* レヴィナスの、「イリヤ」について
 収容所から生還したレヴィナスの知人・親戚縁者の殆どが殺されていた。が、
世界は、そのまま、何事も無かったように存在している、その不思議と恐怖。
それを「主語無き存在」と語る。二人称の消滅した世界も末恐ろしいのだろ。
80歳半ばにもなると、同年代が次々と亡くなっていく恐怖に似ている?
≪ 【ハイデガーと対決したレヴィナスは、「存在」について、いかなる
 存在者も存在しないが「この存在者が存在しないという無」それ自体は
存在するとし、存在者なき存在を「il y a」と表現した。
存在について、ハイデガーは「〜がある(独語:es gibt〜)」を用いたが、
レヴィナスは「〜がある(仏語:il y a〜)」を用いて語ろうとした。
 ハイデガーの「es gibt」は「それが与える」という意味の他動詞。
一方、レヴィナスの「il y a」は「それがそこで持つ」という自動詞。
ハイデガーが指摘した「存在者(あるもの)」と「存在(あること)」
という区別を、レヴィナスも踏襲はするが、その時、「存在」が「存在者」の
述語となっているので、「存在」のより根源的な意味が見て取られていない、
レヴィナスは批判する。レヴィナスがここで考えるのが「存在者なき存在」。】
 ヤスパーは、ユダヤ人だったレヴィナスの妻など、親戚・知人の殆どを
ナチストに殺される。辛じて強制収容所から生き延びたものの全てを失う。
それでも、なお、世界はそのまま存在している…。
何が存在しているのだろう。レヴィナスは、このような主語無き存在を、
イリヤ」と呼んだ。自分中心の世界を創り上げれば、イリヤの孤独から逃れる
ことが出来るのか。いや、できない。それは、自分が知っている範囲で世界を
構築しているため。その恐ろしいイリヤから、抜け出せる道を、
「他者の顔に、その道を見いだす」とする。≫
▼ 死に直面すると、「自分の死後も、世界は何事もなかったように
 動いていくことが奇妙に思われ、それが恐怖心を呼起す」という。
それと、この世で遣り残した事と、残していかざるをえない家族と財産。
「あ〜、何で物でなく、事にしておかなかったか。事なら持っていけたのに!」
誰もかも、何も持たずに生れてきて、何も持たずに死んでいく。
レヴィナスの考える、<「存在者なき存在」> の自らの体験。絶対孤独の
世界の恐怖が、死に向かう人たちの共通の感覚だろう。 で、以下につづく。

・・・・・・
5344,自殺っていけないの? 〜身の下相談
2015年11月01日(日)

身の下相談にお答えしますー上野千鶴子
   * 自殺って何でいけないの?
 〜問い: 自殺は本当にいけないですか 〜相談者無職男性50代
≪50代の無職男性です。自殺について相談します。自殺者は13年連続で
年3万人超と報道されています。世間一般的には自殺は良くない、弱い人間の
することだという暗いイメージができあがっています。どんな理由があっても、
自殺は絶対にいけないと言います。でも私は、自殺を正当化できないか、後ろ
暗いイメージを残さないで自死できないかと考えてきました。人に迷惑をかけ
ない方法で自殺するとしても、本当にいけないことでしょうか。将来性のある
小学生や中学、高校生の若い子たちが、いじめが要因で自死を選ぶのは肯定
できません。でも私のように50代で無職、独身、今までにやbたいよにや⊃て
きたし、親しい友人や知人もいないし、兄弟親戚もいないなら、遺族となって
悲しくつらい思いをさせる人たちもいません。特にこだわることも無く生きて
きて、年金保険料は25年以上納めました。私が年金支給年齢に達する前に自死
を選択すれば、国から支給されるはずの年金は国庫に戻ります。将来の年金を
支給するための財源として、消費税の増税をしようとしている政府にとっても、
私が自死すれば負担は軽くなり、究極の社会貢献だと思います。
世間一般的に言う将来を悲観しての自死ではなく、明るく前向きな自死だと
私自身は思うのですがいかがでしょうか。≫
≪ 答え: 正直に弱さを認めましょう
 ひとは社会的な理由からではなく、個人的な理由から自殺します。
冒頭「世間一般的には」と書き起こすあなたは、自殺する気が、はなから
ない人とお見受けしました。するってえと、このご質問の意図は?
