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『子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの? 』
おおたとしまさ(著)
学び続けることとは、コンテンツ(意味、知識)を増やし続けることになる。
情報端末の進化により、誰も簡単にコンテンツを増やすことが可能になって
いるが、問題は知恵を使って人類にどれだけ加工できるかである。 既成の
価値観から、いかにして自由になるかが、学び続けなければならない理由に
なるが、そのために既成の価値観とは如何なるものか、知っておく必要がある。
〜要点の抜粋〜 (ネットより)
・「お金なんかいらない」という人と,「勉強以外のしかたでお金をかせぐから,
いいよ」という人たちは、そもそも学校に来る理由がありません。(内田樹)
・特に大切なのは「あいさつすること」「約束を守ること」「ものを大事に
すること」の3つ。これを忘れていると,どんなにがんばっても
「クレジット」が失われていくよ。 (藤原和博)
・想像力とは他者に対する思いやりであり,愛です。そして,想像力を身に
付けるには勉強が必要です。勉強が足りないと愛のない人間になってしまい
ます。 (瀬戸内寂聴)
・せっかく勉強の機会が豊富にあるのにろくに勉強をせず,心の栄養失調に
なっているのにその自覚がない人は本当のバカですよ。でも実際,心の
栄養失調に陥っている人は想像力も向上心もありませんから自分がバカに
なっていることに気付けません。これは悲劇ですよ。だから子どもの
うちにしっかり勉強させておいたほうがいい。 (瀬戸内寂聴)
・だいたい成績にこだわるのは親のほうでしょう。勉強していい成績を
取らないといい学校には入れない。いい学校に入れないといい会社には
入れない。いい会社に入れないと自分の老後が安心できない。
全部親のエゴですよ。
・「型破り」をするためにはまず型を自分のものにしなければならない
ということです。 (板東眞理子)
・脳のクセや周りの人たちが押し付けてくる既成の価値観という束縛から
逃れることが自由になることであり,そのために勉強しなければならない
のだと私は考えています。(福岡伸一)
・頭の回転が速いとか臨機応変な対応ができるとか,発想が豊かだとかいう人
に対して「地頭がいい」という表現がよく使われますが,単に地頭がいい
だけでは彼らを「教養のある人」とは呼びませんよね。単に多くのことを
知っている「物知り博士」や「クイズ王」みたいな人も「教養のある人」
とは呼ばない。「知識の時間軸を持っている人」のことを「教養のある人」
と呼ぶのだと私は思います。(福岡伸一)
・短絡的な目的のために勉強するより,本質的な勉強をしているほうが,
結果的に進学の面からも有利であるといえます。(茂木健一郎)
・心理学者のミハイ・チクセントミハイが「フロー理論」の中で提唱する
考え方も同様です。成功してお金持ちになるという目標を立てている人が,
その目標を達成したら幸せになれるのかといったらそうでもない。要する
に「プロセスの中にしか幸せはないんだ」ということです。(茂木健一郎)
・自分の頭で計算することで「数覚」と呼ばれる数に対する感覚が研ぎ澄ま
されます。「数覚」があるのとないのとでは物事の見え方は絶対に変わって
くるのです。(茂木健一郎)
・命というのは契約書を書いてどこかからもらってきたものじゃないでしょう。
気が付いたら生まれていただけのことでしょう。だったらもともと自分の
ものなんかじゃないはずですよ。(養老孟司)
・自分で考えるクセが付いている子はそういう疑問が浮かんでも親には
聞かないでしょうね。「あ,これはもう答えのない問題なんだな」って
直感的にわかるでしょう。(養老孟司)
・人生に正解や目的があって最短距離を歩むのがいいのなら,生まれたら
すぐに死ねばいいということになる。(養老孟司)
――――
▼ <目標を達成したら幸せになれるのかといったらそうでもない。要するに
「プロセスの中にしか幸せはないんだ」> に共感する。振返ってみて、
創業の準備期間の15年間が、幸せだったか、事業経営の30年間が、幸せだった
というと、「その45年間の全てが幸せだった」が実感。結果がどうであれ、
プラモデルつくりと同じで、そのプロセスを楽しんでいたことが、充実感に
つながっていた。ハイデッガーの世人(責任回避と平均的を疑いも持たず
求める人)の逆を実行していたため、充実感が残ったのである。そのためには、
まず学び続けなければならない。これ、「日々是口実」(日々是好日)ですか。
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5182,人生相談という気晴らし! 〜⑨
2015年05月23日(土)
『人生、しょせん気晴らし』中島義道著
* 悟りが在りや無しや?
