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<不幸な国の幸福論 2009/12/16 加賀乙彦 (著)>
* 考えない、正しく悩めない
ここまで生きてきて、思うことは、多くの「人は、考えない」ということ。
だから、正しく悩めない。5年半前に、会社の清算に至ったが、その創業設計に、
破綻前提に、万一に備えを組みこんでいた。幼児期に、太平洋戦争の戦災に焼き
だされた中の両親の血の滲む苦労の後姿を見て育ったこともある。夜半、隣で、
母が父に、『死にたい、何もかもが嫌になった』と話しているのが聞こえていた。
両親にとって、長年かけて築いた財産の大部分を長岡空襲で焼け出された前後に、
様々な問題が家庭内に起こっていた。両親は、子供8人を含めた10人家族分を
稼がなければならなかったため、普通の働きでは、生活出来ない。(当時は、
多くの家庭が大家族だったから、別に珍しいことではないが)。この幼児体験が
あったため、準備を含めた45年の事業人生、大変だったとか、会社整理に対し、
何ら後悔がない。決めた時から、万一の場合の覚悟もしていた。 何事も、
『事前の一策は、事後の百策に勝る』で、そのため、考えて考えて考えなければ
ならない。博打は恐怖を見据えて、乗越える中で勝機がやってくる。そのため、
考えない人は、直ぐに感知できていた。日本人は、島国で海に守られている閉鎖
社会。考えないで済まされることも、ある。 〜ネットによる書評から〜
≪ 日本人特有の性質は、自分で考えることをせずに評価の基準を他者に求め
それに合わせようとする。狭い人間関係の中で簡単に人間にレッテルを貼り、
本来なら複雑な要素から出来ている人間を単純に理解してしまう。それが故に
別の環境であれば何でもないことでも必要以上の敗北感やつまづきを覚える。
だが、気の持ちようでいつでも人間は幸福を手にすることが出来る。
本来幸せに形なんかない。むしろ理想の幸せの形を決めてしまった時から、
自分はアレが足りない、コレが出来ないとあら探しをしてしまい不幸が始まる。
人生万事塞翁が馬である。変えることが出来ないものを受け入れる冷静さ、
変えることが出来ることを変える勇気、そしてその2つを見極める知恵。
正しい諦めから生まれるしなやかさを手に入れれば、幸福はもうそこにある。≫
▼ この城下町では、「同化圧力」が異常に強い。だから、地元の長岡高校の
校訓、「和して同ぜず」の和同の精神があるが、実際は、同化しないと、
「どうかなる」のが実情。地元の41年前になるが、Uターンをしてきて、
直ぐに直感したのが、この「同化圧力」の毒素で、脳がやられる恐れである。
そのため、地元の卒業校の同級会以外の会は、一切、参加しないことを決めた。
会社整理で、この御蔭で、人間関係では最小のストレスで済んでいる。
人間は感情の動物、理性で割切れといっても、そうはいかないが、感情が
元もと皆無のため、同級生の範囲で済まされる。怒りの感情は、全てここで?
<考えない、なやめない、カッパエビセン♯♭♪> が、何故か浮かんできた。
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5281,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー④
2015年08月30日(日)
ーその時、言葉は私の「神」となるー (新潮45/6月号)
〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
* 言葉は原罪から生まれた
他人からみた私を意識する「自意識」過剰が果たして罪なのか。
二つの私、「自意識の私」と「自我の私」の両者が頭の中で、常に問答をする。
老齢期では、「私の人生、果たして、これで良かっただろうか?」と。
良かったのだろうか? 人間は生きている限り、原罪を犯すもの。
老いて、その原罪を見つめて悔悟する。知識を持つことは原罪なのか?
知恵を持つことが原罪なのか。他者=世間の目を神のごとく信じるのは、
プラ・マイの両面を持つ。 最後は、自分の自意識で、どう受け止めるか?
死線を漂い、社会復帰をする中で思った心の奥底は深いもの。〜その辺りから
≪ ああ、諸君。「自我の私」として唯我独尊で生きるのと(もちろん、孤独は
感じない。もとより孤独という概念がないからね)、「自意識の私」として
他者と繋がりながら傷つけ合いながら生きるのと、どちらが幸福なのだろうか?
