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【お金に強くなる生き方 〜佐藤 優 (著)】
* お金という幻想
この本は、お金に対して素人向き内容で物足りない!が、佐藤優ならと、
読み通した。そこで、私の「お金について」を、思いのまま書いてみる。
☆ 私たちは、お金という幻想で、何かを縛られている。父親が、日頃から、
「お金の恐ろしさ」について語っていた。 太平洋戦争の戦災で焼出されて、
それまでの国家体制の洗脳と、それを信じた結果、現金は無価値になり、
殆どの財産を失い、時代の激変の恐ろしさを肌身で経験していた。
自分の身を守るためには、土地、資源株、骨董品に分散して、ヘッジする
とか、普段の生活を質素にするなどを実践するのを身近で見て育った。
しかし、晩年、余命一年を告げられ、それらが何の意味がないことも
身近で知ることができた。しかし、バブル期に時代と踊る必要性も直感した。
「踊るときは踊り、崩壊する時は崩壊すればよいことも?」
お金は蓄積した分そのまま、力に変わること。
その為、時間をかけて一定額の預金と、投資をしておくことも。
☆ ここで、著者は、お金に対して、「見切り」と「見極め」の必要性を説く。
5年前に事業整理で、「見極め」と「見切り」をつけたが、これは「時代」に
対する見極めと、「事業」に対する「見極め」「見切り」であった。
☆ グローバルの時代は、国家間の垣根が低くなり、貧富の差が大きくなる。
私たちは、この中にあって、お金の本質や、世の中のカラクリを知って
おかなければならない。「アベノミクス」のカラクリを知った上で、
判断しないと、その正体が現れ出た頃には、何らかの食い物にされている。
大手銀行が、コマーシャルで、投資信託を勧めているが、あれは詐欺同然。
この程度のことが、分別のありそうな?人たちが引っかかってしまう。
そこで、アベノミクスで株価を上げて、景気を煽る。所詮、こんなもの。
手を引くなら今である。体制に従うしかない「畜群」には、無理だろうが!
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5264,徹底した自分主義 〜ニーチェ「超」入門〜
2015年08月13日(木)
〜ニーチェ「超」入門〜白取春彦著
* 徹底した自分主義
人間の遺伝子の基本は「エゴ」である。イエスでさえ「自分を愛する
ように、隣人を愛しなさい」と。他人を愛する前に、まずは自分を愛せよと。
18歳までに、家庭や学校などから洗脳された固定観念を、壊し始めるのが、
大人への第一歩。そのためには、「徹底した自分主義」に徹しないと、あれらの
ように、同一化された従順の羊になってしまう。 まあ、何も考えずに、世間様
におさまって、何も気づかず一生を終えるのも一つだが。何故なら、その範囲し
か知りえないのだから。その外は、知らないのだから! 〜その辺りから抜粋〜
≪ 処世術や、倫理や道徳、これは、してはならない、人には優しく、親切に、
等々、これをさらに細分化されて実践的なものになったのが、ノウハウとか
ハウツーというものだ。それだけではあきたらず、特定の現場でもっとも有効な
ハウツーすら出てくる。それがマニュアルだ。生き方、商売、セックスさえまで
マニュアルが用意されている。何をどうやるのか。なぜ、自分で考えて自分なり
に実行しないのか。世間の目がそんなに怖いのか。あるいは罪悪心を持つのを
恐れているのか。それとも、自分で考えることすらできないのか。
たぶん、教えられた通りにやればうまくいくという迷信が蔓延したあげく、
真理のように信じられている? 教えられた通りに勉強しておけば、テストで
いい点数がとれる。それをくり返してきたあげく、考え方が固ってしまっている。
だから、学校の成績のよかった人はもろい。挫折すると立ち直りにくい。
人生は固定観念を習う時間ではない。自分が生きていく時間であり、自分が
生きていく場だ。頭と行動を固定観念で染めてしまうと、自分はいなくなる。
自分の中に古い他人がたくさん詰まっているだけだ。そんな人に個性などないの
も当然だ。定年を迎えた人が「第二の人生」と称して、俳句、絵画だのエッセイ
だのを始める。誰もプロになれない。下手な俳句、下手な絵画、下手なエッセイ。
なぜ自分が下手なのか理由さえ知らない。その理由はシンプルだ。固定観念で
物事にあたっているからプロになれないのだ。俳句とはこういうものだ、絵画
とはこう描くものだ、という固定観念しか頭の中にないのだから仕方がない。
人が何かクリエイティブなことをして成功したいのなら、必ず概念、固定観念、
常識といったものを超越しなければならない。名人や芸術家というのはそれを
