『下流老人 一億総老後崩壊の衝撃 』で、「下流老人」の用語を
提示をした藤田孝典 が、その定義を、「生活保護基準相当で暮らす高齢者、
およびその恐れのある高齢者」とした。 既に貧困老人は700万人に及んで
おり、相対的貧困率は22%、高齢者の4〜5人に1人の割合だが、
その少し多めの人を入れると、3人に1人となる。 お金は天下のまわりもの
だが、これでは愚痴を言いたいのも分かる。  〜著者のレポートによると、
<・2014年の高齢社会白書によると、3千万円以上の預金を持っている
 高齢者は25%もいるが、蓄えが十分と答えた人は、わずかに3・4%しか
いなかった。既に一割が安心して暮らせる水準だが、あとの9割は不安定の
状態におかれている。
・例えば、自営業で働いてきた夫婦の場合、二人の国民年金は、13万円。
税金などを引かれて10万そこそこなら、生活保護並みか、それ以下になる。
 生涯平均年齢400万のサラリーマンをみると、厚生年金が16万、妻が
国民年金として、その加算が22万として、手取18〜9万では、ほぼ生活
保護並み。夫が、ガン等の病になれば、即、困窮生活に入る危険がある。
・その上に、子供が失業をして実家に頼ってきた場合も、困窮理由になる。>
▼ 4人に1人が3000万の預金とは驚き。老人の貧富の格差があまりに大きい。
 NHKや、民放のTVで、下流老人の厳しさの実態事例を放送しているが、
これは何処にも見られる話。 周辺を見渡すと、比較的豊かな人が多いが、
3分1か、4分1は、貧困の瀬戸際で、傍でみても非常に厳しいのが分かる。
貧困老人問題が関心が持たれるのは、老後の貧困が、特殊な人ではなく、
平均的サラリーマン生活を送って来た人にも、近い将来現実になりつつある
ことがわかってきたため。 去年の6月30日に起きた71歳の老人による
新幹線車内でガソリンをかぶっての焼身自殺を図った事件。 当人は、
その月から年金だけの生活になって、改めて受給額の少なさを実感し、不満を
周囲に漏らし、自殺をほのめかしていたことが事件後に、明らかになった。
 その年金受給額は月12万円。居住していた杉並区の生活保護基準は14万
4千円。 年金受給額が生活保護基準を下回っていた。それまで清掃業の仕事
をしていたが、仕事がなくなり、年金だけの生活。もっと少ないと生活保護
申請するケースが多いが、12万は、生活保護基準を下回るが、極端にひどく
はなく、普通の勤め人生活を送ってきた人が、年金暮しで単身生活を送る
標準的なケースという。 この老人は、将来を悲観してしまったのだろうが、
特殊なケースではないとか。老いてからの貧乏は身に染みるが、9割が、
その淵とは・・ 老いた夫婦の場合、「先に逝ったもの勝ち」も、あながち? 

―――
2015/08/03
下流老人 ー①
 去年になるが、NHKスペシャル、ー老後破産:長寿という悪夢ー
をみて衝撃を受けた。夫婦とも厚生年金のため、何とか人並みの生活は出来て
いるが、リタイア前とは違う。先日の新聞の雑誌広告で、『下流老人』という
言葉が目に入ったたので、ネット検索をすると、以下の厳しい内容が出てきた。
≪ ・ ー下流老人とは、
1、収入がない、2、資産がない、3、社会的ネットワークがない老人をいう。
 総務省の家計調査や、所得統計から貧困ラインから下流範囲を推測するが、
生命保険会社や金融機関では、老後生活の費用は最低ラインで20万円、ゆとり
ある暮らしには30万円超が必要という。ほとんどの老人世帯は最低ラインで、
ゆとりある老人世帯は一握り。(これは金融商品や保険を売るため使われる。)
・2014年の我が国における65歳以上の高齢者人口は3300万人、総人口に占める
割合は25.9%と、共に過去最高を記録しているが、大づかみに言って、そのうち
600〜700万人が「下流老人」と見なされている。内閣府の調査でも(2010年)、
65歳以上の高齢者世帯の「相対的貧困率」が22.0%となっていることから、
この推計は大きく的を外してはいない。老人と若者の間の「世代間格差」
が問題となっているが、老人の間の「世代内格差」も凄まじいものがある。≫
▼ 10年、20年スパンでみると、9割?の老人が「下流老人化」するという。
 老いれば、金を使う場面も少ないから、さほどの問題ではない?と、たかを
括っていられない。死ぬまでは金が要るが、死んだ瞬間から、生活費がゼロ
になるので、当人にとっての持ち金は微妙な問題でもある。 それでも
総世帯の15%が「下流」、老人世帯が22%というから、老人の立場は弱い。 
 本格的な国家衰退が始まってきたが、シワ寄せは、まず弱者に襲いかかる。
ギリシャが問題になっているが、それより、日本の財政は遥かに深刻。
ひたすら直視しないで、先送りしか手立てがないだけ。その限界の年が、
今年から来年。その矛先が、まずは老人と、母子家族。何がオリンピック?
