浜三枝の著書『孤独って素敵なこと』で、今は亡き「松本民芸家具」
 の創始者である池田三四郎先生の思いでを次のように述べている。
≪ 箱根の家が完成したときに、池田先生を招いた時の質問。「美しいという
 ことは、どういうことでしょうか?」に、
「一本のねぎにも、一本の大根にも、この世の自然の創造物のどんなものにも
 美があるんだ。問題は、人間がそれを美しいと感じる心を身体で会得している
 かどうかなんだ。私は毎日、散歩をしながら、道端の草や花や、すれ違う動物
 や昆虫とも話をしているんだよ。暮らしの身の回りにいる者たち、そこにある
 物の、あるがままの美しさを感じる心が大切なんだよ。」そして、
「ひたすら道具や器を、そして自然を見て学びなさい」と、
「民芸で一番大きいのが家だ」とも。
その池田先生より、届けられたのが朱色の根来塗の燭台と、小さなガラス絵。
囲炉裏の部屋にこの燭台を置くと、箱根の家の印象が明るくなりました。
ガラス絵を柱に飾ると、優しい雰囲気が家に加わりました。 こんなに家に
ぴったりするものをよく選んでくださったと、その審美眼に改めてほれぼれと
感動し、また美意識が一緒だと嬉しく思いました。≫
 また<浜美枝ダイアリー>の中で、
≪「人間が自己の力を過度に評価し、科学を過信し、一切を知性によって合理的
に究め得ると錯覚した時代は、その後の日本が歩いた道であった。自然に対する
人間の勝利とは虚妄の勝利であったのではないか。近代精神のもたらしたものは
人間の傲慢であった。その傲慢さの故に、自己の創った科学文明のために自分
自身が復讐されつつあるとは言えないか…」と。

▼ 「美とは何か?」を考えると、まずはバランス。それも、エネルギーの
 満ちたバランス。そして、それを感じとる感受性。その感受性は、感動、
感激の重なりから熟成していく。だから幼児の頃から、道具、器、自然の美に
ことあるごとに触れて、感受性を育む必要がある。それには、親には幼児期から、
それに触れる機会を与える義務がある。小学生までの学力は、家庭内の文化的
格差によって左右される。例えば、「読書好きの親を持つ子どもは、本が好きに
なりやすい」「親が医者だと子どもも医者になる確率が高い」とか、「茶道や
お花の先生をしている親の子は、礼儀作法が身についている。これらは家庭内
文化資本による。 ウィキペディアによると、文化資本とは、
「金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。」
要するに、血筋、家系が大きく人間の素質に左右される。そのカタチが、個性
ということになる。成るほど、そういうこと。無暗に人を評価しないことだ。
 で、いま思いついたのが、「民芸で一番面白いのが、生身の人の姿・形だ」

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5578,突然、余命宣告を受けました ー?
2016年06月23日(木)
            『あの世へ逝く力』小林玖仁男著
   * 死にゆくとき、心は不安から解き放たれる
 死に際も不安だが、死期を悟った後の心の葛藤と肉体的苦痛も最重大事。
それまで生きた分の人生を圧縮して生きるというから、生易しくはない。
<もう少し生きたい>のが、万人の願いだが、<もう、いい加減、死にたい>
人も当然いる。「死にたくない」には、人生に遣り残したことがあるため。
 充分に人生の元をとった実感があるだけ、救いがあるが、やはり長生きを
しなくては。歳を重ねるたび、『もの、金銭』より、『こと、行蔵』に、そうそう、
移動していたことに安堵する。 〜その辺りより〜
≪ 以前、NHKスペシャル立花隆思索ドキュメント「臨死体験で死ぬとき心は
 どうなるのか」が放映されて話題になりました。死の最先端の研究をしている
世界中の学者を、立花隆が半年も取材してつくった番組で、「人類が答えを追い
求め続けてきた生と死にまつわる壮大な謎。その謎に挑む立花隆の思索の旅」
というものでした。七十三分にわたる難しい内容で、堅い番組にもかかわらず、
視聴率が11パーセントもあったといいます。
  番組のあと、立花隆は『文藝春秋』にこう書いています。