果敢にやってきた人々のことなのだ。固定観念の再現とか人の真似事がクリエイ
ティブであるわけがない。誰もの固定観念にある何か、ではなく、自分の中に
ある何かを表現することがクリエイティブというものだ。
多くの人が忘れがちになるが、この世に、生きていくこともクリエイティブ
なことだ。つまり、多くの人は自分を生きずに世間の人々を生きている。
だから、こういうことをすれば隣近所はどう思うだろう、親戚から白い眼で見ら
れないだろうかと危惧するのだ。自分の中に道徳も価値も基準もタブーもない。
そういった精神を支えるものすら、世間に依存する。これでは、自分を生きて
いる、といえない。したがって、この一回限りの人生を本当に生ききりたい
のなら、自分主義でいかなければならない。自分が自分のルールを決め、
自分がその責任をとるのだ。人にいわれたことをするのではなく、自分の意志と
計画で行動するのだ。そういう生き方は他人から見たら、わがままで自己中心
主義に見えるかもしれない。自由奔放で、掟破りで、アウトローに見えるかも
しれない。けれど、そういうふうにしてこそ、自分というものが掴めるのだし、
自分の能力を発揮できるものなのだ。それが他人にはわからないかもしれない。
いや、わかる人はまだ少ない。誰も理解してくれないどころか、世に認められ
ないかもしれない。しかし、いつか必ず、それが斬新なことだと認め称賛して
くれる人が現れる。でも、立ち止まってはならない。さらに自分主義で行く。
突っ走るのだ。これこそ、新しい時代を運んでくる人間の生き方なのだ。≫
▼ 20歳時に、「創業の人生」を生きると決めたと同時に、自動的に「自分主義」
が、確定した。その一点が、価値判断になった。当時、ある人に詰られたことが
あった。「ガチガチの個人主義者!」と。純朴な当時の心の奥の決心が、それが
見える人からしたら、そのまま‘その言葉’になっていた。 今からすれば、
それはそれで良かった? それほど、創業の決心は重く暗く、圧し掛かっていた。
4年前に、それらから解放された時の、心の軽さは、想像を遥かに超えていた。
そして現在、違った意味の人生からの解放への「自分主義」に向けて歩みだした。
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4899,ホントに大事なお金の話 〜4
2014年08月13日(水)
* 金の持つ力ー魅力・魔力・暴力とは
世の中の8割は?金の力で自由になる。だから魅力と魔力と暴力性を備えた
金を持つ人間に惹かれるのである。今の世界は資本主義社会であり、資本=金
が価値基準の元になっている。金とは、自由であり、力そのもの。金さえあれば、
世の中の8〜9割が自由に出来る。逆に、金を失うと、不自由この上なくなる。
そして、裸の自分と向きあう事になる。それが、逆に効用になるのは、
皮肉といえば皮肉。 ーお金の持つ力について、以下で、ずばり指摘している!
≪ お金とは何か、を考える際のキーワードは、金の持つ「力」である。
お金は、3つの力(魅力、魔力、暴力)を、兼ねそなえている。
1、お金は、価値がコンパクトに保存されていて、
必要なときに必要なものと交換できる(お金の魅力)
2、お金は、人々の欲をどんどん大きくする (お金の魔力)
3、お金は、そのカで人々を操ったり傷つけたりももできる
(お金の暴力)≫
▼ この3つの力は、人生を生きていく上で大きな働きをする。
100万なら100万の、1億なら1億の、10億なら10億の、100億
なら100億の力を発揮するし、それを動かすだけで世界も、視野も開ける。
・小学、中学と、高校、大学の友人を見ていると、学力だけでなく、
家系からくる貧富格差が明らかに見て取れる。
・お金の魅力については、その交換価値にある。 世界旅行に出たければ、
旅行代理店の旅行パックを選び、金を振り込めば、世界各国に気楽に行ける。
こんな便利で、都合の良いものはないが、これを稼ぐとなると、それなりの知恵
と努力が必要になる。 剥き出しの真実の塊は、そう簡単に得ることは出来ない。
・その金には、魔力が潜んでいる。金の魅力に対し、欲が無制限に広がっていく。
それが逆に命取りにもなる。
・お金は、その力ゆえに、人を支配した上に傷つける「暴力」性が出る。
お金で何事も解決できる
という錯誤を持ってしまう。しかし、解決のための一番の力でもある。
人間の持つ自由への無限の願望の、手段そのものになる。
・お金は、知識、情報に非常に似ている。知識、情報は、自由と力をもたらす
点である。持った分、使った分、自由を得ることが可能になる。 全てが、
終わってしまえば夢幻! それを金で買えるのか?買えるのである!
