ー私は「言葉」を諦めないー(新潮45/5月号)
            〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
   * 自分とはいったい何者なのか?
 世間を馬鹿にしているところが、いやに同調できる。『閑』という字が
ある。門の中に木がある状態、その木を己とすると、『独』の状態。
それを自分の中で守ってこそ、自分と他者との分別が可能になる。それが、
出来てない、他人志向的傾向の強い人たちを世間様と定義つけている。
 大方八割?の、世間にまみれた人たちに揉まれ、そこで、己とは何者なのか
を自覚するのは、並大抵でない。世間を見下しながら、そこに依存をするしか
ない己の心情を、以下で明晰に表現している。 〜その辺りから抜粋
≪ 自分もまた俗世間を馬鹿にしており、誰よりも高みにいる気でいたわけだ。
 なのに、そんな自分が世間から排除されたことにこれほどまでに傷つくとは!
私のこれまでの世間への侮蔑は単なるポーズに過ぎなかったのか? それとも、
私が世間を拒絶するのはいいが、世間が私を拒絶するのは許せない、と、
そういう理屈なのであろうか? 
 おそらく、そういうことなのだろう。 私のとどまるところを知らぬ
ナルシシズムは、自分を高い高い場所に押し上げ、超然と世間を見下ろして
いるつもりだった。なのに、その下々の世間から「おまえなんかいらない」
と言われたことで、私は激しい屈辱感を味わい、同時に、自分がずっと見下して
きた世間からの評価をいかに必要としていたか、強烈な痛みとともに思い知った
のである。これほどまでに尊大にして卑屈な人間を、私は他に知らない。
私は己の愚かさに呆れ果てているが、それは自己卑下と-か謙遜とかいった
ものとはまったく別の次元のものだ。
 私はいったい何者なのだろう。この問いに、またもや私は立ち返る。
何度も自分に問いかけ、一度も答えを得られなかった問いだ。これからも
たぶん、答えなんか見つからないに違いない。その答えを見つけるには、
私はあまりに己を知らな過ぎるのだ。 私は何者なのかを突き止めることが
私の人生の大命題なのだとしたら、これはもうきわめてパーソナルなテーマ
であるから、世間から承認されたり評価されたりする類のものではあるまい。
 私がその答えを見つけたとしても、誰の役にも立たないからだ。
 ならば、私は世間から排除されようが拒絶されようが痛くもかゆくもない、
ということになる。人がどう思おうと、私は自分のテーマを変えるつもり
はない。私は私にしか興味がないのだ。
 そんなふうに考えたら、なんだかちょっと気が楽になってきた。
おそらくこれからも私は態度を改めることなく、世間を馬鹿にし続ける
だろうし、そんな世間から許しをえたいとも思わないからだ。
世間が私を必要としなくても、私が私を必要としている限り、私は私の
ために生き続ける。それがどんなに傲慢なことかわかったうえで、あえて
そういう生き方を選択する。
 このように私が世間と隔絶した場所で生きようとすることと、私が本気の
言葉を諦めずに人々に投げかけ続けることは矛盾しているように思われるかも
しれない。が、私が言葉を投げかける相手は、決して「世間」ではない。
 私が言葉を届けたいのは、わざわざお金を払ってまで私の文章を読んで
くれる人々だ。その人たちの心に何かが届けばもうそれ以上は望むまい。
私はずっと「私とは何者なのか」という問題に拘泥し続け、その答えを得る
ためになりふり構わず生きてきた。「私」を解析することで、広く「人間」
というものの核心に迫れるのではないかと思ったからである。
 私は「人間」を知りたかったのだ。 私とは何かという問いから始まって、
人間とは何かを突き止めたかった。・・・ ≫
▼ 現在の、私の心情に、重なる部分が多い。数十万人?に向けて書く
 内容だから力が入りようが自然と違ってくるのだろうが、この湧き出て
くる力は、心拍停止から蘇った経験があればこそ。そう、4年前の一連の
出来事が、『脱皮』だったことを、彼女の脱皮した文章から、自覚した。
 『脱皮』といえば、51歳の時、母親を見送って、さて如何するか?