目先を凌ぐ、末期患者のリンゲルと同じ。その責任は、選んだ国民にあり。
政権奪取には目先の甘い公約が必要。その繰り返しの結果がこのありさま。
―――
2015/10/02
下流老人 ー②  〜下流老人への転落
 この数年来、団塊世代年金生活に入ったこともあり、マスコミに扱われる
ことが多くなった。更に新幹線内で年金制度に対する抗議の焼身自殺もある。
今では、週に1〜2度は、TVで極貧の『下流老人』をレポートをしている。 
多くの人にとって、他人事ではない問題。私の場合が一歩間違えれば・・
準備期間を入れると45年間心血をそそいだ事業が思いもよらないリーマン
ショックで成立たなくなった。 それでも事業設計の段階から万一の備えを
組みこんでいたこともあり、何とか人並みの生活が維持している。ところで、
ブログ内検索で調べてみたら、二ヶ月前、「下流老人」のテーマで扱っていた。
(後にコピー)  〜最近みたTVでのアンケート〜では、
・病気などで、大金の思わない支出
・離婚で、財産が消滅
・転職の失敗(思い上がり)
・頼れる家族がいないか、その家族がギリギリの年金に頼っている
・手持ちがあったが、気前良く使っているうち底をついてしまった
  などなどの事例を生々しく映しだしている。
 手持資金が底をついたが、あてが国民年金の一人暮らしで6〜7万円では、
家賃で大半が消えてしまう。数ヶ月前に、中学校の「古希」の会があった。
会場が県境の湯沢で、二万円近くの会費のため、出席できる人は、限られる
ため、貯蓄、収入の余裕ある人が中心。そのため実態は見えないが、身近を
知る限り甘くはない。 TVで誰もが口を揃えて、「まさか自分が!」という。 
私のケースでも、夫婦のどちらかが欠ければ、この大きな屋敷の一人住まいは
難しく、小さな家への住替えか、施設の入居の問題が出てくる。
 団塊の世代は、終戦直後の最低の環境から、バブル崩壊まで35年間、
地球史上、稀なる7%の経済成長を続けた。これは奇跡中の奇跡の恵まれた
環境の中、そこで育った人生は幸せだったが、末路の気の毒な結果が、
下流老人』。もっと気の毒なのが、その子供と孫。親の介護に、職も
全財産を注込んで呆然とする姿が、戦後世代間の全て問題を象徴する。

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5140,閑話小題 〜北陸新幹線開通1ヶ月
2015年04月11日(土)
  * 北陸新幹線開通1ヶ月
 北陸新幹線が開通して1月。ゴールデンウィーク辺りから、福井、石川、
富山の北陸三県の観光地が脚光を浴びる。金沢は加賀百万石の文化が営々と
引継がれている。20歳代半ばの頃、1年半、金沢の地で勤務したが、現在
でも鮮明な記憶として残っている。休日、日帰りバスツアー能登半島
一周したり、半日市内観光をしたり、金沢港でキス釣りをしたり、茶道に
習いにいったりした。 加賀百万石の文化は何とも風情のある。
特に、老舗の居酒屋が良い。北陸三県と隣接した地区の観光資源は豊富。
その背景に三大都市圏の観光需要があるのが大きい。そこに新幹線で二時間半
で行けるのだから、女性にとってうってつけ!『日帰り能登一周コース』を
つくれば良い。 逆にストロー効果で、地元民が東京に取られる可能性も大。 
 ところで金沢滞在の一年半で、姉や友人が三人、訪ねてきた。更に、実家の
会社の慰安会で近くの温泉にバスで来て、私もそこに招かれ、泊まって騒いだ
こともあった。勤務先の会社上げての慰安会が、泊まり込みで片山津温泉
高度成長経済の真只中時代だった。今では隔世の感がある! 
