「ひとり達人のススメ」山折哲雄(著)
          ―ひとり」には、覚悟から生まれた強さがある― 
   * 「考えるとは、まずは、ひとりになること」
≪ ・現代の若者は、見事なほどモノゴトを考えようとしないように見える。
 そして、ひとりになることを極端に嫌がる、人嫌いになっている。… 
・「ひとり=不安な状態」というのは、社会が作り出した雰囲気と思ってます。…
・戦後教育に原因があるという「ひとりで考える」ことを忘れた日本人。
姿勢を正して、呼吸を整え、瞑想する、それがひとりになる出発点だ。
この教育は、戦後の家庭でも学校でも地域でもしなかった。これは重大な
問題です。日本が平等主義の時代になると、人間関係が横並びになり、仲間内
で簡単に群れるようになりました。群れは寄りかかる相手がいるため安心の
ため、ひとりを避けるようになる。行動する時も、何かを考える時も、群れた
状態の中でそれをしている。…
・人間関係には縦の軸がある。師と弟子、上司と部下。親と子。その関係の中で、
上のものが下のものに、自分の経験や知恵を教えていく。そこには強制的な力が
働くが、それをしっかり受け止めて、ひとりで考える。この緊張感を抜きにして、
人は成長しながら生きていくことはできない。しかし、戦後の横並び平等主義は、
この上からの強制的な力を避けようとする傾向を生み、ひとりでいることが
耐えがたくなってしまった。これは見逃せない大きな社会的問題です。
私たちは縦の軸を蔑ろにしてしまった。≫

▼ 考えるとは、判断すること、決断すること。 正しい判断、決断に、己の
 甘さが土台を弱くする。「馬鹿の考え、休むに似たり」も確かにある。しかし、
決断の結果の成否が、考えを深めることも確か。 20時過ぎに就寝するため、
0時には目覚める。そこから4時までの起床まで、様ざまな想いや、不安が錯乱し、
意識と無意識の世界を交差する。それを面白い!と考えるかどうかは、訓練次第。
「要するに考えていることになる」と思えば、これは最高のカオス。大海をヨット
で漂うと同じ? 死ぬときは、こんなものかと。そして起床、これを成書している。

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5633,お金に強くなる生き方 〜?
2016年08月17日(水)
            【お金に強くなる生き方 〜佐藤 優 (著)】
   * 高い学歴も、金で入手可能
 ここで、「子供を幼児から投資対象にする辛らつな世界が現実に存在する」
という。こうしたのが、官僚、弁護士、医師などになって、世の中を牛耳る
のだから、一般人はたまったものでない。中国の一人っ子政策で、親が自分の
将来を託すために子供教育に全てを捧げている。大学でも、付属の小学校から、
エレベーターで上がってきた人は、受験勉強で魂を磨り減らしてきた連中より、
違った強みと弱みをあい持っている。卑近の例で、幼稚園、保育園に通った人
と、通ってなかった人は、何かが(温みの有無)違っていた。〜その辺りから〜
≪ 資本主義社会において、お金は絶対に必要です。私たちは、生きていくため
 に必要な食料、衣服、住宅、水道光熱費、サービスなどを商品として購入します。
自分で商品をつくってもそれが必ず売れるとは限りませんが、お金があれば
どのような商品でも買うことができます。商品は、いつもお金に対して「片思い」
をしているのです。
 高い学歴も、生後10カ月から月24万円の授業料がかかるプレスクール(保育園)
に子供を通わせれば手に入ります。主流派の経済学者(近代経済学者)は、人間を
投資対象と見ることを躊躇しません。
 慶応義塾の中室牧子准教授は以下のように指摘しています。
【 人的資本投資の収益率は、子どもの年齢が小さいうちほど高いのです。
 就学前がもっとも高く、その後は低下の一途を辿っていきます。そして、
一般により多くのお金が投資される高校や大学の頃になると、人的資本投資の
収益率は、就学前と比較すると、かなり低くなります。 (中室牧子著
『「学力」の経済学』ディスカヴァー・トゥエンティワン・2015年)】
 中室氏の言説にはそれなりの説得力があります。新自由主義的な弱肉強食の
競争社会では、富裕層の子供は幼児期から良質の教育を受け、集中して机に
向かう習慣と礼儀正しさが身につきます。だから小学校に入ってからも自発的
に勉強し、その流れで進学校に進み、偏差値の高い大学に入ります。
すると官僚、起業家、弁護士、医師、公認会計士など、社会のエリート層に
なる可能性.が高まります。≫
▼ オリンピックでメダルを取るのは、幼児の頃からの天才教育が背後にある。
 そこまでしないと、そこは、戦えない世界。最近、日本も外国に比べて
劣らないのは、こういう幼児から教育を取り入れた成果。20歳の頃から、一日、
2〜3時間の読書を自分に課してきたが、半世紀も続けた割に、効果というと?
