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<不幸な国の幸福論 2009/12/16 加賀乙彦 (著)>
* 幸福を阻む考え方・生き方
著者が東京発大阪行きの新幹線に乗車したところ、典型的な上流と
思ぼしき上品な奥様方3人のグループがすぐ後ろの席に場所を取った。
ご婦人たちは京都に着くまでの時間、大きな声で“会話”の話が著者の
耳に飛び込んできた話題を紹介している。 〜要約すると〜
《・「ご主人、部長になられたんですって? さすがねぇ」
・「さすがどころか、やっとなのよ。○○さんはもう役職待遇なのに」
・「でも同期の中では二番目に早いご出世だって聞いているわよ。羨ましいわよ。
息子さんは○×大学だし、お嬢さんもご結婚が決まったそうで」
・「主人の母校の△△大に行かせたかったのに落ちちゃって。○×大も悪くは
ないけど、義姉のところの子供たちが△△大出て外務省だから肩身が狭いのよ。
それに娘の相手がねえ。ウェブデザイナーとかいう仕事なんだけど専門学校
しか出てないの。フリーランスだから不安定だし、ご実家も借家住まいで・・」
京都駅で降りていく三人組は、それぞれブランドのバッグを持ち、ブランド
らしき服やアクセサリーで着飾っていた。 夫は難関大学出身で、日本有数の
大企業で働いているらしい。 住んでいるのは東京・世田谷の高級住宅街。。
著者は「快楽の踏み車」の言葉を用いている。 カゴの中で踏み車に乗って
ぐるぐる回転するハツカネズミ。そう自分で自分の欲望を果てしなく肥大化させ、
疲れ切ってしまう人間たちを重ね合わせている。
与えられた理想形「これこれの条件を満たせば幸せになっる」を疑うことの
ない人は、そのレールの上は走れても、レールから一歩はずれたら、自分が
どのように考えて進んでいけばいいのかわからなくなる。外的価値に拘れば、
束の間の満足と引き換えに、永遠の二十日鼠の、快楽のふみ車をまわし続ける
ことになる。》
▼ 面白い内容である。私が5年前の会社整理をした時に、外的価値に縛られ
一生を終えるハツカネズミと、ドブネズミに罵声を浴びせられた。 所詮、
ネズミはネズミと分かっているため平然としていられる。 ホテル経営で、新潟
駅前でチンピラに何度も暴言罵声を浴びせられてきたが、これ以下の連中と確信
できるので超然としていられる。
家内が某女子大の県内の地元OB会で、大小規模の経営者婦人たちとの会話
は大同小異で、こんなもの? オーナー会社の御婦人が中心もあり、少し違うが、
亭主の力関係が、そのまま当人に跳ね返ってくる。それを何とも思わないのが
家内の特性。幼少期の幾かの習い事のベースと、受験高校に在籍、地方の子女に
人気の女子大(短期)を卒業。実家の仕入先のメーカーの茶汲みを丸の内で二年、
その直後、私と見合い結婚。 割引新幹線で年に10回は東京名所巡りが趣味。
私と40回近い秘境・異郷の修羅場をくぐってきた経験がある。そこで、遥かに
違った人たちとのやり取りの経験も多々ある。 「あなたの状況がどうして私に?
私には関係ない!」の開き直りがある。 開き直りは私にも無いではないが、
遥かにドライときている。 元もとサラリーマン系ハツカネズミの単一思考など
何もない。 5年前に「もしか、原信のレジをしなければならないの?」と、
する訳が無いのに、至って超然。この程度は、彼女にとって、幸せを阻止する
要因でない。単一の理想系すらない。生まれ、楽しみ、その時が来たら、死ぬ。
こういうのを幸福形(系)の人というのか。それにつけても、私は何をしてきた?