金沢・能登は一人旅に、うってつけ、お勧めである。
   * ジヌ(銭)よさらば! ーシネマ評
ハリウッドか邦画か、翌日放映の‘ソロモンの偽証(下巻)’にするか
 迷ったが、上記の内容を読んで、こういう風変わりも「良いか」で、
これにした。80点だが、不満も残らない内容。観客は10人あまり。
《 田舎の小さな村“かむろば村”に、大荷物で降り立った1人の青年。
彼の名は通称・タケ。一見どこにでもいる若者だが、実はこの男…お金を
“さわれない、使えない、欲しくない”の三拍子がそろった“お金恐怖症”
になってしまった元銀行マン。現金にさわるだけで、とたんに激しいめまいに
襲われ失神してしまうという筋金入りだ。「1円もお金を使わない!」
と悲壮な決意を固め、かむろば村へやって来たタケは、どこか田舎の自給
自足ライフを甘く見ているフシもあり度々命の危険にさらされるが、憎め
ない天然キャラに救われ、村人たちに度々助けられるのだった。・・(略)
クセ者なのはタケだけではない。彼がやって来たかむろば村こそ、一見
どこにでもある寒村ながら、ユニークというには濃すぎる村人たちが生息
していたのだ。学校はないけれど、異常に世話焼きな村長がいる。銀行も
ないけれど、写真好きで目が光ったりする神様がいる。病院なんてもちろん
ないけれど、色っぽい美人が(多少)いる。そんなキャラクターの濃い村人
たちのお蔭もあり、危なっかしいながらも奇蹟的に1円も使わない生活を
続けるタケ。最初はタケの無知と無鉄砲さに半分あきれていた村人たちも、
タケの存在を優しく受け入れてゆく。そんな矢先、穏やかだったかむろば村
に不穏な風が吹き始める。村長の過去を知る不気味な男の出現、同時に迫り
くる村長選挙をめぐる陰謀が発覚!村に来て間もないタケも、知らず知らず
のうちに騒動の渦中へ…。タケの生活は思わぬ方向へ向かいだす…! 》
▼ 少し、いや非常に甘い主人公と、その物語の設定だが、それでも、
 何時の間にか、‘かむろば村’の世界に引きこまれてしまうには、
主人公の松田龍平の周りに、松尾スズキ松たか子西田敏行などが、
脇を固めているため。「ぼんやり」と息を抜くには丁度良い。以下に続く!

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4775,ぼんやりの時間 ー8
2014年04月11日(金)              
  * 「懶」 ー心の余白    「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
「『ものうい生活』の中に自らなる別天地に休んじ、楽しむことを気取ることが
懶惰」というらしいが、これが、この年齢で、少しは分かってきたようである。
事業を立上げ、軌道に乗せて暫くの間、何もすることが無い日々の別天地を
知っればこそ、この懶惰の味わいが分る。振返ると、あの退屈の懶惰こそ、
お宝だった。その合間の、読書や、秘境ツワーなども、それだ。
《 谷崎潤一郎は、1930年に『懶惰の説』という随筆を書いている。西洋の
 人々がいかに活動的であり、精力的であるかを例示し、これに対し東洋の
人々がいかにものぐさで、面倒くさかり屋であるかを対照的に書いている。
懶惰の代表者は誰か。物語のなかでの人物ではあるが、物臭太郎三年寝太郎
の名をあげている。 さて、瀬惰とはなんだ?.
「『ものうい生活』の中に自らなる別天地のあることを知り、それに安んじ、
それをなつかしみ、楽しみ、或る場合にはそう云う境地を見えや気取りにするか
の如き傾向の存すること」 瀬惰心という言葉があるとすれば、この谷崎の
定義はその一面を言い当てている。むろん、西洋人にも瀬惰心の人がいるし、
東洋人にも活動的な人がいるのはいうまでもないが、あるていど類型化
しないと、論旨がはっきりしない。瀬惰をよしとする人は、年中あくせくして
きりきり働く人を冷笑、ときには俗物扱いにする。朝から晩までせかせかと
動き回る人を嗤う傾向がある。一方、瀬惰心に批判的な西洋人は、浮世を
捨てて山の中に隠遁し、独り瞑想にふけっているような人物を聖人とは
思わない。高潔の士とも思わず「一種のエゴイスト」にすぎないと切り捨てる。
 谷崎自身は、瀬惰心というものに、一定の共感をもっていたことはたしかだ。
「とにかくこの『物臭さ』『億劫がり』は東洋人の特色であって、私は仮りに
これを『東洋的瀬惰』と名づける、というとき、自分にもまた、その東洋的
瀬惰なるものの血が流れているという自覚があっただろう。 》
▼ 事業を目指し、準備15年間、立上げ、最後は、津波で流され終わった
 私の事業人生。それを全面否定され、あざ笑われているような内容である。
それも、あと一年で古希になろうとして気づいた底浅い己には、この結果が
似つかわしいと独り納得させられる。 こういう視点もあると割り切っては
いても、気になることは確かである。心の余白など埋めぬがよい! 
