ー身の下相談にお答えしますー上野千鶴子
  * できる事と、できない事の腑分けを!
 人生に恵まれず、ひたすら流されて生きてきた人は意外と多い。
これから日本人の大部分が下流になるというが、グローバルにみれば、
恵まれた環境に住んでいる。貧乏と、どう折り合いをつけるか、その中で、
充実した日々を送れるかの知恵が必要ということか。みな下流なら、
それが中流になるのでは? 
   ●質問: 貧乏生活で友だちもいません 相談者OL39歳
 39歳、入社20年目の貧乏OLです。辞めたい辞めたいと思いながら勤めて
きました。会社の業績も厳しく、正社員とはいえ手取り月16万2千円の
ボーナスなしです。親元から片道1時間40分かけて通勤しています。
 貧乏なので毎日の通勤服も着たきりすずめです。だからロッカールームで
着替えるのが苦痛でたまりません。のびきったブラジャーにすり切れパンツ
を見られるのがイヤで、人気のない時間帯を狙って着替えるありさまです。
冬場はコートの下は制服を着て通勤します。 昼の弁当も粗末です。
おかずのない日の丸弁当を見られるのがイヤで、休憩室でも自分の席でも
食べられず、晴れた日は真夏でも真冬でも外で、スズメを相手に、雨の日は
欠食します。 どんな境遇になっても自分を見失わず、明るく元気に生きて
いきたいのですが、こんな生活を続けていると自分が壊れていきそうで
(もう壊れているかも)こわいです。貧乏くさいケチケチ生活をしているから、
いいご縁にも恵まれず、毎日が楽しくないのでしょうか。もちろん友だちも
いません。他人になんと言われても平気な強い精神力を持つべきでしょうか。
やはり他人の目を気にして、こじゃれた服を身につけて人並みのお弁当を
作ったり買ったりして、他人ともっとコミュニケーションをとるように
したほうがいいのでしょうか。
   ●回答: 「壊れず」にきた自分をほめて!
 あなたはちっとも「壊れて」なんかいません。
辞めたいと思うような会社に長い通勤時間をかけて20年間も通いつづけ、
質素な暮らしをして衣服にも食べ物にもおカネを使わず、まじめに忍耐強く
生きているあなたは、今どき珍しいりっぱなひとです。高度成長期以前の
日本なら、あなたのようなひとはけっして珍しくなかったでしょう。
 格差が拡大し、『蟹工船』がブームの昨今。あなたの反時代的な生き方は、
一周遅れのトップランナーかもしれませんよ。 給料が悪くても正社員なら、
派遣切りのように突然職を失うこともないでしょう。 夜勤・残業なしで
手取り16万あまりは介護職の労働条件よりまし。親にペラサイトできるなら、
母子家庭のシングルマザーより有利。自分より下を見て現状で満足しなさい、
とお説教しているわけではありません。
 あなたの本当のお悩みはいったい何? 貧乏なこと? 人並みでないこと?
仕事がつまらないこと? 毎日が楽しくないこと?結婚できないこと?
他人とコミェニケーションがとれないこと? ご自分で「こじゃれた服を身に
つけて人並みのお弁当を…買ったり」したほうがとありますが、「貧乏」なら
その選択肢はないはず。それともその気になれば使えるおカネがあるのに、
ケチヶチ暮らして貯金でもしているのですか? 