世には、「悟り」を真面目に求める人がいるものだが、私の答えを正直に
いえば、「自分が、つくづくバカを悟ること」「体裁を過剰に求めないこと」
と、「自分に対し、あまり誠実でないと自覚すること」である。それは悟り
の問題というより、「自覚」の問題だが。 世界の果て(秘境)で、想像を
遥かに超えた絶景に出会った感動の瞬間が、悟りに近い?
これは自分が実感するしかないが。
≪ Q: 「悟り」の世界はただの夢なのでしょうか?
私は五十六歳の主婦です。三十年ほど前、結婚して心のバランスを崩した
ことがきっかけで、精神世界に関する本を読み漁り、悟りという煩悩に支配
されない境地に憧れるようになりました。それから、さまざまな講演や参禅会に
参加したりしましたが、今でも悟りなどとはほど遠く、つい感情的になったり、
主人に嫌味を言ってしまいます。以前と何一つ変わらず、同じところを堂々廻り
しているような気がします。最近はいっそ、悟りなど無いと言われたほうが
気が楽だとさえ思ったりします。本当に悟りというものはあるのでしょうか。
それとも、元々ない夢を追い求めていたに過ぎないのでしょうか。
何か手がかりをいただけると幸いです。
A: 〜自分で一生かかつて確かめてみるしかないでしょう〜
今回の相談も「いらいらする」ものですね。大体、哲学者ごときに
「悟り」が在るか無いかを聞いても、まともな答えが返ってこないことぐらい
わからないのでしょうか? 同じように、神はいるのか、善悪の基準はあるか、
真理はあるのか-…、といった問いに、ハキハキ答えてしまう哲学者は、
正真正銘のニセモノです。では、哲学者はこうした問いに対して何もできない
かというと、そうではない。 哲学特有の領域を指し示すことはできます。
あなたはすでにわかっているかのように「在る」とか「無い」という言葉を
使っていますが、じつはその意味は皆目わからないのだ、ということを
あなたに気づかせることです。「悟り」が「在る」としても、それはコップの
ように、空間のように、数字のように在るわけではない。では、「どのように」
在るのか、もしかしたら「無い」のか、と問えば、まず論理学的法則から決め
られるのでないことは確かです。「悟り」は別にそれ自体として矛盾している
わけではないのですから。また、物理学などの科学を持ち出して決定できる
わけでもない。現代科学のすべての成果をもってしても、意識については
わずかにも説明できない。「見える」ということ、私が私の手を「上げられる」
ことさえまったく説明できません。このことを話すと話が長く(千倍くらい)
なりますので、いまはやめます。疑いなく、「悟り」とは意識に関すること
ですから、科学者をはじめ、その体験をしたことがない人が「外から」アレコレ
詮索しても仕方ないのです。言いかえれば、あなたが本当に確かめたかったら、
実際あなた自身で確認してみるしかないでしょう。あなたがいままでどの
ような修行をなさったのか知りませんが、そんなに気になるのでしたら、
自分で一生かかって確かめてみるしかないのです。しかも、最後まで
わからなくて、そのまま死んでいくかもしれないのです。本当に心の底から
出た問いなら、それでもかまわないはずですし、そもそも他人から「手掛かり」
を得ることでは満足できないはずです。そうしないで、安直に答えを求めて
いるあなたにとっては、悟りなんか「無い」と割り切って「気が楽」になった
ほうがいいのではありませんか? ≫
▼ 悟りとは、現象を、色即是空、空即是色と直感できたような一瞬の感覚?
ネット辞書によると、《悟り(さとり)とは知らなかったことを知ること、
気がつくこと、感づくことを言い、覚りとも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った
真理やその取得をいう。サンスクリットでは日本語の「理解」「気づき」
「通達」などの意味に相当する単語はある。》とある。悟りで、恐ろしいのが
「死期」だろう。それから死ぬまで、生きてきた分の人生を生きるというが。
ということは、「死期を悟り、それを受け入れる葛藤を通して得られる心境?