と考えたとき、還暦までに、死ぬまでの大よそ30年分のしたい事を
可能な限り、やり尽くすと決めた。 その時も『脱皮』であった。
だから8割?の有象無象を無視できる! 人生、良いように出来ている。
・・・・・・
4928,パワレルな知性 ー6
2014年09月11日(木)
     * 人間の持つ二重性    『パワレルな知性』鷲田清一
 「ひとりの人を理解するまでには、少なくとも1トンの塩をいっしょに
舐めなければならない。」と、須賀敦子に諭したイタリア人の姑の言葉が、
古典や人とのつき合い方についての根本を示している。人間は、40億年の
生命の進化の歴史を背景に持つ複雑怪奇な生きもの。自分の中にある
グレーソーンに多くの何かが隠されている。 ーその辺りからー
≪ ・・白黒つけられないこと、グレイゾーンにあることこそ、じつは大きな
 意味をもっているのではないかとおもってきた。「噛みきれない想い」を
抹消しないこと、それが思考の次のステップの火床になるのではないか、と。
そのことを日常のさまざまな局面で確かめてみたかった。わたしは子どもの
頃から、物ごとを見るとき、表面上の意味とは反対の意味を背後に透かし
見る癖があった。その癖の源となったのは、幼少期のある体験である。
 わたしは、京都の下京区という下町の生まれである。お寺が多く。
そこを通り抜けると島原という花街があるという土地柄で、わたしは子ども
のころ、若い修行僧や芸妓さんとよく道ですれ違った。修行僧は冬でも裸足
に草履履で、服装もきわめて簡素で、逆に、芸妓さんはきらびやかなきもので
着飾っていた。子どものころのわたしは、「お坊さんは寒いのに可哀相やなあ」
とおもい、「芸妓さんは優雅やなあ。おいしいもの食べ、きれいなきもの着て」
とおもったものだ。 しかしその後、そうした表面的な印象とは逆の面が
見えた出来事があった。
・一つは、祖母から「お寺さんは貧相な格好に見えるけど、わたしらが知らん
 『浄土』という、この世にはない幸福を知ってはるんよ」と言われたこと。
・もう一つは、芸妓さんがお座敷に出る前に地味な洋服姿で銭湯に行き、
 帰り道にお宮に参って「早う故郷に帰れますように」と祈っている姿を
 見たことである。
貧相の極みに見えた修行僧の心にはこの世ならぬ幸福があり、豪奢の極みに
見えた芸妓さんの心には寂しく哀しい想いがあった。わたしはそのことを
知って、「物ごとって、見た目だけやないんやなあ。わからんもんやなあ」
と、世の中に対する見方が少し変わった気がした。わたしが哲学の道
進んだのも、子どものころから身についた‘物ごとの裏側を見透かす癖'
が遠因となったのかもしれない。・・・ ≫
▼ 実家が衣料小売商をしていて、4階建ビルの3Fに4〜10歳まで育った
 ため、日常が戦場真只中! その上に両親を含めた10人家族と、住込み
従業員が4Fと2Fに同居していた。更に猫と、猿と、犬が、同居とくれば、
まさしく小説の世界。そこで、子供ながらに、様々な不条理の場面を見てきた。
子供でも、裏と表が分かるのである。そこでは、まずは自分を自分自身で守る
しかなかった。その中で、姉たちは、成績優良だったから、いま考えると不思議。
その末っ子となれば、「沈黙こそが金」を身につけざるを得なかった。
全てがグレーゾーンで、裏も表も、斜めも、底もある生々しい世界で、娑婆
そのもの。それが、その後の社会経験の中で、危険な場面を乗越えるノウハウ
になっていた。 直感的リスク管理が、幼児時代に身についていたことになる。
人間科学を学び続けて知ったことは、『人間の持つ多重性』である。 
幼児、少年時代の、この体験の上に、学生時代の寮生活と、武澤ゼミの
ケーススタディ」が加わっていた。今回の節目の一連の構えを備えていた
のも、それらの蓄積があればこそ。人間の持つ多重性の奥底を知ればこそ。 
で、この結果、この様だから、何を言わんか。それにしても、見え過ぎるのも、
面白い反面…?奇妙なもの!
