〜写真は「カンチェンジュガ山麓ゴルゲ村」
   * 中村天風の心に残る名言              
≪・「人間はこの世に何しにきたのか?」のカリアッパの質問に、
  三ヶ月、考えた末に、「人間は、この世の中に、宇宙本来の面目である進化
 と向上に順応すべく、出てきたと思います」… 知らないうちに、自分の心の
 奥の潜在意識の中に消極的な観念要素が多く溜まったことが、1つの大きな原因
 になっている。物質文化の時代に、物質本位に生きているから心の働きが鈍くなる。
・絶対に消極的な言葉は使わないこと。否定的な言葉は口から出さないこと。
 悲観的な言葉なんか、断然もう自分の言葉の中にはないんだ
 と考えるぐらいな厳格さを、持っていなければだめなんですよ。
・鉛は鉛、金は金。鉛に金メッキして、俺は金だというような顔をしなさんな。
・意志の力の強いっていうのと、強情っぱりと同じにしてちゃあだめだ。
 強情っぱりっていうのと、意志の力はぜんぜん違うんだよ。
 乱暴と勇気が違うのと同じようにね。
・船に乗っても、もう波が出やしないか、嵐になりゃしないか、それとも、
 この船が沈没しやしないかと、船のことばかり考えていたら、船旅の愉快さ
 は何もなかろうじゃないか。人生もまたしかりだよ。
・良い運命の主人公になりたかったら、心の中に感謝と歓喜の感情を持つことだ。
 感謝と歓喜に満ちた言葉と好意は、人生の花園に善き幸福という実を結ぶ。
・感謝するに値するものがないのではない。
 感謝するに値するものを、気がつかないでいるのだ。
・一度だけの人生。だから今この時だけを考えろ。過去は及ばず、未来は知れず。
 死んでからのことは宗教にまかせろ。
・憎い人があろうはずがない。あなた方が何か憎らしいことを考えているだけだ。
・数ある同僚の中からぬきんでて偉くなる人は、結局、偉くなるべき資格を
 持っているんです。その資格とは、
「誰にも言われなくても、日々毎日、実際に努力している」ことなんです。
・「習慣は第二の人生ともいうが、習慣が身についていくと、もう簡単 明瞭。
 その習慣を身に付ける一番良い方法がある。折あるごとに、時あるごとに、
 日に何千回でもいいから「深呼吸」をすることを稽古しなさい。そうすると、
 ひとりでにこの良き習慣が、いざという時に特別の意識しなくとも、肛門が
 締まって、肩が落ちて、おなかに力が入る。 (〜P181)

▼ 日本が右上がりの時代に、「人間は、この世の中に、宇宙本来の面目である
 進化と向上に順応すべく、出てきた」は、最適な信念に成りえた。サルトル
哲学に大きく影響を受けている。その後、構造主義、脱構造主義の哲学が、西欧
絶対主義を批判、今ではサルトルも過去のものとなっている。しかし、その根が、
ネパールのヨガであるところが面白い。構造主義が南米、ヨガがネパールの奥地。
心、魂の問題を生きる中心におくのも、自然といえば自然か。深呼吸だけでなく、
私的時間のスケジュールなどに、習慣の力を利用することを思い立った。
 その一つが、40歳半ばから65歳辺りまでの年に二回の<秘異郷ツアー>。
私にとってのライフワークになっていた。行蔵としての充実感として残っている。
 中村天風と、HP内検索を入れると、以下の文章が出てきた。

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2016/05/11
魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思

   * 魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思
 魂とは何かについて、様ざまな諸説を学んできたが、
<魂とは、善なる方向に向かっていこうとする意思>の説の切口は新鮮。 
そこで思い出したのが、中村天風の言葉。 ソクラテスは、2500年前に、
魂の進化こそ人間の目的という。
  〜天風の哲学から〜
≪ カリアッパ師は遠くの空の彼方を見つめ、誰に言うともなく、つぶやいた。
【お前には人生観らしいものが何もない。その場、その場を生きているだけだと
言われても返す言葉もない。アメリカで医学とやらを勉強したらしいが、逆に
その知識が災いして、ちょっと咳をしても恐れ、不衛生だといっては神経をすり
減らし、オドオドばかりしてる。枝葉末節の学問ばかりして、一番肝心の、
『私は何をするために、この世に生まれてきたのか!』ということを考えてない。
本末転倒もいいところだ!それだったら、死でも仕方がないな。そこから立て
直さなければダメだな!】 カリアッパ師は言った。
【何をするためにお前は遣わされてきた!そのことを考えたことは あるのか!】
 これは、<私たちが生きている意味は宇宙の進化に 同調すること>であると。
教義の最終目的はアートマン(自分)がブラフマン(宇宙)に合 一すること。≫
▼ マルクス・アウレリウス、<人間の心で行う思考が、人生の一切を創る。>と、
 中村天風は、<私たち は自分が考えた通りのものになる。 そのすべてが、
この宇宙を動かしているのと同じエネルギーの力を得ている。> と、いう。
この宇宙の意思が魂ということ。善なる方向に向かおうとする意思こそ、
最も大切なことである。毎朝、仏前で、「この世の全ての人が、善くあります
ように!」と、祈ってはいるが、世人の例外があまりに多すぎて・・
〜これもまた、以下の内容に丁度よくつづく!「良い人」を止めると楽になる。
ハイデッガーのいう、「世人」相手でなく、己の良心に従えば、「ろくでなし、
結構」になる。「世人」の無知はよくない。善い方向(知識)を知らなくては。