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4817,いま、一人前の条件
2014年05月23日(金)
朝日新聞の(耕論)「いま、一人前の条件」=規範ない、寅さんのつらさ」
ノンフィクション作家・高野秀行が面白い。 私が一人前として自立できたと
感じたのは27歳の時。父が亡くなり、最初の事業を千葉で立上げと同時に結婚。
その時、石油ショックが起きて、ただ無我夢中の日々だった。両足に鉄の下駄
を履き(結婚生活)、背中には創業という重い荷物を担ぎ、よろよろと坂道を
登っているような日々だったが、これが私の独り立ちであった。
以下の内容は、世界における「一人前の条件」だが、やはり結婚が大きな
目安のようだ。 ーその全文をコピーするー
《 早大の探検部以来、外国人が入らないような辺境も含め、世界60カ国
以上を旅してきました。その経験を踏まえて言えば、
・先進国以外の大部分の地域では、結婚しているかどうかが「一人前」の
一つの大きな基準。20歳過ぎても独身だと、 何か特別な理由、特殊な
事情があると思われます。正確には子供が生まれて完全に一人前という
感じでしょうか。
・かって半年ほど住み込んでいたミャンマーの少数民族の村では、子供が
できて初めてその人の土地がその人の名を冠した「○○の畑」と呼ばれて
いました。一人前になることは、財産を含めて地域社会から認知を受ける
という意味でもあります。
・長年、無政府状態が続いたソマリアの取材を続けていますが、ここでは
「大人」という言葉に、成人という意味に加え、「偉い人」「長老」という
意味があります。長老はだいたい50歳以上、10人の集団に2、3人の割。
人望や財力、教養があり、何か問題が起きた時に「あの人に相談しないわけ
にはいかない」というような存在です。氏族内のトラブルや他の氏族との
争いでは、交渉の窓口になり、決定権や責任を持ちます。前例をもとに
物事が決まる社会なので、年を重ねることは知識と経験をもつ貴重な
データベースということになり、尊敬されます。私はいま47歳ですが、
日本も私が子供の頃はアフリカやアジアの発展途上国のように、結婚して
家庭をもって初めて一人前扱いされるという感覚が一般的だったと思います。
・最近は日本を含めた先進国で、年寄りの経験値の意味が薄れてきています。
情報技術を駆使できる若い世代が圧倒的に知識量が多い。従って社会的に
年寄りが尊敬されることもなければ、年をとるメリットも感じられなく
なります。何歳から何をすべきだ、この世代はこうあるべきだという
決めつけがなくなり、多様なライフスタイルが認められるがゆえに、単純に
一人前とはこういう人といえなくなっています。例えていうなら、今の日本
は山田洋次監督の映画「男はつらいよ」シリーズで、社会規範にとらわれず、
気ままに旅を続ける「フーテンの寅さん」が急増している社会です。
寅さんが増えると少子高齢化がさらに進み、社会が回っていかない。
同時に本人もつらい。規範がない社会では自分でそれを作らなければ
ならないからです。特に日本人は自分で自分の価値観を作ることが苦手。
でもいったん自由になると、なかなか過去の価値観には戻れません。
「一人前とはこうだ」というモデルを強要しない社会は、
「自由はつらいよ」ともいえるんじゃないでしょうか。
* 高野秀行 66年生まれ。早大探検部時代にコンゴを探検し
「幻獣ムベンベを追え」
でデビュー。》
▼ 私の人間としての一人前は、三年前の節目時。「なるほど、自立する
とはこういうことか!」という感覚。 家庭持った時点の自立は社会の中の
承認だが、リタイアー後の自立は、社会の束縛?からの、自立になる。(>'A`)>
いや、超越の方が正しい。真の孤独を味わうべき時に、自立できないで
アタフタしている姿がイジマシイ :*1:
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4450, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー10
2013年05月23日(木)
ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
人生の大問題は死期が迫り、もう先はないと悟った時の恐怖である。
脳溢血や事故で即死なら別だが、誰もが最期の最期に行き当たる大問題。
だから著者の言葉は平易だが、どれもこれも深い。死を扱っていると同時に、
如何に生きるかの問題でもある。この年齢になると誰も明日にでも突きつけ