これは、効果とかいう問題ではないが、としても。 5歳までの生活環境と両親
の教養レベルがあったということ? 尤もこれは、全ての人に言えることだが!
5年前の事業整理から5年半、めげなかったのは、多くの日常生活の「独行」の
生活習慣があったことがある。  〜で、これも偶然だが、以下につづく!

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5268,人生を愛する気高さを持つ 〜ニーチェ「超」入門〜
2015年08月17日(月)
                 〜ニーチェ「超」入門〜 白取春彦
   * 人生を愛する気高さを持つ
 人生は、何事が起きようが絶対肯定!にある。
どの道、私たちは宇宙のチリとして消滅していくのだから、せめて、
己だけは「天上天下、唯我、独尊」「絶対肯定」の覚悟で生きたいもの。
 以下は、著者がニーチェの人生の全面肯定を要約した部分。
≪ 人生を愛さないのならば、生きている価値はない。
 人生はすでに始まってしまったのだから、人生そのものを愛するのが、
人生を味わいつくすベストな方法だ。自分の人生なんてと嘆く人は、
今の人生から逃げたがっている人だ。しかし、どこへ逃げようとするのか。
熱狂へか。享楽へか。陶酔へか。安逸へか。癒しへか。あるいは死へか。
 しかしそれらもまた、死でさえ人生の中にあるのだから、人生から逃げる
ことなどまったくもって不可能。人生はゆったり全面的に享受するしかない。
自分の身に起こったいっさいの事柄を享受し、肯定するのだ。それは人間
として気高いことなのだ。 自分の身にだけはつごうの悪いことが起こらず、
幸せと良い出会いと潤沢さだけが舞い降りてくるように、と多くの人は願う
かもしれない。もしそのようなことがあるならば、人の生ではないだろう。
生そのものが成り立たないだろう。すると、人はやっぱり逃場がほしくなり、
宿命とか運命とかを信じようとする。何もわからならないでいる状態よりも、
オハナシでもいいから、ストーリーがほしくなるのだ。 自分の意思では
どうにもならない事柄、なんとも理由がわからない事柄を選んで、宿命とか
運命といったカテゴリーへと納めてしまう。そういう傾向をあてこんで、
領収書が発行されない商売を開く輩。 占い師たちだ。
 ところで、ニーチェは運命愛を持つことを勧めている。
すると、ニーチェは占い師たちのように運命や宿命を信じていたのだろうか。 
そうではない。二ーチェは、人の身上に起こる事柄を運命と呼んだにすぎない。
そして、どんなことが起きようとも、いっさいを受けとめて肯定するようにと
くり返し主張したのだ。これがニーチェの運命愛だ。あるのは人生の全面肯定。
何が起きようとも、「よしっ」という態度だ。決断がつらい結果を生んでも
「よしっ」という態度だ。自分のなすことすべてを肯定する態度だ。
・・(略) 部分的な時間を人生と呼ぶのではない。人生はすべてを指す。
部分的になんらかの物差しをあてて測定して結果とするのはあまりにも小さ
すぎはしないか。人生を全面肯定する人は、今のこの人生がもう一度そのまま
くり返されても、ツァラトゥストラのように「よしっ、もう一度」という。
 なぜならば、どういう決断をしようとも、まったく悔いがないからだ。
すべてを享受するのだから、反省や後悔など起こりようがないのだ。
むしろ、人生とはこういうものかとおもしろがるだけなのだ。
それは、人間としてとても気高いことではないだろうか。周囲の人々に
人生の尊さと、生きる意欲を我が身をもって教える人ではないだろうか。
それよりも、何が起きてもひるまず、たじろがず、むしろ不敵な笑みを
浮かべて取組む生き方のほうが人間としても高貴ではなかろうか。≫
▼ 中村天風の『積極一貫』の主張が、ニーチェの引用であることが
 見て取れる。 父が死期を悟り、死に逝くときに、母親に、
『再び生れ変わって、全く同じ人生を生きたい』と言ったという。
戦中、戦後の動乱の中を激しく生きたのを知っているいるから、
よくぞ、言えたものである。羨ましい限りである。激しく生きただけ、
後悔が少なくなるということか。 振返ってみて、本当に良い時代に
生を受けたことに感謝する。人間として生を得ただけでも奇跡だが!
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4903,閑話小題 ー自転車乗りは危険に満ちている!