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2012/05/07
要は、受け止め方である!
 人生、色いろ経験を積み重ねた後に過去を俯瞰すると、その行蔵はどうにでも
解釈できる。 ついてなかった人生としても、視点を変えれば、ついていた人生
と脚色出来る。受止め方次第で過去も現在も、そして未来も変わってくる。 
中村天風は「全ての受け止め方を『積極一貫』にし、肯定的であれ!」と説く。 
人生は問題の山、その中心点が何か考えつくし無心に立ち向かうしかない。
これからは、自分の人生を、どのように受け止めるかが人生の問題になってくる。
受け止め方を変えることは、行蔵の中の要素を仕分け直すことになる。それで、
これからの人生の方向を変える。そのために記憶さえ変えるのが人間の業。 
それは行蔵の要素をどのように解釈するかになる。そこでも知識の絶対量が必要
になる。分別ない人間の身勝手な解釈では、ますます歪になろうというもの。
「運」があるか、ないかは、「運は自ら運ぶこと」と解釈すれば、運そのものが
意志の問題になる。運がない人は意志が弱いと解釈出来るというもの。 
「人生に起こったことは無駄のものなし」と、信じていれば、最悪のことも結果
としてプラス材料になる。 そうこう考えると無知は、それだけで罪の原因になる。 
知らなかっただけで、どれほど多くの失敗を重ねてきたことか。人類も私もである。
初めから自分のミッションを明文化しておけば、それが信念になり、途中経過の
失敗も成功も、受け止め方がハッキリしているので、ブレが小さく済む。 
おい方一つで、荷物も軽くなると、同じ。これからの日本は坂を転げ落ちるよう
に衰退する。そこで何が必要か? 教育制度の再構築と、憲法改正。 

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2005/06/30
1549, 宇野千代

宇野千代が代表作「おはん」を書き終えた後に、
一行も書けなくなってしまった。
そこへ中村天風
「今度ね、自分の頭の中に舞台をこしらえて、その中でいろいろ、
あの女とこの男とひっつけよう、この男とこの男とこうしようというふうに
躍らせながらそいつを書いていったらいいだろう」
「出来ないと思うものはできない。
出来ると信念することは、どんなことでも出来る」
と言った。
「いい事聞いた!」宇野千代は、それいらいスランプを脱し、
書く文章も変ったという逸話がある。

この天風の言葉を、スットンと脳に入れてしまう彼女が凄い。
彼女は中村天風の弟子であり、その教えの実践者である。
天風の言葉が、彼女の中で血肉になって明るく具体的に
噛み砕いているところがよい。
ー「私は不幸に対してはなかなか凹まない自信がある。どんなところからでも、
私流に幸福を見つける自信がある。私は、勿論不幸は好きではない。
…自分を不幸だと思うことの方が、もっと好きではない。…」

ー「何事をするにも、それをするのが好き、という振りをすることである。
それは、単なるまねでよい。すると、この世の中も、嫌いな人がいなくなる。
このことは決して偽善ではない。自分自身を救う最上の方法である。」

ー「私たち人間は、何時でも、ものの考え方の方向を、絶対に明るい方に
もっていきたいものです。明るいところには元気が、暗いところには
病気が必ず宿っているのです。」など、
まさに、天風の言葉が彼女の体験を通して具体的に諭しているようだ。