☆ 解釈そのー。
 回答者に議論をふっかけてどんな答えが返ってくるか相手を試す。
残念ですがそんな一般論に付きあっているヒマはありません。
☆ 解釈その2。「自殺の正当化」の理由を求めているあなたは、この欄の回答
 をその司正当化」の根拠にしようとしている。自殺は積極的なアクションで
あり、遺書は生涯最後の命をかけたメッセージ。そこに「朝日の悩みのるつつぼ
で、こんな回答をもらったから」なんて書かれてはたまりません。その手は桑名
の焼きはまぐり。そもそもこの欄の回答には、命をかける値打はありません。
☆ 解釈その3。信念や信条で自殺なさるならとくにおとめしません。ただし
 あなたのその信頼にわたしは同意しませんし、つまらない信条だと思います。
くりかえしますがひとは社会的な理由から自殺することはありませんし、あなた
が言うように「将来を悲観して」自殺を選ぶこともありません。ひとは個人的な
理由から現在を悲観して自殺を選ぶので、現在とくに死ぬ理由がなければ、
ホンモノの自殺志願者から自殺をロ先でもてあそぶ者と、怒りを買うでしよう。
☆ 解釈その4。この文章には書かれていない何かもっとべつな理由で、
 あなたは死にたいと思っており、それを引きとめてほしいと思っている。
そもそも本気で死ぬつもりのひとは、お悩み相談なんてしません。
「死にたい」メッセージは、その実「死にたくない」メッセージ。
自殺者がたび重なる自殺予告をすることは知られていますが、それはその
メッセージを受け止めてほしいという心の現われです。
▼ 誰も、好んで自殺をするのではなく、それだけの苦しい理由がある。
 自殺も、時と場合によって肯定されて然るべきである。誰が社会的理由で
自殺をしなければならないのか? その辺が中途半端。自殺の正当化など、
死んでしまえば、如何でもよいこと。但し、身辺の人を傷つける気遣いは?
・・・・・・
79,閑話小題 ー話すより書け      
2014年11月01日(土)
   * まずは、話すより書け
 数ヶ月前になるが、小学校の同期会が近隣の温泉宿で行われた。
86歳の担任の西澤先生も出席され、会の始まる前に別室の先生に挨拶にいき20分
ほど話をさせてもらった。以前、新潟で一晩、御一緒して古町に飲みにいった
ことがあった。その時、社内報に書きつらねた『事業百訓』のコピーを差上げたが、
その話から、『今ではブログに13年以上、毎日欠かさず文章を書き続けて、身近な
30人〜40人位が読者になっています。慣れてくると、これが面白くなって、毎日
2〜3時間はかけてます』と話すと、『そうですね、話すより書けと言いますよね。
書けば、一度、内容を整理できるうえに、考えますから・・』と答えられた。
 ところで、高校、大学の合格時に、お祝いの葉書を頂戴した。そして三年前?
も慰めの葉書を頂いていた。先生は筆書の達筆家。そのため、悪筆の私には、
それがプレッシャーになり、その返事に悪戦苦闘。
大学のゼミの武澤先生も、何度も、手紙を頂いた。話すより、書けである。
入院した人に一番良いのが葉書の便りというが・・ 書く癖をつけると、論理的
になって、相手の話の骨格が把握できるようになる。読書と、手紙を多く書いて
いる人は、そうでない人に比べ、話す内容が格段の差が出てくる。逆に、一寸
した世間話に、気楽に答えられなくなり、結果として、硬い印象を与えてしまう。
性格もあるが・・ 頭に浮かんだ言葉を、一度、書き出してみると、更に、
考えが出てくる。話すことで、次々と、新たに考えるタイプもいるが・・
早朝、この文章の加筆、修正をしていると、意識内での自己対話をしている
感覚になる。それと、誰かに向かい問いかけをしているような・・ それが内省、
内観にもなっている。大自然に、一流芸術に触れ、驚き、感激し、感動し、
それを言葉にし、自己対話をし、誰かに話す、そして書き出し、残す。
この一連が人生を豊かにする。 
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4612, 君は1万円札を破れるか? ー2
2013年11月01日(金)
            ー君は1万円札を破れるか? ー 苫米地英人 (著)
   * 世間を覆う「不安」の正体 ーお金の本質は「情報」であるー 
《 今の世の中、「先行きの不安」を感じている人が、大変多いようです。
2010年に次の世論調査の結果が発表。世界の国内総生産の75%を占める先進