<『放送した番組を見ました』とか『面白かったです』という反応はあるのだが、
 今回は『有難うございました』と多くの人に言われた。こういう経験は初めて
だった。何故かと言えば、エンディング部分で『死はそれほど恐いことじゃない。
おそらく眠りにつくのと同じくらいの心の平静さをもって死ねるはずだ』という
ところに共感を持たれた人が多かったのではないか。年をとればとるほど誰しも、
自分が死ぬ時はどういう風に死ぬんだろうと気にかかる。しかし医療技術が
進んだ今日、お迎えが来るまで、けっこう時間がかかるものらしい。
 人間最晩年になると、もうこれ以上生きていなくてもいいやと思いつつ、
それでも自分から進んで最後の旅に出る気にもならない。ある種の優柔不断の
中に生き続ける。その根源にあるのは、最後の旅の中にどうしても残る一定の
未知の部分への不安だろうと思う。あれだけお礼をいう人が多かったのは、
未知なる部分への恐れをあの番組のエンディングがあらかた取り去ってくれた
ということを意味している>
 私は、立花氏のこの取材を、「膝を打つ」快挙と思いました。
私自身、死の恐怖が薄れていくのを実感しつつ、未知なる部分に向かう旅の道
のりを静思しながら、「死はそんなに怖くない」と同じことを思い、それを
大きな声で言う人がもっといるべきだと思っていたからです。
 立花氏は、その後もNHKに再登場したり、『文藝春秋』『週刊文春』へ、
「死ぬとき心はどうなるのか」のレポートを次々と掲載、話題になりました。
その『週刊文春』の中では、立花氏はこうも書いています。
「回復の望みがなく、あとに待つのはひどい苦痛ばかりということになったら、
そして本人の望みがそれしかないなら、安楽死は許されて然るべきだと思います」
こういう極論を有識者が言ってくれると気持ちがとてもラクになります。
「どうしても苦しくなったら安楽死を選んでもいい」と思ってもいいのだ。
もちろん外国で安楽死をするのは心情的に躊躇するものがありますが、
「伝家の宝刀」を抜いてもいいと後押ししてもらえるだけで、心強いです。≫
▼ 死ぬ原因は、生まれてきたため。死亡率100%である。当り前のことだが、
 生まれる前には存在してなかったし、死んだ後にも存在しない。宇宙時間
からすれば、平均寿命の80年は、一瞬である。その中にあって、そのことが
自覚できないで、蓄群の常識とやらに惑わされ一生を終える。それもこれも
妄想でしかない。同じ妄想なら、より鮮明にみたいもの。映画、TVで映像
による妄想を、書籍で文字を通した妄想を鮮明化してみれば良い。せっかく、
貰った人生、より広く、深く、味わって終えたいもの。 もっと、貪欲に!

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5213,閑話小題 〜私の高度成長時代
2015年06月23日(火)
   * 私の高度成長時代
 文藝春秋:2月号の特集に、『素晴らしき高度成長時代』の特集があり、
それぞれの高度成長時代の思い出の手記があった。1960、1970年代では、
今では想像を絶する右上がりの経済成長の時代で、各家庭には電気洗濯機、
テレビ、冷蔵庫が普及をはじめていた。昭和39年には東京オリンピック
開催され、私は団塊の世代の直前の生まれで、同期の競争という面では、
絶対数が少ないこともあって、競争意識が少なく恵まれた環境であった。
 10歳までは駅前の繁華街に、11歳〜18歳までは長岡駅裏に住んでいた。
高校を卒業直後に駅より徒歩10分の今朝白に両親にとって終の住家として、
当時としては豪邸を建てていた。その直前に進学のため上京した学生寮に、
何かの縁で入ったが、そこが500坪の敷地内に馬小屋のような「くの字」の
平屋。土間の通路の片面に、4畳半と6畳の部屋が20室ほど並んでいた。
 そこは今でいうシェアハウスのような共同生活で、国内の様々な地方出身の
学生が住んでいた。 各部屋にはドアがあるが、誰かがノックをすれば、
入室拒否が出来ない不文律があった。それで、様々な赤裸々な私生活を知るが、
人間を知るにはプラスにもマイナスにも働いた。そこで教えられたのは、
まず文学など基礎教養の絶対量の必要性を実感する反面、剥き出しのエゴと
