『ウニヒピリ〜 ホ・オポノポノで出会った「ほんとうの自分」』
                   イハレアカラ・ヒューレン (著)
   * ハワイの3つの意識とは
 ハワイ版「潜在意識と、その治療(洗濯)法の癒し本」というところか。
「本来の自分」であるインナーチルドに出会い、ケアする。そして宇宙に
開放してやる。「ハワイの地で、心、魂の洗濯」とイメージするだけでも、
開放される心持になる。ハワイに身を置くだけでも、本来の自分に戻れる。
  <最後の部分の要約が「肝心」。最後の方だけでもご覧のほど!>
   〜Amazon 内容紹介〜
≪・ネイティブハワイアンの伝統的な問題解決法「ホ・オポノポノ」。
 これを、ハワイ伝統医療のスペシャリストであり「ハワイの人間州宝」の
 故モーナ女史が、現代社会で活用できるようアレンジしたのが
「セルフアイデンティティ スルー ホ・オポノポノ(SITH)」です。
 そんなホ・オポノポノのなかでも、最も大切な「ウニヒピリ」(潜在意識)
について、初めてきちんとまとめられたのが本書。ホ・オポノポノを正しく
実践するためにも、必ず知っておきたい究極の真理です。クリーニングを通して
自分のウニヒピリと出会い、そしてケアしていくことで、ホ・オポノポノの目的
のひとつでもある本来の自分すなわち「セルフ・アイデンティティー」と出会う
ことができるはず。あなたが今までその存在すら気づかなかった「ウニヒピリ」、
その子は今でもあなたからのケアを必ず待っています。
・「ウニヒピリのケアをすることは、自分をほんとうの意味で解放し、全宇宙が
真の自由を得るために欠かせないプロセスです。ウニヒピリがクリーニングに
参加しなければ、記憶は再生されつづけるばかりで、過去の問題や傷を繰り返し
人生のなかで体験する状態から、決して自由になることはありません」
 (ヒューレン博士「あとがき」より)≫
  〜ビュアー評〜
・【 ハワイに伝わるシンプルな癒しの秘法「ホ・オポノポノ」では、
 「自分」というものを3つのものから出来ていると考えます。
1つ目は表面意識である「ウハネ」、
2つ目は超意識である「アウマクア」、
3つ目は潜在意識である「ウニヒピリ」です。
 ウニヒピリは心理学で言うところの「インナーチャイルド」に似ていますが、
個人的な記憶のみならず地球の誕生から現在に至るまでの全ての生物や無機物
が体験した記憶が保管されているところを指します。ホ・オポノポノによる
癒しはウニヒピリと繋がり記憶を徹底的にクリーニングしていくことによって
もたらされます。】
  〜ネット上の批評より〜
・【ウニヒピリの協力がなくては、インスピレーションを受け取ることができ
 ません。私たちの中にある3つのセルフ、表面意識(ウハネ※)、潜在意識
(ウニヒピリ)、超意識(アウマクア※)がちゃんと存在し、それぞれの役割
を果たす。そうすることで、初めてすべての存在の源である“神聖なる存在”
とつながります。表面意識から“神聖なる存在”につながろうとする人が多い
のですが、流れとしては、表面意識が潜在意識に降りて、そして初めて超意識に
上がって、上の“神聖なる存在”につながっていきます。その順番が大事。
ウニヒピリのケアがあって、初めて上とつながれるわけです。
 ※ウハネ…表面意識。私たちが日常で認識している意識。クリーニングを
  スタートさせる部分。ウニヒピリにとっては母親のような存在。
 ※アウマクア…超意識。ウニヒピリから届いたクリーニングの働きを、