少なくとも心肺停止前の「自我の私」で生きていた私は、多幸感に満ち満ちて
いた、他者のいないたったひとり楽園に住んでいて、寂しさも不安も感じず、
その中でぬくぬくと微笑んでいた。周りの人々から見たら、それは呆けた抜げ殻
であったようだが、本人はそんなことちっとも気にかけず、ふわふわと漂い
幸せに生ぎていた。・・心肺停止の後に生ぎ返って、目覚めた私は自意識も取り
戻していた。肉体が回復すればするほど、自意識も回復し、他者との関係に
悩まされるようになった。特に例のMXTVの降板以降は、人と会うのが嫌になって
完壁に引きこもった。社会に拒絶された気分になってひどい孤独感に苛まれ、
誰にも必要とされない自分にはもはや何の価値もないと苦しんだ。
おそらく「自我の私」であったなら、そのような苦しみは味わわなかっただろう。
「孤独」も「自分の価値」も、他者との比較や承認から生じる相対的な概念である。
他者を通して自己を確認するから、他者から拒絶されることが自分の存在まで
脅かすのだ。自己の存在の絶対性を疑いもしない「自我の私」は、仕事を失って
経済的な不安を感じることはあっても、それを己の存在意義の問題とは捉えまい。
そうやって考えると、我々の苦しみの原因は、ほぼ「自意識」に起因している
ように思える。 我々は「自意識」を持つべきではなかったのか。エデンの園で
幸福に暮らしていたイヴに蛇が勧めた「知恵の実」は、やはり禁断の木の実で
あったのか。「自意識」を持つことで我々は他者の目に裁かれ続け、他者に
見捨てられる不安に怯え、大きな苦しみを背負うこととなった。だから聖書は
それを「原罪」と呼んだのか。「自意識」は「罪」であったのか。
犬や猫は鏡に映った自分の姿を「私」だと認識しない。鳥にいたっては、鏡の中の
自分に向かって求愛のダンスを踊るらしい。彼らには己を客体視する能力がない。
彼らにとっての「私」は、ほぼ百%「自我の私」である。彼らは幸せなのだろうか。
他者にとっての客体ではなく、「私」という主体としてのみ生きていくことは、
どんな苦しみも生じさせないのだろうか。いや、待て。「苦しみがない」ことを
「幸せ」と考えていいのだろうか? 苦しみば確かに幸福感とは程運いものでは
あるが、我々は「甘美な苦しみの自意識」というものも知っているではないか。≫
▼「起こってしまったことは変えられなくとも、受止めかたは変えられる」と
いうが、これも、「自意識の私」を「自我の私」への変換ということ。
「他者を通した自己の確認」を超越して、己の原罪を見つめることが必要である。
そこまで自分を追詰めないと、内なる二つの問答が、蒟蒻問答になる。
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4916,一度、死んでみましたが
2014年08月30日(土)
『一度、死んでみましたが』神足 裕司著
* 重介護5のスーパー闘病記
平々凡々の日々を当たり前のように過ごしているが、実は、これが最上で
あることに気づくのは、失ってから! あと一年余りで、平均すると同年齢
の男の過半数は介護生活、5年後には寝たきりに、10年は死んでしまう。
TVや、西原の漫画に度たび出ていた神足裕司を、この数年見かけなかった。
実は三年前にくも膜下出血で倒れ、重介護度5でリハビリ生活の中、
去年12月に、不自由なベッドで書いた『一度、死んでみましたが』という
スーパー闘病エッセーを出していた。コラムニスト復帰の第一弾の本を、
偶然、図書館で見つけ、借りてきた。脳の大手術で、現在も殆ど動くことが
できず、寝たきり。ここで、介護、寝たきりとか、言っているが、この書を
読むと、さほど遠くない未来に似たような事態になる可能性が十分にある。
50歳半ばから還暦辺りにかけて、友人、知人が次々と、半身不随になったり、
癌で死んでいるが、どれもこれも、最期は壮絶な状態。これは、その実況
中継のような闘病エッセーで、ベッドの中の苦闘が、そのまま伝わってくる。
本の題名が『スーパー闘病エッセー! 一度、死んで見ましたが』
HONZ http://honz.jp/36901 の書評が、要点の7〜8割は押さえている。
「その時から、それまで生きてきた一生分を生きることになる」と言うが、
そう信じさせられる内容。 ーアマゾンのレビューの、息子のレビューより
≪ はじめに、家族という立場にあるものからのレビューであることをお許し
いただきたい。本が手元に届いてからも、私はなかなか本を開く気に
なれなかった。怖かったのだ。父の、つまりはこの本の筆者の状態はもちろん