23ヶ国の人々を対象に「将来について安心を感じるか、不安を感じるか」
という質問をしたところ。将来が「安心」と回答した人が23ヶ国中最低の86%
もの人が「不安」と回答えたそうです。ちなみに,「安心」と回答した割合が
高かった国のトップはインド(79%)、中国(78%)、オーストラリア(73%)
でした。 なるほど、インドや中国は今後、飛躍的な経済成長が見込まれて
いますし、オーストラリアは先進国の中にあって健全な財政状況が続いています。
それに比べて日本はと考えたときに、将来に不安を覚える人が多いこと。
・・恐怖というのは、その対象がハッキリしているものをいいます。その対象に
よって自身にどんな危険がもたらされるのかという認識が生じます。
その危険に対して、なんらかの対処をしなければという反応を伴う精神状態が
「恐怖」です。 たとえば、山道を歩いていてへピに出くわしたときに感じる
のは「不安」ではなく「恐怖」。「かまれたら、危ないかもしれない」と危険を
認識して、一目散に逃げるなり、危険を回避するための行動を取ろうとします。
それに対しして不安とは、その対象がはっきりしないもの。精神医学でいう
不安症とは、具体的に恐れる対象や根拠がないにもかがわらず
「何かいやなこと、恐ろしいことが起こるかもしれない・・」といった
悪い未来を漠然と予測し、不安にとらわれる病気。日本国民の大半が、不安感
に取りつかれている。「会社の業績が不振で減給された。いずれリストラされる
のでは……」「企業が次つぎ倒産し、求人がへり仕事に就けなくない…」
「年金や国保などの社会保障制度も維持できなくなることはわかりきっている…」
など不安を感じる理由が挙がってくる。けれど、「不況」や「財政破綻」など
の問題に対して、「どのように危険なのか」を正確に判断し、「どうすれば
対処できるか」といったことにまで考えをめぐらせている人は、あまり多くない
でしょう。大半の人は、テレビのニュースや新聞、雑誌などでそれらの言葉を
見かけるたびに、ただ漠然と「何か困ったことが起こり、その弊害が自分の身
にも及ぶのではないか」と不安を煽られているだけでないでしょうか。 
その不安の正体を突き詰めれぱ、「お金に関する不安」です。世の中の先行きが
恩わしくない方向に向かつていて、そのために自分が充分なお金を得られなく
なり、生活が苦しくなる・・ そんな不安に多くの人がさいなやまされている
わけです。 最初に結論を言っておきます。現代のお金は、単なる「情報」に
過ぎない。「これには、これだけの価値がありますよ」と主張する情報です。
これもまた「信用」という情報のみです。 多くの人は、日ごろ目にしている
紙幣や硬貨のことをお金と思っているかもしれません。紙幣や硬貨には物理的
な実体がありますが、実は、それはお金の実質ではありません。仮の姿だと
いってもいい。お金の本質により近いのは、みなさんの預金通帳に記帳されて
いる「数字」です。こういうと、「実際にお金があるから。通帳に数字が書き
込まれているんでしょう」と思われるかもしれません。通帳に起蔵されている
残高をいつでも引き出すことができる。それはただ、お金が出人りしている
記録だろう、と。実は、そうではない。数字のほうが本質で、紙幣やコインは
それを目に見えるようにして、やりとりできるための道具。
ただの紙っぺらであり、金属片に適ぎないのです。》
▼ 準備期間を含めた45年間の創業と事業人生、このカラクリを真に分かって
 いただろうか。2001年の9・11テロから急激に地方経済が悪化していった辺り
から、バブル崩壊の上に、更に大きな並みが押し寄せてきている。9・11テロも、
やらせ?・・そして、リーマンショックと、3・11災害と世界規模の地震津波
経済震災と、自然震災が世界と日本を襲った。お金の正体は情報というなら、
情報機器の革命的進化が世界を根こそぎ変えている。それが、経済震災で
リーマンショック、政治的には北アフリカ、中東の政変であり、欧米経済の
衰退。そして、静かに進行している世界恐慌
・・・・・・
4237, 雑談ネタ、酒の肴ネタ ー10
2012年11月01日(木)                       
 * 卓球をピンポンと呼ぶのはなぜか    
              ー「ルーツ大全」インフォペディア編 より   
卓球は英語で「テーブルテ二ス」という。1880年代、イギリスのテ二ス愛好家
たちによって考案されたスポーツだ。じつはテーブルテニスというのはあとで
