* 愚痴言う老人
 とある家の法事に出席する度に、いつも聞こえてくるのが、
 ✖の愚痴と小言。聞いていて不快だったこともあり、その幾つかを
 記憶している。
・まず7~8年近く前、「後期高齢者の名前が気にくわない。」
 「免許証の返納も、私たちには嫌味としか聞こえない。」
  私も、あと4年になると解らないでもないが。
・「最近の若者はなってない。」 
 この言葉、数千年前のエジプトのピラミッドに書いてあった
 人類永遠のテーマの事実を知らないため、平気で人前で言う。
 永遠のテーマといえば、旧約聖書の「カインとアベル」の、長男カインと
 父アダムとの親子対立。最近、飲み会で、「長男と二世帯同居をしたが、
 これが大きな誤りだった。」と愚痴るから、「それ、旧約聖書にも出てくる、
 人類永遠のテーマで、タブーは元もと分かっていたこと。」と諭すと、
 「全く知らなかった!」と宣う。
・「昔は、本当に良かった。それにしても、生きづらい世の中だ。」
 この言葉は、老化状況をはかる物差の言葉、これを言いだしたら、
 認知症の初期?現象。
・今回の通夜の席では、「あの人、リタイアをして威張れなくなったので、
 その怒りを周囲にぶつけている。」これは、一線から退いた万人にいえる
 ため、誰も良い気持ちがしない。 特に私には?
そうこう、書きだしてみると、さほど酷い愚痴でもない? しかし70〜80歳を
超えた愚痴は、毒を含んで生なましく語るためか、聞こえた人の心に黒く残る。
本を読まないで、「世間話」に明け暮れしてきた人生がうかがえる。
もしかして、ここで書いてきた怒りの籠った内容、こんなものでない?
  老化は日々進んでいく。 問題は、その自覚と対策。今さら遅いか?
つくづく老いて思うことは、長年かけた教養の程度。下は見えても、上は
見えてないから始末が悪い。「・・ったく」と思うことが、あまりに多い。
こうして他者を批判するのは、所詮は、内なる己を語っているにすぎない?
とすると、自分の仮身が、あの人のことか。
4年前に、「老いの鬱屈」についての書評があった。
故人の家の法事で、この人の愚痴を聞いたことや、多くの半ボケ老人を
目の当たりにして、以下の本を図書館で見つけて、テーマにしたようだ。

―ー―
2012/06/04
老いの見本帳ーダークサイト −8
       「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著)
  * 老いと鬱屈
 私の嫌いな言葉に「世間」がある。日本の社会は、「世間」という言葉と
視線に常に怯えて暮らしている。属している社会が固定化されているほど、
そこには難儀なものを抱えたグロテスクな世界ができている。それで一生
何も出来ないで死を間近にしたときに、その正体に初めて気づくのである。 
その不快な毒を体内に蓄積して、ただれている世間という虫。シラミである。
老化は、否が応でも毒が蓄積されている。そう、世間の一員に陥っていく。
だから、熟年になったら群れてはならない。 
 ー次の箇所は、老いの屈託を巧妙に表現している。
≪老いることは、人生経験を積むことによって「ちょっとやそっとで動じない」
人間になっていくこととは違うのだろうか。難儀なこと、つまり鬱陶しかったり
面倒だったり厄介だったり気を滅入らせたり鼻白む気分にさせたりするような
ことへの免疫を獲得していく過程ではないのか。 難儀なことを解決するのか、
避けるのか、無視するのか、笑い飛ばすのか、それは人によって違うだろうが、
とにかく次第にうろたえなくなり頼もしくなっていくことこそが、老いの
喜ばしい側面ではないかとわたしは思っていたのだった。 
 だが、世の中にはまことに嫌な法則がある。嬉しいことや楽しいことに我々
の感覚はすぐに麻痺してしまうのに、不快なことや苦しいことにはちっとも
馴れが生じない、という法則である。不快なことや苦しい事象は、砒素や重金属
のように体内へ蓄積して害を及ぼすことはあっても耐性はできないものらしい。 
だから老人は欝屈していく。歳を取るほど裏口や楽屋が見えてしまい、なおさら
難儀なものを背負い込んでいく。世間はどんどんグロテスクになっていき、
鈍感な者のみが我が世を謳歌できるシステムとなりつつある。・・・老いても
鬱屈や煩悩は蓄積していくばかり、難儀なことには事欠かない。遅かれ早かれ、
この世界のほうを、さながら迷子みたいに置き去りにしてやれるのである・・≫
▼「嫌な法則がある。嬉しいことや楽しいことに我々の感覚はすぐに麻痺する
 のに、不快なことや苦しいことにはちっとも馴れが生じない、という法則。」
は、正に人間の不幸の起因である。それを打ち消す方法は数多あるが、その毒は
体内に蓄積し、さらに体外に放出する。そして、マイナスの循環で、体内の毒は、
ますます濃くなっていく。この本は、その見本帳でもあるため面白いのである。
これまで見てきた身近な老人に、酷似しているため妙に馴染むのである。
本格的に一歩ずつ仲間入をしていく。それならば老いは鬱屈するものと初め
から割り切って孤立していた方が良い?