百%ではない。ページを繰っていけば、彼がこれまで積み上げてきたものが、
私の前に立ちはだかる者としての彼が、崩れ去ってしまうのではないか、
そんな恐れを抱いていた。杞憂だった。そこにあったのは、私にはとても
紡ぎ出せない「凄み」のある言葉の数々。いや、もしかしたらこれは、
以前の筆者にも書けなかったのかもしれない。薀蓄をちりばめ、変幻自在の
修飾語を用いながら、ページを埋め尽くすのが豊穣な表現だとするならば、
この本はそれには当たらないかもしれない。むしろ、そのような表現は
全てが余白へと沈み、筆者にとっての瞬間の全てがこめられている。
少なくとも筆者の生きる「世界」において、その瞬間、それ以外の表現は
あり得なかったのだろう。切り詰められた音の数。他の人が弾いたら、
ミスタッチだと思われかねないフレーズ。彼の憧れたジャズピアニストを
思い出す、なんていったら笑われるだろうか。
・・ 病気は誰にでも訪れうることだ。「病気」とはなんなのか、「家族」
とは「友人」とは、そして「生きること」とは何か。誰しも考えたことのある
テーマについて、文章を書いているその瞬間の筆者にとっての虚飾のない、
研ぎ澄まされた言葉が胸に迫ってくる。深刻なテーマに思われながら、
どこかにおかしみを含んでいるのは筆者のコラムニスト魂だろうか。
くも膜下出血、高次脳機能障害の患者・家族の方はもちろん、今立ち
止まって「これから」について考えたい方には、ぜひお勧めしたい一冊です。≫
▼ こうなるか、癌で壮絶死をむかえるか、今の私に出来ることは、日々を
味わうしかない。どのみち、少し早いか遅いだけ。それでも奥さんが優しい
人のようだが・・ 本人は、このスーパー闘病記を、自分の愛読者に読んで
もらうことが、慰めのようだ。私のエッセイ『事業人生を決心して・・』
の続編として「その後、脳溢血で倒れてと、この事態になった」と
吾が身に例えて読むと、他人事でない内容である。
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4549, 六韜三略
2013年08月30日(金)
学生時代に、守屋 洋著『六韜三略』と海音寺潮五郎著『孫子』を読んだ時
の面白さと驚きは今でも憶えている。純朴で、欲と欲の争いに立たされる前の
学生時代に読んでいたため、社会に出てから丁度良い手引き書になっていた。
この思想を通して人間をみると、その心底が透き通って見えるようで、
世俗が幼稚に思えてくる。 ー当時の感想はー
《人間は欲で動いているが、それを隠して綺麗ごとを並びたてる社会的動物。
それを前提に一切を無にして諸現象を一度、疑ってみること。そして冷静に
本質を捉えること。利害対立の場に立った場合は、よりシリアスに徹すべし》。
そう割り切ると、誠意の外面の奧に隠された心底が手に取るように見て取れた。
これに学生時代のゼミの(現象の)事例研究が叩き込まれていれば、アウト
サイダーになるのは自然。人生に戦略的である必要性を、この書で実感。
人生への鳥瞰の視線でもある。 ーネットで、『六韜三略』を検索するとー
《「六韜」は文韜、武韜、竜韜、虎韜、豹韜、犬韜の六篇からなることによる。
「韜」は弓袋( 秘訣)。「略」は機略の意味。「三略」は、上略、中略、
下略の三篇からなることによる。 二つとも「太公望の兵法」であるから、
主張を統一して判断すべしというスタンス。もう一 つは内容である。
『六韜』が兵法のうち戦略・謀略を担っているのに対し、『三略』が政治思想、
軍事思想を担っている。『三略』はリーダー、『六韜』はマネージャー の書 ..》
《 劉邦の軍師となって漢の国の柱石となる張良が、若い頃、行きずりの老人
から「明朝5時、ここに来い」と命じられた。言われたとおりその場所に
行くと老人はもう来ていて、「年寄りを待たせおって。また明日だ」と言って
去った。 翌朝、今度は3時に行ってみると、また老人は待っていて
「まだまだだ」と同じように去る。 張良は意地になって「今度は絶対に
待たせない」と徹夜して老人を待った。すると老人はニコニコと笑って六冊の
書物を渡し、「よく勉強して世のためになれ」と肩を叩いた。
『六韜』は「虎」「竜」を始めとした六巻の兵法書で、「虎の巻」の語源。
『三略』は、前・中・後の三巻からなる兵法書で、『六韜三略』は
中国はもちろん日本の戦国大名の兵法書としても親しまれた。》
《 中国の兵書、六韜と三略の2書。前者は太公望呂尚、後者は黄石公の
撰述と伝え、併称して韜略の書という。 いずれも後世の偽書であるが、