  唯一“神聖なる存在”に届けることができる。】

▼ 要約すると、<自らの記憶に向けて、「どの記憶が問題を引き起こして
 いるのだろう」と問いかけた後に、「ありがとう」「ごめんなさい」
「許して下さい」「愛しています」の言葉を繰り返すことで実践される。
  <大切なのは、ウニヒピリの存在を認めること>
 毎日、20〜21時に就寝、0〜1時から半睡眠状態に入る。それが「ウニヒピリ」。
そして4時に起床をして、前日に書いた、この文章が「ウハネ…表面意識」。
その修正が、「アウマクア…超意識」になる。クリーニングは、そのプロセス
で考える?ことで、衆人の視線を意識し修正することが、これになる。
過去の同月同日の文章数年分を読返している自分は超意識になる。
世間人とは、超意識が欠落している存在。 超意識の欠落は、表面意識も、
潜在意識も、狭く、浅いまま、群れたままで終世を向かえる。他人事でない、
自分のことでもある。それなら納得…? 神聖なる存在への意識ですか。
その存在に向けて、「正・中心・一点・無」ですか。5円玉を神聖なる存在と
すると、真中の穴(一点)が無? 本体の外側が… お後が宜しいようで。
・・・・・・
4681,閑話小題 ー何だろう?この現象は ー3 
2014年01月07日(火)
  * この現象から考えさせられたこと
 ふと気づいた仮説、静かに激怒した相手が、事故とか病気になっている
ケースが多いことから、これはユングの「意味ある偶然の一致」ではないかと
思い立った。その数週間前にシネマで『キャリー』という映画も見た事もある。
静かに激怒した相手が、事故とか病気になっているとすると、過去のトラブルで
多くの人が、事故や病気になっているはず? か?というと、そうでない! 
また、逆の立場のトラブルの相手が、静かな怒りのエネルギーを私に向けている
ので、私は、今頃、とうの昔に死の病か、事故で亡くなっているはず。
事業の立ち上げを幾つか経験してくれば、その分、軋轢がある。それを避けての
創業など無理。この仮説から演繹法帰納法が具体的ケースでみると解りやすい。
演繹法は、まず仮説を立て、その証明の要素を集める。帰納法は、節目時に
因縁のあった人との軋轢で激怒した相手が、その直後から3〜4年以内に事故か
病気が生じる現象。そこから、これユングシンクロニシティでは?と行き着く。 
これを書いていて、「バカくさ!」と思える部分と「偶然にしては出来すぎ!」
が交互して結論は出ないが、両方とも否定ができないところがある。
 現に、自分が、ここに、生きていること自体が偶然の積み重ねの結果。 
大気圏を持った惑星が、宇宙に存在すること自体が奇跡。さらに生物が存在し、
知識を持ったサルが、ここに存在いていること自体、奇跡も奇跡。このテーマ
自体が無知蒙昧丸出しの仮説である。自分に都合の良い要素を集めて、勝手に、
さも不思議そうに思い込んでいるだけ。それも、一時的にしろ、私自身が信じて
いたのだから。 人間は自分の言葉を持ち、物語をつくって生きていく動物。
その思いを書き出すことで、如何に好い加減な考えで日常を過ごしている己に
気づかされる。それでも一応、経験も知識も、積み上げてきて、これ??
 ここで、気づいたことは、静かな怒りの相手を改めて見つめると、怒りだけ
でなく、むしろ感謝する対象である。怒りと感謝が相まっていることに気づく。
夫婦の関係と同じである。だから、犬も喰わない。まあ、未熟ということ!