 後記)ところで、読み返してみたところ、私の内容の方が中味が濃い? 
    いや、丁度よい? 悪い?
・・・・・・
4561, 2050年の世界 ー4
2013年09月11日(水)
         「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」 
                  英『エコノミスト』編集部 (著) 
本書は(第一部:人間とその相互作用)(第二部:環境、信仰、政府)
(第三部:経済とビジネス)
(第四部:知識と科学)それぞれ5章の合計20章から成る。
人間、宗教と政治、経済、知識と科学の、4つ括り。
次回からは後半ほど面白いため、20項目の一番最後から⑳⑲⑱⑰と
逆向きに取り上げる。 ーまず目次からー
  (第一部:人間とその相互作用) 
① 人口の配当を受ける成長地域はここだ ② 人間の病気の将来
③ 経済成長がもたらす女性の機会  ④ ソーシャル・ネットワークの可能性
⑤ 言語と文化の未来
 (第二部:環境、信仰、政府)
⑥ 宗教はゆっくりと後退する     ⑦ 地球は本当に温暖化するか
⑧ 弱者が強者となる戦争の未来    ⑨ おぼつかない自由の足取り
⑩ 高齢化社会による国家財政の悪化をどうするか
 (第三部:経済とビジネス)
⑪ 新興市場の時代      ⑫ グローバリゼーションとアジアの世紀
⑬ 貧富の格差は収斂していく ⑭ 現実となるシュンペンターの理論
⑮ バブルと景気循環のサイクル
 (第四部:知識と科学)
⑯ 次なる科学        ⑰ 苦難を越え宇宙に進路を
⑱ 情報技術はどこまで進歩するか  ⑲ 距離は死に、位置が重要になる
⑳ 予言はなぜ当たらないのか
▼ これを見ていると、人口の推計以外、どれもこれも、この程度ではない?と。
 日本一つ取り上げてみても、40年前の1973年は高度経済成長の真っ只中、
石油ショックで茫然自失。12年後にバブルが発生、5年後にバブル崩壊
そして、失われた20年を経て、リーマンショックと東北大震災。現在は
1000兆円の借金を抱えている。明らかに10年後は国家破綻国の可能性が大。
まして、40年後は・・・ それでも、叩き台として想定するのは必要である。
最終章の「予言はなぜ当たらないのか?」の答えは、「土台無理のテーマ」。
情報化によるグローバル化で、世界が平準化していく結果は、誰も想定出来ない。
・・・・・・
4186, 閑話小題 ーヨーカ堂の正社員削減
2012年09月11日(火)
   * オスプレーを一番必要としているのは日本じゃないかい?
 政府がトラフ地震の被害情報を発表してから、次の大震災に対しての被害想定
が表立ってきた。道路が寸断された災害地に対する緊急の救済にヘリコプター
が一番有効に働くが、短距離しか有効に働かない。問題は中距離からの輸送。
そうオスプレーのような中距離の大量空輸が可能な緊急輸送手段こそ必要になる。
被害地の近くに飛行場は無いのである。問題は数千、数万の命に関わる問題、
危ないとかいっている場合でない。尖閣列島などの領土問題でもしかり。
もし戦闘になった時に最も必要になるのは中距離輸送。 オスプレーの着陸は、
別に住宅密集地にする必要がない、問題はコース。ヘリ機能はコースを如何
ようにも変えられる。こういう意見は、この国では口に出せない。
出せば袋叩きになる。何かがおかしい!
