ロボット学者ゆえに、切口が新鮮である。自分のロボットつくり、常日頃、
対峙すると、無機物のロボットの、サルトルのいう、「対自」「対他」「即自」
が、クッキリと浮かび上がってくるのだろう。 ヨガの仕上げの5分間の
「死者のポーズ」として、宇宙の彼方から魂の抜けた己の姿を逆照射する
イメージと同じような。「定年までの自分」と、「それ以降の自分」の対峙も
似たような? これらは、一般的には「余命半年、3ヶ月」と宣言された時に、
初めて、自分に突きつけられるのだろう。落語の米朝のロボットが、生身の
米朝と高座に上がっている写真があるが、文化遺産として残すには最適だろう。

――
   ―人の気持ちの正体とは―
<本荘> 石黒先生は小さいころから「テーマ(問い)」を持たれましたよね。
<石黒> 僕は、小さいころ夢がなくてぼんやりしていたのですが、小学5年の時、
「人の気持ちを考えなさい」と大人に言われて衝撃を受けました。
その気持ちを考えることは大事なことなのに、考え方自体を一度も教わって
いないし、大事にしろというその「気持ち」を見たことがないわけです。
皆さんは「気持ち」が何か知っていますか。

<本荘> 「気持ち」を100字以内で説明せよ、というやつですね。
<石黒> そうです。「気持ち」でも「考える」ということでもどちらでもよい
ですが、それを定義した瞬間にコンピューターが勝ってしまいます。 だから、
小学校5年生のときには、「自分の考えている次元とは違う世界に行けるなんて、
大人はすごい」と思っていました。ようやく高校生ぐらいになって、全員うそを
ついていると分かったので卒業しないままずっと学校の中にいるのです。
▼ 石黒は、「気持」について、逆照射して考えるため、曖昧な定義を
 戒めているのでは? 

そこで、<「気持ち」を100字以内で説明せよ>の私の答を即興で書くと…
【「気持ち」で浮かぶ言葉は、感情である。感情といえば「喜怒哀楽」と、
「感動、感激、感謝」になる。「クールヘッド、ウォームハート」と分けると、
温かい心。逆に、冷たい心とは、生物の本能の「エゴ」を優先すること。】
 たまたま、考えを進めるに、去年の以下の文章が参考になる。ロボットには
無い真逆の問題だから。幸・不幸など、感情でしかないことが浮かびあがる。

・・・・・・
5621,人生を幸福で満たす20の方法 〜?
2016年08月05日(金)
         <人生を幸福で満たす20の方法>三宮 麻由子(著)
 創業の準備期間は、常に何かに追立てられている気分だったが、充実した
日々でもあった。創業を目指したからこそ出来たことが多い。目指すことが
ハッキリしていれば、様々な好奇心が旺盛になってくる。創業は、その努力の
積重ねの結果であり、決して博打ではない。これは、幸福への努力と同じ。
  〜紹介内容より〜
 幼くして視力を失うという絶望の中から、微かな希望を見出して日々を生き
抜き、いま幸福に満たされているエッセイストが綴る「幸福のつくり方」。
人生に虚しさを感じたとき、どのように心を幸福感で満たしたらいいのか?