以前から怒りなどマイナーの念に囚われた枠外に出る鍵として、10回、目を
つぶり「ありがとう」の言葉を繰り返していた。そうすると、そこから一歩、
外に出ることが出来る。 感謝を間違いなく、互いに忘れている。
この人生の節目の意味を考えると・・ ひたすら、ひたすら祈るしかない!』
 /   _ノ  \
 |   ( ●)(● <おっと、それ以上は言うなよ…ったく!>
. |     (__人__)____
  |     ` ⌒/ ─' 'ー\     
  |       /( ○)  (○)\    
.  ヽ     /  ⌒(n_人__)⌒ \    
   ヽ   |、    (  ヨ)Ωチーンi~   
   /    `ー─−  厂   /     
   |   、 _   __,,/     \   
・・・・・・・
3574, 10分ルールと、30、60、90秒ルール ー1
2011年01月07日(金)
時間ルールに、「10分ルール」「90分ルール」、そして30、60、90秒ルールがある。
 * まず、「10分ルール」と「90分ルール」から
   ー10分ルールー
 10分ルールは、理性的に配慮して安全な状態なら、10分じっと耐えると、
その環境や行動に脳が順応することをいう。弱点だと思い込んでいた性質が、
この10分ルールで変えることも可能になる。最近、テレビのバラエティーでよく
あるのは、最初の10分間に一番面白そうな情報を流して引きとめてから、
オープニングが始る場面に多く行き当たる。 これは10分間、視聴者に予告を
含め馴染ませれば、チャネルを変えないという「10分ルール」を利用したもの。
 このルールを知っているといないのとでは大きな違い。既に亡くなったが、
ある知人に「とにかく一晩寝てから、怒りなさい!一晩で、怒りの大部分は
消えてしまう。」と諭されたことを思い出した。これは半日だが。
これは突発的なことに直面した時に、まず90秒、そして10分間、ジッと耐える
ことをルールと捉えた法則。これまで決断するまでに、計画が固まった後に
時間をおき、判断し、その後に決断をする。それは計画段階のことだが、
目先の思いもよらない事態に出くわした時に、90秒ルールと、10分ルールを
知っていると良い。考えて見ればヤクザの脅しは、逆の立場で、その辺の
人間の弱みを知っていて、即効がが勝負と知っていて脅しをかけてくる。
だから、ある時間耐えれば良い。
 次は、ー90分ルールー
 映画は、人間の生理的なサイクルが90分ということを知っており、
大よそ90分であった。最近は120分を越えるものが多いが、90分を過ぎると
実際に嫌になるが、その辺から飽きさせないようストーリーが組み立ててある。
・・・・・・
5046,修羅場の極意 −1
2015年01月07日(水)
              『修羅場の極意』
  〜まずはアマゾンの内容紹介〜
 面白い本である。人生には、それぞれの人の修羅場がある。今では、
結婚し、甘いハネムーンの後、修羅場を経験した後、4割が離婚に至り、
その過半数以上が貧困に陥っていく。 何度か修羅場に出あい、乗越えて
生きていくのが人生。 地獄は彼岸にあるのではなく、現世にある。
 −アマゾンの内容紹介と、目次であるー
≪ 敵を作り、嵐に巻き込まれた時、
   うろたえるな!  「時」を待て!  生き残りを懸命に考えよ!
 修羅場には独自のルールがあり、それに対応する作法と技法がある。
エス宇野弘蔵西原理恵子ら多岐にわたる達人から、どんな極意を学べる?
ヒトラーら反面教師の「悪知恵」とは? 外交と政治の修羅場を駆け抜け、
獄中で深い思索を重ねてきた著者が贈る、実践的アドバイス。                            
 ○目次 ーはじめに――東京拘置所での谷底生活から
  I 偉人たちのサバイバル術
1章 助言者は絞り込め【マキアベリ
2章 逆説的発想で事態を打開せよ【イエス・キリスト
3章 「偽装」というテクニック【ドストエフスキー
  II 反面教師たちの失敗学
4章 破壊的影響力の秘密【ヒトラー
5章 悪知恵にだまされるな【オットー・ケルロイター】
6章 “正義漢"の勘違い【スノーデン】
  III 「獄中」の教訓は役に立つ
7章 独房で筆者の精神を救ってくれた教え【内村剛介
8章 経済学と小説の力【宇野弘蔵
  IV ヴァーチャルな修羅場、リアルな修羅場
9章 人間関係に役立つ神学者の言葉【ディートリヒ・ボンヘッファー
10章 ノマド的�処世術�【安藤美冬】
11章 不作為は悪【小説『インフェルノ』のラングドン
 対談 「最悪」のシミュレーションだけすればいい【西原理恵子
おわりに――「時」を見極めるということ ≫
