* モンテッソーリ教育を受けた有名人
 20歳の頃に、『創業を目指す』と、志をたててから、俄然、人生が
面白くなっていた。人生の脚本の粗筋が、その時に決まってことになる。
当時の与えられていた学科そのままが、教材になっていた。また与えられた
特権の自由になる時間が素材に思えてきた。その翌年の三年次に行った、
「欧州ツアー参加」も、四年次の「武澤ゼミ」の入会も、その粗筋があれば
こそ決断出来たこと。緑の原野(社会)に出てからの転業、転職などの自己
配転によるキャリアづくりも、「人生の脚本」の筋書に沿って進んで行った。
 それが、周囲に対して違和感を持たれていたが。その時期が20才時だった
のが良かったと思っていたが、何か内なる硬い岩盤があった。その岩盤を
最小にすべく、幼児期からプログラムをたて、手順を踏むのだから、納得。
 この教育を受けた有名人をネット検索によると、
≪ オバマ大統領、クリントン夫妻や、日本の皇族にも
 モンテッソーリ教育を受けた人がいるそうな。
  〜主な人物では
アンネ・フランク
バラク・オバマ(米国大統領)
ジェフ・ベゾス(Aamazon創業者)
ジミー・ウェールズウィキペディア創業者)
・キャサリン・グラハム(元ワシントン・ポスト会長)
・サーゲイ・ブリン(グーグル創立者
ラリー・ペイジ(グーグル創立者
ピーター・ドラッカー(経済学者)
ジョージ・クルーニー(映画俳優)
・ウィリアム王子・ヘンリー王子(英国王室)
ウィル・ライトゲームクリエーター
・ジュリア・チャイルド(料理研究家)など・・
 モンテッソーリの基本的な考え方は、
『子どもの自主性を重んじそれを伸ばしていくこと。』
 日本の教育が個性の尊重に重きを置かず、画一的な教育である
ことに問題意識を持つ親には、興味深い教育法。しかし、モンテッソーリ教育
を受けた誰もが高い能力を発揮できるわけではなく、子どもにも向き不向きが
ある。保育園や幼稚園などにより、導入の度合いは異なります。また、家庭が
その教育法にどう向き合うのか、非常に重要になる。
 この教育が目指しているのは、自立し、周囲に対して思いやりを持てる
人物を育てること。日本の教育では、与えた課題を正確にこなす、ことに
主眼が置かれがちですが、モンテッソーリでは自分で課題を見つけ、自分の力
でやり抜く力が身につきます。発達障害や、貧民の幼児向けのプログラムが、
幼児の英才教育に改良したもの。≫

▼ 今では、スマートフォンタブレットPCが一般に普及。
 これを幼児の英才教育に活用できる親の教育ソフトこそ、必要とされる。
成るほど、競って慶応幼稚舎に入れるのも、そこには、個性尊重の自由な精神を
守る世界があるのだろう。良い意味の「朱に交われば赤くなる」ということ。
悪い意味では「世間」になる。己の不自由を気付いてないから、それはそれで。
 ああ、それ、自分の指摘ではないですか? 時世に群れて、考えず、狂い水を
飲んで、頭をやられ、無為に過ごしてきた人生こそ、不自由だったのでは? 
 そとには鳥の鳴き声と、雨の飛沫の音がする。
で、この有名人たち、自由だったのだろうか。黄金の人生だったのだろうか。
少なくとも私よりは遥かに自由で黄金の時間を過ごしていたのだろうが…

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5590,幸福の条件とは 〜?
2016年07月05日(火)
 「幸せの条件?」をネット検索にかけてみた
≪ 幸せの3つの条件(『人生談義』松下幸之助より)
   1.自分が幸せだと感ずること。
   2.世間の人びともその幸せに賛意を表してくれること。
   3.人間の共同生活の正しい進歩向上に即したもの。
  幸福のための4条件(『不幸論』中島義道より)
   1.自分の特定の欲望がかなえられていること。
   2.その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
   3.その欲望が世間から承認されていること。
   4.その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れない
    (傷つけない、苦しめない)こと。
「どんなに幸せそうに見えても、本人が幸せだと思っていなければ、
 その人は幸せではない」のです。
幸せの第一条件は、「自分は幸せ」という“自覚”があることです。
それを確かにするのが、実際に“幸福感”を感じて生活することです。
世間からの賛意・承認を得るということは、善いことをする、人の役に
立つのようなものに加えて、人に迷惑をかけない、悪いことをしない
というようなものも含むと思います。≫ とあった。
▼ 年収七百万までは、比例して右上がりになるが、それ以上は、急速に
 角度が下がる。貯蓄も、一世帯3千万が心配しないで済む安心の目安。
「どんなに幸せそうに見えても、本人が幸せだと思っていなければ、
その人は幸せではない」とあるが、逆に、「どんなに不幸に見えても、
本人が不幸と思っていなければ幸福である」といえる。としても、
何時も金の心配をしなければならない生活は決して幸福といえない。
 資本主義社会とは、貨幣を基準に価値判断をする社会。不条理だが、
割り切るしかない。お金の本質といえは、ずばり、「自由」と「能力」。
「自らに由る欲望の達成」の手段がお金。達成できる力が「能力」。
千円には千円の、百万には百万の、一億には一億の能力がある。
 自由、博愛、平等度が高い社会ほど、幸福度の高い社会になるが、
その前に、人と比較しないこと! 
