『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 黄金の時間、鉛の時間、浪費の時間
 考えさせられる内容だ。黄金だけでなく、鉛も、浪費の時間も必要だが、
その兼合いが必要である。「人生は長くない」が、有益の黄金の時間を
過ごしてきた者にとって、人生は短くはない。 〜その辺りから〜
≪ 時間は、注意をそらしている間に、指の間から知らず知らずにこぼれ散る
黄金の粉末に喩えられる。最大限に利用される場合、時間は、意義深い人生の
布を紡ぐために、日常という横糸を往復させる杼(機織りのときに横糸を通す
道具)に喩えられる。幸福の探求においては、時間が最も貴重な財産であると
気づくことこそが最も重要なことになる。だからといって、人生を過ごす上で
意味深い重要な物事をすべて排除することにはならない。大切な人生を浪費
する原因を排除することが大切だと言っているのである。
 セネカ哲学書にはこう書いてある。「時間が不足しているのではなく、
余りにも多くの時間を無駄に過ごしているだけである」。人生は長くない。
重要な物事を先延ばしすることで人は多くを失う。人間に残された年月または
時間は、いとも簡単に消失する。知らぬ間に砕け散る値打ちの高い物質と似る。
このように非常に価値があるにもかかわらず、時間には自衛力がない。
通りすがりの誘拐者に難なく連れ去られる幼児のようなものである。
黄金の時間の受け取り方は人さまざまである。活発な人にとっては創造、
建設、達成、他者の幸せに自分を捧げる時となる。瞑想者にとつては、内面の
世界を理解し、人生の本質を再発見するために、自分の内側を凝視する時間
となる。その間は活動していないように見えても、今の瞬間の真価をはっきり
と認識し、他者を助けられる自分に内側の質を向上させる時は、黄金以外の
何ものでもない。隠遁者にとっては、生きているどの瞬間も宝であり、時間は
絶対に無駄にできない。
 ハリール・ジブラーン〔1883〜1931年レバノンの詩人〕の表現を借りるなら、
隠遁者は沈黙の中で「その心を通して時の囁きを音楽に変えるフルート」と
なるのである。怠け者は「時間を潰す」ことを考える。なんと由々しき表現
だろう。怠け者にとって、時間は、長々とした、単調で、荒涼とした1本の線
のようなもの。待機、遅延、退屈、孤独、退行に我慢できない人にとっては、
鉛のように重くのしかかる、自由を奪うものとなり、人生そのものが耐えられ
ないだろう。過ぎゆく一瞬一瞬が、拘束感と単調さを増すだけである。
時間を、恐れるべき死への秒読みと捉える人がいる一方、生きていることに
うんざりして、望むべき死への秒読みと捉える人もいる。この種の人にとっての
時間を、ハーバード・スペンサー〔1820〜1903年イギリスの哲学者、社会学者、
倫理学者〕は、「潰せない時間がその人たちを潰す」と表現している。
 時間とは苦痛で退屈な経験に過ぎないと考える人は、一日の終わり、一年の
終わり、人生の終わりに、自分が何もしてこなかったことに気づき慌てふためく。
また、誰にでもある成長の可能性にまったく気づかずに、過ごしてきた事実の
露呈に驚愕する。・・≫
▼ フランスのヴぇルジュリという哲学者が、【私たちは、幸福を外側に求めて
 いるが。それは幸福を物のように語ることである。それは、私たちが幸福で
あり、幸福が物でなく、私たち自身である ことを忘れている。】と言っている。 
 幸福は、どこかにある物でも、いつでも手に入れられるものでもない。
いま幸福になれない人は、いつまでも幸福になれない。私たちが生きているのは
「今」。今の私たちをとりまく世界を、まず肯定しなければ、来るはずのない
幸福を目ざして苦労するだけで終わっていまう。「いま、ここ、わたし」を
肯定するするしかない。
・・・・・・
5102,閑話小題 〜空を飛びまわるニワトリ
2015年03月04日(水)
   * 空を飛びまわるニワトリ
 以前だが、TVニュースのレポートで、神社で野生化したニワトリが、
樹木の枝を飛びまわっている姿の記憶がフラッシュしてきた。このニワトリ、