 できることとできないこととを腑分けして考えましょう。
 オシャレがしたかったらリサイクルでもファストファッションでも工夫次第
チープシックは可能です。今どき梅干と個の日の丸弁当とは驚きましたが、
晩のおかずを詰めたり、いくらでも工夫できるでしょう。
 あなたは他入の目を気にしながら、その他人に合わせる気祷ちがないのです
からすでに十分に「強い精神力」の持ち主です。他人とコミュニケーション
する手段は服装や弁当ではありませんから、きっと本気でコミュニケーション
したいとは思っていないのでしょう。コミュニケーションしなくてもすんで
きた職場なら、あなたにうってつけ、と思えます。仕事はやりがいのためでは
なく収入のため。今より有利な転職がなければ、いやがられても職場にしがみ
つきましょう。20年間「壊れず」に続けてきた自分をほめてやりましょう。
▼ ここには書いてないが、収入から考えて下流の女性のアラフォーの
典型的な悩み。人生設計にセンスがないと言えばそれまでだが。
できる事と、できない事を腑分けする必要が人生に多くあるが、それが
できずに、ここまで来た人は意外と多いようだ。 虚しいだろうに。

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4981,瞬間説得 ー2
2014年11月03日(月)
      「瞬間説得ーその気にさせる究極の方法」ケヴィン・ダットン著
  ー前回の瞬間説得の問いの答えの内容はー
★ < 電車は五分ほど途中停車しました。車内は満員で、しかもさらに
 五分間停車するというアナウンス。すると、ジョギングウェアを着た男が
いきなりタバコを取りだして火をつけました。車内は不愉快そうな沈黙に
包まれましたが、誰もが黙っています。あなたなら、トラブルもなく
一発でやめさせるには? >
ー>人々の顔がそれを雄弁に物語っていたが、誰もが、こうした場合ありがちな
ように黙っていた。そのとき突然ピンストライプのスーツ男が禁を破りました。
「失礼」とタバコを持って男に身を寄せ、「ちょっと火を貸していただけませんか」 
これがきっかけになりました。 堪忍袋の緒が切れたのです。すぐに別の乗客が
止めに入りました。「あんた方、禁煙だってこと知ってるだろう?」と彼は
言いました。スーツの男は禁煙の表示に、突然"気づき"ました。
「悪かった。気づかなかったんだ」それから彼はジョギングウェアの男をふり
返りました。「これは消した方がよいみたいだね」 ・・禁止区域で平然と
タバコに火をつけるような人物は、おとなしくしていないのが普通で、必ず
抵抗します。 これに対処した乗客はどうしたでしょう? 真正面から対決する
のではなく、まったく反対の方向へ行きました。》
 ▽ 逆に二人になって、ますます黙りざるを得なくなる可能性もある? 
★《 =赤ちゃんには逆らえない=ヒューストンのある女性から聞いたばかりの話。
昨夜友達が自宅のポーチで赤ん坊の泣き声がするので、気味が悪くなら警察に通報したそうだ。
警察が彼女に言った。「とにかくドアを開けないでください」するとその女性は心配し訴えた。
もしも赤ん坊が窓のぞぱを這っていて、道に出だりしたら車に轢かれてしまうかもしれないと。
 警察は言った。「すでに警官のチームがそちらに向かっています。何があろうとドアを開けないで
ください」警察は連続殺人鬼が録音した赤ん坊の泣き声を流し、誰かが赤ん坊を捨てていった
のだと思わせて、女性たちを外にもびきだそうとしているのだと言った。絶対とは言いきれないが、
夜中に女性が一人でいる家の外で赤ん坊の泣き声がしたという通報を数件受けているのだと……。
人間の赤ん坊の無力な泣き声は、か弱くもないし、無能でも、原始的なものでもない。
それは自然界でもっとも深遠かつ強力なものだ。父親と母親はそれを聞いて初めて、親としての
自覚が生まれる。「幼児の」泣き声は、宇宙に放たれるのではなく、人間の愛と慈悲の深みへ
降りていく。それを強盗が利用しようというのだ。》
 ▽ 子供の泣き声こそ、瞬間説得になるが、実際にあったことだから、説得力があるし、
この程度の細工はするのだろう。 初めての創業で、小さなテナント商業ビルの一角に、
養老乃滝をオープンした。ところが、居酒屋などの経験が無かったため、2〜3ヶ月に一度は、
酔っ払いの絡みに対応できなかった。そこで考えたのが、相方や、手伝いのパートさんと事前に
打合せておいて、彼らを怒鳴りつけることで、酔払いの気勢を削ぐ方法を思い至り、何度か
きりぬけた事があった。 ・・で、女性が頻繁に使うのは、涙。瞬間説得の最たるもの。
 もう一つ、謝罪会見の後の、10〜20秒間の最敬礼! 彼らは、下を向きながら 1,2,3と
数えているらしい!