宋代、『武経七書』のうちに組み入れられ、中国古兵法の教科書として広く
読まれてきた。・六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民の術、
富国強兵の策を説くもの 》
▼ これを参考に黙し対処したら、これほど難しい相手はいない・・
この書を通すと、面白いように物事が透けてくる。心静かに、これを読み
続ければ、その中の原理原則が己を導いてくれる・・ 学生時代に、
この二書を読んでいたので、いざこざの真只中で、対峙した人の言葉を一度、
突き放し、疑い、静かに自問自答する余裕が出来ていた。問題は、その都度
「正中心一点無の心境で道理は何かを考える」しか解決は出来ない。
・・・・・・
4174, 閑話小題 ー電機メーカーの苦境
2012年08月30日(木)
* 電機メーカーの苦境
日本の電機各社が苦境に陥っていると、マスコミを騒ぎ出している。
この原因が、あのエコポイント。電機メーカーにとって、神風になり大きな
利益を確保したが、その間に韓国などのメーカーが主力商品に力をつけ日本が
太刀打ち出来なくなっていた。数年前まで、薄型TVで勝ち組だったシャープ
が死に体で倒産の危機になり、同じく恩恵を受けたソニーとパナソニック、
東芝、日立の各社が数千億の赤字というから尋常ではない。世界に名立たる
日本のブランドが、今や苦境に立っている。耳を疑うが、これが現実である。
現在、同じことが自動車で行われている。 どうしたというのだろうか。
中小企業救済法も今となれば、良かったのか悪かったのか? しかし、産業の
不振は日本に限ったことでない世界的な流れ。スマートフォンとタブレットPC、
この中に、電話、テレビ、パソコン、デジカメ、ビデオ、全ての機能が入って
同じ位の値段なら電子機器が売れなくなるのは当然。日本のメーカーが、
専用機種に目を奪われている間に、マックや韓国メーカーが、ここに集中
していたのである。日本のメーカーは決定的なミスを犯してしまった。
10年前、5年前なら考えられない事態が、目の前に起こっている。
* 地元経済は、ますます悪化
先日、3ヶ月ぶりに自宅に送付されてきた一連の書類を持って弁護事務所に
行き弁護士と30分位、世情話になった。中越地区の景気状況は、来春の
「中小企業特別救済立法」の打ち切りに向けての動きが顕著になっており、
その上に刈羽原発の休止にともない関連の5千人の従業者のうち3千人が、
この秋に整理される。更に小千谷にある大手の工場も雲行きが怪しい。
それらから景気は一段と悪化しているという。一線から退くと生の情報は
殆んど入ってこなくなる。必要がないからもあるが。この9月から12月にかけ、
リーマンショック並みの一大イベントが発生する可能性が大と見ているが、
その前兆の波か、それとも思い過しなのか? 景気は一段と悪化の道を
たどっているようだ。
・・・・・・
3809, つれづれに
2011年08月30日(火)
▼ 収まる所に収まった民主党党首
最後の最後まで、誰が民主党党首に選出されるのか分からないギリギリの選挙。
しかし、海江田と野田の二人の決戦となれば、どちらが相応しいかはTV画面が
正直に語っている。しかし小沢一郎と鳩山が後盾の海江田が勝つのではと予測
されたが、党員も、その歴然とした差に、野田に雪崩をうっていったようだ
(立候補者の一人が最後の最後に野田支持に回ったのが勝因ともいうが)。
その前にも、彼の立候補の政策を聞いたが、至極自然なもので、他が悪すぎた
こともあり、一人光っていた。
【 二年前に政権についたが、国民からは期待はずれの結果しか出せなかった。
次の選挙まで残された期間は二年。それまでに捨て身で、この国難とマニフェスト
を達成しなくてはならない。大震災の国難を乗り切るためには、 野党との
大連合を考え、かつ党内融和も必要。また赤字の国家財政と、大震災を乗り切る
ためには増税もやむをえない】
この当たり前のことを当たり前に述べているに過ぎないが、現在の与野党も
含めて、これをいうと世論受けしないとか何とかのジレンマに陥っていた。
小泉も含めて、この数代の首相の中で、一番真っ当であってほしいものである。
菅首相の直後では、やりやすいだろうが、この日本の政治と経済の惨状下では、
それもどうか?まさか、海江田とか、あれ、ではね。これで当分は、少しは
政治不信は小さくなるだろうが(いつも最初は期待感でそうだが)・・
この国の体質は、この20年で、あまりに劣化した。
▼ あれから5ヶ月
・・・・・・
2704、共同幻想を抱いていただけ?