られる可能性のある。だから「死を解決する登山道」という。初めは軽い
気持ちで読んでいたが、読むほどに哲学の総論を読んでいるようになる。
ーここまで書ききれなかった印象的部分を抜粋してみるー
・切腹を辞さないほどの死の覚悟を常に持つということは、欲の超越、
自我の超越、生死という二項対立の超越だ。
・むしろ21世紀は、世界が日本化し、日本も日本思想に戻っていく時代
なのではないかと思う。もちろん、ここでいう日本思想とは、明治に回帰
したいという現代保守主義ではない。もっと前からの日本思想の原点は、
無我・無私の心、静かな達人の心だ。
・自己保存本能を超越し、何の因果かこの世に生まれてきたことに感謝し、
今この一瞬に集中してこの幻想としての自己の存在という奇跡を心から
祝福する気持ち。悩みや我欲を超越し、世界を愛し、自分が世界と一体で
あることを喜び、それ以外に何も要らないし、もちろん手にも入らない
ことを理解する境地。身体で、感性として理解する境地。
・死本来の恐ろしさとは、無で「ある」ことでなく、なぜか
いったん存在してしまったものが無に「なる」ところにある。
・感覚ではなく心の中の何かに向けられるクオリアを、志向的クオリアという。
「死が怖い」という感じもクオリアだ。「怖さ」のぞっとした感じが心の中
からわき上がってくる。
・人間として生まれ落ちて以来身に付けているこのいきいきとしたクオリア。
これを失いたくないということが、死にたくないということと、根本的な
意味では同義なように思われる。このかけがいのないクオリアは、あろう
ことか幻想。本当はないのだ。脳の無意識の計算がやっていることなのだ。
・知情意のクオリアは結びつけ問題を解くためにあるのか? 僕たちが
生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんてなかった。何もなかった。
無だ。ところが何の因果か、僕たちは、たまたま知情意のクオリアという
幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから、生きている感じがしている。
・僕は「意識は体験を記憶するために作り出された機能だ」と考える。
僕たちが生まれる前は、もちろん知情意のクオリアなんかなかった。
何もなかった。無だ。ところが、何の因果か、僕たちは知情意のクオリア
という幻想を持った生物として生まれ落ちた。だから生きている感じが
している。しかし、ほんとうは人間もロボットと同じ自動機械なのだ。
・そもそも、自分が、自由意志や自由な知覚を持っていると思うから、
死にたくないと思うのだ。
▼ 知情意のクオリアも、心の中の何かに向けられる志向的クオリアも、
幻想でしかない。実際にそうなのだから、「死ぬのが怖い」というのは
幻想そのもの。半世紀以上以前の中学校の頃、ひとり死を考えて、底知れぬ
恐怖を覚えていた時を考えれば、その恐怖感は、幻想でしかないことが分かる
はず。間近に迫った死を覚悟した時から死ぬまでの間に、それまで生きてきた
全人生を生きる、という。その時に「これは幻想でしかない」と、思えるのか。
・・・・・・・
4076, 老いの見本帳ーダークサイド ー1
2012年05月23日(水)
「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著)
面白い本を図書館で見つけた。一日一日、老いていく日々だが、どうも心は歳を
取そこねている。実感がわかないのである。この本は老いの見本帳、それも老醜の
見本帳である。わざわざ自虐的な、マゾ的な、げんなりするような事が書いてある。
<・・人生など呻き声をあげたくなるようなことの連続ではないか。まして
老いたら、それはそれで独自の当惑や「釦の掛け違い」、恥や失望や悔しさが
待ち受けているに決まっている。ならばそのようなものを、まずは他人事として
味わってみるのも一興ではないか。 ・・気負った言い方をすれば、種々様々な
悲しみや煩悶や屈託を見知ってこそ我々は豊かになれる。その上で若づくりする
初老期を笑うのも結構だし、共感するのも結構ということになる。> と。
これまで両親、親戚、近所の老人を見てきた。それが何時の間に、その仲間入り
である。しかし歳を取りそこねているようだ。知的好奇心や、やりたいことが
あまりに多い。気持ちが枯れてきた実感など、どう考えてもない。しかし鏡を
見ると歳相応で、ますます怒りっぽくなっている!
まずは ーアマゾンの内容紹介よりー
≪ 老いることは、むずかしい……「若さという神話」への無自覚で強迫的な
執着は虚しい。 ならば、望ましい「年寄り」の適切なモデルはあるのか?
