<「自分」から自由になる沈黙入門〜小池龍之介(著) >
   * 3つの煩悩、5つの欲望
 今さらの話だが、人間には心の迷いがある。これを仏教では「煩悩」という。
百八煩悩というくらいに、人の心は色いろな道に迷う。なかでも、最も人の心を
毒す代表的な煩悩が3つ。 「貪欲」「瞋恚(しんに)」「愚痴」、略して
「貪(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」といい、これを三毒という。
「貪欲」は、むさぼりの心であり、自分だけ利益を得ようとする強欲な心。
「瞋恚」は怒りの心。愚痴は迷いの心である。 また人間の欲には五つある。
食欲、睡眠欲、性欲という本能的欲望のほかに、財欲、名誉欲の五欲である。
これらを正す修行、八正道がある。
 まずは、このブログが、まさに「貧・瞋・痴」そのもの。それなら隠せば
良いものを、わざわざ書き連ねる品性の悪さが垣間見られる。それでも自覚
しているだけマシだが… いや、自覚なしか。考えるとは、前提を疑うこと。
ということは仏道とは矛盾することが多くなる。矮小のプライドがなす心の
歪みが俯瞰でき我ながら滑稽。 著者は、矮小なプライドの奴隷に縛られた
自分からの家出の勧めを平易に説き、その為の「沈黙」業を勧めている。
 老いて「「貧・瞋・痴」の奴隷化をした人は、何処にも見られ、痴呆化の
バロメーターにもなる。他人様の中のそれには気づくが、自分のは無頓着。
書きだすとは、自分を曝け出すことで、自分を習うことになっている。
再び偶然だが、去年の以下の脈絡として続く。<自分の苦悩からの自由>…

・・・・・・
5429,人生で最も大切な技術 ー? 苦悩と不幸の違い
2016年01月26日(火)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 苦しみと不幸の違い
 ことにあたった時、〔幸福の状態とは、ポジティブ3に、ネガティブ1〕
と、自問自答すると、嫌な気分が早々に消えていく。良いことが続いたら、
〔今に、マイナスが起こるだろうが、敢えて受けとめる〕と、有頂天に
ならないよう気をつけてはいたが、これが難しい! で、この様。人生を
俯瞰すると、どん底の時節に素晴らしいことが集中していた。 苦しみ、
不幸には、安楽がソッと傍に控えて支えてくれている。当人は、それに
気づく心の余裕がないためだが、辛いときは心底、辛い!〜その辺りから〜
≪ 幸福と快楽の違いを考えたところで、心身の苦痛や苦難と不幸を区別
 する必要がある。 苦難は外から被るもので、不幸は自らが作りだす。
サンスクリット語にドウッカという言葉がある。これはスカの反語で、
定義は、「不快な感覚だけに留まらず、究極的に厭世観にながる苦しみ、
痛みに対する基本的な脆さ、生きることが無意味で価値がない状態」と
なっている。 サルトルは著書『嘔吐』の主人公にこう言わせている。
【 もしも存在とはなんであるかと問われたならば、私は誠意をもって、
 まったく無意味なもの、空虚な入れ物である、と答えたであろう。
私たちは自分自身に当惑し気詰まりな存在の群れであって、誰も彼も、
そこにいることの理由を少しも持たなかった。それぞれ存在するものは、
当惑し、なんとなく不安で、互いに他のものとの関係において余計なもの
である、ということを感じていた… ところでこの私もまた余計なもの
だった …これら余計な存在の少なくともひとつを消滅させるために、
自分を抹殺することを漠然と思い描いてみた。 】
 自分がこの世から居なくなった方がいい、と信じることが自殺者に共通する
動機である。苦しみ(苦難)は、無数の原因によって生じる。中には自分の力で
何とかできるものもあれば、まったく無力のこともある。身体障害者として
生れたり、病に侵されたり、愛する者を失ったり、戦争や天災に巻き込まれる、
等の苦しみは不可抗力である。それに引きかえ不幸はまったく違う。
なぜなら、不幸は、外的な条件によって生じる身体的、道徳的な苦痛と
関連するとはいえ、本質的な関係はない。
 四肢麻痺に関する研究によると、麻痺が生じた直後に大半の障害者が
自殺を考えるそうだが、一年後には10%だけが惨めな人生と考えているという。
残りの90%は、生きることの素晴らしさを考えているのである。苦しみを不幸
と解釈するのが心の在り方であるのと同様、それをどう理解するかを支配する
のも心である。世界観を管理、知覚、解釈する流儀をわずかに変化させるだけ
で、私たちの在り様が大きく変わるのである。移ろいやすい感情を経験する
仕方を変化させることが、気分と在り様を永久に変えることにつながる。
 人間を悩まし続ける苦しみを消滅させることになるこの「治療法」は、
人間として生きるに最適な生気溢れる状態をもたらしてくれる。≫
▼ ネットで四肢麻痺を検索すると、
【いずれの場合にせよ,対麻痺では,上肢は健全なので,車椅子の使用により
日常生活を営むことがかなりの程度まで可能である。しかし,脊髄損傷が頸髄
に生じたり,末梢神経や筋肉の病気が下肢だけでなく上肢にも生ずるような
ことがあれば,上肢も下肢も運動麻痺を生じ,四肢麻痺となってしまう。 
四肢麻痺は左右の上下肢がすべて運動麻痺に陥った状態であり,頸髄損傷による
ものでは,下肢の痙性対麻痺に上肢の弛緩性麻痺が加わって生ずるものである…】
とあった。この状態で、90%の人が生きることの素晴らしさを感じているとは!