▼ 人生は、いずれにしろ甘くはない! 修羅場の修羅は、阿修羅が語源。
 辞書によると、【阿修羅のもともとはインド神話における「アスラ」
という名の魔神であり、インドラ神と戦いを繰り広げた鬼神であった。
一般的には戦いの神としてのイメージをもたれており、そのため激しい
争いの場を、その名をとって修羅場と呼んだりもする。】とある。
身近な修羅場といえば、夫婦間の争い。 夫側の酒癖、女癖の悪さや、
互いの粗探し、金が無いことからくる争いが、修羅場の起因となる。
そこで、〜うろたえるな!「時」を待て! 生き残りを懸命に考えよ!〜になる。

・・・・・・
5411,新年に 〜情報と知識の違いについて
2016年01月07日(木)
            〜『残酷人生論』池田昌子
   * 情報と知識の違いについて
 以下の文章は、哲学者の故池田晶子が20年前、Windows95が
世に出てきた頃に書かれた文章である。その後の激変したネット情報化社会
の現在でも、そのまま通用する内容。 高度をコードと捻っているところが
面白い。知識とは違った有効な生情報も、情報社会に生きるものにとって
重要な要素である。情報と知識の違いを簡潔に説いている。〜その辺りから〜
≪ 前に、情報は「しょせん」情報だと言いました。高度情報化時代なんて
 のは、要するにコード情報化時代、コードを引っこ抜いちゃえば、タダの箱。
タダの箱を前にして、人はやっぱりタダの人だと。とはいえ、そのタダの人が、
タダの人のままに広くコミュニケーション可能になるということは、やはり
画期的なことで、オンライン・ショッピングなんぞには私はもとから興味が
ないが、この点に関してならば、さしものコード情報化時代にも希望の光は
射している、と思える。
 ヒラ社員がわからず屋の部長の頭越しに、いきなり社長と交渉できるとか、
無名の新人が、阿呆な編集者をパスして、堂々作品を発表できるとか、地位と
肩書なきゆえに虐げられてきたタダの人々に、その実力を発揮できる機会が
平等に開かれるということは、文句なく素晴らしいことだ。これはほんとに
よいことだ。 それがほんとに可能になれば。
 普通に人は、とくに日本は、地位と肩書が偉ければ偉いと思っているが、
情報優先のネットの上では、そんなの何の意味もない。すると、旧態依然の
権力機構は、やがて軒並み崩壊するだろう。年功序列、性差別、情実、根回し、
御挨拶、地位と肩書ゆえに威張っていた無能な人々が、地位も肩書もないが
しかし有能な人々に、おいおとされてゆくことになるのだ、なんて愉快! 
これは革命!
 ところで、地位も肩書もないが有能な人というのは、タダの人であっても、
やはりタダの人ではない。したがって、情報ネットによって実現する平等社会
とは、裏を返せば、これまで以上に実力本位の競争社会である。
実力がなければ、たとえネットの上であれ、やっぱり何の意味もない。
 競争の現場がネットの上に移り、余分な障害物が減っただけのことであって、
何のための競争か、ということを考えずに競争している人間社会の在り方と
しては、以前と何ひとつ変わっていない。
それだから私は、やはりこう感じざるを得ないのだ。
 情報化時代  それが、どうした__と。
 人がまず理解していないのは、情報は知識ではないということだ。
情報は外から受け取ることによって流通する。しかし知識は、或るAがなぜ
Aなのか、と立ち止まり考えることによってのみ知られ得る。情報は流通するが、
知識は決して流通しない。流通する知識は知識ではない。すでに情報だ。
なぜなら、考えて知る、とは、自ら考えて知ることしか意味しないからである。
したがって、そこに在る同じAであっても、情報と知識とでは、知られる仕方が
正反対を向いているわけで、その差がまさしく、無知と知との差だ。
 さて、人は多くの情報を知ることによって、いったい「何を」知っていること
になるのか。我々は「何のために」競争しているのか、それを知っているのか、
どうか。 私は思うのだが、今後しばらく押し寄せてくる情報ネット化の大波は、
折にふれ人類を訪(おとな)う大掃除としてのあの大洪水のようなものと。
洪水の引いたあと残っているのは当然、地上に広く流通していたあれこれの
情報群ではなく、もとより流通することのあり得ない、星のように高く光る
あれら普遍的な知識だけであるはずだ。(一九九六年四月号)≫
▼ この随想日記も、押寄せる情報群の中から、選んだエキスをパックにし、
 知識化する有効な手段になっている。一度、パックすれば、毎年の同月同日
に読み返し知識の再認識が可能になる。それにしても、絶対的知識量の不足に
今さら驚いているが、それを自覚出来ているだけ、少しは、まし?