2008年08月30日(土)
松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」である。
一万年前に農耕牧畜を始めて、「人間圏」を作り上げてきた。そして右肩上がり
人間圏の拡大が共同幻想だったことを、人類は宇宙に出て地球を俯瞰して初めて
知った。資源が有限であり、農耕以来、環境破壊を続けてきたことも、これ以上
の人間の欲望を拡大できないことも知った。
ー著者の松井孝典は、次のように人間圏の危機を述べている。
≪ 欲望のカタチは所有であり、人間は地球という大地を「所有」すると、
錯覚していたのである。これが人類の「共同幻想」というのである。
共同幻想は、これだけでなく、貨幣は未来永劫に交換可能とか、神様の存在とか、
人間の命は地球より重いとか、民主主義、市場主義経済とか、自由平等とか、
人間を規定する概念すべてといってよい。21世紀の人間圏にとって、その崩壊
の引き金になる最も高いシナリオは、これらの共同幻想が多くの人に幻想と認識
されたときである。 その一つがインターネット。インターネット社会は、
個々人を主体化し、情報が個人に拡散する。 情報が拡散するということは、
社会が均質化していくことになるが、共同幻想という面で理想的かも
しれないが、宇宙からの視点から見れば、人間圏のビッグバンになる。
それは秩序も構造も、情報もあってない、混沌とした社会になる。》
そこで、共同幻想とは何かを知るためにネットで調べてみた。
ー以下は共同幻想についてのウィキペディアのコピーであるー
共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。
日本の思想家である吉本隆明が用い、有名になった言葉。吉本は、自分の
共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、ただ手垢が
ついているから使いたくなかったと述べている。 吉本隆明は、著書
「共同幻想論」で人間関係は3種類に分類されると提唱。
▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。
他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。
▼ 対幻想 = 個人と他者とのプライベートな関係。
〜家族・友人・恋人がこれに当たる。
▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合が
これに当たる。宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、
教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。 この分類は効果的であり、
世界を正しく見るうえでこの3つの幻想領域を混乱、混同させないことが大事
であると主張する。これらはそれぞれ独自の法則で動いているのである。
例えば、吉本は心理学者のフロイトはリビドーと言う対幻想性を、社会領域まで
無条件に拡大して採用しようとしたところに誤りがあると批判する。
また、1人の人間もこの3つの領域でそれぞれ違う顔を持っている。
* 職場にいる顔と、* 家庭にいる顔、* 1人でいるときの顔や行動は、
それぞれ違うのである。外弁慶、内弁慶という言葉があるように、冷酷な
独裁者や軍人が家庭内では優しいよき父親であったり、逆に職場では物静かな
男が家庭内では暴力的な暴君として振舞うなどということは、充分ありえる。
吉本隆明は、共同幻想の世界では、個人が幽霊としてしか存在できないと主張。
例えば、「今は企業の危機だから、粉骨砕身働け」との企業幹部の檄は、
労働力を売りに来ているに過ぎない個人としての労働者の立場と矛盾する。
〜〜〜 以上だが、
松井孝典の二冊の本は、大きな衝撃であった。
地球学という視点で、自分を振り返ると、大いなる共同幻想の中で蠢いていた
小さな生命でしかないことだ。 太陽の惑星の一つの地球、その大気圏の中の、
物質圏の、生物圏の、人間圏の、極東圏?の中の小さな島国の、北陸圏の、
新潟圏の中の、何でしかない私。地球の外から俯瞰すれば、そういうことである。
そして共同幻想を何の疑問を持たないで抱いていた存在である自分を振り返り、
「何?何だったのか?」と根こそぎ、人生観がぐらついている。
恐らく身近に死を感じ取った時に、直感的に感じる恐怖心の向こうに見える
宇宙的な俯瞰の視線は、織田信長が舞ったという敦盛の「人生50年、下天の
内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」
を彷彿させる。