 四肢麻痺は、動物から植物(人間)へ移行するようなもの。その状態を瞑想と
内的変化で割切らざるを得ない結果、生きることの幸せに気づくののか?
 急に盲目になったり、四肢麻痺になったとしたら、死にたって当然だが、
一年で90%の人が、これ以上ない絶望の淵から逆照射した諦めの心境が、
その事態を受入れる、強烈な力が湧き出るためである。
・・・・・・
5065,あわいの力 ー?
2015年01月26日(月)
        ーあわいの力 「心の時代」の次を生きるー安田登(著)
  * お能の世界とは 
 この本を読んで、長岡高校の講堂で『能』を観た時、その幽玄の世界に
魅入ったことを思い出した。以来、TVで何度か観たことがあったが、知って
いることは、シテと、ワキの存在ぐらい。 ネット辞書によると、
<芸能としての起源は、飛鳥〜奈良時代に遡る。観阿弥世阿弥金春禅竹
から現代まで約7百年。江戸幕府の終焉とともに衰退したが、明治中期に、
その状況を憂える文化人や資産家の尽力によって復興へ向かい始めた。
猿楽に代わる「能楽」という用語も広まった。 現在、ユネスコ
「人類の口承および無形遺産の傑作宣言」を受け、2001年「世界無形文化遺産
として登録されて、少し演能が盛んになり、神社やお寺での薪能なども増えた
ように見受けられる。>とある。登場人物の役割を序文に簡潔に説明してある  
≪・能には、シテとワキという二人の主要な登場人物がいます。
 シテは面をつけ舞台で華やかに舞い、ダイナミックに飛んだり跳ねたりする。
 能といわれて普通の人が思い浮かべるのは、このシテでしょう。
・ワキは、面をつけることもなければ、派手に立ち回ることもない。
 装束も地味で、目立った活躍をすることもありません。
 ほとんどの時間、舞台上でじっと座っている。
・シテを演じる役割の人をシテ方、ワキをの役割の人をワキ方といいます。
 能の世界は、シテ方の人は一生シテを演じ、ワキ方の人生ワキを演じます。
 能楽師の家に生まれた人は、生まれたときから決まりますが、私のように外の
 世界から入ってきた者の場合は、その道が決まるのは、能の世界に入るとき。
 シテの師匠に弟子入りしたら一生シテ方だし、ワキ方の師匠に弟子入りしたら
 一生ワキ方です。ワキ方が、「今日はちょっと面をつけてみたいな」とたまに
 シテ方を演じるようなことはありません。
・私は、高校教師をしていた25才の時、ワキを演じる師匠の姿に魅せられたのが
 きっかけで弟子入りをして、ワキ方になりました。ですが、どうもこの
 「ワキをわざわざ選ぶ」というのは、一般の人たちだけでなく、能の世界に
 いる人たちからもときどき不思議がられます。「なぜワキ方なんか選んだのか」
 などと聞かれたりします。「ワキなんか」か、とは失礼ですが、シテ方には面、
 笛方には笛、鼓方には鼓という「お道具」がある。しかし、ワキ方は何もない
 じゃないか、そう言うのです。・・・ ≫
▼ 小中学校の同級生の一歳年上の兄が能楽のシテで、地元紙に、『続けている
 内に、シテの役割の人か、現実の自分が混同するようになった』と、その幽玄
の世界の魅力を書いていたが、談志の『芝浜』に似ている。最近、若い女優が
インタビューで、一年間、地方で、あるヒロインを撮影した感想を述べていた。
『自分と、演じている役割との間にある皮膜を如何に薄くするか、に苦心した!』
〜〜
4700,閑話小題 ーシネマの観客は、私一人!