だから、魅力と、魔力があり、暴力性が伴うのである。恐ろしいかな幻覚。
で、饅頭欲しい! で、いやに去年の同月同日の文章が微妙に響いてくる。
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4532, 閑話小題 ーつまらん男
2013年08月13日(火)
* つまらん男は私じゃないか
今さらだが、最近、人生を振り返って、つくづく自分が「つまらない男」
「嫌な奴」と自覚するようになった。色いろの経緯もあって、自己否定と、
それを打ち消そうとする自己肯定が、せめぎ合う日々。老年は誰も似たか
よったり? 相手を指摘するときの人差指の下の3本は自分の方を向いている。
親指は上を指しているが、親指が天の道理で、人先指は相手の指摘、他の三本
の指が自分のこと、になる。相手の指摘は、自分に三倍も身に覚えのあること。
前回の同級会で、社長まで上り詰め、順調に定年をむかえようとしていた矢先、
不条理の返り矢に当たった実直な人物に、励まそうと思って使った枕詞で、
大失言をしてしまった。「つまらない男と思っていたが、良かったじゃないか。
この試練でアンタも半人前になれたんだから!」と。これ、自分に対する
自問自答の末に出した、その時点の自分への結論。「つまらない男」
は自分のこと。しかし発した言葉は帰らない。恐ろしいことである。
その直前に横の席に実家の老舗を倒産させてしまった人が、「倒産した
現状を考えれば考えるほど、心から感謝させられる!」と、語りかけていた。
この心の経緯が、私の自問自答の中でも多くあった。「事業が順調で、息子の
一人を継がせるのが、果たしてベストだったか。もう一人の息子に恨まれるし、
継いだ方は上手くいって当り前で、頓挫すれば恨まれるだけ。三羽の震災クラス
の黒鳥の到来で、思い切った事業撤収の決断こそ、ベストではないか。
下手な未練はないし、オセロじゃないが、それまでの白コマを逆に黒コマと
して考える機会にもなる。しかし、これは口外してはならないし、第三者から
みれば自己詭弁でしかない。このクラスの震災と経済震災の出あいは必ず意味
がある。」と思っていたので、それが手に取るように理解できたのである。
で、その返事が偉そうに、「以前の不幸を加えると、あんたも、これで一人前!
人生の完成じゃないか。」である。 哲学で言う「承認」の言葉。
それに対し、もう一人には、あまりに無神経な言葉である。でも、その結果は
当人にとって大きな意味(価値)があるはず。そのぐらいのことは葛藤の中で
十二分に自覚はしているはずだが・・ それにしても、常日頃、自覚し始めた
「嫌な奴」「上から目線のヤワな奴」の、自己「承認」になった。老いは恐しい!
【*哲学でいう承認とは? =ホネットの研究テーマは、相互主体間関係の
倫理的な再構成(ハーバーマスと同様、個々人の関係における道徳性の再構築)
にある。つまり、倫理的(道徳的)発展は、相互主体的関係を前提とし、
その中心は、承認関係に置かれている。】
ー究極状態の主体たる相手を認めなさい!これ人間関係の基礎ー
ご先祖様、歪んだ私を助けて!