2014年08月17日(日)
   * ポタリングは、危険! だから面白いのだが
 電動アシスト自転車を乗り始めて5年、一万数千キロは走ったことになる。
急なドシャ降利の中、赤信号になる前に強引にかけ抜けた直後、スリップをし
転倒、自転車共々、数メートルも投げ出された。心臓が固まり、息が止まり
そうになったが、何とか骨折も無く、立ち上がることが出来た。
それ以来、雨と、スピードには充分に注意をするようになった。
乗り続ければ、大事故の可能性が自転車にはある。 近くに住む従兄は、
ポタリングを数年間続けたが、電信柱に衝突して、その危険なことを察知して、
一切、乗らなくなった。特に交差点での左折車の出会いがしらの接触事故には
注意をし、数回は右後ろを振り返っている。
 半月ほど前に、ある交差点で右後ろを二度振り返ったとき、50歳絡みの
農家風の夫婦が話に夢中になっているのが見えたので、車道に入る直前に念の
ため、一度、急ブレーキをかけたところ、旦那らしき運転手が、左を見ない
まま、左折をした。 その瞬間、私に気づいて慌てて急ブレーキ、臨席の
奥さんらしき人はフロントに激しく突っ込んでいた。 常日頃から十二分に
注意してなかったら大事故! 恐ろしい限りである。毎日の1〜2回の
ポタリングでは、危険を最小にするため、車の少ない土手とバイパスの沿道が
95%のコースにしている。 それでも長年の間には人身事故の可能性は大。
土手とバイパス沿道は、加害者のになる可能性がある! 
それにしても、乗っている開放感は格別である。
   * 晩酌に、毎晩、5本以上の缶ビールでは
 私の中学校の同級生が急逝をして2ヶ月が経つが、ショックが今でも大きく
残っている。故人は7〜8年前に転んで腰骨を骨折したが、何とか半身不随に
ならずに、少しだが足をひいて歩いていた。去年の同級会の三次会に二人で
スナックで飲んだ時に、『晩酌が楽しみで一日、缶ビールを5本は飲んでいる』
という話を聞いて、驚いた。その上、運動不足なら! 発見された時には、
末期の膵臓ガンで、苦しみ抜いた末に亡くなったという。 
ツアーの旅先や周囲で、缶ビール5本以上を毎晩、晩酌をする話を、何人からも
聞いていたが・・ 私は缶ビール一本に、ノンアルコール一本を目指しているが、
どうしても、ウィスキーのオンザロックか、焼酎のお湯割りが加わる。
これでも、何か危ない領域の感がする。
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4536, 閑話小題 ー種銭の話
2013年08月17日(土)
  * 山種証券の創業者の種銭
 自分が汗水たらし働いた金を種銭にしてこそ強い資金になる。
山種証券の創始者山崎種三の逸話がある。
《 米屋の小僧をしていて思いつく、米屋だからネズミが多くいる。
 それを保健所に持っていくと、一匹あたり僅かな報奨金が貰えることを知り、
ネズミを捕まえてコツコツと小銭を貯めて、親方の許可を得てヒヨコを飼って
雑米を与え育て、卵を産ませて、売って投資資金の種銭をつくり投資を始めた。》 
 これからし株式投資も、その延長で手堅かったのだろう。そういえば、
父が子供達に似たような実践的な金銭哲学の教育をしていた。幼児の頃から、
年末にお年玉を子供達全員が貰う。それが楽しみで嬉しいが、正月が明けると、
父が他からも貰った、お年玉袋を全て回収、それぞれの預金通帳に入金する。
そして、それぞれを金庫の中に保管しておく。年に一回だが、その通帳の残高
を見せてもらう。それが十数年すると、それなりの金額になる。
 子供の頃から自分の通帳を持たせることと、使わないで預金する生活習慣を
持たせることが父の狙いであった。目先の欲望を抑えて種銭をコツコツ積み
上げる重要さを時間をかけ教えていた。家風は一見派手だが、生活は質実剛健。 
地方都市の商家なら、何処も似たようなもの。そして高校の入学時に、
10数万円の預金の通帳を渡されて、売買の手続きをするから何か値上がり
しそうな株を選べという。それから、毎日、日経新聞の経済欄を真剣に見る
ようになってしまった。数ヶ月かけて、ある医薬品メーカーを見つけた。
当時、鼻風邪から慢性鼻炎になっていたが、特効薬が売り出すニュースを見ため。
それを5年ほど持ったが、期待ほどの値上がりはなかったが、それでも数割の
値上になった。 ところが、その種銭が人生を変えることになった。 
 二十歳の時、軽井沢のアルバイト先の山荘で、学生仲間4人と話していた時
のこと。 その中で外国に行く予定が無いのが私だけ。 他の三人は、さほど
豊かそうで無かったが、それでも行けるのである。要は意志であることを、
その時に知った。当時は、まだ年間20万人しか渡航してない時代。 