品位が、まる見えになること。各自の素性を聞くことも、話すこともタブーで、
一学生という身分で、分け隔てのないのが学生時代の特徴である。地方出身者
と、東京在住では、生活の質は大違い。炊事洗濯のエネルギーは思いのほか、
大変である。時代は高度成長時代の真只中、学生時代を満喫していた。
 学生時代を大雑把に分けると、
・1〜2年が、クラブの合気道と合宿。 寮生活。
・2年の半ばから、軽井沢の山荘の手伝いと、夏休みの『人生設計』の構想。
・3年は欧州の一ヶ月の旅行と、そこで親しくなった友人たちのと交友。
・4年が武澤ゼミの入会と、そこでの卒論。 六日町の禅寺「雲頓庵」通い。
  3〜4年を通して、合コンが7〜8回はあった。 
現在から振り返ってみて、やはり、2年の夏休みの『キリスト教倫理』の教授
に出された宿題、『将来の人生設計案』の提出。この時に、人生で初めて、
自分の将来を真剣に考え、提出した。時は、日本経済の高度成長、真只中。

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4848、「事業人生を決心して45年」の語り直しー20
2014年06月23日(月)
    * 衣料品の季節物は投機商品
 秋物の後は、冬物、春物、夏物と一日一日が全く新しい経験。
新シーズンの商品に出会うのは、一周りする一年間は、何もかも初めて。
セーターを例にとると、その素材はウール100%とアクリルがあり、
その混毛もある。その裏を見ると、生産メーカーや、素材などが表示してある
ことすら知らない。それを地元問屋の専務から一つずつ教授して貰う日々。
ひたすら、その場、その場で憶えていくしかない。しかし、過去の勤務先では、
毎日が、高速配転という名の現場教育で、連日が未知との出合いは経験済み。
キャリアとは、各部所への配転で、多くの仕事をこなした職歴を持った総合職。 
仕事を身体で憶えるには、現場配転しかない。20歳の頃、「父のような
創業者を目指す」と決意したとき、それは、新規事業を立上げるキャリアを身に
つけるため、留まることない自己配転の人生を選択したことで、常に、その圧を
自分にかけ続けることになった。 新潟駅前のビジネスホテル事業シリーズが、
この結果に終わったのは、10年目か、少なくとも15年目で、その事業から身を
引くか、違う事業に転身出しなかったため! その善し悪しは別として、創業を
繰返す人生を、社会の出発点の構想が、ここでブレていた。 雪国の壁の中、
茹で蛙になってしまい、バブル崩壊とネット社会の到来がもたらす激変を読め
なかった。 「まさか、ここまでの激変が?」では、事業者は許されない!こと。
最後の結果は、時代の激変だけが原因でなく、私の時代感覚の鈍さであり、
「元は私、そのまま、結構」と、諦めがつく。話は戻る。現場に飛び込んでみて、
季節物衣料が投機商品ということを、直ぐに思い知った。一年を、春夏秋冬に
分け、それぞれを、導入、最盛、見切り期に、1ヶ月に分ける。とすると、
季節ものは月単位の、思いきった判断が求められる。それが商品毎に違うため、
年中、切った、貼ったの、投機商品の只中に身を置くことになる。ヤクザなら
「切った(殺傷)、張った(博打)」。衣料品なら、正札の「切った(値下)、
はった(正札上に値下値を貼ると、売れ筋に商品を集中)」になる。これには、
経験と、直感と、場数が必要になる。義兄にすれば、私が、出来よう筈がない
と確信するのも分かる。しかし幸運も重なり、店として一シーズンを大当てを
すると、その勢いが次に続く。 逆に外れると、逆回転をする。 これに、
エネルギーが加味され、結果がそのまま露呈する。生まれ育った10年間の
生活環境と、創業を決意しての10年間の自己配転の全てが、極限の中で、
プラスに働いていた。
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4481, 静かなる大恐慌 ー1
2013年06月23日(日)
     「静かなる大恐慌 」柴山 桂太 (著)
 リーマンショック以降、現在も静かに大恐慌は続いていると何度も
述べているが、マスコミはテーマにしない。タブーかどうか分からないが? 