生きる意味が分からなくなったとき、絶望の淵に立ったとき、どうやって希望を
見出して乗り越えるのか? 心に幸福を生む考え方とは? 珠玉の20話。 
  [ 目次 ]
:空虚な日々を楽しむ方法:(好奇心で心を満たそう ゲーム感覚で
              チャレンジ 手触り感のある生活 ほか)
:絶望の日々を生き抜くために:(危機は自然体で乗り越えよう 
    夢を叶える方法     出会いと別れの達人になろう ほか)
:幸福力アップの秘訣: (人生相談の極意 いまを「旬」として生きる 
             幸福を生み出す魔法の言葉 ほか)
  〜プロローグ〜より〜
≪ 外的な環境がどんなものであるかにかかわらず、心が幸福で満たされれば
 人生は幸福なものになる。心に不幸な感覚が満ちていれば人生は惨めで不幸な
ものになる。心をそのどちらの分銅によって傾けるかは、ひとえに私たち自身が
「幸福になりたい」と願う意志と、逆境にあっても光を見出す「幸福力」の強さ
にかかっているのだ。ただし、「幸福である」ことと「幸福を目的にする」こと
は違う。J.S・ミルがいうように、幸福そのものを人生の目的にしてしまうと幸福
にはなれないだろう。それは本末転倒であろう。なぜなら、幸福は行動の結果、
つまりミル風にいえば副産物であって、目標として提示されるものではないから。
ではどうやって幸福になるのか。私の考えでは、「幸福のベクトル」に乗った
行動の積み重ねによって人生を幸福で満たし、不幸を追い出してしまえばよい
のではないだろうか。ちょうど節分に豆まきで鬼を退散させるように、心の隙間
から入り込もうとする不幸を退散させ、幸福の光で心を照らしていくのである。
本書では、そのためにできる二〇の実践例を、幸福のレベルに応じて三つの段階
に分け、私の経験に基づいて語った。
 ところで、幸福に至るには試練を直視しなければならない。私の場合、最大の
試練は光を失ったことであった。だが、これを受け入れて自己の特色として
生かす術が身につけば、試練はむしろ幸福のための糧となり、最後には幸福の源
とさえなり得ることも、私は学んだ。だからいまではこれを試練としてではなく、
生物的な特色としてニュートラルにとらえ、シェネレスという造語で呼ぶことが
できるようになってきた。そしてこのような考え方ができてくると、幸福感も
高まり、おそらく幸福力も高まってくるのだと思う。
 そんな意味からも、本書ではさまざまなほかの試練とともに、この最大の試練
とどう向き合ったかを、これまでより深いところから語った。願わくは、これを
「障害の受容」のストーリーとしてではなく、あなた自身が幸福を追求するうえ
でのヒントとしてお読みいただければ幸いである。・・ ≫
▼ 幼くして視力を失う試練の中で、「幸福のベクトル」に乗った行動の積み
 重ねによって人生を幸福で満たし、不幸を追い出してしまうかを提示する。
老いるということは、死に向かい受容するプロセスでもある。その中で、幸福感
を維持するヒントが、ここに多く書かれている。 〜つづく

・・・・・・
5256,蓄群本能  〜ニーチェ「超」入門〜
2015年08月05日(水)
             〜ニーチェ「超」入門〜白取春彦
   * 蓄群本能 
 誰も持っている『群蓄本能』。城下町では、その小さな世界で群蓄本能が、
互いの足の引張りあいになり、その個性を内に押しとどめるしかなくなる。
違うということが、マイナスの世界。割切るしかないとしても。〜その辺りから〜
≪ わたしたち現代人はただなんとなく、道徳とは個人の行為に関する規範だと
 思い込んでいる。あるいは、人間性が生んだ規範、社会を健全に生きるための
知恵のようなものだと思っている。 ところがニーチェは、「道徳とは、共同体
のために個々人の内部で作用する一種の畜群本能から生まれたものなのだ」
(『悦ばしき知識』116)という。 この畜群本能というのは、「共同体が個人より
も価値が高いのだから、個人の利益より共同体の利益を優先すべきということと、
「一時的な利益よりも永続的な利益を優先させる」という、国家や社会の全体を
益するための考え方を因習とし継承してきたあげく生まれた。
 たとえば、盗んではならないという身近な一つの道徳律を考えても、ニーチェ
の説はあてはまっているように見える。実際に、空腹ゆえにパンを盗んでも、
社会に損失を与えたとして罰せられる。そして、「個人よりも全体を優先する
という因習が覆う社会で人間は教育され、生活してきた」。よって、「人の心に
ある道徳性とは、これらさまざまな因習の全体に向かう感情にすぎないのだ」
になる。一般的な道徳が自然な心情や宗教の神の配慮から生まれてきたのでは
なく、利益の重さをどこにおくか、つまり功利がその出発点になる。
そう考えた二ーチェは、もちろん道徳の発生を理性に見るカントに反対する立場
にいるわけだ。二ーチェのこういう考え方は、現代哲学で使われている用語で
いえば明らかに構築主義的だということはもうわかるだろう。
 だから、ニーチェはこうもいう。
・「道徳的、倫理的であるというのは、古くからあった掟、古くからの因習に
 従順であることを意味しているのだ」・・
・「良心の中身とは何か。幼少時代のわれわれが尊敬し、かつ恐れた人々が、
 理由もなく規則的にわれわれに要求してきたものすべてが良心の中身だ。
 …そういうさまざまな古い権威に対する信仰が良心の源泉なのだ。したがって、
 良心は人の胸の中にある神の声などではない。その人の心の内にいる幾人かの
 人間の声である」(「人間的」)
 つまり、良心は群れとして生きる人間がみずから生み出したものだということ。
だから、本当に個性的であることはいやがられるし、個性的ゆえに良心の痛みを
覚えやすい。しかし、そこを越えなければ、新しいものは出てこないのだ。
けれども、自分の中に巣くっている古い群れの声にしたがわない行為、考え、
発見はどれも社会からは悪だとみなされる。過去をふりかえれば、みなそう。
新しい思想、新しい知識、新しい方法は、それぞれの時代で弾圧され、
狂気だとみなされ、犯罪扱いされてきた。≫
▼ 一匹狼的か、群れる羊の一匹として生きるか。論語も蓄群の精神マナー?