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4614, 2000年前のポンペイー6
2013年11月03日(日)
 イタリアのポンペイの遺跡には三度行っているが、行くほどに、その魅力に惹かれる。
また何度か、ここでも書いてきた。TVでは、『NHKBS歴史館』などで、多くの特集を組んでいる。
また、図書館には写真集がある。AC79年に、ナポリ湾を見下ろすベスビオ火山 が大噴火すると、
南東10キロに位置したポンペイの町は火山灰に埋もれたが、1748年から発掘調査が行われ、
それが現在も続いている。ローマ人が創り上げた古代都市が徐々に姿を現しているが、今でも
半分も、発掘されてない。 舗装された道路、神殿、住宅、商店街などが20Mの火山灰に、
2千年の間、保存されている。人骨などは、その熱で溶けてしまい、それを覆って出来た空洞に
石膏を流し込んだものが発見された現場近くに展示されている。
 ところが最近、ある地下室で、54人が噴火後、生埋めになって折り重なった生々しい遺骨が
発見された。そこで、彼らのDNAや、装飾品・衣服などから新たに多くの事実が分かってきた。 
そこは大きな商家で、その主人と思われる人の身の周りから金銀が。エメラルドを身につけた
男女の遺骨には、人骨が青く同化。小銭を多く持っている人は近くで商いをしていた人。
妊婦は胎児の骨がお腹の辺りあったことから推察される。噴火から火山灰がポンペイまで
到達するに19時間かかったというから、留まった人は、大金持で金銀の財産を失うのを恐れ、
妊婦は身重で、商人は店に未練があったため、等々が推察される。ポンペイには下水道が完備、
都市計画があって、商店街、大広場、神殿などあり、現代の都市にひけをとってない。
古代ローマの都市は、中世のルネサンスまで、それを凌駕した時代は一度も無かった。
その古代都市を、大噴火の20Mの火山灰が石膏代りに、都市全体を保存し、私たちの目の前に
再現し見せてくれるのだから、奇跡である。石の文化は、後々まで残るからよい。
彼らは午前中だけ働き、あとは浴場や、劇場などで、生活を楽しんでいた。
瀬戸内海周辺は、農作物などが豊富で、物流が盛ん。それが万遍無く市民に
行き届いていたようだ。 世界は広く、深い!
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2004/11/29
1336, 2000年前のポンペイー5
一昨日のNHKスペシャルで「ポンペイ」を特集していた。
落書きを切り口に番組みを構成していたのが、新鮮であった。
たまたまポンペイについて書いていたので、その偶然の一致が奇妙な気分である。
2000年前の生々しい人間の心が、落書きの中に出ていた。話は少し逸れるが、エジプトの
ルクソール神殿の遺跡の壁にあったレリーフに,兵隊の絵があった。同じ絵が多く描かれていたが、
現地の日本人女ガイドの説明が面白い。その兵隊うちの一人だけが、ところどころ逆向きに
向いているのだ。当時の多くの職人の一人が、命をかけて?わざっと逆向きに彫ったという。
いつの時代でも、そのような遊びがあった。それよりも、数千年の時空を超えた男の生身の
人間的なジョークを伝えているのがよい。
  ーその番組みで紹介していためポンペイのメモには
・〔私と貴方が一緒に踊ったことを憶えていて、訪ねてきてくれてラブレターを置いていってくれた〕
 返事が壁に書かれていた。
・隣近所のお知らせー人々は回覧板かわりに壁を使ってコミュニケーションをしていた。
・現在の通りの商店看板と殆ど同じものが、当時のポンペイの街にもあった。
ポンペイの街には400軒の店があった。 24時間営業の居酒屋があった。
 その居酒屋の奥の部屋でゲームと会話をしている絵が残されていた。
・食料品店の壁には、掛け売りのメモが書きこまれていた。 家計簿的なメモもあった。
果物屋には桃が売られていたメモがあった。  等々である。
メモから、当時の変化がうかがい知ることが出来る。当時のローマ帝国の政策の大きなもの
として、パンと、サーカス(街には必ず円形劇場がつくられていた)を庶民に与えることであった。
AD・54に17歳で皇帝になったネロが、その政策を更にエスカレートさせていった。
そのためか、贅沢の限りをつくす考えが一般にまで浸透を始めていた。
その頃のメモに〔今を楽しめ〕というのがあった。
それがエスカレートしたのかタブーのメモもあった。
・下品の言葉を慎むように
・他人の妻には手を出さないこと
・食事をしていて、着物を汚さないように
 宴会場の壁には、酔っ払いの落書きに