<情報と知識とでは、知られる仕方が正反対を向いているわけで、その差が
 まさしく、無知と知との差だ>は、これを書き続けて実感すること。
読みっぱなしで、忘却の彼方に消えていく内容の読書感の記録が無かったら、
「無知と知」の差ぐらいは軽く出来てしまう。無知の人間は、考えるしかない。
『世間』という、あの群れの特徴は、身近な情報を、考えないで横流しをして
いる輩たちをいう。それが、彼らの現実だからである。 で、絡めとられ
ゾンビの一員になった粗末な人生が、巷に溢れている。考えないのは罪である。
・・・・・・
5776,福田恆存の「私の幸福論」〜�
2017年01月07日(土)
           「私の幸福論」福田恆存
  * 人間は不平等である
 著者のいう幸福とは、「不幸にたえる術」。俗の幸福論とは違い厳しく冷たい。
 冒頭の「美醜について」からしてシビアである〜
<「醜く生まれたものが美人同様の扱いを世間に望んではいけないということ。
 貧乏人に生まれたものが金持ちのように大事にされることを望んではいけない
 ということです…」>
<人間は不平等だ。悪いといおうが、いけないといおうが、事実だ。しかし
 現実がどうであろうとこの世に生まれた以上、あなたは幸福にならね責任が
 あるのです。幸福になる権利より、幸福になる責任について語りたいと思う…
 幸福というものは、もっとも難しいことです。それは、たった一人の孤独な
 たたかいであります。>
<見合いが、どうだこうだというが、一歩外に出れば、始終、見合いをしている
 ようなもの。街頭における不意の見合いは、準備された見合いより、ずっと
 純粋である。(略)… 美醜によって、人の値打ちを計るのは残酷ですが、
 美醜によって、好いたり嫌われたりする事実は、もっと残酷であり、どう
 しようもない現実である。それらを隠して、美醜など二の次だという方が、
 私にはもっと残酷に思えるのです。>
――
▼ 女性雑誌の連載モノを編集した本だが、「美人=幸福、不美人=不幸」の
 図式に対する読者の一部から激しい抗議、反発が多くあったため、二章で、
「ふたたび美醜について」をテーマにし、「美醜を幸不幸で左右される」では
なく、「損得」と表現すべきだったと述べている。 4人の姉の存在で、女性
というより人間的側面をみてしまう習癖があったとしても、美人は絶対有利で
あることは紛れのない事実。 それが幼児の頃から別扱いをされているなら、
それは幸・不幸に大きく左右する。 とはいえ、美醜に正比例するかといえば、
そうでもないのが人生。「持っている機能」は美醜に関係なく皆同じ。かなり
の美人に多く接する機会があったが、8割がたは性格も比例している。問題は
残り2割だが、それは横に置いておく。 意外なことに、選ばれし?女性は、
常に、そのことを意識し、隠れた努力をしている。その割には周囲は敏感に
反応してくれないジレンマを抱えている。 だから渡辺淳一ではないが、
「まずは、心を籠めずに誉めろ」が、第一歩? その姿かたちは、何代にも
わたる掛け合わせと幼児からの賞賛と努力を元に出来ている。女性には
「女カースト制」があるという。この言葉で検索をかけると…
< 女社会はいわずもがな、身分のはっきり決まった「カースト制」である。
容姿、彼の有無、モテ度、学歴、仕事、肌のハリツヤなど、あらゆる事柄が
比較対象となり、ぼんやり「女として上か下か真ん中か」が自覚できる仕組み
になっている。…「同性に嫉妬されやすいのは、『成り上がりモテタイプ』。
たいして美人じゃないけれど頑張っておしゃれして男ウケすることをして、
その結果、モテる子は同ランクの女子から敵視されやすい」>
女社会は剥出しのサル社会?「和して同ぜず」群れない毅然とした美人が理想。
 そんなの妄想でしかない?どうだろう? 定期賞味期限付きでは存在する?
数ランク上?なら、そう見えるのかもしれないが… やはり妄想ですか!