 そうすれば、自らを縛りつけている枠が取れるため。

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5225,「エリック・ホッファー自伝」 〜?
2015年07月05日(日)
           「エリック・ホッファー自伝」中本義彦訳
   * 自殺未遂の場面と、覚醒!
 自殺決行の場面をリアルに書き連ねている。自分の走る歩道の足音を拍手
のようだ、というのも、緊張の極まりのためだろう。「口中に、百万本の
針が突き刺さったようだ」というのも迫真がある。 ー以下の場面は圧巻・・
≪ ビンを包みから取り出している間、熱にうなされたような思いがかけめぐる。
 私はビンのふたをはずし、口いっぱいに一気にシュウ酸を流し込んだ。
口中に百万本の針が突き刺さったようだった。激情に打ち震えながら、シュウ酸
を吐き出した。つばを吐き、咳をし、唇をぬぐいながら、暗闇にビンを投げ捨てた。
 つばを吐き、咳をし続けながら、急いで道に戻った。泥道を走り抜け、セメント
道に入った。舗道に響く足音は拍手のようだ。興奮して、独り言を言いながら、
群衆にたどり着くまで走り続けた。ランプも、点滅する信号も、鳴り響くベルも、
路面電車も、自動車も、人間が作ったすべてが自分の骨身の一部のように思える。
ひりひり痛むほどの空きっ腹を抱えて、カフェテリアへ向かった。
 食事をとると、一本の道――どこへ行くのか何をもたらすのかもわからない、
曲りくねった終わりない道としての人生―という考えが、再び頭に浮かんできた。 
これこそ、いままで思いもよらなかった、都市労働者の死んだような日常生活に
代わるものだ。町から町へと続く曲がりくねった道に出なければならない。
それぞれの町には特徴があり目新しく、それぞれが最高の町と主張して、チャンス
を与えてくれるだろう。私は、そのすべてを利用し、決して後悔をしないだろう。
私は自殺をしなかった。だがその日曜日、労働者は死に、放浪者が誕生した。≫
▼ ホッファーの知的欲求は、盲目の7年間の暗闇の中から生まれ出たのでは
 ないだろうか。死の淵で知ったのは、放浪者として、曲がりくねった道を歩く
ことで、新しい町と出あい、色いろな知識を得つづけるのが自分の人生と悟った。
「慣れ親しむことは、生の刃先を鈍らせる。おそらくこの世界において永遠の
よそ者であること、他の惑星からの訪問者であることが芸術家の証なのであろう」
という思いが、ここで固まった。人生は己の芸術作品である。永遠のよそ者、
他の惑星からの訪問者なら、一つの町に留まらない。町々の間を、自己配転をし、
多くの出あいを求める。これは死の淵に立ってこそ知りうること。
 死んだような都市労働者の日常生活から、放浪者として彷徨いながら、
多くの世界を知っていくことの意味が、ここで理解出来る。これは、地方の
城下町を凝視すると見えてくる。非日常から逃避して、日常に沈み込む
恐ろしさが不気味に迫ってくる。 あのゾンビのような人たち。
『変化、挑戦、戦い』の繰り返しの中から、新しい出あいの機会が現れ出る。

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4860,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー28
2014年07月05日(土)
  * 15年の準備期間の総括! ―チェーンストア理論とは
 多くを学んだ割りに、大きく脱皮出来なかったのは、「根が怠け者」がある。
だから、20歳で創業を目指すと決心したことで、何とか人生を全機
(人間としての機能フルに生かす)でないとしても、その数分の一は生きること
が出来た。終戦直後に生まれ、地元長岡の焼け野原からの時代は間違いなく右上り
の時代。アメリカ占領統治から独立過程で、アメリカ的合理主義が求められていた。
その一つの現象が、アメリカのチェーンストア業態。未開の大陸、流通業の小売で、
合理的業態として、セルフ方式のチェーンストアが、アメリカ全土にあった。 
JC・ペニー、シアーズ・ローバックが当時の雄であった。 現在ではウォルマート
などが主だが・・ 学生時代に、日本の流通革命を目差すペガサス・クラブと、
流通コンサルタント渥美俊一の存在を知る。当時の都市の駅前には、業種店の
百貨店と中小小売店が賑わいを見せていた。そこに業態店のスーパーを中心とした
新たな流通バイパスの業態店を!というから、これ!と思うのは当然。ちなみに
業種店とは、駅前に残存するが、メーカーなどの売り手サイドの括りで、問屋を
仲介にした仕入を主にした店で、「何を売るか」で、括られる。
それに対し業態店とは、「どのように売るか」で括られた店。セルフ方式で安く
売るスーパーや、ディスカウント店である。コンビニは、車で10分の商圏の中、
10分以内に消費する商品を、24時間営業を、売りにしている。それに対し、
駅前・駅中の靴屋、化粧品店は、あいも変わらず? その為、何時の間にか、
スーパーや、ネットで、売上げは激減状態!