いや、埋めようがない!

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4408, 隠居大学ーよく遊びよく遊べ −6
2013年04月11日(木)
    第五時限「うふふ力を磨こう」ー「隠居大学」天野祐吉
  * 俳句はゲーム感覚で楽しむ     お相手 坪内捻典
 母が50歳の頃、それまでの苦労のため重症のウツ病になり、数年かけ独り
立ち上がったが、子供なりに壮絶さを垣間見た。88歳で老衰で亡くなったが、
医師の要請による解剖で心臓の四分の一が壊死していた。第二の人生の40年
近くは、趣味の世界に徹底していた。舞踊、謡い、茶道、写真、短歌、どれも
これも負けず嫌いで、ある領域まで達していた。
 晩年、母親に、「一番、極めたのは何?」と訊ねたところ、
短歌という。 老年の趣味といえば、短歌と俳句と川柳がある。
  ー 次の箇所は、短歌と俳句の違いを端的に示している ー
≪ 坪内:俳句的人間と短歌的人間って呼んでいるんですよ。ぼくの中では、
 つぶあんは俳句的人間、こしあんは短歌的人間。天野 どういうところが、
俳句的、短歌的なんでしょう。坪内 そうですね、まず、俳句は、自分の言い
たいことを言わないんです。これは、つくるときにも意識しておくといいと
思うんだけど、いちばん言いたいことを言わないのが、俳句がうまくなる
コツですよ。よく「わたしのこの俳句は こんなところがこんなにいいんです」
と、自分で一生懸命説明する人がいるんだけど、そういう人はあまりうまく
ならない。自分の俳句についてしゃべらなくて、人の意見を聞いている人が、
うまくなるっていうか、俳句向きだと思います。
天野 主体性のない人がいいんですね。
坪内 そうです。無責任で主体性がないんでいいんです、できるだけ(笑)。
天野 自分ってものを、強調したがるような人は……。
坪内 それはもう、あきらかに短歌の人です。短歌は最後の七七で、
 自分の言いたいことが言えるんですよ。俳句には、その七七を言わない
 醍醐味というのがあります。
天野 そうか。これは短歌じゃなくて狂歌ですが、「世の中に金と女は仇なり
 早く仇にめぐり会いたい」というのがありますよね、これも、言いたいことは
 最後の七七ですもんね。
坪内 俳句だったら、最後の七七はいりません。  ・・・(略)
天野 言いたいこと言わないなんて、欲求不満になりませんか。
坪内 そう思うのが、こしあんの人の特色なんじゃないですか(笑)。
 俳句的つぶあんは、言いたいことを言う欲求より、自分の言葉を他人が
 どう読むか、っていうほうに欲求や興味がいくわけです。
天野 じゃあ俳句は、こう見て欲しい、感じて欲しい、こう解釈して欲しいって
 いうのは、表には出しちゃいけないんだ。
坪内 いけないってことはないけど、出さないほうが俳句らしいでしょうね。
天野 お話を聞いているうちに、「三月の甘納豆のうふふふふ」がなんだか、
 これまでとは違うふうに思えてぎました。 なるほどねえ。今日、帰ったら
 さっそく俳句、つくってみようかな。・・・ ≫
▼ 「俳句は、ひとりきりで捻っていく人はうまくならない。それは自分を
 読者にしていまうから」に、ドキッとした。句会では、たいてい作者名を隠す。
それで非難され恥ずかしいと思ったら句会に入れない。恥をかくから上手くなる。
この随想日記、だから公開しているが、あくまで自分中心。毎日、書き続けて
いると、誰かの嘲笑を独り感じる。そこで、馬鹿丸出しを曝してよいものか?
迷いが出る。しかし、人間には露悪趣味が心の隅にある。露悪とエゴと無知を
偽善で包んでいるのが人間の本来の姿と思って開き直るしかない。私が短歌を
書いたら、ほぼ狂歌だろう! 