私も決心をすれば行ける?との思いが出た。その時、考えたのが、あの種銭。 
 その頃、ある友人に『大学の、あるサークルの海外旅行研究会があって、
一ヶ月の欧州旅行の企画で参加者を募集しているが、一緒に行かないか』と
誘われていたが、まさか自分がと、取り合わなかった。当時で40万、現在なら
300万〜350万。その晩の軽井沢で『そうだ、私には20万円があった!あと25〜
30万、都合をつければ私でも行ける!』と、思い立った。アルバイト期間が
終わって向かったのは、東京の寮ではなく、実家のある長岡である。
そこで列車の中で「頭の固い父に、そのまま頼めば断られる、なら母親に
相談すれば良い」と。で、母に相談すると『私が反対すると必ず逆を言うから、
夕飯時に、その話を切り出しなさい』と、賛同を得て、作戦を実行した。
 父親は知ってか知らずか、この共同作戦に乗ってしまった。数日後に気づいた
ようだが、後悔した様子はなかった。その欧州旅行が、人生を変えてしまった。
あの一ヶ月間の経験のカルチャーショックで半年間は、呆然自失状態。
頭が変になる一歩手前。当時は現在ほど情報も手軽に得ることが出来ない。
それも決心して一ヶ月で、予備知識はゼロ。それがわたしには良かった。
見るもの触れるもの全てが新鮮で、驚きの連続。エッフェル塔や、凱旋門
ローマのコロセウム、スイスアルプス・・ その中で、遊び慣れた今まで
知らなかった人種との接触。何よりも小さな固定観念が粉々になったことが、
タイミングとしてベストだった。
 まとまった種銭は、お金を資金に変えるという意味で、それ自身が準備に
なってしまう。問題は用途のTPOSである。「夢を持つことと、長年の準備が、
人生を決める」と、両親からと、学生時代の様々な経験から骨の髄から学んだ
ことである。今回の最悪の事態でも、長年かけた万一に備えていたシェルター?
が、我身を救ってくれた。
・・・・・・
4161, 節目時に何をしていたか ー1
2012年08月17日(金)
 ここで人生を5年スパンに区切り、振り返ってみる。ミニ自分史である。
自分の姿が浮き上がってくるようで、面白い。何度も書くが両親と時代に恵まれ
ていたことが見て取れる。歴史的にみて、終戦後40年間ほど豊かだった時期は
ないという。その中で、その豊かさを充分味わった実感は、何ものにも
代え難い財産である。   
  ー まずは前半から ー
・60年前=6歳、長岡市立阪之上小学校一年生だった。担任は女性の茨城先生。
 20歳後半のヒステリックの先生で、優しい反面、厳しい先生だった。 当時の
 住まいは長岡一番の繁華街の4階建てのビルの3Fに住んでいた。家は、そこで
 衣料店を経営していて、まさに小説のような異様な家庭環境にあった。  
 成績は普通で、とにかく毎日が面白く刺激的だった。
・55年前=11歳、阪之上小学校6年。勉強に少し目覚め、虐めの要素も
 あったが級長にされた。街中もあり、生徒の質は決して悪くはなかったが、
 異様な緊張した雰囲気が漂っていた。この辺で、その人の素質が決まって
 しまうという。
・50年前=長岡高校二年生で、試験試験の日々。何時もギリギリの成績だった
 が追試は受けたことがなかった。勉強をすれど、どうしたら成績が上るかの
 術が分からない辛く暗い日々。受験校のため成績で人間が区分される。
・45年前=21歳、立教大學三年。欧州の30日間旅行で、それまでの自分が
 粉々に壊れてしまった時期。人生で一番、光っていた。見るもの触るもの
 全てが新鮮で、明るく光ってみえていた。時代は1967年、頂上に近づいていた。
・40年前=金沢の‘いとはん’(衣料スーパーのチェーン)を辞めて実家に
 帰ってきて、千葉の千城台ビルの計画に入っていた。父は末期ガンで
 東京女子医大で手術後、退院した父親と、計画を進めていた。 父は、医者の
 宣言通りに手術の一年後に亡くなった。死期が分かっている父と事業経験の
 伝達を一年がかりで始めて二ヶ月目に入っていた。将来に向けた明るさと、
 死に直面した父親の苦悩の狭間で、真近で人生と事業の原点を学んでいた。
 翌年、石油ショックが起き、最悪の出だしになった。
・35年前=長岡の大手通の四角にある実家の衣料量販店の店長で、4歳の頃の
 できた古ビルの建て替え工事の計画に没頭していた。引継いだ店も順調に推移、
 商売が面白く、身体が浮いているように動いていた。 一種の躁状態で、怖い
 ものなし、目は血走り、何かに取り付かれているようだった。 衣料は
 一シーズンごとに完結する博打的要素が強い。そのコツを掴むと、面白い。
 30年前は次回にするが、振り返ると刺激的で、恵まれていた背景があった。