ついた名前で、もともとはイギリスでもアメリカでも「ピンポン」と呼ばれた。
ピンポンの語源は、当時使われていた中空の革張りラケットで球を打つと「ピン」
という音が出て、球がテーブルに当たると、「ボン」と聞こえるところからきて
いる。この名称が卓球協会の名称として正式に採用され、イギリスとアメリ
では「ピンポン協会」が設立された。ところが、このピンポンという名称は
すでにイギリスで商標登録されていることが、あとになって判明。スポーツ用品
メーカーが家族で遊べる玩具として発売していた卓球セットの商品名を、
「ピンポン」として登録していたのだ。そこで、トラブルを避けるため、
イギリスのピンポン協会は解体された。今でも卓球をピンポンと呼ぶのは、
当時の名残り。
   * 土壇場は斬首刑の土もリ
ドタキャンとかいう、土壇場の意味は、字の通り「土を盛って築いた壇の場所」。
江戸時代の死刑に、この土壇場に罪人を横たわらせて斬首刑を執行したため、
土壇場は「斬首刑の刑場」を意味していた。土壇場に上げられた罪人は、手足を
拘束され、どうにもならない状態で処刑を迎えた。ここから土壇場は、どうにも
ならない事態をさすようになった。
▼ 土壇場で死に直面した時のの恐怖は、言語に絶するだろう。そういえば、
 ユーチューブで、フセインが絞首刑になるまでの映像があった。吉田松陰
恐怖で転げまわったとか。ところで、バンジージャンプの飛込み台の恐怖の
どん底の凍りついた瞬間を思い出した! 数分前から恐怖で呼吸困難、頭の中は
真っ白!「こんなはずでなかった!」という言葉。躊躇するほど恐怖が倍増
してくる。ワッーという感じで飛び込んだが・・ 高層ビルから投身自殺を
しようとして、2Fで何かに引っかかり九死に一生を得た人のインタビューを
TVで見たことがあるが、その直前まで意識があり、鮮明に落下していく光景が
見えていたという。ロシアン・ルーレットも、こんな感じだろう。
快感のところもあるようだが。
・・・・・・
3872, 一人旅
2011年11月01日(火)                       
 一人旅を過去に何度かしたことがある。北海道と九州に、それぞれ10日間と、
大学を出て四日市に勤務をしたときに、紀州の尾鷲に一泊したこともあった。 
金沢で修行していた時には、観光バスの日帰りコースで能登半島に行ってきた。
23歳から26歳の4年間、精神的な体力が出来たころである。一人旅には、
それに似合った時節がある。27歳で結婚し、事業の立ち上げを始める直前。
振りかえってみると、その時節しかタイミングがなかったのである。
一人旅をすべき時節に、すべき事をしていたことになる。一人旅は思い立ったら、
駅の旅行センターで、「一週間ほど北海道の一人旅をしたい」といえば、
窓口の担当者が、そのルートを一緒に組んでくれ、列車と宿の手配をする。
そして、そのルートに従えばよい。一度、列車に踏み込めば、不安とか、孤独感
はなくなる。 若さもあり、一人旅そのものに酔っている部分もあった。当時の
記憶が少ないのは、目先が変化変化の連続で、刺激の強い日々だったからである。 
現在、一人旅というと、面倒という思いが先にたつ。しかし今から思うと北海道
も、九州も思いで深い。人生を振り返ると、それぞれの時節の思い出があるが、
特に旅行の思い出は大きい。北海道は、青森から青函連絡船に乗り、函館、札幌、
釧路、網走、旭川、函館と周遊した。北海道の旅も、一歩踏み出すと気まま。
結婚してから10年間は家内と国内旅行ガ中心だった。事業と家庭中心で、海外
旅行に切り替えたのは15年経ってから。卒業記念に海外への一人旅が流行り
だしたのは、私が卒業をして数年してから。しかし当時の私の精神的体力では、
海外の一人旅は無理。私の知人ではオーストリアが二人、イタリアに一人、
留学をした。それと幼稚園から高校まで同窓で、慶応大学教授になった直後に
亡くなった男が、学生時代に欧州を数ヶ月一人旅をしたといっていた。
そう、新潟県活性化案を一緒につくった松下さんも、一年間、彼方此方の
アメリカの大学を聴講してまわったとか。 感受性の強いうちに世界を見ると
見ないとでは大違い。それも一人旅で・・ 幕末から明治維新にかけ、外国に
行った人と、行かなかった人と、その後の活躍が違っている。明治政府の高官
になって、新しい政府つくりの邁進したのは、前者が多い。一人旅は変わって
いく景色を見ながら、独りブツブツ呟きながら思いにふけるもの。