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5332,閑話小題 〜人生のリハビリ
2015年10月20日(火)
   * 人生のリハビリ
 会社清算から4年半になるが、現時点の実感は、その結果のリハビリより、
「創業の準備を含めた事業人生45年間で歪んでしまった異型の自分を一度
リセット、本来の人間性に戻すべく、再出発の日々を過ごしている」という
ところか。 資本主義という拝金主義から、一度離れて、地球上の大自然
身近な自然、文化・文明を見直し、せっかく訪れた地球を改めて見直し、
人生を振り返り、味わうために、現在の自由な時間を与えられていることに
気づくことだ。リセットは、こういうものか。 ある意味、人生で一番、
落ち着いた時である。異型があるから、今がある。
   * ぬるい幸福は人を駄目にする
 「ぬるい幸福は作家を駄目にする」という作家の言葉があるが、これは万人
にも言えること。そのぬるい幸福を私たち凡人が目指しているのだから・・
「そのどこが悪い!」といえば、それまでだが、その人は、そこまで。
人の一生は、常に変化する社会と、時代の中で、「変化、闘い、挑戦」が
間断なく押し寄せてくる。考えてみれば、ぬくい幸福などは束の間の幻想。
今が、その「ぬるい幸福」の時かも。しかし、その一瞬の味わいが、
人生の味になる。 今さら駄目でも何でもよい!ぬるさが一番である。

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4967,閑話小題 ー夜半、4時間の熟睡の後
2014年10月20日(月)
  * 4時間の熟睡後に
 以前から20時半に就寝するようになったが、熟睡後、目が覚めるのが
0時前後。一度トイレに行き、水を飲んで床に就くが、その辺りに家内も就寝。
ところが起床の4時まで、半睡と覚醒が交差するが、この時間を楽しめないかと
長年かけ工夫している。臨床心理士によると、「布団の中の考え事は、たいてい
考えすぎ。とりあえず起きて、トイレや、水を飲んだりして体を動かすと良い」
という。私は既にトイレも、水も飲んでしまっているので、その時間を苦痛と
思わないようにコントロールしている。その一つに、この随想日記のテーマや、
内容を考えたりしているが、マイナーの考えを厳禁にしている。それでも時に
不快いに思うと、煉獄につながれた状態?になる。「このボ〜ッとして状態こそ、
最高!」と、心に言い聞かせていると、そう思えてくるから不思議。週2〜3回
のヨガで、最後の5分間の「死者のポーズ」で、大の字になり全身を脱力をして
横たわるが、その感覚を思い出し、宇宙の一点に独り漂っているイメージを
持つようにする。これを楽しめるかどうかが、問題でもある。
で、このところ一種の瞑想状態になっている。
 もう一つの問題は寝返り。一晩に大体20〜30回、寝返りをうつというが、
寝返りは、その日の身体の動きから生じた歪みを取り除く無意識の体操でもある
という。成るほど、寝返りの多い日は、終日、机やテレビの前でジッとしている。 
仰向けの姿勢が良いとされているが、仏様の入滅の時の右側向きを子供の頃から
とっている。胎児が子宮内にいる時が、この姿勢という。数年前から低反発の
クッションと枕を使い出してから、眠りが深くなったが、これはお勧めである。
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4600, 読書という体験  ー2
2013年10月20日(日)
         「読書という体験」 岩波文庫編集部 (編集)