野犬に追われ、やむなく飛んでいるうちに、飛べるようになったようだが、
これは、人間の能力と同じ現象ではないか。野犬から身を守る生死の境で、
普段、使わない本来もっている羽の機能を使ったためである。生命が生まれて
20億年、現在の人類の祖先から20万年、経過している。脳には、生命として、
動物として、人間として、あらゆる生死をかけた経験が蓄積され、それを使い
生き残ってきた。その記憶が脳と身体に刻印されているのが、究極の危機から
目覚めてくる。その一つに火事場の馬鹿力がある。後家の踏ん張りも?
 私なんぞ、境内の木々の枝をコケッコと鳴いて飛びまわるニワトリ?
枝の上から、柵内の飛べないニワトリをみていると、何か人間の姿に?
   * つれづれに
 ☆ この30年近く、我家のペットはインコ。いまので10代になるが、
 名前は「ピー子」。7代まではボタンインコだったが、8代目がメキシコ・
コガネインコ、そして4年前から、世界で最も小さいルリハ・インコである。 
性格が大人しく、絵から抜出したように可愛いが、年を重ねる度に、野生が
顔を出し、攻撃的になる。外出先から帰ると、駐車場から察知し鳴きさけぶ。
このインコも驚いた時に、飛んで逃げるが、普段は飛べない。人間と同じだ。
 ☆ 先週の金曜日に観たシネマ『アメリカン:スナイパー』を観た。
 中東で160人を射殺したスナイパーが、退役後、心的外傷を負った男に射殺
される。その心的外傷の男が何ゆえ射殺したのか考えてみたが、私の結論は、
「自分が殺害したアラブ人への償いを、その英雄を射殺することで果たした?」
と考え至ったが、どうだろう。 キリスト教原理と、イスラム原理主義
との戦いが、21世紀の大きなウネリになる。 もう、おちおちアフリカ、
中東に旅行に行けなくなってしまった?
・・・・・・
4737,<つまずき>の事典 〜   ー5
2014年03月04日(火)
  * 思い出のグリーングラスの意味  <つまずき>の事典>中村邦生編著                  
 半世紀近く前の学生時代、トム・ジョーンズが大ヒットを飛ばし、森山良子が
日本版で歌った「思い出のグリーン・グラス」の歌詞の意味を、この本で初めて
知った? 当時、その意味を知っている人が多かったのだろうが、現在になって
知ろうとは! この原曲の本当の意味は「若い死刑囚が、執行の朝、望郷の夢
から醒めた哀しい歌だった」 当時、何も知らなかったのか? 
知っていて、その心情を深く思わなかったのだろうか?その方が、もっと酷いが。 
当時の底の浅さが、思いやられる! 多くの人が死の直前に走馬灯のように思い
出す故郷は、こんなものだろうか。ーあるブログから、元歌の歌詞の訳を引用ー
 ーー
故郷の街並みは昔と同じ    列車を降りると 両親が迎えに来てくれている
通りを走ってくるメアリーが見える    金髪でさくらんぼのような唇の
故郷の緑に触れるのは気持ちが良いものだ  そうなんだ 皆が迎えに来てくれる
両手を差し伸べて 優しく微笑みながら 故郷の緑に触るのは気持ちが良いものだ

古い家はまだちゃんと建っている   壁は干からびてひび割れてはいるけれど
そして僕が遊んだあの古い樫の木もある 愛しいメアリーと一緒に小道を歩くんだ
金髪でさくらんぼのような唇の   故郷の緑に触れるのは気持ちが良いものだ

そして僕は目覚める 辺りを見回してみる   僕は灰色の壁に囲まれている
そして気づくんだ そうなんだ 僕は夢を見ていたんだ と
看守がいるし 悲しそうな顔をした年老いた牧師がいる
夜明けには 腕を掴まれ歩くんだ それから僕は故郷の緑に触れることになる

そうなんだ 皆が僕に会いに来るんだ  あの古い樫の木陰のところに
皆は僕を故郷の緑の下に横たえるんだ
ーー
▼ Youtubeで、この歌を改めて聞いてみた。 この意味を知ってから聴くと、
 歌が違って聴こえてくる。私の幼児の頃の家と、家族と、店の人たちを、
思い浮かべると、魂の故郷に帰ったような気がする。熟年になってきて、
死が近い将来?に近づいてきた現在、この歌の味わいは、ことさらである。
 そういえば、この随想日記で「白い雲に乗って」のテーマで、
書いたことを思い出した。〜以下