 母の短歌より :窓の下 逆巻く波のはげしくて わが生涯の縮図の如し
  :大仕掛け 空を焦がして彩どれば 中天の月いろを失ふ
  :若き僧 煙草の吸いがら 投げ捨てぬ 早朝のホーム 一点のしみ
  :青き田の水に浮かべる没つ日を 絵心あらば 描かむものを
  :ものかなし 豆腐屋の鈴流れきて 秋の夕暮足はやに来ぬ

・・・・・・
4034, 幸福になるための五箇条
2012年04月11日(水)
          「幸福になるためのソフト」の五項目 ー中川昌蔵
  「今日一日 親切にしようと想う。」
  「今日一日 明るく朗らかにしようと想う。」
  「今日一日 謙虚にしようと想う。」
  「今日一日 素直になろうと想う。」
  「今日一日 感謝しようと想う。」
「以上のことを、実行してはだめです。意識して実行すると失敗します」。
意識するとエゴがでてしまいます。そういう想いが、いつも体の中にある人間に
なるのが一番いい。 潜在意識に刷り込むのが良い。
▼ 老齢とは、この逆になっていくことをいう。
「しようと想う;なろうと想う」が良い。パソコンかトイレに貼っておくと良い。
「今日一日、しん(親切)、めい(明るく)、にかけ、謙虚に、素直に、感謝
 しようと想う」と憶えればよい。
・・・・・・・
3668, 節目どきに ー3
2011年04月11日(月)
 これまでと違う日常に入って、10日になる。もっと、その変化に違和感を
感じるかと思いきや、それが全くない。恐らく10年以上、一日2〜3時間を
集中し、蓄積してきたこのHPのためである。事象の変化に対して、脳の外部化
した基地が、ここにあるためだろう。 ある人に「HPに偉そうに書いているが、
現状のその様は何だ!」と酒席で言われたが、その通り。その時に「少なからず
経営に携わっている限り、赤裸々に曝け出すブログを書くのは如何なものか」と、
他の人から忠告された言葉を思い出した。毎日の記憶をHPの中のブログに
記録したり、読書の感想を書き残したり、毎日一文を書き始めた時から何かが
確実に変わっていった。脳の外部化で、因縁のある人の何人かと繋がっている
実感があるのが心を広く明るく自由にする。心は言葉である。毎日、言葉として
表出していれば、現象が変わったとしても、気持ちの芯が乱れることはない。
毎日、書き続けているのは、経営を良くするためでない。経営は失敗すれば、
全責任はトップにある。何を責められても言い訳は出来ない。 立場的に、
赤裸々に自分の心を露出すること自体が大問題である。ギリギリのところで、
表現を注意していても本音が表出してしまう。しかし、その何倍も、書き出し、
公開することの効果を感じ取っている。だから 偉そうに! と言われても、
その通りと認めざるを得ない。初めから覚悟をして書いている。5年、10年後
から振り返ったとき、書いた時々のマイナス、プラスなど、如何にでもよい
ことを毎日、過去の文章を読み返していて分かっている。以前に都銀の担当に、
「借りた金は、返すな!」という読書感想文を書いたのを読まれ、貸し剥がし
をされかけた事があった。その上に、いわれのない? 数百万を強奪?された
ことがあった。それなりに書き、表現すると周囲に波を立てることになる。
しかし、その蓄積が、このような節目どきに、安定した心を保つことが出来る。
その時に、書く内容に力を落としたら、その分だけ心に違和感が出てくる。
先月末を持って、数ヶ月、節目ということで、休もうとした。しかし、
あと一月で、まる10年に辿りつくまで書くことにした。結果からして、
心を乱さないためには、休まないのが正解であった。 で、・・
・・・・・
3303, 人みな骨になるならば ー10
2010年04月11日(日)
 * 死の不安の克服は可能か
ー まずは、その部分の抜粋 ー
 老いゆく日々はまた死の不安に対する対処の日々でもある。その圧力が
あまりに大きいため、われわれはそれと正面切って対決するよりは、なにかで
紛らせてしまおうとする。人生前半は若さや時間をもてあますあまり何かで
紛らせようとするが、人生後半になると若さや残された時間の急速な目減りを
直視しないために何かで紛らせる必要が生じる。不安や恐怖に対して、
そこから目を逸らせて別の関心事で紛らせることは必ずしも悪い料簡ではない。
何かで紛らせるのが下手な人物のほとんどは中高年期以後に精神障害に陥る