2014年01月26日(日)
   * 映画館貸切?の念願成就!
 映画館を、一人貸切ってみたいと思っていたところ、奇しくも、
その思いが成就。一度、上映の直前まで一人だったが、数分前に5〜6人が
入って来てガッカリしたことがあったが・・ 一昨日は、4〜5百人の会場に
私が一人だけ。 その感想は、映画に集中できるのがベスト。
内容は、宇宙もの『エンダーのゲーム』で、期待してない分だけ、面白かった。
若者のゲームの物語に参加して、手軽に自分の枠を超えて宇宙に開放される
感覚がよい。一晩、飲みに出歩いたと同じぐらい?
とすると、一割以下のコストは価値がある! 
   * 近所の喫茶店
 二度目になるが、一昨日の午前中、近くのチェーン店の喫茶店
『米田コーヒー』に行く。一〇時過ぎから一時間半いたが、11時までは
トーストと卵がサービスでつくためか、広い店内は満席。何か落ち着くのは
何だろう? ほぼ老夫婦か、中年女性づれ。それが昼飯かわりになって
夕方まで腹持ちがした。100席+別席で150席。値段は400円なら、
価値がある。コーヒー・パンレストランという風。
  * ウィリアム・ブレイク の詩が良い!ー『無垢の予示』より         
 人の定めとしての喜びと傷心、希望と絶望、幸と不幸・・ まさしく、
これらを「正しく知ったとき」、私たちはこの世を無事に進んでいける。             
 ――                             
 一粒の砂に世界を見/ 一輪の花に天国を見る/ 
 手のひらに無限を/ ひとときに永遠をつかむ
・・・・・
4333, 自己とつきあうということ −3
2013年01月26日(土)
        「自己の探究―自己とつきあうということ」和田 渡 (著) 
 * 自己の主題化とは、変化する自分を距離を置いてみる自分を見つめること!
≪ われわれは万年筆や鉛筆といった事物と異なり、不断に生成し続ける存在
 であり、同時にその途上にあって、しばしば自己へのかかわりを課せられる
ような存在である。われわれは、事物や植物や多くの動物のように自己の存在を
意識することなく生きることはできず、自己や自己の生にかかわりをもちつつ
存在することを余儀なくさせられるのである。年齢的な変化とそれに伴う生成の
途上で、自己に関連することで言えば、自分がどのように変化しているのかを
問うこと、自分がどのような位置にいるのかを確認すること、自分がどのような
方向に進めぱよいのかを探ることなどは、誰にも避けられないであろう。
自己が自己を問うということは、自己をひとつの問題として意識することであり、
自己のなかに問うに値するものを見いだすということである。それはまた、自己
といった課せられた問いとして積極的にひき受けることでもある。
そして、その問いを実りあるものにするためには、自己のおかれている状況や
変化に対して注意深く見つめていなければならない。 自己の主題化とは、
状況のなかで変化した、あるいは変化しつつある自己の姿を一定の距離を置いて
何度も眺め変す試みである。しかし、それにとどまらず自己の変化を観察する
自分自身をも距離をおいて捉えなおす試みでもある。自己が生成の途上にある
かぎり、この試みは何度もくりかえされ、そのつど異なった自己の姿が
あらわれてくるであろう。・・・ ≫
▼ この随想日記の楽しみは露悪的、自虐的に自分を曝け出すことである。
 それは、自分を上から目線で見つめることになる。それを続けていると、
書いた数年後に、上から目線の自分を、さらに上から見ることが出来るようになる。 
だから、自虐をしている自分を見下している己もまた、自動的に見ている自分が
出来ている。毎年の同月同日に、10数年分の、これを毎朝、読み返している。
その時々の視線と視点が、デズニーのキャラを見ているようで、それがまた面白い。
 それは自分自身だけでなく、その対象にした人、出来事をも上から目線でみる
ことが出来る。だから、極限の喜怒哀楽の現象も、冷静に再体験することが出来る。 
晩年に、多くの人が自分史を書くのは、自分の人生を主題とした物語として、
書き残すため。他からみたら大したことでないが、本人からしたら人生は自分が
ヒーローである。 変化する自分を予め物語としての粗筋と、生きる指標を
決めておくとおかないで大きく違ってくる。最期は、‘面白かった!’