地方もあってか周囲の状況は惨憺たるもの。私の年代がリタイアの時節もあるが、
私を含めて過半数以上が直撃を受けている。ただ、あまり表立って話題にしない
というより、明日は我身で黙るしかない。 その現状そのままを、ズバリ書いて
ある本があった。100年近く前の恐慌と二つの世界大戦を、現在の状況と重ね
合わせ、世界も日本も、静かだが既に世界恐慌に入っていると分析している。
  ー まずは、プロローグより ー
《 世界は「静かなる大恐慌」に突入した。危機的なのは経済だけではない。
 国際政治は一九二九年の世界大恐慌をはさんだ、ふたつの世界大戦の時代と
同じコースを歩み始めた。グローバル化が必然的に招く、社会の不安定化と経済
の脆弱化。それによって国内でも世代間、産業間、都市対地方などの対立が
激化している。この不安定性に耐えうるシステムは、通説とは逆に「大きな政府
の復活しかない。この歴史の趨勢に我々は逆らうことができないのだ。
グローバル化の行きづまり、そして「脱グローバル化」への急反転という
ショックを日本はいかに生き抜くかを問うている。》
  ーその幾つかを抜粋してみたー
☆ 20世紀を代表する歴史学者、フェルナン・ブローデルは「資本主義は、
 それが国家と一体化するとき、それが国家であるときにのみ、栄えると
(『歴史入門』)で述べた。この含意するところは大きい。資本主義という
 システムは、一見、アナーキーなものに見えるが、実は「国家」なしでは
 機能し得ない。それを「国家資本主義」という言葉で言い表せば、「自由資本
 主義とはいえ、一皮剥けば国家資本主義的な側面をかなりもっている」(p.95)
☆ 100年前も現代と同じくらいグローバル化(金融は除く)が進んでいた。
 資本主義は人々の欲望の塊が原動力。それを野放しにすれば必ず反動という
 自然の調整で大恐慌が生まれる。それが、1929年の大恐慌と、2回の大戦争
 現在の世界経済を1920年代の大恐慌になぞらえ、その類似性を説明していく。
 20世紀初頭の第一次グローバル化と、その結果とも言える二度の大戦と大恐慌
 そして、並行して進む脱グローバル化への揺り戻し。今は、その後1970年代の
 ブレトンウッズ体制の崩壊から続く第二次グローバル化の中にあると説く。
☆ グローバル化と民主主義と国家主権の3つは全部が成立することは不可能で、
 このうちどれか2つしか同時に成立しない。グローバル化と民主主義が成立
 すれば、EUのように国家が抑えられ、グローバル化と国家主権が強くなれば、
 日米のように国内の貧富の格差が大きくなる。日本は、グローバル化を抑えた
 国家主権と民主化を重点とした政策が必要。
▼ グローバル化が100年前もあって、その反動で恐慌が起こっていた。
 そして、現在も、酷似しているという。現在のネットが、当時としては電話の
普及に当たるとする。現在は、20ヶ国が一同に介して、恐慌が表立つのを抑えて
いるが、現実は既に恐慌が静かに進んでいるというのは正しい。特に日本は、その
先頭に立っている。著者は、日本にとって、3つの内、国家主義と民主主義に
重点を置くべきというが、国家主義グローバル化しか選択の余地はないのでは
と考えざるを得ない。アメリカの属国しか生きれない体質になっているからだ。
恐慌は、それほど生易しくはない。10年後もしないうちに、東北大震災が
消し飛ぶほどの何か、例えれば、1923年の関東大震災に対する世界恐慌
太平洋戦争のような。    −つづく
・・・・・・
4107, 哲学で自分をつくる ー5 (デカルト
2012年6月23日(土)
 第二章 まだ自分をさがしているの? ーデカルト
  * 我狂う、ゆえに我なし!        