  * 教養を培う〜?  ―私の「読書ゼミ」 藤原正彦 
 週に一冊、著者の指名の文庫本を読ませ批評文を提出、そして討議する
授業が良い。大学一年時に、このようなゼミを受けたと受けなかったでは、
学生時代、いや人生が大きく変わってくる。これからして、良い大学に入って、
良い教授、良い友人に触れる必要がとってとれる。人生、良い書物を通じて、
時空を超えた人物の魂から学び続けることだ。
  ーその辺りを抜粋する
≪ この危機感で、私は大学で八年前に読書ゼミを始めた。
 主に一年生を対象に週90分、半年間のゼミは、以後毎年開いている。 
学生向けの開講科目便覧にはいつも次のように書く。
【主に明治時代に書かれたものを読む。毎週、一冊の文庫本を読み、それに
関する感想、印象、批評を書き、授業時に提出する。授業時には、その本の
内容について討論を行なう。提出された文章は、添削され、コメントを付され、
翌週の授業時に返却される。ゼミの目的は、読書に親しみ、作文能力を鍛え、
論理的思考力を高めることである。受講条件は、文庫本を週一冊読むだけの
根性、および文庫本を週一冊買うだけの財力。】
 これだけで毎年、定員二十名をはるかに超す受講希望者があり、
コンピューターによる抽選が行なわれる。読書好きの学生が四分の一くらいで、
残りは、これまでほとんど本を読まなかったからこの機会に、という学生。
読書好きはもちろん、読書不足を反省し一念発起した学生も、見込みある学生
といえる。読書などどうでもよいと考えている大半の学生に比べ、かなりレベルは高い。
 学生に読ませる本は私が独断で決める。初期の頃は、私自身の読みたい本を何冊か
入れたが、よく知られた本でもがっかりするようなことがあり、今ではすでに読んで
感銘を受けたものから選ぶ。 ここ数年の定番は、新渡戸稲造『武士道』、
内村鑑三『余は如何にしてキリスト教徒となりし乎』、福沢諭吉学問のすすめ
および『福翁自伝』、山川菊栄武家の女性』、宮本常一『忘れられた日本人』、
無着成恭編『山びこ学校』、日本戦没学生記念会編『きけおだつみのこえ』など。
 定番がどれも岩波文庫であるのは少々不公平で少々シャクでもあるが、
それらがそこにあるのだから仕方ない。良書を集める伝統をつくった、故郷の
大先輩、岩波書店の創業者岩波茂雄の卓見なのだろう。定番の一番バッターは、
決まって『武土道』である。外国人に「日本で宗教教育はしていない」と言った
新渡戸は、「それでは道徳教育はどうしているのですか」と反問され、答えに
窮した。キリスト教を中心に道徳教育を与えられる欧米人に比べ、日本人の
道徳水準はまったく劣っていない。熟考の末に外国人のために英語で著したのが
本書である。 テレビと受験勉強に追われ、コクのある本をほとんど手にした
ことのない学生達は、覚悟の上とはいえ、かなりの苦痛を感ずるようである。》
▼ 人生を振り返り、多くの本と、色いろな体験をしてきたが、つくづく頭の
 硬さを感じ取っている。万人が、馬鹿の壁に囲まれているが、特に自分は硬い
壁に囲まれていると思うと、それが見えてくる。私は、ノートを纏めるのが苦手。
で、やっとたどり着いたのが、これらブログと、10年日記と、ダイアリー。 
それも55歳になってから。学業としての頭が良いかどうかは、ノートの記録と、
活用にあったようだ。その意味で、他人からみたら御苦労なことだと思われる
かもしれないが、私にとって黄金の習慣になっている。 これさえ書けば、
一日ヘラヘラした何事も、それぞれ楽しめる。『私という墓場』は、
そのまま外に出るから恐ろしい!  