・・・・・・・
4157, 老後は夫婦の壁のぼり
2012年08月13日(月)
ーまずは、内容紹介よりー 「老後は夫婦の壁のぼり」ねじめ 正一著
すべての団塊世代に捧げる老後のヒント。団塊世代の作家・ねじめ正一が、
人類永遠のテーマ「夫婦、男女のすれ違い」を縦軸に、今、団塊世代が直面する
「老後の問題」を横軸に、ユーモラスに、時に真摯に縦横無尽に紡ぐエッセイ集。
ーー
図書館で、この本を手にして早速よんでみたが、身につまされる話が次々と
出てくる。人生は坂を上ったり、下ったり、マサカの坂に出会ったりするが、
老いは、そんな生易しいものでなく、ロック・クライミングの室内用壁のぼり、
のようなもの。とにかく一日一日が、下に落ちまいとニジリ登っていく壁である。
亭主が外で働き稼いでいるうちは、奥さんも一歩下がってきた。
しかし稼ぎを無くして年金暮しで収入も激減し、家でゴロゴロしていると、
それだけで腹がたつのは道理。そのため、すれ違いと溝は深まるばかり。
ここで、ー夫婦喧嘩‘健康法’ーを紹介している。NHKの健康に関するTV番組に
出演した時の、鈴木清順のー夫婦喧嘩‘健康法’ーである。 番組が始まり、
「ねじめさんの健康法は何ですか」と、著者に話を振ってきた。著者は草野球を
していたので、「年間25試合の草野球が楽しい。身体を動かす喜び、仲間との
交流の嬉しさ、そして、試合が終わってから家へ40〜50分歩いて帰ること」
と上ずって話した。次に、清純さんに、その質問が移った。
≪「うん、そうですね。夫婦喧嘩ですかね。ばあさんと喧嘩していると、
腹が立ってきてぼけないし、脳みそが活性化し、どなると大声が出て肺に良い。
毎日欠かさず喧嘩しています」 いやはや凄い。隣に座っていた私は目から
鱗が落ちた。私の草野球健康法は海の藻屑、いやスタジオのゴミになった。≫
以上だが、それにしても大変なエネルギーだが、それなりの信頼感がないと
大声で喧嘩もしていられない。家内とも大喧嘩は日常茶飯事だが、どうも
こうも、精神的にも肉体的にも健康法とはいえない。それよりも、家に入って
からは、互いの壁のぼりが言いえて妙である。「神様は連れ添いに世界一相性の
悪い人を選ぶ!」という格言がある。若いときは、自分にない部分を持っている
人に惹かれるもの。それは逆に、自分と重なる部分が少ない人。それが長年かけて
鬱積として蓄積されている。それでも昼は、すれ違いで何とか耐えてきたのが、
年金暮らしで昼も夜も一緒なら叩き合いになって当然である。特に男は、縦社会
に生きてきたので、日常という横社会中心の場での生活に慣れてないため、
どうしても妻一人に気持ちがいってしまう。小さな家の中での啀み合いが、
「老後は夫婦の壁のぼり」になるのである。
もしか、これ、ロック・クライミング? 酸素切れ?
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3792, つれづれに ー 今日は御盆
2011年08月13日(土)
今年の御盆は格別の思いである。姉、兄に続いて、私もこの三月末で会社を
倒産させてしまった。「亡き両親と兄たちに、どう報告すべきか?」という
気持ちは、何処かにある。急激な悪化は、あと数年は大丈夫という見通しも、
数ヶ月もしないうちに、少し前倒しの決断をせざるを得なかった。この事態の
中でも事業を継続発展させるのが私の務めだったはず。経営は結果責任、
言い訳は一切無用である。20年前のバブル崩壊、10年前の9・11テロ、
そしてトドメが三年前のリーマンショック、その上に更に東北大震災。
この20年と、これから10年の異変は、明治維新と第二次世界大戦に匹敵するか
上回る規模になる。問題は、それが今だ進行中であること。父親が、第二次世界
大戦の敗戦時には42歳であった。私は現在、65歳で、年齢からみて
再チャレンジ出来る年齢ではない。また情報化とグローバル化の時代背景がある。
特に、情報のネット化が数千年、いや数十万年に一度の人類にとって想像を絶する
ツールで、人類のあり方そのものを根底から変え始めてきている。
情報化、デジタル化は、多くのものを無料化させる力が働く。これはプラスにも
マイナスにも働く。携帯電話にパソコン機能が入り、個々人の間の情報が瞬時に
やり取りが可能になった。そのため世界中の既存体制が、そのコントロール不能
になっている。この中での事業経営は、非常に難しくなってしまった。
日本も世界も、この混沌とした中にあって、大きな岐路にたたされている。
この時期、リーマンショックで疲弊した日本に千年に一度の東北大震災が襲った。
この布置は、世界規模では戦争か災害が起こる可能性がある。それが我々の前に
どのような事態で現れ出るのだろうか。幸いといって良いのか、世界に先立って、
日本は20年前にバブル崩壊を経験し、国家も、会社も、個人もダウンサイズ
をしてきた。その点では、体質が既に変わってしまっている。 第二次世界大戦
の半年後に、日本で生を得て、そして、それに匹敵する変動を、ここで経験して
いる自分が、そして日本がある。その三分の二が右上がり、三分の一が右下がり
であった。人生の丁度良い時節が、歴史的繁栄の右上がりだったことを感謝している。
日本の浮き沈みに自分の人生が、ほぼ同じように重ねっていた。 所詮は国家と
盛衰のウネリの中で、浮き沈みをするしかない人生か! 目出度し目出度し!
