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【賢者の言葉】
ショーン・スティーブンソンの言葉
トニー・シェイの言葉
ビル・ハリスの言葉
エブン・ペーガンの言葉
★F.W.デクラークの言葉
ダライ・ラマ方法14世の言葉
* ネットによる「個人間の紐帯」が、世界を激変させている
著書と離れるが、ネット社会が現実社会を覆った世界を説明するに丁度よい
内容のため取上げる。 〜批評家で実業家の山口揚平氏の一節から、
《「世界は三つの“層”で出来ていて、その三層が明確化・対等化しつつある」。
私たちが生きる世界は、「国家」「企業」「個人間の紐帯」の三層にまたがり、
三層のうち、「国家」に対し「企業」や「個人間の紐帯」の重要性が増してきた。
たとえば、日本の将来を悲観し、国外脱出を図ったところで、それは「国家」の
枠組みの話でしかない。むしろ、「企業」や「個人間の紐帯」での自分の存在感
を増す努力をすべきだ。それには、英語とITリテラシーが不可欠だが、プラスα
の能力が必要である。》
▼ 農業・牧畜革命に比する今世紀の革命的出来事がネット社会の構築。
その三層で、特に、「個人間の紐帯」に重心が移動しつつある。以前のように
権力で大多数の貧しい個人を軽視出来ない時代に入ってしまった。 四半世紀前
には、『ネット社会の構築』『ソ連と国際共産主義の崩壊』『世界的テロ』
『エイズの影響』など、当時、正確に言い当てる人はいなかった。
この数年では、『ISの出現』と『自動運転車』である。 その自動車が、
数年後に現実に売出されるという。これについては、後で取り上げる。
三層の下位に位置していた『個人の紐帯』が、地域に縛られないネットで、
世界中が瞬時に繋がる時代に入った。これが、国家ー>企業ー>個人という
上位関係が逆転を始めたため、大混乱を始めた。 ISが、その事例の典型。
徒党を組んだ武力で立向かわなくとも、個々が、何時、何処でもテロ攻撃の
手段を持った。イスラム原理主義をネット経由で無垢な若者を洗脳をすれば、
最小費用で、ことがたる。人種、民族、国家、地域社会、など関係なく、
この「個人間の紐帯」が世界中、可能になってしまった。これが、10数年で、
一万年の変化に匹敵する革命的事件である。その背景に、情報革命があるが。
・・・・・・
5310,テクノロジーと退化
2015年09月28日(月)
ー クオリア再構築 〜島田雅彦:茂木健一郎対談集
「まえがき」の島田雅彦の文章である。ネット社会の現状と、
それが故の、生身の人間の退化に対する処方を示している。
* テクノロジーと退化 〜島田雅彦
≪ 20C終わり頃から、仕事のほとんどは1台のPC上で行うようになっていた。
原稿の受け渡しも個人的な通信も読者との交流もリサーチも息抜きもすべてPC
画面を通して行っている。つまりはPCが壊れれば、いきなり原始時代に逆戻りだ。
知らぬ間にPC依存の度合いが進み、PCなしでは何もできない体になっている。
思えば、コンピューター・テクノロジーとインターネットはライフスタイルを
根底から変えた。自宅に引き籠り、ウエッブ越しに世界とにらめっこしていれば、
買い物も投資も社交や恋愛も、また中傷、犯罪、テロも自在に展開できるように
なった。キーボードの操作一つで社会を混乱させたり、巨額の賭けや、損失を
出したりできるので、この世の営みの全てが安っぼくなつた。電脳経済は
確実に世界恐慌の元凶になっているし、電脳政治は世論の単純化、批評の
衰退をもたらし、政策議論よりもキャラクターを重視する傾向を生み、衆愚政治
や集団ヒステリーを強化した。万人が同「のメディア、情報ソース、ソフトを
用いることにより、言論や表現の多様性が著しく失われた。手っ取り早く、
わかりやすく、扱いやすいもの……それはみな退屈だ。CG映像の薄さ、
パワーポインターのブレゼンテーションの味気なさ、シンセサイザーの陰影の
ない音に飽きた頃、おのずと私は六〇年代の映画や文豪の講演テープや
蓄音機の音に含まれている揺らぎ、ノイズに心地よさを態じるようになっていた。
手先、指先に物足りなさを覚え、何かプリミティブなことをしたがっている