・・・・・・
4225, 閑話小題 ー青竹エアロ
2012年10月20日(土)
  * つれづれに ー青竹エアロ
スポーツジムの話。円座に置かれた6台の運動マシーンと、その一台置きにある
ステップ台をインストラクターの誘導で12人が一同にするエアロを連続二回と、
週二回の「スローヨガ」が私のベース。それに時々、ランニング・マシーンと、
ステップ台エアロを加える。 スタジオでは、常に何かプログラムが行われて
いるが、どうも30〜50人の合同でやるのは苦手である。ところが、
先日、何気なくスタジオに目をやると、青竹踏みエアロ?が見えてきた。
ヨガ用マット上に青竹風プラスチック台を置き、音楽に合わせて上がったり
下がったりしている。そこで、どういうものかと参加してみた。これまで何度
か青竹を買ってやってみたが、数ヶ月も続かなかった。このプログラム、まだ
始まって三回目だが、30人の定員は満員。「初めての人は挙手を」に対し、
何と三分のニの人が手を挙げた。 中央に5センチの半円があり、その両側に
一cmのボツボツが50個、その外側に数ミリのボツボツが並んでいる。
その三箇所を交互に音楽に合わせて乗ったり降りたりする。少し痛いが我慢
出来る範囲で、10分もしないうちに汗が吹き出てくる。 終わって数時間
経った後に身体全体が軽く感じてきた。 週に一度参加するにベストのようだ。
 ところでスポーツジムも、日常生活の一部になっている。雰囲気が明るいのが
よい。ジムも競争が激しいようで、改善していないと、他のジムに客を取られる。
私のように皆勤に近いのは、一日、三百円でしかない。 一時間5百円の価値は
充分ある。私は二時間滞在しているので一日につき千円、20日で二万円の価値
の実感がある。ヨガは月に7〜8回は参加しているので、それだけで元が取れる。
会員で殆んど来ない人と、日曜日参加の人が多いので成り立つのだろう。 
その割に軽い腰痛は治らないが、それでも足腰が軽くなっている。 
ところで青竹エアロ、殆どが裸足だが、水虫、感染しない?
・・・・・・
3860, インコの芸
2011年10月20日(木)
 我家にきて8ヶ月になるルリハ・インコが最近、芸をするようになった。
小鳥のストレス解消用に、枝の棒に「小鳥用起き上がりこぶし」を付けて
あるが、時々、狂ったように攻撃する。しかし錘で、その都度、棒を一回転し
元に戻ってしまう。 ところが最近、インコも真似て枝を回転している。
そこで、その都度拍手をして笑いかけていたら、インコを見つめる度に回転する
ようになった。 また籠から離れようとすると、回転を何度もし、傍にいて
欲しい意思表示をする。 今までは鳴声と籠にしがみついて見つめての意思表示
が、棒を回転する芸で注意を引くことが加わった。一年前に飼っていた中型の
コガネインコが、人間的?で個性が強い鳥だったので、今回は、オウム科で最小
(雀ぐらい)の大きさの性格の穏やかなルリハ・インコにした。幼鳥のうちは
大人しかったが、最近になり、その個性を見せ始めてきた。 気を引こうと
何度も何度も枝を回転する姿に愛情がわいてくる。 最初はペットを毛嫌いして
いた家内も、最近、その回転するインコに見入り、頭を撫ぜるようになっている。
コガネ・インコと同じく、頭と喉を撫ぜると喜ぶのは犬猫と同じ。コガネ・
インコは一年余りで、風邪で死なせてしまった。それもあり冬に向かって、
このインコは、死なせる訳にはいかない。改めて雀など野鳥が厳寒の中で越冬
する能力に驚いてしまう。 このインコにとって、鏡の中の自分の姿と、
起き上がりこぶしの小鳥と、家内と私と、時々帰ってくる長男が、インコの世界。
ストレス解消用の玩具を幾つか籠に入れているが、フルに使って遊んで最後は
壊してしまう。それでも、時どきヒステリックを起こし、籠の中を狂ったように
飛び回る。 とにかく、籠の外に出たがる。 また本能的に音に敏感で、
私が車で帰ってくると、感知する。駐車場を一台貸しているが、それには全く
反応しない。「あんたインコやってんだ。私は人間やってんだ」が面白い。
・・・・・・・
3495, お金の教養
2010年10月20日(水)
  ーお金の教養ーみんなが知らない「お金の仕組み」泉正人著
 図書館で借りてきた本だが、具体的な内容が面白い。学校では「学問教育」
と「職業教育」は教えるが、その取り扱い方は教えてくれない。 日本は
「お金は不浄なもの」という思い込みがあり、社会でも家庭でも、お金について