ように思われる。つまり、何かで紛らせそこねたとしても、自らの死や限界を
直視したり対決したりできるものではなく、ただノイローゼになるだけなのだ
としたら、死の直前まで俗世間のことで紛らせ続けるほうがはるかにましな
選択かもしれない。ある意味で病気というのが紛らせる工夫として最後の手段
なのであろう。少なくとも、病気はそこからの回復という一時の目的を用意して
くれる。 ただ、ノイローゼになろうが、別の何かで紛らせ続けようが、
最後の時が近づいている事実を変ることはない。猛獣にねらわれた駝鳥が逃げ
あぐねて、砂の中に頭をもぐりこませたとしても、猛獣そのものが消えてなく
なるわけではないのだ。 俗世において最低限の衣食住を確保すること以上の
関心や活動の全ては、死や滅亡しないで済ませる工夫でもあり得る。 
仕事も趣味も健康法も孫の世謡も老入クラブもゲートも、いやい老人向けの
ものばかりで無い。あらゆる交際、作業、訓練、試合、家事、育児、創作、
旅行、遊興、その他、ありとあらゆる実務と余技と行楽が空虚を埋めてくれる
レパートリーなのである。 与えられた時間の中身を埋めていく営みを、交流
分析の祖、E.バーンは「時間の構造化」と名づけた。確かに、われわれは
無構造な時間、中身のない時間を過ごすのに適した脳を進化させてはいない。
 ・・(中略)恐らく人間は、ただ死を待っている例外的な状態か、それを
忘れるために俗事に忙殺されている通常の状態かのいずれしか許されていない。
・・われわれのできる最大限の抵抗は、せいぜい「生まれる前なることが、
それほど恐れるべきことか」と自他に問いかけることぐらいだろう。
・・(中略)それがしの不安を宥めるために思いつかれたかどうかはさだけで
はないが、祖先や供養や崇拝もわれわれにとって捨てがたいことである。
・・もちろん、われわれは多くの祖先に負っている。祖先がどこかで安らんで
いると思えば心安んじることができるし、なによりも、わたしたちが、そこで
安んじることができる。しかし、ああ哀しいかな現代のわれわれは、草葉の
陰も、煉獄も、もはや信じていないのである。
▼ あまりにも虚無的な内容だが、そんなものかもしれない、特に目を逸らして
 きた人は。60代までは、後ろから迫ってくるが、70歳代に入ると前方より
迫ってくる感覚になるという。 病気でさえ、それから回復という目標としての
気を紛らわせる手段でしかないとは・・ 死は本人にとっては、無だから、
そんな存在しないことに恐れることはない!とはいえ、そういかないのが、
言葉を持ってしまった人間の宿命。 だから、天国のイメージを永年つくって
おく必要があるから宗教が最後のよりどころということか。最後のレッスン=
学習と思っても、身近な人の苦痛と苦悩の極みを見ているから、一日一日を
精一杯生きることしか、紛らわせることができないのだろう。 知ること、
新しい経験をすること、愛すること、楽しむこと、等々、時間の構造化(一週間
の予定を立て入れていく)をすること位しか無いのだろう。
気を紛らわせるために。
・・・・・・・・
2928,中沢新一の『三位一体モデル』 −7
2009年04月11日(土)
それでは、実際の演習をしてみる。
 ー「会社役員」ー
子=会社役員
父=変化する社会変化、その変化に関わるニーズの変化、市場の変化そのもの。
  会社の理念、そして「あるべき姿」を把握。精霊=会社の現状、そして
  父の姿を反映しているか?ということになるが、何か書きながら赤面
  してしまうから、・・・
 ー設計事務所
子=設計事務所
親=会社の理念、創業者の積重ねた信用、長年積み重ねてきたノウハウと実績。
  社会の変化と、新しい技術、そして
精霊(自己増殖するもの)=設計で完成した建物。地域社会との繋がりと貢献。
 ーソフトハウス
子=ソフトハウス
親=ニーズとされる人材の確保と、
  〜〜
ー保険事務所ー
 子=保険事務所
 親=万一の危険に対する対応のニーズ。危険を金で分散をしておくノウハウ
 精霊=得意先のニーズの充足。 顧客。 金融商品
 こんなものだが、自分の名前を「子」に入れてみようか?
 ドッキとするだろうが。
・・・・・・・・・・
2564, サルも朝日の美しさに感動する! −1
 2008年04月11日(金)
  (字数制限のためカット 2010年4月11日)