自分がいた。電磁波を発したり、コードが付いているものではなく、もっと
武骨な自然物に触れたかった。これは本能の欲求だった。衣食住、交通通信、
文化活動のあらゆる面で、私たちは自分の体や頭を使わなくなった。便利さ・
快適さ・手軽さを最優先すれば、出来合いの工場産物を食べ、大量生産の
商品を使い捨て、絶えず供給される情報をいたずらに消費することになる。
そんな受動的な暮らしを続けるうち、おのが思考能力、身体能力をすっかり
衰えさせていたのである。テクノロジー進化は生身の人間の能力を退化させる
に違いない。とはいえ人間もまた自然の産物である。その基本構造は一万年
くらい変わっていない。私たちはみなどうしようもなく原始的なのだ。
原始的なくせに、もはや、私たちは古代の狩人や、農民やサムライに戻ること
はできない。 近頃、竹細工に凝っていて、暇さえあれば、竹を削っている。
奥出雲のタタラ製鉄で打ちだした鋼を鍛えたナイフで、近隣の竹林から拾って
きた竹を削り、茶杓や花入れを作るのである。目下の生活の優先順位は酒、
竹、仕事、家庭といったところか。竹細工の優先順位が高いのは、それが
自分の脳と肉体に施す一種のリハビリだからである。竹細工をすれば、
おのずと道具と手先の関係が深まる。慣れない道具で怪我をすることもある。
また、里山を歩き、野草や木々と戯れることになる。自然を愛でるところに
風流が生まれ、詩が生まれる。 ・・・ ≫
▼ TVのアーカイブで、アメリカでの手つくり飛行機の趣味と、
その出来栄えを競う大会のレポートがあった。これは、生身の自分の生命と、
最先端の技術が絡んだ命をかけた趣味。 大金持ちクラブの一例だが、能動的、
本能的要素と、知的、金銭的、時間的要素の全てが必要とされる。
その人の趣味をみれば、大方の人物像が見えてくる。 私の(悪)趣味は、
柵(しがらみ)に縛られた人間の滑稽で、ケッタイな人間のウォッチング!
漏れ聞く金融関係の、それは、タチの悪い珍獣の精神症のオンパレードとか。
・・・・・・
4945,閑話小題 ー「なんでも鑑定団」の面白さ −2
2014年09月28日(日)
* 骨董の世界は、魑魅魍魎の世界 ー?
私には骨董品や美術品の保有欲が全くない。一流品などは美術館で見れば
よいし、何ゆえに手元に置かなければならないか不思議である。両親を見て
いると、隠れた名品を探し、さり気なく、格安でハンター、倉庫に収めることが
趣味のようだ。これは骨董収集家の全てにいえるが。それなら、名だたる名品を、
世界の美術館で見ればよい!というのが、私の持論。21歳の時に、ルーブル
美術館、大英博物館などで、世界的名品を見た経験が、更に裏づけになった。
鑑定団を見ている共通点は、「骨董店の主が、アマチュア気取りの素人に、
太鼓持ち話術で売りつけているのが殆ど。だから、出てくる当人、いやに識別感
に自信を持っている。が、それは店主の刷りこみ。株や骨董は、素人が手を出す
ものではない。「買いで騙され、売りも騙され」が、素人の悲しさ。
数代前の先祖が大事にしていたお宝にも多くある。両親の場合は元プロで、
特殊ケースだが、骨董世界は、「俺おれ詐欺」より、タチが悪い側面がある。
そこは特定少数の愛好家の世界。特定少数の本物の骨董品の周囲には、
その数十、数百倍の贋物と、詐欺紛い人たちが存在する。もし、金に窮したら、
どこかの骨董市などで、高そうな骨董を探して、金を持っている友人等に、
「これは我家の蔵にあったもの。何時でも引取りますから、買ってください」
と、売りつけ、そ知らぬ顔か、ドロンをすればよい。大体が、素人が一度
買った骨董品を、逆に骨董店に持って売ることはほぼない。太鼓持ちの大臣
扱いで偉くなった幻想で満足した段階で、大部分の買いの目的を果たしている。
だから、素人衆の倉庫は、騙された骨董品の山。で、騙す方は、買取の誓約書
を平気で書く。ばれた時は、そのまま引き取れば、詐欺ではないからだ。
適当に「時代が変わりました」「この品の相場が現時点で暴落しました」
「自分も実際のところ騙されていました!」で済ますことも可能。ーつづく
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4578, そして、人生はつづく