と実感できるかだ。
・・・・・・
3958, 他人を責める「新型うつ」について ー4
2012年01月26日(木)
    * 「他責的」な新型うつの病理
 ー 次の部分が、「新型うつ」の病理を解明しているー
≪ 大衆にある「よりよく機能したい」という欲望を満たしてくれるかのような
 幻想を覚える「ハッピードラッグ」を求めて、医師のもとを訪れる消費者、
いわば「抗うつ薬信者」ともいうべ患者が増えたのである。
なぜ、この欲望はこんなに強くなったか? まず、消費社会が購買意欲をかき
立てるために「あきらめるな」「すべて可能である」といったメッセージを送り
続けた結果、あきらめきれない人が増えた。断念せずにすむ手っ取り早い方法が
開発されたことが宣伝されればされるほど、以前であればあきらめを受け人れ
ざるをえなかった人も、あきらめきれなくなった。とりわけ、「こうありたい」
という自己愛的イメージにとらわれている人ほど、「自分はこんなもんじゃない」
という思いが強いので、自分を「底上げ」してくれる手段にすがって、あきらめを
何とか回避しようとする。当然、自己愛の強い人ほどあきらめきれないが、現在、
こういうタイブが増えている。少子化の影響もあって、子育ての失敗が許されなく
なり、親の期待がもろに子供の肩にのしかかるようになったからである。
親の期待とは親の自己愛の再生にほかならず、敗北感や不全感にさい悩まれて
いる親ほど、自分自身が放棄せざるをえなかった自己愛を、よりいっそうわが子
に投影する。 子供は、親の期待に応えなければ愛してもらえないと肌で知って
いるので、親から投影された自己愛を引きずったまま成長していくわけである。
子供が多くの時間を過ごす学校という場で、自己愛的イメージを徐々に断念
させて現実の自分を受け人れさせる、つまり「身の程を知る」ようにさせる
システムが機能しているかというと、現状は正反対。何しろ、「やれぱできる」
「誰にも無限の可能性がある」といった類の幻想を盛んに吹き込んでいるから。
こういう幻想を吹さ込まれ続けて「なりたい自分」のイメージだけが肥大して
いくと、現実の壁にぶつかって自己愛的イメージと現実の自分のギャップに
直面したとき、ふくらむだけふくらんだ自己愛の風船をどうやってしぼぽせたら
いいかわからず、落ち込んでうつになる。おまけに、現実の自分が
「これだけでしかない」のは、オ能、努力、意欲が足りなかったせいなどとは
決し思えない、いや思いたくないので、他人にせいにして責める。
これが「他責的」な新型うつの病理である。≫
▼ 私も八人兄姉の末っ子で、両親から特に大事にされ育ったため、
 心のどこかで常に親の期待に答えようと意識していた。青年期は、その葛藤の
中で常に、「自分はこんなものじゃない」と、自分の「底上げ」を心掛けていた。
27歳で父が亡くなった時、創業の激務もあったが、何かから解き放たれた
ような気持ちがあった。 当時は高度成長期、誰もが坂の上の雲を目指していた。
先日、青年期に読んだ「精神論」について書いたが、「誰も無限の可能性がある」
の刷り込みだったか、右上がりに必要だったのか? 偶然だが、下記の去年の
文章が関連している。 アメリカそのものが、深刻なノイローゼである。
・・・・・・・
3593, 誰も書かなかったアメリカ人の深層心理  −1
2011年01月26日(水)
  「誰も書かなかったアメリカ人の深層心理 」 加藤 諦三 (著)
 普段、マスコミなどから受けるアメリカと、著者が、ここで述べている
内容とは大きな隔たりがある。度々、アメリカに滞在した普通の目線で
平均的なアメリカ人を描写し、合せ鏡で日本人を見ている。
 日本人が誤解しているアメリカ像が、現在の日本社会を疲弊させている
という論には納得する。 ーアマゾンの内容紹介よりー
≪ なぜリーマンショック後、平気で多額の報酬を受け取ろうとするのか?  