 確かにマナーは必要だが、古くからある因習に従順過ぎると、世界を自分
から小さくするし、個性的人生からは遠ざかることになる。「個性、個性と
いうが、所詮は砂利の一つの石ころじゃないか」ともいうが、その石ころの
デザインを自分でしてきたか、してなかったか? それも同じことか?
・・・・・・
4891,定年後の4年目のリアル −1
2014年08月05日(火)
             「定年後のリアル」勢古 浩爾 (著)
 朝日新聞の新刊広告に『定年後の7年目のリアル』があった。3年間、私が、
ここで書いてきた内容と同じような見出しにあった。 そこで、アマゾンで
内容紹介を見たところ、前著の『定年後のリアル』があり、『・・7年目のリアル』
の内容は続刊。 内容紹介だけだが、生々しいだけ私の内容の方がシリアスの筈・・  
 ーまずは、内容紹介よりー
《 ◇お金、仕事、健康、生きがい……退職したら、どんな毎日が待っている?
不況のいま、いかにして生きていくかという問題がクローズアップされている。
特に定年退職が迫った人に対してメディアは、定年後は「6,000万円の貯えが必要」
孤独死にご用心」を語る。著者は、さまざまな定年本、定年者たちの生き方を
引き合いに出しながら、メディアが煽る「不安」など、実際にはそれほど思い
わずらう必要もないことがほとんどという。いまの日本人は、過剰な情報に振り
回され、不必要なほど不安になってしまっているというのだ。たとえば貯蓄や
健康状態の「平均」がどの程度かといった話が盛んに語られ、自らを引き比べて
不全感を増している人も多いが、現実には「平均」は自分の生き方とはあまり
関係のない情報であり、気にしすぎる意味はない。またアンチエイジングや若さ
を保つ方法が日々声高に喧伝されているが、本来、人は年を取ったら取ったなり
の自分を認めていくのが自然であり、若さを過度に持ち上げる価値観自体がいびつ
だともいえる。 ・・人は死ぬ、年を取ったら衰えるのが当たり前であり、
そうした事実を正面から受け入れて、初めて本当の人生に出会える。そのうえで
一日一日から得られる人生の喜びを享受して生きていくのが、定年後の理想的な
生き方だという。さまざまな不安の正体を解き明かし、心をほっとしてくれる。》
▼ 私の喩えで、「森の生活からサバンナへ!」がある。 森の中でイメージを
していたサバンナの生活は、そこはそこで面白く、生きがいもあり充実をしている。
森の住人には、それが理解できない。そのことを、森の住人に問いかけている
内容のようである。しかし、これは森の生活で、準備をしてきたかで大きく違う。
私の場合は、ハードランディングだったとしても、万一の備えを長年にかけして
いた為、何とか着陸をした。そして、リアルな毎日が待っていた。そして
4年目に入って、そんなことより、老いそのものの方が現実として迫ってくる。
この紹介の中で「老いの一日一日から得られる人生の喜びを享受して生きていく
のが、定年後の理想的な生き方だ」というが、享受するのは、喜びと楽しみだけ
でなく、怒り、哀しみが伴なう。老いは確実に精神も肉体も衰えさせている。
哀しみに覆われた日を何とか過ごすのもリアルの一日になる。逆に有余る時間で、
思いのままに一日を過ごす楽しみもある。
夕暮れの残照の中での、最後の宴も良いもの!
・・・・・
4524, 生きる悪知恵  ー3
2013年08月05日(月)
  「生きる悪知恵 ー正しくないけど役に立つ60のヒント」西原 理恵子 (著)
60の人生相談が収録されていて、仕事編、家庭編、男と女編、性格編、トラブル編
とカテゴリー分けされている。その中から、印象の強い面白い順といえば、
「男と女編ーヤリたいときがヤレるとき」。    
  * 妻子ある男と交際を続けるべきかに →3チンポもて!