 卒論に「流通革命」をテーマにしたこともあり、チェーンストアのシステムの
話になると我を忘れるが、これ、はまると、意外と面白い!その中で、一番要は、
チェーンストア統一伝票と、その伝票にバイヤーが書き込む仕様書発注である。
それさえ、詳細に書けば、それが、そのまま契約書にもなる。これが曖昧だと、
売り手が曖昧な商品を納入可能になる。 ある規模になれば、生産地で、直接、
メーカーと共同開発の特別発注が可能になる。 このところ、イオンが、イオン
ブランド品に比率を上げているのは、競争激化による。 そこで、トレード・
オフで、ホット商品の無駄をはぶいて数段の値段を下げで、カジュアルにする。
アメリカのディスカウントチェーンは、メーカーと組んで、商品開発から取組んだ
商品を売る、業態店をいう。 値下がり品だけを売る店は、チープ店である。
 小売を科学するとは、流通戦争の中で、生延びる中で生まれてくる。
だから、商売のヒントと原則が、数限りなく積上げられてある。その中で面白い
のが、ロスの概念! 商売をすれば当然、ロスが発生する。
これを、元から予測して、「発生は仕方がないが、最小にする!」という考え方。
これ、人の生き方にも当てはめることが出来る。「思いのまま生きた分、心の傷も、
喪失感が多くなるが、それ以上に得ることがある!」と言い換えることが出来る。 
冒険を恐れて、周囲の価値観の範囲で、人生を終える時に、やりたかったが、
やれなかった機会ロスがあまりに多かったことに気づくが、既に遅し!
そのゾンビが巷に多い。 彼らの敵は、逆の人生を生きてきた人!
・・・・・
4493, 怒らないって本当は恐い! ー8
2013年07月05日(金)
 人間を閉じ込める心の壁と構造について、何度も書いてきた。
「〜をしてはいけません」という心の壁。それについて何も考えずに、そのまま
一生を終えてしまう。そして、心の奥で両親を憎むというのが親子の関係にある。
それに反発し、両親の元から離れるのが親離れになるが、それが出来ないとミニ
ミニワールドでつい果ててしまう。そして、それを打ち消すために、その価値観
を家族をはじめ、周辺に押し付けてしまう。それも無知の自覚無しときている。
小さいほど、満ち溢れたエネルギーは毒を強くする。それで、まずやられるのが
自分自身。あの老人たちの暗い顔が証拠である。
 ーその辺りからを抜粋してみるー
   * フロイトの心の構図と怒り
≪ 怒りという感情を持たないようにするのではなく、いかに上手くコントロール
 するかだが、精神分析医のフロイトは、歴史上初めて、人間の心の構図を明らか
にした。彼は私たちの心は、実は三層構造になっているという。まず人間の根底
にはエス、あるいはラテン語でイドといわれる無意識の心的エネルギーがある。
これに対し、悪さをすると叱られる父親の存在に象徴されるような、ある種の
規範意識が対立します。これを超自我という。これは両親の道徳観が子どもの
心の中に内在化されたもの。従って超自我の多くは「〜してはいけません」という
禁止の形をとります。これは行為だけでなく、不道徳の思いに対しても作用する。
そうして両者は対立することになる。その両者を調停するのが自我です。
両者の対立をうまくコントロールしたり、阻止したりする機能を働かせることで、
自我は発達していく。それは思考をつかさどる意識の領域にほかならない。
つまり、心というものは、学校での三者面談のような構造になっている。
先生役の自我は、常に緊張状態に置かれていて、いつ爆発してもおかしくない。
これを防ぐのが防衛機制という機能です。人は自我を維持するのに危機を感じた
とき、無意識のうちに、その危機を避けようとします。たとえば不愉快の過去を
忘れてしまうために、持ちたくない意識を外に締め出します。これは「抑圧」
という防衛機制の一種です。また、本当の欲求が満たされなかったから他の
ことを行ったのに、それを正当化するため丁度の良い理由を見出すことがある。
手の届かないブドウを、酸っぱいに違いないと決めてかかるキツネのように。 
これを「合理化」という。さらに、自分の願望と裏腹の態度や行動をとる
「反動形成」も防衛機制の一つです。したがって怒りの感情をコントロールする