   * ヨーカ堂の正社員削減
 ヨーカ堂が現在の正社員8600人を4,000以上削減すると発表し、
パート比率を90%に引き上げるという。それだけ、経営状況が悪化している
ということだ。 ヨーカ堂グループは、セブンイレブンを持っているので、
グループとしての経営体質は良いが、その発生の元のGMSの業態のヨーカ堂店舗
を多く抱えている。それが正社員比率を一割まで減らすというから驚き。 
店舗も一割削減するため均衡縮小になる。情報機器が高度化しているため、
それほど店舗レベルの質の低下は避けられるのだろう。
地元の長岡駅前のヨーカ堂は、私と家内の目からみて死に体の店。
ファッション、雑貨に買いたくなる商品が皆無。
 ・・・・・・
3821, 哲学人 ー�
2011年09月11日(日)
 * ウィトゲンシュタインの『論理哲学考』   
              ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
   ー まずは、以下の箇所である。
【 オックスフォードでは、しきりとこの本「論理哲学考」が参照されていた
 けれど、学生は読むように勧められていなかった。これを理解するには、
論理学の技術に習熟する必要があったからである。・・ 私はこの本に取り組む
準備はできていると感じた。 このような本だと知ったときほど驚いたことは、
あとにも先にもないのではないだろうか。オックスフォードでは『論理哲学論考
は常に論理実証主義の基礎をなす文献として挙げられていた。ところがきちんと
読んでみると、その中心テーマは論理実証主義のほぽ対極にあった。
論理実証主義者は、世界に関するあらゆる真理探究を科学に同化させる傾向が
あり、その結果、科学を律する基準によってすべての真理探究活動を判断し、
科学的発言に適用されるルールによってすべての発言の妥当性を判断した。 
観察か経験により立証されるものしか、世界について知ることはできないので
あり、確実な論拠を提出できるものしか、有効に、もしくは正当に語ることは
できない。だが重要な事柄はすべて、少なくとも原理上は語ることができるはず。
そして曲がりなりにも語ることができるものは、明確に語りうるだろう。
論理哲学論考』は、こうしたこととは正反対に、きわめて重要なものの
ほとんどはまったく語ることができず、言葉を使ってもせいぜい示すことが
できるだけと言いきっていた。それは示されうるとしても、語ることはできない
のだ、と。 また、「論理哲学諭考』は科学をあまり評価していなかった。
命題言語が有効なのは、経験や分析に基づく真実、すなわち事実と論理にかわる
事柄を表現する場合にかぎられる。それ以外の分野では、役に立つというより
むしろ誤解を招きやすいので、有益というよりむしろ有害となりやすい。
このため、私たちにとってきわめて重大な意味をもつ問題はどれもその範囲の
外にあることになる。倫理・道徳・価値観に関する疑問・人生の意味に関する
疑問、自我や死の本質に関する疑問、全体としての世界の存在に関する疑問は、
観察にも論理にも解決できない。したがって命題言語が扱えるものではなく、
強引に命題言語で処理しようとすれば、行き詰る結果となる。】
▼《『論理哲学論考』は、きわめて重要なもののほとんどはまったく語ることが
 できず、言葉を使ってもせいぜい示すことができるだけだと言いきっていた。
それは示されうるとしても、語ることはできないのだ、と。また『論理哲学諭考』
は科学をあまり評価していなかった。命題言語が有効なのは、経験や分析に
基づく真実、すなわち事実と論理にかわる事柄を表現する場合にかぎられる。
それ以外の分野では、役に立つというよりむしろ誤解を招きやすいので、有益と
いうよりむしろ有害となりやすい。》 上記の中で、この部分は非常にシビアで、
したり顔で小理屈を述べている学者風の人を一言で切り捨てている。これは哲学
の否定でもある。語りえないことを、哲学は求めていることになる。
論理実証主義者と言語哲学者たちが、この『論理哲学考』を全く誤解していた
ことになる。
*「論理は考えられるもの」の範囲を定める。 
* 語りえないものには沈黙を 
* 言語は「写像形式」によって世界につながっている。 
 言語はものや出来事を写し取って名前をつけたもの 
* 言語が対象に意味を持たせる=言語ゲームの始まり、である。
「言語が語れることだけが思考できる範囲」と言うが、私として、
「解釈できる範囲が思考できる範囲」であって欲しいが。
 ・・・・・・・・
3456, 渥美俊一氏死去 −2
 2010年09月11日(土)
 一回の追悼文で終わる予定だったが、何か言い足りないので更に書く。
7月21日に亡くなったが、どういう訳か死亡記事を見過ごしてしまった。
知人に聞くと日経新聞に小さく載っていたという。氏の業績から言えば、
より大きく取り扱われてよいのだが、既に時代が変ってしまったか? 