〔とことん飲むぞ!〕というものもあった。
富める者と貧しいものとの格差が鮮明になり始めてきていた。
そして、貧しい者の荒んだ心がそのまま落書きになっていた。〔あの男に災いあれ!」
当時の円形闘技場の落書きの中に「闘技場の外で多くの人同士が剣をもって争う姿」があった。
試合を見ていた同士が喧嘩になって殺しあう事件が起こったのだ。普段の生活が、火山で時が
そのまま密封され生々しい世界が奇跡的に今に多くを語りかけている。
  −この私のポンペイのシリーズはまだまだ続くー
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2004/11/26
1333, 2000年前のポンペイ −4
遺跡の中でポンペイの遺跡は、奇跡に近い状態で当時の世界をそのまま閉じ込めて現在に
提示してくれている。このグラビアの本を開いているだけで、気持ちが2000年の時空を飛び
越えてローマの時代にはまりこんでしまう。この小プリニウスの手紙には、大きな衝撃を受ける。
この青年の知性にも、驚きざるをえない。それと、大プリニウスの行動にも当時の知的レベルの
高さを知ることができる。この内容が、2000年前の事実がそのままドキュメント風に
記載されているから迫力があるのだ。人間の変わらない感動、恐怖、そして生活が
そのまま伝わってくる。街全体が、当時のまま残っているから、更にこの手紙の内容が生々しい。
18世紀の初頭まで人々の記憶から忘れ去られたことが、当時のままの姿を残すことにもなった。
35年前の日記を昨日のように感じるのは何ら不思議ではない。全て昨日のようなものである。
数ヶ月前のTVドキュメントは、この手紙を忠実に映像化をしていた。
そして、爆発が起きてからポンペイが埋まるまでの19時間も、当時の遺体の様子から
想像をしたドキュメントが生々しく時系列で構成されていた。。
ー6月20日の手紙
私は先に、あなたの求めに応じて、伯父の死についての手紙を書き送りました。
手紙を読で、ミセヌムに残されたこの私がいったいどんな恐怖を味わい、そしてどんな危険に
あったかぜひ知りたいと貴兄はおっしゃいます。実は、先の手紙ではそれを書こうとしていて、
筆を置いてしまったのです。「思い出すのもつらく、悲しみは深いけれど、とにかくやってみましょう」
 伯父が出発した後、私はずっと勉強をして過ごしました。そのために残ったのですから当然です。
それから入浴と食事をし、そして短く途切れがちな睡眠をとりました。
それまでも、前ぶれのような地震が幾日も続いていましたが、カンパニア地方では珍しい
ことではなかったので、さほど恐ろしくはありませでした。しかし、その晩起こった地震はあまりに
激しく、もはや揺れているという程度ではなく、すべてがひっくり返ってしまったかのようでした。  
母が急いで私の部屋にやってきました。私の方ももう起き上がっていて、母がまだ眠っていたら
起こそうと考えていたところでした。
私たちは中庭に避難し、腰を下ろしました。そこは海と建物を隔てる格好の空間でした。
当時17歳だった私は、落ち着いていたというか、無分別だったというか、ティトゥス=リウィウス
(訳注:古代ローマの歴史家、『ローマ建国論の著者)の本を持って来させ、いかにも暇を持て
余しているかのようにその本を読み、やりかけのレジュメを続けていました。そこへ伯父の友人が
やって来ました。伯父に会いにスペインから戻ったばかりだというその友人は、私が母と一緒に
座って本を読んでいるのを見て、私の無気力と不注意を責めました。それでもなお私は、熱心に
読書を続けようとしていたのです。 もう昼の第1時だというのに、光はなおもぼんやりとして、
まるで病人のように弱々しいままでした。すでに建物には亀裂が入っていました。
私たちは屋外にいたのですが、建物が崩れ落ちたときのことを考えると、その狭い場所では
安全とは言えませんでした。ついに私たちは町を出る決心をしました。私たちの後には茫然と
なった群衆が続きました。人は突然激しい恐怖に襲われると、自分の決断より他人の決断に
従う方が賢明だと考えるらしいのです。   (字数の関係でカット 2013年11月3日)
・・・・・・
2004/11/13
1320, 2000年前のポンペイ −3
  小プリニウスの「手紙」−1
ポンペイについて書いた直後に地元の新潟中越地区に大地震がおきた。偶然の一致だろう。
ポンペイの遺跡から当時の情報が多く知ることができた。歴史から忘れられたポンペイの遺跡が
発見され、発掘が始ったのが18世紀の半ばであった。そして現在に至るまで250年にわたって
発掘が続いている。まだ発掘してないところが多くあるという。