というのは、フロイトのいう自我が正常に機能して、防衛規制がきちんと働く
ことによってはじめて可能になる。それができないとキレまくることになる。
怒りをコントロールするためにも、自我の形成が大事になってくる。
自我は思考を鍛えるということにつながっていきます。欲望と規範の間で格闘
する自我とは、計算であり、配慮であり、決断にほかならない。 ・・思考を
鍛えて怒りを飼い慣らすことができれば、日常世界がもっと豊かになるはず。≫
▼ サラリーマンが、いちいち怒っていたら、組織の中で生きていくことは
 困難になる。だから、まず、気持ちを押しとどめるしかない。上記の「抑圧」
も「合理化」も「反動形成」も、嫌が上にも身につけるしかない。 そして、
それが性格形成の元になる。組織そのものが一つの人格として三者面談を形成
してくる。それが組織人というもの。それも給料の内と割り切るしかない。
そこに埋没しないためには、ライフワークとしての趣味を持つしかない。
 怒りは、その行き詰まった自分を考えるキッカケになる。「エス」「超自我
「自我」の心の構図の論は怒りを考える上で理解しやすい。「自我」にとって、
怒りこそエスを正しい方向に導いてくれるということを。それも若いうちにである。
・・・・・・
4119, 閑話小題 ー平均寿命と医療費
2012年07月05日(木)
   * 平均寿命と医療費
 あるレポートに「世界一高い医療費を払っているアメリカで78・3歳、
最低の北朝鮮でも67歳の平均寿命」とあった。アメリカとキューバの平均
年齢は全く同じだが、キューバの医療費はアメリカの一割でしかない。
北朝鮮では年間、たった一ドル。社会主義という背景もあるが両国とも最貧国。 
皮肉ではないが栄養失調ギリギリの粗食は健康に良いらしい。ちなみにロシアが
65歳、インドは64歳である。 日本の医療費は、先進国の平均値より低いが、
女性が86・4歳、男性が79・6歳,男女平均83歳と世界最長である。
こと医療体制をみると、日本は色いろの問題があるにしては最良のシステムに
なっている。現実的にみて、財政破綻状態だが決して住みにくい国ではない。
   * アメリカの学費ローンの実情
 アメリカでは所得水準が下半分以下の家庭に生まれたら、返済義務のない
奨学金を獲得して大学に入ることは不可能という。入学金とか学費などの学費
ローン(総額9兆円)は、全米の学生の三分の二が借りているほど一般的とか。
しかし、このローンの仕組みも多くの問題を残していて、卒業直後に計画的自己
破産による棒引きケースが続出した時期があった。その当時のクリントン大統領
が、罰則として大学を中退しようが自己破産しようが、学費ローンだけは永遠に
返済しなければならない法制化をした。それは当人の許諾を得ずに給与天引きで
ローン返済をする厳しいもの。アメリカは学費ローンに限り厳格のようだ。
日本では本人の学費ローンは、あまり聞かない。大体が親がローンを組むケース
が多い。それにしても日本の大学進学率が五割を超えているのは問題である。
まだ三割なら分かるが。もっともアメリカも5割を超えている。ドイツは三割強、
先進国は4割前後というから、日本が取り立てて高い訳ではない。 
私の年代では18%だったが。
 ・・・・・・・
3753,ワシも族か〜  ー�
2011年07月05日(火)
 私もついに「ワシも族」になってしまった。 家内は、この数年来、JR東が
2〜3ヶ月に一度の3〜4日間乗り放題のサービス期間、毎日、日帰りで東京
名所見物を楽しみにしている。 8時過ぎの新幹線に乗って、18時過ぎに
長岡に着く列車で帰ってくる。それも、何年も続けていると、予めネットで調べ
ていた行き先をこなすのも手馴れたもの。 妹や義理の姉を度々、従えて行く。
ついに暇を持て余している私も「ワシも族」として、家内に従うことになった。 
行き先は、国立新美術館で行われている「ワシントンナショナルギャラリー展」。 
乃木坂の美術館としか知らなかったので、まさか近年新しく出来た(黒川紀章設計)
国立美術館とは露知らず、ついて吃驚!それもワシントンのナショナル
ギャラリーの印象派とポスト印象派の、多くの作品を目の当たりするとは・・。
見学者の行列にそって作品を観るごとに驚いている次第。初めのうちは、何だ、