《 Q: 8年付合っている妻子持ちとの交際をやめるべきか? に対して
 A:オーケストラの人としゃべっていたら、「いやあ、ウチは不倫率が高くて」
と言っていたけど、音を合わせてるんだから、しょうがねえよなっていう。
だってやったほうが早いもんね。フィギアスケートのペアとか社交ダンスとか、
「アンタらヤってないほうが不自然じゃっん」みたいな。しかも、そういう
リエーターは、従来の決まりやモラルを破るのが仕事だから、「この人いいな」
と思ったら、さっさとヤっちゃう。そりぁ、たまに会ってデートずるだけの拘束
しない相手って楽に決まってるよ。女の人が自立してたりすると、よけいにね。
そのまんまの関係でダラダラしてるのが好きなんじゃない? 別にやめる必要も
ないと思うし。今の相手より好きな人が見つからないというか、見つける努力を
してないだけ? あなたの場合、次を見つける努力はしたほうがいいですね。
スぺアていうかバックアップはとっておいたほうがいいですから。私の周りの
モノノフの女たちは「3チンポを持て」と言います。「いいですか、1チンポ
ではいけません。それがなくなったらどうするんでか。必ず2本はバックアップを
持っておくように」って泳かせておいてもいい、年に1回くわえるだけでもいい。
必ずバックアップを持っておいてください。そうじゃないと、相手が「やっぱり
奥さんにバレちゃったし、となった時に、路頭に迷うじゃないですか。
30過ぎて路頭に迷うとキツイですよ。 》
▼「3マンコ」など、中村うさぎか、西原でなければ書けない。水商売なら
ともかく、普通の女性が、そのまま実行でもしたら? この章の「男と女編」
の副題ーヤリたいときがヤレるときーが良い。
「後悔、先に立たず」でなく「後悔、後に立たず」? 何事も硬い壁を壊し、
もう一歩踏み込むこと。人生を通して必至に壊してきたが、この程度。壊した分
だけ変形しただけ? あらためて周囲を見渡してみて、壊さなかったら、
これほどツマラナイ人生もない!と、実感。ところで、男の相談者だったら
「3マンコを持て」と回答はしない。そんなのはザラにいて面白みがない。
「やりマンになれ」より「3チンポを持て」は、漫画家でしか表現できない言葉。 
漫画家は一つの絵の中に、捻った笑いを含めるため、自然と言葉もこうなる。
・・・・・
4149, 強迫性障害
2012年08月05日(日)
 オリンピック開会式で久しぶりにサッカーのベッカム選手の姿があったが、
彼は強迫性障害であることを最近、告白した。「何でもまっすぐに並んでいない
と気が済まないし、何でもペアになってないと気が済まない」という。自宅の
冷蔵庫や、宿泊先の部屋でもすべてを「左右対象でまっすぐ」に並べ直す作業に
長時間を費やす。 ディカプリオ主演、『アビエイター』のモデルになった
大富豪のハワード・ヒューズも、この病。この映画をみたが、
「すべてのものが汚染されている」という考えにとりつかれ、人との接触
避けるようになり、自分が買い取ったホテルで20年間も暮らして、最後は
孤独死を遂げた。 ーそこで、ネット辞書で検索してみるとー
≪ 強迫性障害とは、簡単にいうと「わかっちゃいるけどやめられない症候群」。
自分でも不合理だと思いながら何回も繰り返すので、本人には大変つらい病。
よくみられるものは、トイレに入った後何回も手を洗う、ドアのカギをかけたか
どうか、ガス栓をしめたかどうか何回も確認するというもの。本来これらの行為
は安全を確保するために誰でも行うが、それが何回も何十回も確認しないと
気がすまない状態になると社会的に支障をきたすことになり、何らかの治療が
必要となります≫ とあった。 これは、心の病と、脳の病の原因があり、
それぞれの治療がおこなわれているという。心の病の場合、過去の「喪失と悲しみ
が、原因になっていることが多い。病気に至るのは、喪失の悲しみを乗り越え
られないため。人生は、考えてみれば喪失と悲しみがつきもの。
そんなことをいったら現在の私は、重症の強迫性障害に陥っていて当然である。
定年も転職も失業も同じ。「喪失と悲しみ」の中で、最も辛い一つは、連れ合い
との死別。傷が癒えるに最低二年は要するという。 亡くなった姉が晩年、
合唱の先生をしていたが、未亡人だけのグループをつくって(歌で互いに癒しを
隠れテーマにして)いた。その姉が私に「誰も平静を装っているが、死別の傷の