以下の「うさぎちゃん」みたいのも、存在しているのに。
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5280,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー③
2015年08月29日(土)
ーその時、言葉は私の「神」となるー 中村うさぎ
〜心肺停止になって考えたこと! (新潮45/6月号)
* 二種類の私と、純粋な自我
死に際を経験すると、傍目に縛られすぎてきた自分に気づかされる。
そして、裸の己を直視し、それを言語化し、それに従うことが、自分の真実を
生きることと、著者は悟る。 死線を漂うと、虚無の彼方から、宇宙の向こう
側から、小さな世界に縛られている自分を客体化する視線を持つ。
その実体験から得た、重層の心の構造を、醒めたタッチで解体する。
≪ 心肺停止の数日前に私は別人格になっていたらしい、という話を以前に
書いたと思う。 ・・誇大妄想的な発言を真顔でしてみたり、「魂が抜けて
言葉だけ残った空っぽの中村」になっていた。あの時の私はいったい何者だった
のだろう、と今でも時々考える。あの頃の私は別人になっていたわけではなく、
自意識とかいうものを一切失い、純粋な「自我」のみになっていたのでは。
私が「私」と言う時、そこには二種類の「私」が混在しているように思う。
・ひとつは「他者から視られている私」という「客体としての私」で、
・もうひとつはデカルト言うところの「我思う、ゆえに我あり」的な
「主体としての私」である。
「客体としての私」は「自意識」に支配されており、
「主体としての私」は「自我」そのものだ。たとえぼ「世界を救う」などと
いった壮大にして荒唐無稽な使命感を私が意識の底に抱えていたとしても、
それが他者の目にどんなに愚しく狂気じみて映るかを知っている「自意識の私」
は決して人前でそのような発言をしないし、何とか己の意識下に無理やり、
その人格を封印してしまうだろう。だが当時の私は、そのような他者の視点で
己を視るというスキルが崩壊していて、頭に浮かんだことを自意識の検閲なしに
ぺらぺらと喋っていたのだった。まさに「我思う、ゆえに我あり」だ。
私が思考し、私が語るから、私は「私」の存在を実感する、という感覚。
そこに他者は介在しない。他者を通して自己確認することもない。
私という主体を中心に世界は存在し、自分の存在価値など問う必要もない。
「価値」などという相対的な概念が最初からないのだ。なんと単純明快な
世界だろう。アダムとイヴが他者の目を気にして己を恥じたり隠し立てしたり
することもなく、素っ裸で歩いていた「エデンの園」そのものではないか。
「自我の私」のみで生きるということは「エデンの園」に戻るということである。
他者の評価に怯えることもなく、己の存在価値だのに悩まされることもなく、
獣のように天衣無縫に生きられる楽園の生活。が、その代わり、社会性は著しく
失われる。自意識が高度に発達した現代社会で、このような人間は生ていけない。
生きていくことを許されない。 ≫
▼ 先日、一番上の義兄の葬式に参列した。地元の名士?の中で、精一杯、
背伸びをして生きた人だった。表面的な人付き合いに生きるのも、それは
それで、一つの生き方である。それぞれにとって、中味は別として、それが
全世界である。ただ、自意識に支配されている、「客体として私」を、
「主体としての私」が、見つめ、「自意識過剰」を「自我」がコントロール
する基盤が必要となる。それが教養である。「独り」を「独り」で楽しめる
素養は、家系を含めた長年の蓄積が必要となる。城下町は、それは有り余って
いる筈だが、変化を嫌う体質が、「独り」の世界を小さく変質させてしまう。
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4915,閑話小題 ー宝塚歌劇団「ブスの25か条」