歳をうまく取れないために生じる恥、勘違い、いかがわしい振る舞い。
老人の不安に向き合ってきた精神科医が、臨床現場での知見と数多くの文学
作品の読解をもとに、老人の心に迫る。 哀しくもおかしな老いの見本帳
= 序章 初老期と不安 =
≪ 人間の心を安定させ安寧を保つ装置のひとつとして、惰性というものが挙げ
られる。我々は基本的にマンネリに則って生きている。退屈で変化に乏しく、
うんざりする。だがこの十年一日のトーンこそが我々に安心感を与えてくる。
とりあえずこのマンネリにしがみついている限りは、大きな聞違いや不幸は
(たぶん)生じない。 自分の存在意義も生きている意味も現実の確実性も、
みんな惰性の中に埋め込まれている。過去を振り返ってノスタルジックだとか
懐かしいと感じられる事柄の大部分は、リアルタイムにおいて惰性やマンネリに
彩られていた事物なのである。 日々の惰性がストップしたとき、そこに出現
するのは異形の現実である。精神的にショックを受けたとき、生活の根幹を
揺るがせる事態に直面したとき、世界は親しみやすさを失う。当たり前の
世の中が、よそよそしく違和感に満ちたものとして迫ってくる。
我々は孤独感と不安とに襲われる。それこそ実存的な風景とでも称すべきか。
おそらく死とはこのような感覚の究極としてあるのではないかと予感したく
なるような風景に向き合うことになるだろう。我々は日々の惰性を憎みつつも、
それによって安心感を得ている。そしてときに訪れるささやかな絶望や悲しみ
を介して、惰性が、マンネリが失われる恐ろしさを薄々理解している。≫
▼ 「初老期の不安は、それまでの人生の惰性を失うのではないか?」という
見方は確かに心当たりがある。老いとは、一日一日、死にむかって歩いて
いる時期にある。そして、それまでの人生の返り矢が次々と返ってきて弱者
への道を歩むことになる。老いるのは、まず肉体からだが、それに従って
確実に心も老いていく。それに気づかないのが老醜。如何に包み隠すしかない。
・・・・・・
3710, 自己を見つめる ー番外
2011年05月23日(月)
* つれづれに、早朝に・・
あの日々から二ヶ月近く過ぎ、少し気持ちが落ち着いてきた。
しかし、いくら平気な顔をしていても、やはり一大事である。数日前に、
自宅に一本の電話がかかってきた。 家内が買い物に行っていたので私が受けた。
「日テレの番キシャの記者ですが、震災の影響で廃業されたホテルの件の取材の
電話です!」で・・・、拒否反応の感情が先に立ち、「そういうことは、一切
お断りをしています!」と、直ぐに切ってしまった。 当然といえば当然。
番組では当方は取り上げてなかったが、「震災倒産」がタイトルで、東北から
離れた地域の北海道とかの遠方でも、倒産が出始めてきたという趣旨の内容。
ところで、東京も含め関東甲信越以北のホテルは壊滅状態。東京の4月の
ホテルの平均稼働率が80パー以上だったのが、半分以下まで落下したとの
新聞報道があった。 それを見越して見切ったが、読みどおりホテルは壊滅状態。
実際のところ、前倒しを決断できる状態だったから、見切りが出来た。
が、月末の資金繰りに困るようだったら前倒しは無理。当方は10年前の
9・11ショックで、売り上げが4年かけて3割以上も激減した上、二年半前
のリーマンショックで、更に半減。三分の一まで落ちていた。それでも、借入
返済の減額や、人件費などの政府補助で何とか遣り繰りしていた矢先の、この震災。
シュミレーションをすると、半年後には丸裸。 今なら銀行債権以外は清算が可能。
それならばと見切り廃業を決断した。結果からみて、「少し早めの見極めは
打撃は半減、少し遅めは打撃が倍増?、その差は4倍」と、実感している。
兄と姉の倒産劇を身近で相談に乗っていたから、断末魔の苦しみを肌で感じて
はいた。「金がないのは首がないのと同じくらい苦しい」が生前の父の口癖。
それは「日々の資金繰りに追われることだけは避けろ」という教え。それだけは
避けたいと思っていたが、こういう結果で終わっても、資金枯渇の苦しみは殆ど
経験しないで済んだのは救いである。 どっちにしても人生は甘いものではない。
生きてきた、そのままが、返りや矢として自分に戻ってくる。プラスにも
マイナスにも。 「これが、生きるということだったのか。ならば、もう一度」
という二ーチェの言葉は、なかなか言えないが、人生全体から搾り出しても
言わなければ・・ 9・11、9・15、3・11と歴史的経済震災と自然震災
に続けて直撃をされると、運、不運とかいう以前の諦念の問題になる。
学生時代に合気道の経験があるが、そこで学んだ一番の教えは危機の際の「引き」。
危機に出会うことを避けるのが真の極意だが。来年に入ったら、謹慎期間が
(私にとって)終わるので、倒産劇の悲喜こもごものミニ講演を受け付けます。
ここに書けないことが、けっこうある。 個人的には、何時でも・・臨場感が
あって、面白い材料がタップリ・・・ 味付けもして?
・・・・・・・
3345, 閑話小題 ―つれづれに
2010年05月23日(日)
* トヨタのレクサ
*1:゙゚'ω゚'