2013年09月28日(土)
『そして、人生はつづく』 川本三郎著
図書館でみて、「まえがき」の文章が現在の心境に似ていたので驚いた。
還暦過ぎれば、誰も似たような現実が待っている。まずは介護が平均10年が
終末に控えている。私など、「そして、・・」より「それでも、人生はつづく」
が合っている。 まずは ー「まえがき」の全文ー
《 2008年の6月に35年連れ添った家内を癌で亡くした。子供がいないので
それから一人暮しが始まった。その「独り居」を毎月一回、日記の形で書いて
いった。物書きという仕事柄、幸い一人でいることに慣れている。というか、
物書きとは一人でいることが仕事のようなもの。 本を読む、映画を見る、
音楽を聴く、町を歩く。一人ですることばかりだ。旅も大半は一人旅。
これに、家事という新しい仕事が加わった。愛読しているアメリカ人の詩人、
作家メイ・サートンの『独り居の日記』(武田尚子訳、みすず書房、1991年)
は、ニューイングランドにある緑豊かな田舎家での一人暮らしの日々を綴った
ものだが、こんな言葉がある。「私にできることといえば、瞬間瞬間を、
一時間一時間を、生き続けることだけだ――小鳥に餌をやり、部屋を片づけ、
たとえ私の内部には築きえなくとも、せめて私の身の周りに、秩序と平和を
創造することだ」。一人暮し、もうじき七十歳になろうとする人間にとっても
「秩序と平和を創造すること」がいかに大事であるか。自己管理をきちんとし、
静かに暮すこと。一人暮しになって静かな一日を送る困難と、幸福を知るよう
になった。 家事をし、仕事をし、散歩をし、一日の終わりに酒を飲みながら、
昔の映画をビデオで見る。無論、そんな平穏な一日が毎日あるわけではないが、
それだからこそ「秩序と平和」が大事なものに思えてくる。 もうあまり
大きな声でものを言いたくない。「独り居」のなかにささやかな喜びを
見つけてゆきたい。3・11のあともそんな思いで書き続けた。
あれはフェリーニの映画だったか、「私は生きることより思い出すことの
ほうが好きだ。結局は、同じことなんだけど」という意味の言葉があった。
日記を書くとは、まさにその日その日を思い出にしてゆくこと。 》
アマゾンの ーBy FANTASMA UCCIDENDO MECCANISMOレビュアーが、よい!
〜編者か著者のどちらかの投稿?〜{評論家・川本三郎は2008年に妻・
ファッション評論の川本恵子を亡くし、以来独りの物書き生活が始まった。
読書、映画鑑賞、音楽鑑賞・・でも独りだ。たまには旅にも出る。
一見、悠々と見えても、心は独りさびしき、時の旅人である。面倒な“家事”
も自分でしなくてはならない。そんな老境に入った著者の日々が綴られている。
著者は当たり前に生きてきたつもりだが、妻の死、そして3・11で変わった・・
著者は、震災後に東北を応援しようと小さな鉄道の旅にでる。3・11と
世の中のこと・・ 淡々と静かに自分の日々を綴る・・ そして彼自身
独りの人生の時は流れてゆく・・・。たった数歳しか違わないのに、私とは
まるで異なる時をゆく。それでいいのだと思う。そして、人生はつづく・・
ターミナルは一つであっても、そこに至る道は人それぞれに異なるのだ。
独りという寂しさの重圧は、若き時には跳ね返せても、老齢に至れば、
そのエナジーも枯れつつあることを自ら認識、体験中のトロイGKMです。
余韻が残った久しぶりの大人の文章。}
▼「本を読む、映画を見る、音楽を聴く、町を歩く。一人ですることばかりだ。
旅も大半は一人旅。 ・・もうじき七十歳になろうとする人間にとっても、
秩序と平和を創造すること、がいかに大事であるか。」が、言い得て妙。
私は二年半前に、その半年前までは思いもしなかった事業整理をせざるを
得なくなったが、それでも、人生はつづいている。そこでのコツは「独り」
の世界の中で、秩序正しい静かな生活を守ること。
一応、準備を含めた45年かけた独りの世界があるが・・・
・・・・・・
4203, 呪いの時代 ー17
2012年09月28日(金)
* あとは呪詛の効果を搾制し、贈与を活性化するしかない!