2014年08月29日(金)
宝塚歌劇団には「ブスの25か条」なる教訓が舞台裏に貼ってあるという。
右側の⇒は、私が真逆にした「美人の25か条」。
これはスターの内的要素の骨格である。
「ブスの25か条」 「美人の25か条」
1.笑顔がない ⇒ 常に笑顔で
2.お礼を言わない ⇒ 前回のお礼の挨拶から
3.美味しいと言わない ⇒ 美味しい、嬉しい、楽しい、幸せを口癖に
4.精気がない ⇒ 精気を満たす
5.自信がない ⇒ 自信を持てる何かを持つ
6.愚痴をこぼす ⇒ 愚痴は言わない
7.希望や信念がない ⇒ 希望と信念を持つ
8.いつも周囲が悪いと思っている ⇒ 周囲のお陰様に気づく
9.自分がブスであることを知らない ⇒ 自分の程度をわきまえる
10.声が小さくイジケている ⇒ 声が大きく溌剌としている
11.なんでもないことに傷つく ⇒ 何ごともケセラセラと楽天に
12.他人に嫉妬する ⇒ 他人の美点を凝視する
13.目が輝いていない ⇒ 何ごとにも興味をもつ
14.いつも口がへの字の形をしている ⇒ 笑顔を心がけて、口元を上げる
15.責任転嫁がうまい ⇒ 元は此方、そのまま結構の心がけ
16.他人をうらやむ ⇒ 人を賛美する
17.悲観的に物事を考える ⇒ 楽観的に、そのためには教養を
18.問題意識を持っていない ⇒ 常に問題意識を持つことを心掛ける
19.他人に尽くさない ⇒ 人の役にたつ生き方を
20.他人を信じない ⇒ 信じられるだけの知識を持つ
21.人生においても仕事においても意欲がない ⇒ 積極一貫の心かけ
22.謙虚さがなく傲慢である ⇒ 謙虚に、注意を常にもつ
23.アドバイスや忠告を受け入れない⇒アドバイス、忠告を聞き、受け入れる
24.自分が最も正しいと信じ込んでいる ⇒ 唯我独尊の人から学ぶこと
25.存在自体が周囲を暗くする ⇒ 光り輝くよう、自分を磨き続けること
▼ 老いるとは、人間としてブスになっていくプロセス? 無知で我ままなら、
誰もがブスの要素が多くなる。とすると、これは戒老録にもなる。タカラ
ジェンヌが光り輝いて見えるのは、内側からの輝きを心掛けるため。物理的
貧困と精神的貧困は「貧すれば鈍す」で、『ブス』になりがちになる。
それと無知!これを常に自覚していないと、左側の要素が増えていく。
タカラジェンヌのミニスターを、まず彼女たちは演じることから始まる。
そして大スターの道をめざし、日々、努力をする。
幸せへの道しるべ!である。
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4548, 2050年の世界 ー1
2013年08月29日(木)
「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」
英『エコノミスト』編集部 (著)
* 2050年までを見通すことで現在を理解できる
何気なく図書館の返却コーナーで手にとった本だが、英『エコノミスト』
誌の各ジャーナリストが20の分野で予測。これが面白いが限界も見て取れる。
この激動の時代に、40年先の予測など所詮は無理な分野もあるが、人口趨勢
など予測可能な分野もある。だから面白い。
5〜10年先を予測したければ、40年先を考えてみればよい。
ーアマゾンの内容説明ー 〈 2050年日本のGNPは韓国の半分になる。
グローバルな一流誌英エコノミスト誌が、総力をあげ、科学、政治、人口、
経済、女性、などの20の分野で2050年までの世界を予想 〉
まずは‘はじめにー「2050年までを見通すことで現在を理解できる」’の冒頭
≪ 世界人口が10億人になったのは、18OO年ごろのことだが、それまでに
人類は20数万年の歳月を費やしている。ところが、 60億人から2011年の
70億人に違するまで要した時間はわずか10数年。このような変化に驚くほどの
速さで展開する大規模な変化は―メガチェンジーと呼ぷにふさわしいもの。