教えてくれることはあまりない。武士は食わねど高楊枝、という風潮が日本である。
学校では「成績表」「通知表」を受け取っているが社会に出た後に「お金の成績表」
を受け取ることはない。実は、預金通帳こそ学校の「通知表」という。 
お金に対する能力とは、「貯め方」「稼ぎ方」「増やし方」「維持管理」と、
「与えること」。「(小さなお金の)使い方」「(大きなお金の)使い方」
・「貯め方」は、著者は収入の2割を貯金にするというが、
 これは以前から言われていること。
・「使い方」は、*要は節約と、*買う前に払う価値があるもの・
 サービスかを考えよ。
・あとざっくりな記録で現状を把握せよ、
 1、お金の管理する仕組みを作る  2、6:2:2の法則  
 3、領収書の分類
2の6:2:2の法則は、まず2割の預金、2割の自己投資、そして最後に残り
を使う法則をたてよ、である。領収書の分類ボックスに入れた後に、それぞれ
をスクラップするのも良い。若いうちに知って実行していたら良かった。
 ▲ ところで、逆もある。私が両親をみていて考えたことは、
「残したところで、それは通帳の数字の桁が増えだけのこと。使える時に
 使わないと、それは通帳の数字でしかない。そこで、40歳から60歳まで、
年間に???万は使い切ることを決めた。そうすると使えるのである。贅沢できる
金額でもないが、一点豪華主義で秘境ツアーに絞り憑かれたように家内と行ったが、
こういう時代になり、また歳を重ねると、つくづく正解だったと思う。
気力、体力、金力、時代背景、環境などが揃ってないと、そうそう続けることは
出来ない。歳をとると、行動範囲が狭まれる。 最近は、こういう類の本が書店に
多く並んでいる。しかし、のっけから2割の天引き預金を実行となると、なかなか
難しい!やるか、やらないかの決断だが。 あとは、その人の人生観もある。
 ・・・・・・・・・
3120, 再び、読書について  2009年10月20日(火)
  * 書斎は未来の図書館
  森本哲郎が読書についてに、次のように書いている。
≪ 私は読書は何よりもまず本をさがすこと、探して買ってくること、買ってきて
 本棚に飾ることと確信している。実際に本を読むのは、いつかでいいのだ。
 書斎とは、この意味で「未来の図書館」というべきだろう。 ≫
  全く、その通りである。この言葉を知っていたら、より豊かな時間を書斎で
 過ごしたはずである。本屋で気に入った本に出あっても、いま読みかけの本で
 手一杯ということで見逃した本が、あまりに多い。書斎を、そのように位置
 づけていたら、自分の書棚には、その蓄積があったはずである。
 決して、読まないでも、その本に囲まれて休日を過ごしているだけで、
 充分に幸せのはずである。 開高健が「古本屋歩きは釣りに似ているところが
 ある。ヤマメを釣ろうか、フナを釣ろうかと目的をたてることなく歩いていても、
 たいてい、一歩店に入っただけで、何となくピンと来るものがある」というが、
 そうして買った本を書斎の一角に納めておいて時どき手に取るのもよいだろう。 
 あまり本を読まない人にとって、読書をするのが勉強をすることと勝手に
 思い込んでいるようだ。しかし本来は楽しみとして、集めた本棚の本を、
 独りで早朝や深夜に読むことである。 そのとき、そこは、自分ひとりの
 安住の場、かつ別世界に浸る時間になるのである。 ショウペンハウェルは、
 彼の読書論で、「いかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識で
 なければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた
 知識であればその価値ははるかに高い。何か一つのことを知り、一つの真理を
 ものにするといっても、それを他のさまざまな知識や真理と結合し比較する
 必要があり、この手続きを経て初めて、自分自身の知識が完全な意味で獲得
 され、その知識を自由に駆使することができるからである。」と語っているが、 
 それも独り、書斎の中で考えてこそ可能になる。
  選定、書棚に納める、そして独り読み、考える、そしてメモ、等々、
 その一連で読書は成り立っている。旅、読書、芸術鑑賞、談笑、散歩、
 そして家族との団欒は、人間の行為としてベストの習慣。
  その中でも、読書は必要欠くべからざることである。