・・・・・・
4314, 閑話小題  ー若者たちの悲哀
2013年01月07日(月)
  * 若者たちの悲哀
 現在、日本の若者の36%が離婚しているという。アメリカでは50%、
ベルギーにいたっては70%というから、驚き。元もと結婚しない人25%
を加えると、一生涯を通して一人の相手と添え遂げる人は半分以下になる。
この不況下では、私たち世代の生活レベルに比べ遥かに劣り、現代の中枢を
なす人たちの生活形態そのものが変化している。姉兄6人の甥姪が息子二人を
含め12名いるが、独身者が4人いる。これが身近な実態である。
離婚率は、この10年、同じ曲線で上がり続けているので、5割も遅くない
将来に到達する。少子高齢化に加え、非婚、離婚の異常な増加は日本的
家族制度を解体しつつある。それは日本という国の基礎を揺るがすことになる。
  * 現代の進学事情
 隣の韓国の大学進学率は、OECD加盟国の中でも高い水準にあるが、最近
少しずつ低下している。2008年に84%で頂点に達した進学率はそれ以降下がり
続け、2010年には79%まで低下しているが、OECD加盟国の平均(2008年、57%)を
大きく上回っている 。では、日本はどうか。2010年における日本の進学率は
57%で韓国を大きく下回っているが、詳細を見ると、韓国とほぼ変わらない。
日本の進学率57%は大学や短大への進学率だけで、ここに専門学校等を含めた
高等教育機関への進学率23%をプラスすると日本の進学率は80%。
これは韓国の進学率79.0%を上回る数値。韓国には日本の専門学校のような
教育機関が少なく、専門学校の代わりに短大に進学している学生が多い。
OECD加盟国の平均は57%というから、こんなもの。高卒就職者が二割とは
時代が変わったもの。私の時代は八割だった。右上がりと右下がりの時代では
様相が激変するのは当然としても、ここまで変化するとは! 
そして、右下がりは更に続く。
・・・・・・
3939, iPad その後
2012年01月07日(土)
 現在でもiPadに驚きの毎日である。というより、ネット、ブログ、
アプリ、パソコンを組み合わせたタブレットPCの威力に驚き!が正しい。 
PC世代が当り前に使っていたパソコン機能を更に進化させ、我われ世代が
気楽に使えるようタブレット式PCで可能にさせてくれたのである。
こんなアプリもある、こんなゲームも出来ると水を得た魚のような気持ちに
させてくれている。起動から数秒で使えることと、何処でも使えるのが良い。 
先日、ネット上のアップル・ショップで、「Fotopedia国立公園」
という北アメリカの国立公園の写真集を85円で購入した。さっそく開くと、
2000枚の、素晴らしい写真が次々と出てくる。何で、これが85円と不思議。 
が、直ぐに電子本を手元のパソコンにダウンロードしたのではなく、ネット上の
書籍にアクセスをして見るシステムだった。ネット辞書のウィキペディア
ネットを有料でみるようなもの。ネット環境さえあれば、パソコンに全てを
ダウンロードなどする必要はない。 もう一つビューンというのもある。
月に450円を払うと、数十種類の週刊誌、月刊誌を読むことが可能になる。
更に数種類の週刊誌の数ヶ月分がダウンロードが出来、それはネット環境下で
なくとも読むことが出来る。他にも版権の切れた文庫本などの小説集を80円
で購入したが、これはダウンロードをし、ネット環境外で見ることが可能。
したがって少しの時間でも退屈する事はない。私のような暇人にとって、
理想的IT端末といえる。購入前に、iPadにするか、ドコモの携帯電話機能
のついた7インチのタブレットか迷ったが、ドコモはネット環境下でなくとも
見れる利点がある。何を選択するかである。 去年はスマートフォンが爆発的
ブームになったが、今年はタブレット式パソコンだろう。TVにしろ、パソコン
にしろ、スマートフォンにしろ、これだけ膨大の情報が隅々まで流れ出ると、
既存ののシステムは対応できなくなって当然。これが、この大混迷の原因に
なっている。 誰もが数年前の自分が他人(馬鹿)に思える時代が面白い!