所詮はスーパーの神様でしかないのか。早くいえば、流通先進国アメリカを
ウォッチング、そっくり真似をし、日本の遅れている流通経路に新しいバイパス
を創りなさい、ということである。「大量生産、大量消費の間に、大量流通の
仕組みつくりを、それぞれの立場で、新業態をつくること、それをロマンとして
志すべし」は、高度成長期には正しいことであった。その時期、ジャスコ
いとはん(その後、北陸ジャスコ)に勤ていたので、濁流の渦で色いろな現象
を目の当たりに見てきた。バブル崩壊。以降、今度は激しい生存競争に晒される。
その中で、長崎屋、マイカル、ダイエー、西武流通グループなどが次々と姿を
消していった。大手で残ったのがジャスコ=イオン、ヨーカ堂だけになって
しまった。その二社も最近、変調をきたしてきている。
(字数制限のためカット 2011年9月11日)
 ・・・・・・・
3081, 第三の場所
 2009年09月11日(金)
 我われは家と職場だけでは息がつけないので、行きつけの居酒屋やスナック
をつくり、学生時代の校友会や、気の合った飲み友達の会などの自分の世界を
広げる。その他にもスポーツクラブやゴルフの会にも参加したりする。
 それがレイ・オルデンバーグがいう「サードプレイス(第三の場所)」。
「サードプレイス」とは 家(必要不可欠な第一の場所)と 職場(必要不可欠
な第二の場所)に加え、都市に暮らす人々にとっての「必要不可欠な第三の場所」
を意味する。オルデンバーグは「サードプレイス」の代表例として、イギリスの
パブ、フランスのカフェ等を挙げ、それらが自由でリラックスした雰囲気の対話
を促進し、都市生活における良好な人間関係を産み出す重要な空間であるとする。 
その特徴を「インフォーマルでパブリックな営み」を促進する場としている。
インフォーマルとは社会的立場を脇に置くことであり、パブリックとは仲間が
いて協調する場をいう。第三の場は、年齢や趣味で個々の組み合わせが変わる。
 私のベースは、居酒屋・スナック+秘・異郷旅行+図書館・読書+早朝の
ウォーキング+新幹線通勤の車中など。誰もそうだろうが、私も学生時代から
現在まで、第三の場所を直ぐに創る習性があった。 家が商売をしていて
大家族だったこともあり、自分の世界を創るしかなかったのである。
但し中高校時は、その余裕は全く無かったが、その分、大学時代に一挙に爆発
したようだ。ところで8年前にパソコンを始めて、HPを開いてからネットが
第三の場所の一つに加えられた。もしかしたら第四の場所?いや、第三の場所か? 
サルトルは、その一つとしてパリのカフェの一角で多くの友人とサークルを作り、
オープンな議論をした。そうこう考えていたら、人生でみると学生時代が
第三の場所だったような気がする。第一の場が両親の影響下の家庭、第二の場が
自立後、そして第三の場が中間の学生時代である。だから現在でも学生時代の
友人と会いたくなる。学生という身分でスポーツやゼミなどで日本中から
集まった人たちと、酒を飲み、議論をし、旅行などをした。第三の場所に父親に
頭を押さえつけられた二世・三世が逃避しているケースが多く見られる。
青年会議所、ライオンズなどである。こういう時期に人間関係を形成する機会
という見方もあるから否定は出来ないが、要は第一・第二・第三のバランス。 
場所といえば、時間にも「第三の時間」という言葉が成り立つ。
「第三の場所で過ごす時間」である。時間と空間と具体的な内容ーTPOの
問題と、それを受け止める心(立場)の問題が出てくる。
で、「第四の場所」を想定すると? 「絶対孤独の場」それとも
「何かに夢中になっている場」か「忘我の読書」