また、彼女の
「私、なんだか死なないような気がするんですよ。」という言葉もよい。
90歳半ば頃に発した言葉である。本心から出ているからよいのだ。
「人生はいつだって、今が最高の時なのです。」と語っている彼女の顔が
目の前に浮かぶようだ。
人生を最大限に生きた人は、サッパリとして清清しい。
                          ーつづく
――――     
2007/02/11
2140, 幸福はキラキラと輝く瞬間         
     「藤沢周平に学ぶ」月刊『望星』・編  −読書日記ー                  
  ー人間の成熟にかかわる『人生の充足感』ー
山田洋次監督の映画は「男はつらいよ」の48本すべてと、
その他の映画の最近のものは殆ど観ている。彼が「男はつらいよ
についてのTV特集などで渥美清を語る座談で、多く聞いてきた。
しかし、どういうわけか彼が書いた文章は殆んど読んだことはなかった。

ところが藤沢周平についての評論を24人集めた「藤沢周平に学ぶ」の冒頭の
「藤沢作品を映画化して想うー人間の成熟にかかわる『人生の充足感』」
の評論があった。彼は幾つか藤沢の映画を撮っているだけあって、心打つ
内容である。人生で誰もがキラキラ輝いていたのである。 そのとき! 
    〜まずは、彼の文章の一節から・・
  
   *幸福とはキラキラと輝く瞬間を持つこと!
「隠し剣、鬼の爪」で、主人公の侍が行儀見習いで女中奉公に来ていた
娘にプロポーズするシーンで、その瞬間、彼女はキラキラと輝くような、
生きていてよかったという幸福感で胸が一杯だったはずです。
僕は、幸福とはキラキラ輝く瞬間を持つことだと思う。人生のうちには、
そんなふうに何度かそういう瞬間がある。あるいはあってほしい。

心の芯から温かいものがフワ~と湧き出るような、そういう短い時間が
誰もが持っている。映画「たそがれ清兵衛」でいえば、父親が幼い子どもを
「高い高い」しながら抱き上げる瞬間、子どもの側からすれば、高々と
持ち上げられて、急に視界が高くなったときの嬉しさ、ああ、いま父親に
高く抱き上げられているのだ、という充足感。子どもはその後、大人に
なるにつれて、人と争ったり、世渡りで苦労したりするが、あの瞬間の
充足感は一生忘れない。幸福ということは、つまりそういうことなのでは
ないかと思います。
(感想)
ー私自身、キラキラと輝く時間は数数え切れないほど多かった。
本当にこれで良いのか?と思うほど多かったといえるのが幸せである。
求めたからだろう。ギラギラでなく、キラキラというのが幸せである。
ギラギラは、心に欲とか不純なものが蓄積している状態で、後には不快が残る?
やはり、幸せは両親の愛情をタップリ注がれた基盤が必要条件になる。
二人の愛の結晶が子供である。 愛は二人で維持していかないと・・・

  *感動体験が「良識」をもたらす
 いまの30歳代くらいまでの若い人の特徴は、子ども時代の体験が
あまりに貧しいということではないでしょうか。 団塊の世代までは、
野原や川原で大勢の友達と遊ぶ楽しさを知っています。
汗だらけになって遊び呆けて、日暮れどき、仲間とアバヨと別れ、家路に
つきながら「ああ、楽しかった」という、身体の中が熱くなるほどの満足感。
そこには兄貴分がいて、喧嘩もあって、仲直りもあって、子どもとはいえ、
小さな世界の秩序があった。そうした中で、人は自然を学び、社会の分別を
学んでいたのです。
 生きていくということはなかなかしんどいことですが、やっちゃいけない
ことはやらないという態度は良識だし、やらなくてはならないことはやると
いうのも良識です。その良識を持っているいるかいないかはということは、
その人が、ああ俺は幸福だな、という感覚を肌身にしみて体験しているか
どうかと、深い関係があると思います。

人間というものは厄介な存在で、恋愛問題だけでなく、家庭、地域、職場、
学校など、集団にはトラブルはつきものです。いったんこじれた人間関係は
修復するのは、面倒なことだけれど、相手の立場に立ったり、相手を変えよと
努力したりする中で、自分自身も変わっていくのです。
もつれた糸をほぐすような悩みや工夫のなかで、人は成熟していくのです。
 (感想)
ーこの視点で、人生を振り返ってみると、何が重要だったのか見えてくる。
本当に目を光らせて自然の中で遊びほうけたものだ。
私らの年代は、本当に遊びまわっていた。
それが中学二年あたりから受験勉強を強いられる。
それも、必要である。
感動体験こそ人生を豊かにさせるものである。
感動体験だけは人一倍してきたが・・・まだまだぜったり量が足りない。
 60歳代の人生のテーマは『もっともっと感動を!』か?