より、この方が、よほど良い人生かもしれない。 そう思うしかないが!
でも、やはり恵まれていたことになる。
・・・・・・・
3427, iPad 対 キンドル ー4
2010年08月13日(金)
『iPad対キンドルー日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏』西田宗千佳著
* タブレット式パソコンのブレイクの意味することは
日進月歩にパソコンが形を七変化をして便利な道具として提示されてきている。
その一番ホットなのがモバイル携帯電話。代表的なのがiPhone。それが今や
iPadにとって代わろうとしている。早くいえば4倍の大きさのiPhoneである。
これをキッカケに多くが参入を始めてきた。 その競争が激しくなればなるほど、
消費者は使い勝手が良くなる。その結果、マスコミと出版業者の大部分が淘汰
される。これにツイッターのようなミニ・ブログを個々人が持って、情報の
受発信を始める。 空間を越えて、それぞれがキーワードで繋がるのだから、
これまでとは全く違った社会になっていく。これからの社会の変容は誰も予測は
つかないし、これまでとは違った価値観が出てくる。 考えてみればパソコンが
卓上と、ノート型パソコンしかなかった方がオカシイ、ということになる。
最近になって携帯にパソコンが付いたばかり。 これが板状の平面のパソコン
になった。 とすると、次の何かが出てくるはず。ヘルメット式とか、メガネ
に画面が映し出されるものとか、投射式とか、想像を遥かに超えたものが、
早晩に出てくる。(字数の関係でカット 12年08月13日))
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3052,都会暮らしが良いか、それとも田舎が良い?
2009年08月13日(木)
生きていくに都会が良いのか、地方が良いのか。 その人によって違うし、
その判断は出来ない。私自身は、成行きで人生の大部分を地方で過ごすことに
なった。 それに対して、良かったとも悪かったとも思っていない。どっちに
しても同じでしかないのは分かっている。それぞれの性格もあるし、体質もある。
また歩んできた道もある。ところで、地方で自然に囲まれた老荘的な生き方を
自慢げにいう人はいるが、逆に都会の方が良いと声高に主張する人は少ない。
が、あったのである。 渡辺淳一著『反常識講座』のー第三章 住むなら猥雑な
都会ーの中にと、堂々と書いてある。反常識の御題目だから、堂々と書ける。
その概要といえば
【 齢をとって田舎住まいというなら解らないでもないが、若いうちは都会が良い。
田舎は社会的制約が多すぎる。東京に多くの人が住み、離れたがらないのは、
都会が周囲に対して無関心で余計な干渉をしないからだ。それだけ自由になれる
からである。具体的に言えば、未婚でも、ホモでも、レズでも、どんなカタチ
でもそれなりに容認してくれる寛容さがある。もし地方なら白い目で見られ
逃げ出しざるを得ない雰囲気がある。それと圧倒的な刺激に満ちていて面白い。
むろんその裏には悪が満ちている、その分面白いのである。そのチョッとやばい
のが若者にとって魅力なのである。若者にとって、緑や空気が美味いなど二の次。
生臭いのが地方では露出できない。だから齢をとってからなら、地方は良い。
若者は、表の顔とは別に、我がまま勝手に利己的で、性的欲望を満たし暴力も
ある、それを誰も咎めようしない緊迫した都会で刺激を受けた方が良いに
決まっている。 また、都会の良いところは、人材の上限と下限の幅が広い
ことだ。上も下も果てが無い。】
まったく、その通りである。 私の場合は三十年近く、新潟と長岡を住と職
が分かれていた。 だから地元で我慢?出来たと思っている。どちらにも属して
いるようで実は、何処も属していないで済む環境が良かった。
(字数の関係でカット 2015年8月13日)