この程度かと思っていたが、次々と有名画家の写真集や、TVなどで観た有名な
絵画が出てきたのに驚いた。絵画から出ているエネルギーの直感こそ魂。
  ーこのHPの紹介文よりー
「ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する12万点の作品の中でも、
特に質の高さと絶大な人気を誇るのが、その数およそ400点の印象派とポスト
印象派の作品群です。本展では、その中から日本初公開作品約50点を含む、
全83点を紹介します。クールベやコローらバルビゾン派写実主義を導入部とし、
印象派の先駆者といわれるブーダンやマネを経て、モネ、ルノワールピサロ
ドガ、カサットら印象派に至り、セザンヌ、ファン・ゴッホゴーギャン
スーラなど、それぞれの表現によって印象派を乗り越えていったポスト印象派
に続きます。 17年ぶりに来日するエドゥアール・マネの《鉄道》、日本初公開
フィンセント・ファン・ゴッホの《自画像》、ポール・セザンヌ
《赤いチョッキの少年》、そして同じくセザンヌが父を描いた初期の名作
《『レヴェヌマン』紙を読む父》など、いずれもワシントン・ナショナル・
ギャラリーの「顔」、美術史において印象派、ポスト印象派を語る上で欠かせない
名作の数々。 まさに、「これを見ずに、印象派は語れない」 
http://www.museum-cafe.com/report/5333.html 
http://totemokimagure.cocolog-nifty.com/zakkan/2011/06/post-d2d9.html
     次回は「ワシも族」とは、どんな人種か? について・・
 ・・・・・・・
3388, 911・考えない・日本人  ー5
2010年07月05日(月)
  「911・考えない・日本人 」林 秀彦 (著)
 * 日本史は最低のドラマか?
= さすがに、古事記日本書紀がつまらない物語とは書いてない。
  日本史である。辛辣だが、この視点も必要 =
 ー以下は、内向きになっている日本に対する忠告である。ー
≪ 日本史は最悪の作家の書いた最低のテレビドラマで、これではいくら
視聴者のIQが低くても視聴率は取れない。善悪という山場のない、ドラマのない
国に、私はくたびれている。神と悪魔の戦いがない国ほど、グウタラな国はない。
そして・山場がないという意味は、意味がないということなのだ。善もなく、
悪もなく暮らす。何事にも意味を求めずに生きる。一体、何がその生活に残るか? 
考えてくれ、頼む! 善が悪に勝つこともなく、悪が善に勝つこともない。
戦いはなく、葛藤はその一日に、一生に、歴史に、ない。そんな生活と歴史に
残るものは何か?ほら、答えはあなたの今にあるじゃないか。
自分の今日の生活にあるじゃないか。 ・・・・ 
 たとえば、歴史上、最も男性的な日本男性は誰か。日本武尊だとしよう。
ヘラクレスと比較すればいい。日本史最大の賢者は誰か。聖徳太子だとしよう。
アリストテレスと比較すればいい。日本最大の武将は誰か。織田信長だとしよう。
アレキサンダーと比較すればいい。日本最大のバカタレ(バカタレント)は誰だ。
ビートたけしだとしよう。マイケル・ムーアと比較すればいい。一方はただの
世渡り上手な傲慢なバカだが、一方は真摯なインテレクチュアルであり、
かつ前者には皆無な勇気の美徳を持ってい。≫
▼ 辛辣である。 島国で海が要塞になっていて、小さな世界で安穏できる
 自然環境が日本を考えないで済ませている。しかしネットで世界が結ばれ、
その中で生きるしかない現代では、それでは済まされない。アメリカ史を考えて
みれば、日本史より低いドラマだろうか? その質は、歴史の長さと地政学
関係してくる。高度成長期の真っ只中に日本のTV業界の脚本家として名を成し
活躍したぶん、現在の日本の現状とのギャップが鮮明に見えるのである。
隷属国家の考えない日本の姿が、あまりに酷く悲しいから書くのである。
茹で蛙の日本人、ここで民主党に政権を与えたが、あの政策をみていると、
彼のみたまま。二大政党という劣悪な政争ドラマが、それを証明している。
「その姿は、自分の今の姿にあるじゃないか」が考えさせられる!