       「哲学で自分をつくるー19人の哲学者の方法 」瀧本 往人(著)
デカルトの「方法序説」の『省察』で、狂気についての指摘が考えさせられた。
≪「思う」もしくは「我思う」主体が狂気を携えていることはありえない、
としている。「Aという定理は間違っている」ということを新たな「Bという定理」
から指摘することはできるが、「私は狂っている」ということを「狂っている主体」
が言うことはできない。もし言うとすると、それは「正しい」ことを言っている
のであって、狂っていないことになる。私は先ほど狂っていたが、今は正常です、
と言うことも基本的にはできない。そうすると錯覚や夢とは次元が異なるものと
してデカルトは狂気を提示していることになる。 そうであるがゆえに、
「私が考えるということは、狂ってない人間」の特権と化すのである。 
・・つまり、「我思う、ゆえに我在り」を成立させることによって、「我狂う」
場合は「我狂う」という言明もできないし、「我在り」も成立しないと言って
いるに等しいのである。狂気は「懐疑する主体」によって最初から排除されて
いるわけである。≫
≪・・・デカルトは、本当に確かなものはこの世にあるのだろうかと考え、
 考え尽くした上で、疑えないものなぞない、という結論に至った。この世に
何も頼れるものがないとは、きっと途方に暮れただろう。しかし彼はこの問いを
さらに突ぎ詰める。そして、まぎれもなく確かなものを発見した。それは、
「すべてを疑った」、そのこと自体は確かだ、ということである。つまリ、
疑い尽くした「我」が「在る」ということだけは、動かしがたい「真実」である
ということ。懐疑の果ての確信。考えれば考えるほど、「自分」以外に確かな
ものはない。だからあなたのように、「自分らしさ」や「本当の自分」を探ると
いうことは、至極当然のことで、そこにリアリティを感じるのは自然なことだ。
ここまではよい。しかし、ここからが大問題だ。あなたは、いつか「本当の自分」
を見つけることができると思っている。だが、それは本当に可能なのだろうか。 
もしかすると、前章でふれたソクラテスが導念した「自分の魂を磨くこと」とは、
今でいう「私らしさ」の追求ではないのか。そう思う人がいるかもしれない。
だが、ソクラテスが目指したのは【魂の鍛錬】で、「私らしさ」ではなかった。
彼には「私」とか「主体」いうものの考え方がなかった。「ソクラテス」はいたが
「私」ではなかった。この「私」を発見したのは、今から四百年前、日本でいえば
江戸時代初期に生きたデカルトによってである。では、デカルトこそ「私探し」
の元祖なのだろうか。実はこれも正しいとは言えない。デカルトの目的に、世の中
に確実なことがあるのかを見極めることであった。探していたのは確実性であり、
「真理」である。その真理が実は、「私」を拠点としていたのである。確実なもの
として「私」は登場してくるのであって、探さねばならないものではなかった。≫
▼<「私は狂っている」ということを「狂っている主体」が言うことはできない>
 は、「嘘つきのパラドックス」に似ている。エピメニデスという哲学者が
クレタ人は嘘つき だ」と言った、話である。困ったことにエピメニデス自身が
クレタ島の出身。だとするとクレタ人が嘘付きだというのならエピメニデスも
嘘つきなのだろうか。だとすると「クレタ人は嘘つきだ」という言葉自体も
嘘なのだろうか。だとするとクレタ人は嘘つきではないのだろうか。では
エピメニデスの言ったことは正しいのだろうか?ではクレタ人は嘘つきだろうか? 
という哲学問答である。人生を振り返ると、「私は狂っていた、ゆえに私の人生、
ないがごとき」が、実は人生の実相と思い悩んでいる。狂っていたなずと、
狂っていれば言えない。悩みなど、そんなもの!ちっぽけな人生、何を悩む? 
しかし振り返れば狂っているとしか思えない。 
これは私だけではなく万人にいえるが・・・
  ・・・・・・・
3741, パチンコ店が何故、廃止にならないのか ?
2011年06月23日(木)
 指摘されて気づいたことだが、日本でのパチンコの容認である。その存在を
誰も不思議に思わない日本の戦後体質と世論。この疑問に至ったのは、新聞広告で
「なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか」若宮 健 (著)  を知り、アマゾンで
概要を読んで、驚き同調したため。この国は、政界、警察、広告、メディアが
パチンコ業界と癒着?関係になっている実態がある。
  ーまずは、アマゾンの著者からの内容紹介ー
 パチンコによる被害が叫ばれて久しい。依存症でサラ金闇金の借金まみれに
なった末に家庭崩壊、自殺という例は跡を絶たず、炎暑下の赤ちゃんの車中置き
去り死亡事故も相変わらずである。著者は長年、パチンコ依存症の問題を
取材してきたが、2006年暮れ、旅行した韓国で、パチンコが全廃され、すべての
店舗が姿を消しているのを目にした。ところが驚いたことは、日本に帰ってきて
新聞雑誌をみても、そのことを報じている新聞は皆無で、そのことを知っている
識者も誰もいなかったことである。(字数制限のためカット2012年6月23日)