実際、わたしたちはメガチェンジに囲まれている。技術は信じられないほどの
スピードで拡散しており、ネットや携帯電話の進歩は言うに及ばず、現在では
コンピューターから大量の情報を入手したり、フェイスプックやツイッター
などのソーシャル・ネットワークを通じて、大量情報を受信したり、発信する
ことが可能である。また、世界経済は私たちの目の前で着々とアジアへ
重心を移している。このような変化はどれも、人々の生活と、企業の戦略と、
国家の政策と、地球の将来展望に深遠な影響を与える。
ー本書は2の重要な目的を持っているー
☆ 第一の目的は、人々の健康から財産まで、あらゆる側面から世界を変革
するトレンドを特定し探求することだ。本書では、身の周りの話題をひとつ
ひとつ論じてみたい。この手法を採用すれば、わたしたちは、ヘリコプター
から地上を見下ろすように、俯瞰図を掌握することができるだろう。
☆ 第二の目的は、第一の目的で確認したトレンドにより、2050年の世界が
どのように形作られるかを予測することだ。一見すると、これは非常識なほど
大きな野望かもしれない。 ダン・ガードナーが自著「専門家の予測はサル
にも劣る」で論じた、人類の歴史には百パーセントデタラメな予言が
のらべられている。1914年、英国人ジャーナリストのブレールスフォードは、
「近代国家間の国境の線引きが最終決定されたことは、政治的にはこれ以上
ないというほど確実である。私見を述べると、今後、既存の六大国間で戦争は
勃発しないだろう」と記した。第一次世界大戦が始まったのはその直後。
米国経済学者のフィッシヤーが「わたしの予想では、これから数カ月の間に株式
市場は大幅に上昇する」と予言したのも、1929年の株価大暴落が起きる1週間前。
果たして人間が未来を知ることは可能なのか? あすの天気を予想するのさえ
難かしいのに40年後の世界をどうして描き出せるのか? おそらくこの四十年の
あいだに、わたしたちはブラック・スワンの詳れを絶えず目撃させられるはず
だとはいえ、未来を予測してみる価値はある。奇妙だが、2050年を予測する
ことは、来週や来年を予想することよりも簡単。実際、ナシム・タレブも
一世代以上先の予測を好んでいる。 長い年月で「今日において脆弱な
ものが壊れて消える」からだ。》
▼ 次回から、めぼしい部分を抜粋しながら考えてみる。40年前といえば、
文化大革命が終盤を迎えていた頃。そこで、現在の中国を予測できたか?
その十数年後にソ連の崩壊、東欧の共産圏の消滅。日本のバブルと崩壊。
その10年後の9・11テロ、7年後のリーマンショック、その3年後の東北大震災。
それより、世界中の人々が形態パソコンを持ち、ネットで繋がるとは誰が予測
できただろう。40年後に存在しなくとも、どんな時代か考えるだけで面白い!
・・・・・・
4173, 木を見る西洋人 森を見る東洋人 ー2
2012年08月29日(水)
* 二つの違った未来観 !
「木を見る西洋人 森を見る東洋人」 ニスベッド著
ー西洋と東洋の認知の違いはなくなるかー
フクヤマとハンチントンの二人の政治学者の未来観こそ、西洋と東洋の違い。
20世紀に入ってから、哲学が、決して西洋が文明的に優れているのではない
という構造主義の考え方が主流になってきている。しかし時代は木も森も、
そして、地球環境も同時に見ていかなければならない時代になってきている。
3・11震災がもたらした原発事故が、それを我々に突きつけた。この対立は、
避けることは出来ないが、何とか、それを抱えて未来に向うしかない。
ー まずは、その部分から
≪ 今、二つの非常に異なった未来観が、多くの領域の社会科学者たちの間で
戦わされている。ひとつは政治学者のフランシス・フクヤマが唱えた未来観で、
世界の政治経済システムが一極に収束し、それに伴って価値も一極化していく
ことを予測するもの。もうひとつは今後とも多極化が続くことを予測するもの。