歴史家のタキツゥスが、書の中で当時のある若い青年の手紙を残していた。当時まだ17歳だった
青年の2通の手紙が当時の模様をこと細かく整然と後世に伝えていた。その文章を読んでいると、
その一言一言が身に沁みる。その青年とは、当時、地中海艦隊の司令官としてナポリ湾岸の町
ミセヌムに駐在していた大プリニウスの甥、小プリニウス(61年頃〜112年頃)である。
歴史家タキトゥスの求めに応えて書いたこの手紙は、ローマ帝国内の美しい都市に起きた
大惨事の貴重な目撃談となっている。 この手紙を読んでいて、彼の驚きと当時の若い
彼の興奮がそのまま、2000年の時空を超えて伝わってくる。
「言葉を持つことは魂を持つこと」という言葉の重みを実感する。
発掘された遺跡の姿そのものが、そのまま人間の変わらない生活と真実を伝えている。
ーー
プリニウスの「手紙
ー6月16日の手紙
 伯父の死をできるだけ正確に後世に伝えるため、あなたに手紙を書くようにとのご依頼を受け
私はとても嬉しく感じました。というのは、伯父の死があなたによって書き留められることで、
彼に不滅の栄光が与えられると考えたからです。恐ろしい災厄によって死んだために、
伯父の死は、他の被害にあった住民や美しい町とともに永遠に記憶されるでしょう。
また、伯父自身、後世に残るであろう多くの作品を書いています。しかし、それに加えてあなたの
著書に書き留められるとすれば伯父の歴史上の記憶は、より確かな、永遠のものになるはずです。
私は思うのですが、歴史に残るようなことを行うか、あるい、は価直のある文章を書く能力を神から
与えられた人は恵まれた人であり、しかもこの能力を2つとも与えられた人は、最も幸せな人です。
私の伯父は、彼自身の著書とあなたの御著書とによって、そのような恵まれた人物の一人と
なるでしょう。というわけで、私はあなたの御依頼をお引き受けいたします。いや、こちらから
進んで手紙を書かせて頂きます。
 伯父はミセヌムにいて、船団の指揮をとっていました。異様な形の巨大な雲が現れたことを
母が伯父に知らせたのは、9月の第1日より9日前(8月24日)の第7時(午後1時)頃のことでした。
伯父は日光浴と冷水浴をしてから軽い食事をとった後で、ちょうど仕事の最中でした。
伯父は靴を持って来させると、その超自然現象を一番よく観察できる場所にのぼりました。
 (字数の関係でカット 2013年11月3日)
・・・・・・
2004/10/22
1298, 2000年前のポンペイ −2
図書館で何気なく歴史コーナーを見ていたら、「『ポンペイ』完全復活、2000年前の古代都市」
というグラビア集があった。一ケ月位前にTVで『ポンペイ』を特集していたのをDVDに録って、
その面白さに繰り返し見た後なので、思わす時間を忘れて、その場で見入ってしまった。
借りてきて見ているがTVよりさらに深い内容である。本は、映像では表現できない違う役割がある。
 AC/79年8月24日、ヴェスヴィオス山の大爆発で火山灰で埋没したこの街は、その18世紀半ば
からの発掘によって、古代ローマを知る上で大発見になった。それまで、古代ローマの遺跡と
いえば、ローマ市郊外の遺跡であったり、地中海沿岸の都市であった。
ローマ帝国は、このような街が数千もあって、それによって支えられていた。
しかし、それらはその後の追加工事などで、当時の原型を殆ど留めていないものばかり。
これだけ、完璧に残って発見されたのは歴史上初めてである。街そのものを、石膏(火砕流
を流し込んで、そのまま保存したようなものである。
ーそのグラビア内容とは
・街全体の航空写真と、それを元につくられた街の復元の絵
・それで解ったポンペイの都市計画図 そして街の構成と築造技術
・給水システムと下水システム
・共同墓地と体育場と円形闘技場、そしてスタビア浴場
・娼婦の館の写真と、そのレイアウト。 そして、そこに描かれていた男女交合の絵
・完全に残っているパン屋と、内部の工場と、パン原型 そして、それをもとに作られた
 パン屋の想像図
・複合劇場施設の航空写真と、その図面と、想像図
・音楽堂と、そこに描かれていた壁画と、残されていたタンバリンと、ブロンズ製のパンパイプ
・街の心臓部になっていた、市民広場 そこでは、街の住人や、郊外の豊かな農民、商人、
遊び人など様々な人たちが集っていた。そこでは選挙もおこなわれていた。
・公衆トイレもあり、入ると控えの間があり、外からは見えないようになっていた。
そこを入ると便座があり、 排水溝があって常に水が勢いよく流れていた。
こう見ると、現代の都市と大して変わりがないといってもよい。      ーつづく