ためか尋常でない何かを感じる!」という。躁鬱症も、分裂症も、この強迫障害
も、誰もが多かれ少なかれ持っている。それをコントロールしようとしてできる
ものでない。私も当然、それに思い当たる強迫障害に近い症状が幾つかある。
多人数の兄姉の末っ子で、両親が終戦直後で、家業の再創業期にあり、異常な
生活環境にあった影響が、心の奧底に大きく存在していた。人生を通して、
その脱皮が人生のテーマだった。それぞれが、それを抱え生涯を生きている。
私の場合、心の底から笑える性格があったのと、両親の温もりが地熱として
あったのとが、症状を軽くしてくれた。分裂、躁鬱、強迫障害症の三つを
束ねるのが自己になる。
 ・・・・・・
3784, ツール・ド・フランス
2011年08月05日(金)
 昨夜もツール・ド・フランスの総集編の録画が再放送されていた。
これで三度目。ーまずは、ウィキペディアより、その概要よりー
【 毎年7月に23日間の日程で行われるステージレースで距離にして3300km前後、
 高低差2000m以上という起伏に富んだコースを走りぬく。フランス国内での
レースが中心だがイギリス、イタリア、スペイン、ベルギー、モナコなど
周辺国が舞台になるステージもある。ステージ数は1993年以降「プロローグ」
を含め全21ステージが定着しているが、それ以前はもっと多いステージ数で
争われることもあった。平坦ステージ、山岳ステージ、タイムトライアルステージ
と多彩なステージ設定がされているが、山岳の比重が大きくなることの多い
ジロ・デ・イタリアブエルタ・ア・エスパーニャに比べて平地ステージと
山岳ステージのバランスとれた構成となっている。一社ないし数社のスポンサー
の名を冠した9人編成(最低6人)のチームが、20〜22チーム参加する。
出場する選手の国籍はヨーロッパだけに限らずアメリカやオーストラリア、
カザフスタン、コロンビアなど多様である。総合成績1位の選手には黄色の
ジャージ「マイヨ・ジョーヌ」が与えられるほかスプリント賞、山岳賞、新人賞
といった各賞の対象者も特別なジャージを着用する。賞金総額は2009年の場合で
約320万ユーロ、うち総合優勝者に45万ユーロとなっているほか、各ステージ
優勝やスプリント賞・山岳賞などに細かく賞金が設定されている。
●特徴として、例年、前半は平坦基調のステージが続き、スピードマンの逃げや
スプリンターによる迫力あるゴールスプリントが見られる。そして中盤に一度
山岳を通過し優勝候補が絞り込まれ、その後はまた平坦ステージが続き、今度は
ポイント賞争いが絞り込まれる。後半にかけてはラルプ・デュエズガリビエ、
モン・ヴァントゥなどの峠を舞台にした山岳ステージで総合優勝や山岳賞を
かけたオールラウンダーやクライマーたちの戦いが繰り広げられる。
2度の山岳コースはそれぞれ3日ほど繰り広げられ、それぞれピレネー山脈
アルプス山脈を使う事が多いため、ピレネーラウンド、アルプスラウンドと
呼ばれる。間の平坦基調ステージは主にこの2つの山脈の間を移動するために
設定されているが、この緩急つけたレイアウトと平坦ステージの多さ、ポイント
賞のシステム(後述)などもあり、スプリンターが一番ポイント賞を獲得
しやすいグランツールとなっている。レースが非常に大規模、かつ露出度が
高いため専門の本部が置かれおよそ500名のスタッフが運営に関わる。
また交通規制やレース中の警備、極端な不正行為の取締りはジャンダルマリ
フランス国家憲兵隊)とポリスナシオナル(フランス国家警察)の2系統の
警察が担当しており、これに動員される人数が約2万5000人。さらに
ボランティアで警備などを担当する人は数十万人にのぼると推察されている。】
★ この数年、7月になると、この自転車レースを見るのが楽しみになっている。
 色いろな賞があるが、個人総合が最も価値ある賞。これを目指して3300kの
熾烈な争いになる。距離が距離だけに、多くのアクシデントが生じる。
もちろん、万一の故障に備えて、自転車を数台のせた車が伴走している。
その沿道は熱狂的ファンが詰めかけ応援をする。もちろん、TVの実況がある。
フランス的なのは、最後の区間は、パリ近くに場所を変え、凱旋レースになる。
ここでは区間賞だけで、総合賞は別になる。そのため、選手もギャラリーも
お祭り気分になる。ただし、完走しなければ、総合優勝を失うため、
同じチームの選手がヒーローをアシストする。