 アメリカ人は、本当は何かを考えているのか。 経済格差の国・アメリカと、
幸福格差の国・日本。世界一楽観主義の国・アメリカと、悲観主義の国・日本…
長年、アメリカ・ハーバード大学で准研究員として活動を行ってきた心理学の
第一人者の著者が、そのベースにある彼らの宗教観や家庭観などから紐解いて、
初めて綴った目からうろこのアメリカ人論。
〈レビュー1〉 この本ではマスコミなどで流布されている米国像とは異なる、
 米国の一般の人々の社会における価値観、その元になる宗教、特にプロテス
タンティズムについての考察を通じて、日米社会の違い、さらには現代の日本が
抱える最重要課題、日本における人々の社会への不信感について論じている。
そうした不信感が人々のきずなを失わせ、米国とは大きく違う日本社会に
 米国流の競争システムを導入する問題を指摘している。実際、この10年で
大きく日本社会は壊れてしまったのではないか。 では日本における心の問題を
社会レベルでどのように解決していけばいいのだろうか。著者は宗教の重要性に
ついて述べているが、日本では宗教は儀式化しており、生きる知恵を授ける
存在になっていない〉 
▼ 著者は、ここで哲学者のアドラーの言葉を借りて、アメリカの金融資本
 主義者の殆どが深刻なノイローゼ患者という。そのほんの少しの患者を、
一般のアメリカ人と解釈するのは間違っていると。 彼等は子供のときから
スポイルされ、幼児の頃から他人のなしとげたものを如何に搾取するかの訓練が
出来ている。そして、そのノイローゼ患者は、大衆に影響を与える。
この人たちが、心の基準のない日本人に与えた影響は深刻である。
日本人が経済的豊かさにあるに係わらず、幸福と感じないのは「心の基準」
を見失っているからでないかと指摘する。人が社会性を生み出すのは、
カレン・ホルティのいう「積極的感情」である。それが日本になくなって
いるのが、現在の日本である。日本の少子化と高齢化もあるが。 ーつづく
・・・・・・・
3228, フリー −5
2010年01月26日(火)
 「フリー <「無料」からお金を生みだす新戦略>」クリス・アンダーソン著 
 * フリーワールド ー誘発された陳腐化ー(p271)
≪ 中国では、不正コピーが音楽消費の95パーセント占めているといわれる。
 といって、ミュージシャンは動じない。彼等は多くの人が聞いてもらえるほど、
そのコンサートツアーのギャラが高くなるから、別に困らない。困るのは音楽
会社だけ。経済学には「海賊版パラドック」という用語がある。ファッション業界
を下支えする根本的なジレンマから生まれている。 つまり、「消費者は今年の
デザインを気に入らなければならない。そのうえに、直ぐにそれに不満を持ち、
翌年のデザインを買いたいと思う必要がある。技術商品と違って、アパレル
メーカーは翌年の製品が優れているとは主張できない。見た目が違うだけ。
 そこで、消費者に熱を冷まさせる理由が必要となる。その解決策は偽物が多く
出回ることで、高級だったデザインが大衆向けのコモディティになることなのだ。
そうすると、そのデザインの神秘性が失われ、目の肥えた消費者は何か特権的で
新しいものを探さなければならなくなる。これが「誘発された陳腐化」と呼ぶもの。
 コピー商品の登場で、そのファッションが流行に敏感な人のものから大衆のもの
へとすばやく移り、敏感な人は何か新しいものを見つけなければならない。
中国では敏感の人とは。新興の富裕層と、中流階級で、10億の大衆はまだ、
その偽物を持つことで高級品の市場に足を踏み入れたばかりである。本物と
偽物の異なるセグメントをターゲットにし、互いに相手の役に立っている。 ≫
▼ 偽ブランド品はメーカーにとって不可欠な存在だったのだ。
「偽ものが出回るほど、一般の人が憧れる商品としての価値の 証明になる」
上に、更に「誘発した陳腐化をうながしてくれる」。 悪役が善玉を引き
立ててくれる上に、善玉の次なる善行を引き出す役割になっている。