「呪いの時代」内田樹著
呪詛を抑えるに、贈与でお返しをするのが一番良い方法になる。
が、放置しておけば、さらに憎悪が増す。呪いに対し、贈与で返すのが
贈与の贈与たる由縁になる。メディアは記事を売らんがために呪いの対象を
つくり上げる。手っ取り早いのが、政治家の失政と芸能人のスキャンダル。
関係もないのに、いつの間に扇動され呪詛の集団にされる、俗に言う
世間様レベル、B層である。呪詛は、これからも強くなるが、知恵で
自分を守らねばならない。 ーその辺りからー
≪ 世の中はバカばかりで、システムは全部ダメであるという宣告はかなりの
部分まで真実を衝いているのかも。私が問いたいのは、その指摘が正しいと
すれば、そのような世の中を少しでも住みやすいものにするために、あなたは
何をする気なのかということである。完膚なきまでに批判し抜くことが、個人に
対しても制度に対しても、もっとも効果的な「改善」実践であるという左翼的
な批評性の定型から私たちは抜け出すべきときです。
「私がこのシステムの責任者です」と名乗り、それに対するすべての批判を
粛々と受け容れ、批判されればされるほどパフォーマンスが向上するような
「責任者」が存在するなら、そのような定型的批判も有効かも知れない。
だが、実際には、そのような責任者はどこにもいないのである。私たちはもう
「壊す」時代から抜け出し、「作る」時代に踏み入るべきだろう。命旦夕に
迫る病人に向かって「生き方を根本的に変えろ」と叱りつける人間はいない。
それよりは残されたわずかな生きる時間の質を維持するためにどうするかを
考えるだろう。・・・
(・・中略)私たちの意識を批判することから提言することへ、壊すことから
創り出すことへ、復讐することから受け容れることへ、傷つけることから癒やす
ことへ、社会全体で力を合わせて、ゆっくりと、後戻りすることなくシフトして
ゆくべき時期が来た。そのときに指南力を発揮すべきなのはメディアである。
けれど、メディアはまだ「呪い」の語法を手放すことができずにいる。
この本の中で私は別に目新しい知見を語っているわけではない。皆なが知って
いることをもう一度繰り返し確認しているだけである。呪誼も贈与も人類と
同じだけ古い制度であり、それがどう機能するものかは誰でも知っている。
けれども、多くの人びとはそれは神話や物語の中のことであっで、
私たちの日々の生活には何のかかわりもないと思っている。そうでない。
呪誼は今人びとを苦しめ、分断しているし、贈与は今も人びとを励まし、
結びつけている。呪認の効果を搾制し、贈与を活性化すること。
私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。 ≫
▼ 西アフリカ横断のバスツアーで、単調な奴隷通りという道をひた走って
いた時、突然、道路の脇道にそれた。そこは、小さな市場になっていて、
5〜6軒の店があった。呪詛の為の小物だけを売っている市場という。
アフリカ地域の多くは、今だに呪詛の習慣があり、その効果が信じられている。
そこで突然、生々しい人間のサガを突きつけれたようだった。昔、アフリカ
の奴隷は、地元の部族が近くの部族を襲い、捕虜にして奴隷商人に売ったもの。
警察力が希弱な土地柄だと、近辺の争いに弱者は黙って呪詛に訴えるしかない。
日本は近代国家とはいえ、断絶の、それも20数年も落ち目の時節にあって、
その鬱憤を誰かを呪うしかない。アフリカの呪詛の小道具が、メディアによる、
誰かへの集団リンチのような槍玉=記事に取って代っただけ。 私たちは、
ますます、周囲の、そして政府の呪詛が強くなる。しかし、それが故に、
国家の舵取りが大きく狂っていることさえ、気づかないとしたら、
命取りになりかねない事態である。
・・・・・・
3838, ツール(道具)について考えてみる ー4
2011年09月28日(水)
20万年前に、動物は初めて言葉というツールを持った。そして、以前
から使用していた物理的道具と共に他の動物を狩猟し勢力圏を拡大していった。
ところが一万年前に地球上に異変が生じ、それまでの果実などの植物採取と
狩猟では生きていくことが出来なくなって、牧農が始まった。その時に、
それまで培われてきた言葉と道具が農業と牧畜の進化に役立つことになった。
経験は本能で動物も植物も蓄積は可能だが、場所や時間を越えて言葉や絵に
置き換えて情報を伝えることが出来るのは人間だけ。現在の情報化革命が
20万年来の人類の革命といわれる。デジタル化とネットで情報が瞬時に
地球上の個々人に行き渡るようになり、人間と社会の有りようを根底から
変えてしまった。 ツールが時代に大断層を生じさせてしまったのである。
新たにネット世界が出来て、それが現実世界の上位になりつつある。
これが今後どのように時代を変えていくのか想像さえ不可能。連日のように
iPadを取り上げているが、この御蔭で目的とするブログに到達するまで、
初期立ち上げを含めて数十分の一の時間で辿りつけるようになってしまった。
おまけに体積も一割以下で、コードから解放され、ボードからも解放された。
タッチ式のため、ネットサーフィンが非常に楽になり、本やアプリも簡単に
ネットから購入可能になっている。丁度、購入して一月経つが、それまでの
情報の質量が一桁は増えた感がする。ツールを弄るのが面白くなったら、
しめたもの。アプリについては次回に書くが、調べれば調べるほど次々と
面白いものが出てくる。 目につくアプリは、ベストのものしかない。
それが時と共に改善され続けているため、使いかってが良いのは当然。
ところで、10年前の今日にあたる日に「目的と手段」というテーマで
書いていた。 面白い偶然である。
「ツールは手段だが、目的と手段は融合するか?」という問いかけ。
前回、「畑仕事と釣がいいか、iPadがいいか?」という問いかけに
なったが、それからすると、「iPadをしながら釣をすればよい」
ことになる。トイレの読書と同じ? どんどん使いかってのよいツールは、
使えばよい。 ただし、振り回されるな!ということになる。