースを元に議論。2〜3つ(時々変わる)に分けられたゼミのグループが、問題
点を探って、それぞれの結論を出す。そして今度は、全体で、互いの結論を批判し
合う。そして結論を出すが、その後、幾つかの学問による分析された解答が与え
られる。それも各自が持ち帰って差異を書き出す。これら一連が真剣勝負。
甘さが許されない。いや甘さ故、己の無知と基礎知識の必要性に気づかせる仕組み。
終えて校外に出ると頭の中は真っ白、太陽が黄色に見えるほど。そして、その間に
企業訪問をして、人事課の中間管理層の人たちと議論する。初めは馬鹿にしていた
人事担当者が途中から顔色が変わってくる。これが面白い。 何かミネルバ大学
に似ているところがある。キャンパスが、都内から世界中になっただけで、事象の
中から本質を求めることは変わらない。しかし、背景のキャンパスの広さと異質さ
こそ最も重要になるが… これに情報端末を駆使をして知識・情報を加えていけば、
当然、広く深い教養が身に付いていく。移動した都市には美術館も博物館もある。
各都市間の文化、文明、自然の差異から多くを学べる。それが多感の年頃なら知識、
経験の絶対的格差が生まれる。教育は最後は独学、ネットを駆使すれば、意志さえ
あれば、アクティブ・ラーニングに近いことが可能である。しかし環境こそ最も
重要である。 40歳から60歳にかけて秘異境旅行に集中して行ったが、これも
アクティブ・ラーニングの一つだったと、これを書いていて気づいたこと。
21世紀は辛い世紀になりそうだが、面白そうでもある。
 リタイアをして実感することは、50年近くの早朝の読書などの独学の蓄積と、
それから派生する知恵。それから垣間見てくる、己の歪みと、卑小さである。
『で、どうした?』『どうもしません! 日常の心が少し豊かなだけです。』
(追文) 偶然だが、去年、一昨年、三年前のテーマに文脈として続く。