フクヤマは著書『歴史の終わり』で、資本主義と民主主義が勝利をおさめた今、
面白い出来事を生み出すような切迫した力はもはや存在しないと述べている。
片や政治学者のサミュエル・ハンチントンは、世の中が今度とも多極化を
続けると予測している。社会が収束に向かうというフクヤマの視点とは大きく
異なり、ハンチントンは世界が『文明の衝突』を迎えようとしていると断言。
東アジア、イスラム、西洋といった主要な文化集団における価値観や世界観の
違いは調整不可能であり、したがって対立は避けられない。
「民族の対立と文明の衝突が生じつつある中にあって、西洋文化の普遍性を
信じる西洋人たちの信念には、3つの問題点がある。その信念が誤りだという
こと、道徳に反するということ、そして危険だということである」
言うまでもなく、経済や政府のかたちがどこでもみな同じならば、
人の心の中はどこへ行っても同じだろう。逆に、文明の衝突が避けられない
ならば、思考の習慣は多極化を続けるだろう。 ・・
フクヤマの未来観は、多くの西洋人、特にアメリカ人の視点を代弁している。
アメリカ人は、誰もが根はアメリカ人か、そうでなければ、これからアメリカ人
になると思っている。・・今やどの国の人たちも、ジーンズとTシャツを着て、
ナイキの靴を履き、コーラを飲み、アメリカ音楽を聴いて、アメリカ映画と
TVを見ている。 逆にハンチントンによれば、世界の文化が西洋の文化に同化し
つつあるという考えは、近視眼的かつ自民族中心主義な発想にもとずく幻想。
社会は互いに違っており、今後の国際紛争は、過去に見られた経済的あるいは
政治的な対立よりむしろ、文化的対立を発端にしていると考えられる。・・・≫
▼「東洋と西洋の混血が現時点の日本」と仮説を立てると、日本の混乱が見える。
和魂洋才という言葉が、それをあらわしている。情報化の進展で世界がグローバル
化された現在、決して否定出来ないこと。要は和魂を常に意識すべき。これは日本
だけでない。トルコがイスラム教国に関わらず欧州よりの国家体制を作っている。
矛盾があっても乗り越えてである。いずれにしても、あらゆる人種をかかた世界が
ネットで情報が共有された現実がある。それゆえの混乱は激しくなるのは当然。
・・・・・・
3808, 哲学人 ー⑧
2011年08月29日(月)
● 社会主義〜 妄想的理想社会への逃避
ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
残念ながら、学生時代から社会主義・共産主義に対して本能的に、その虚偽を
見抜いていたつもりだった。それも、思いこみでしかない。しかし経済も社会も、
国家単位の計画で成立するはずがない。
「経済は個々の競争原理の弱肉強食の戦いの中から優勝劣敗で進化する。
その歪を国家がコントロールすべきで、役人がたてた計画経済で、ことが上手く
進むなどありえない」という単純な考えから抜け出れなかったのが本当だったが。
ここで、マギーは、学生時代に「資本論」に大きな影響をうけたと述べている。
人生で夢中になった一ダースに満たない本の一冊に「資本論」を上げている。
しかし、社会主義国家が本当に成立するかどうか、疑問を持ったと、述べる。
【 * ー 資本論を、二週間ひたすら読む ー
二学年めの復活祭の休暇中、私はオックスフォードに見つけた下宿屋にこもり、
二週間は朝も昼も晩もひたすら
『資本論』を読みつづけた。じっくりと読み進め、書いてある内容について考え
たくなったら、いつでも本を置いて好きなだけ黙想し、散歩をしながら重要な
一節について思索したり、夜にはべッドのなかでもこの書物について思いを
めぐらせたりする。そんなふうに夢中になった本はそれが初めてだったし、
生涯を通じてもその数は一ダースに満たない。
プラトンの『対話編』、『新約聖書』、ヒュームの『人性論』、カントの
『純粋理性批判』、ショーペンハウワーの『意志と表象としての世界』、
『ウパニシャッド』、力ール・ポパーの『開かれた社会とその敵』、
アインシュタインの『一般相対性理論』ぐらいだろう。こういった本が私を
変えてくれた。これはつまり、こうした書物に感化された考え方をするほど
夢中になったということであり、もし読んでいなかったとしたら、いまのような
人間になっていたとは思えないということである。誰であれ、そんなふうに
言える本はめったにあるものではない。 私の場合、戯曲家、で同じことが
あてはまるのは、少なめに見積もるとシェイクスピアひとり、作曲家は七、八人
といったところだろう。もちろん、読書や観劇や音楽鑑賞の蓄積が、その人の
考え方や人格にじわじわと影響を及ぽし、自覚できる変化を自我に生じさせた
張本人と特定できる作家は、少数である。ここに挙げた書物の半分はドイツ語圏
の作家によるものだが、この事実(作曲家の大半もその地域の出身であり、
時代も同じであるという事実を加えてもいいのは、私の精神生活がどんなもので
あるかを示唆している。『資本論』の大半を占めているのは、英国の産業革命の
歴史である。にもかかわらず、私の考え方はマルクスに多大な影響を受けている。
その影響は、彼の著作を吟味するにつれて薄れていったけれども、けっして
消えはしない。私はそうなることを望まないし、マルクスの提示する洞察には
不変の価値があると思っている。彼は偉大な作家であり、大人物でもある。
その怒りと裁断は厳しすぎ、エホバめいたところがあるとしても、である。
『資本論』は退屈でわかりにくい大冊だなどという考えがどうして出てくるのか。
私には、その厚さにうんざりした人たちがこしらえた、読まないための口実と
しか思えない。『資本論』は名著である。 世界史上、指折りの影響力をもつ
書物であるのは確かである。 】
▼ ソ連の崩壊と、中国の実質、社会主義的計画経済の放棄は、それは理想で
あって、現実にはそぐわないことを立証した結果になった。そこに起こった
のは、役人の特権化と汚職の氾濫であり、狂った独裁者の誕生であり、国家経済
の疲弊である。熾烈な競争経済の中でしか経済は発展しないことが、数千万の
餓死などの犠牲者を出し証明された。まだ残存は残っているが。
・・・・・・・
3443, 最近の昼飯事情
2010年08月29日(日)
* まさか昼飯がパン食になるとは!
最近の昼飯は外食から事務所内で駅のベーカリーのパン食に切かえた。
時どき弁当もあるが、どうも冷えた弁当は部屋で食べるにはそぐわない。
レンジでもあれば別なのだろうが。それもインドのナンのようなもので
パセリと海老か、唐揚げを包んだものがラップに巻かれている。
若い女性が好みそうなやつで、それだけのコーナーがある。以前は、他に
カレーパンなど二個だったが現在では一個にバナナ。この歳になると、味は
美味しく、サッパリして、腹に持たないものを求める。とすると女性向きに
つくられたものが丁度良い。30年近くのランチャーも卒業で、お部屋で
ヒッソリとパン食。 なれると外食が馬鹿馬鹿しくなる。 駅内にある
スーパーの弁当コーナーを見ると、300円弱から400円辺りが中心。
月に3〜4回は買うが、何かイマイチ。駅のベーカリーにイートインの
コーナーがあり、コーヒー付きで400円位である。近くのマクドナルドなどと
競合しているが、殆どが女性客。早い時間から客席は半数以上は埋まっている。
最近、長岡駅内にも出展したが山崎パンの直営店という。最近、ほぼ同じものが
地元のスーパーに見かけられるようになった。スーパー原信が、地元の
ベーカリーチェーンを買収して、自社店舗内に出店している。土日のどちらか
一日の早朝7時に毎週行って、焼き上がりのパンとコーヒーを飲むのが
楽しみの一つ。昼にパン食に切り替えてから体重が1〜2キロほど痩せたが、
これで20歳半ばの体重に戻った。歳相応になったということか。
それより、ランチを食べに行くのが面倒になったということ。
(字数制限のためカット 2015年8月29日)