ーその時、言葉は私の「神」となるー(新潮45/6月号)
              〜心肺停止になって考えたこと! 中村うさぎ
   * 言葉は自意識の申し子
 著者の自我そのままの言葉が、直接、私の心に届いているのは、魂から発した
言葉だからである。 会社断念をして、何か後ろめたさを持つようになってから、
私の書く、随想日記の文章が、「自意識の私」より、「自我の私」へ、言葉の
比重が変わったためだろう?  ネット上に公開すること自体が、実は、
「自意識の私」に縛られていることになる。「自我の私」がまる見えだが。
≪ 我々はもはや引き返せない。他者の中で己を形作る「客体としての私」が、
「私」の大半を占めている以上、我々は自意識の地獄から抜出すことができない。
そして我々は、他者の中で生きるために「言葉」を発明した。
「言葉」は「自意識」の申し子である。他者を理解したい、他者に理解されたい、
他者と繋がりたいという必死の想いが「言葉」を生んだ。
「あなたに私の気持ちを届けたい」その祈りにも似た強い想いは言霊、となって
言葉に宿り、相手の心を揺り動かす。言葉とは本釆、そういうものであったのだ
と思う。だからこそ言葉は神であった(ヨハネによる福音・第一章第一節)」のだ。
他者の中で生きていく時、私は言葉以外の武器を持てない。「空気を読む」という
コミュニケーションも苦手だし、心にもないお世辞や社交辞令といった口先コミュ
ニケも得意じゃない。言葉がなければ、私は人の世で生きていけないだろう。
 だが、それは武器であるだけに、凶器にもなり得る。人の心に届けようとして
相手の心を突き刺してしまうことも多々あるのだ。が、そんな体当たり
コミュニケーションも、そこに相手に対する好意や信頼があれば、より深い
人間関係を築くことができる。お互いに血を流しながら、まっしぐらに相手の
心の奥へと突き進んでいく。それが本気の言葉であればあるほど、我々は互いの
魂に触れ合うことができるのである。そこには嘘も悪意も存在しない。
だからこそ安心して胸襟を開くことができるのだ。そして本気の言葉が届き合い、
剥き出しの魂が触れ合った瞬間、我々は互いに対する深い理解と共感に満たされ、
以前よりももっと相手のことを好きになる。この人になら何を言っても大丈夫、
どんな自分を見せても受け容れてくれると、心の底から信じられる。
それが、私のコミュニケーションだった。もちろん、これが通用する相手は
限られる。だから私は友人が少ない。しかし真の友人なんてものは少数精鋭で
いいと思っている。これからも私は本気の言葉を投げ続けるだろう。
 私は、そのために生きると決めたのだ。私は自分が何のため生きているのか
ずっと知りたかった。特に死に損なってからは、自分は何故生きているのかと
繰り返し自問した。答はまったく見つからず、生きているのが苦痛で、
「どうしてあの時に死なせてくれなかったのだ」と医者に当違いの恨みを
抱いたりもした。ところがそんな時に、思いも寄らぬ人の計報が入って、
私は激しく動揺した。自分は生きる理由もなく生きているというのに、
死んで欲しくない人が亡くなりてしまうという、この理不尽。人の生死には
道理も必然性もないのだ、と、つくづく思った。私は何者かに連れ戻された
わけでもなければ、正当な理由のもとに生かされているわけでもない。 
生きる理由なんかないのだ。それが耐えられないというのなら、理由は自分で
見つけるしかないではないか。諸君、こうして私は、自分の言葉のために
生きようと決めたのだった。何故なら私は、成り行きとはいえ、何十年も
言葉を生業としてきたからだ。もはや私には言葉しか残ってないからだ。 
私にしか語れない私だけの言葉を、私はこれからも探し続ける誰かに届きます
ようにと祈りながら言葉を綴る。その時、言葉は私の「神」、となるのだ。 ≫
▼ 著者の「自我の私」の言葉である。成るほど、これなら万人の 心まで
 届くだろう。それと、死線から戻ってきたが故の心の苦しみは、想像を
絶するほど厳しいから、その言葉そのものが、本人にとっても「神」になる。
・・・・・・
2014年08月31日(日)
4917,「個人から分人へ」 ですか!
   * 永遠の問い、「私とは何か」
  平野啓一郎「私とは何か ―個人から分人へ」の久垣啓一氏の書評が解りやすい!
≪ この本の主張は、人間の単位を考え直すことだ。個人という意味で使っているindividualは、
これ以上分けられないという意味であるが、本当にそうか。そして本当の自分なるものがあるという
考え方が間違いのもとではないか、というのがこの本の問題意識である。平野は、人間は分けること
が可能な存在であり、人間は対人関係ごとに複数の顔を持っており、一人の人間は複数の分人の
ネットワークによって成り立っているという。
そして個性とは、その複数の分人の構成比率によって決定されるというのだ。
・誰とどうつきあっているかで、分人の構成比率は変化する。その総体が個性となる。
・自己の変化とは、分人の構成比率を変えるしかない。それはつきあう人間を変えることだ。
・自分という人間は、複数の分人の同時進行のプロジェクトと考えよう。
・自分探しの旅とは、欠落している新しい分人を手に入れて、新たな個性を創出しようとする行為だ。
・私たちは、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。
・自分が気に入る分人を少しづつ増やしていくことができれば、自分に肯定的になっていける。
・片思いとは、お互いの分人の構成比率が、非対称な状態である。
それが許せずに自分向けの分人を大きくしようと、異常な行動にでるのがストーカーだ。
・分人主義は、人間を個々に分断させず、単位を小さくすることで、きめ細かなつながりを
発見させる思想である。
・帰属するコミュニティが一つであることがアイデンティティであったが、今後重要なのは
複数の分人を使って複数のコミュニティに参加することだ。むしろ矛盾する複数のコミュイティに
参加することが大事なのだ。個人を複数の分人のネットワークとしてとらえると新しい視界が
開けてくる気もする。分けるというより複数のレイヤー(層)によって重層的に個人が形成されている
と考えることもできる。ヨコに分けられているのではなく、タテにつながっているのではないか。≫
▼ 「わたし」は、わ(我)の最小単位が、たし(足し)で加わって私になっている。だから、
人生を振り返ると、その時々の出会いとか、経験で、分人を増やしている自分が存在する。
創業には、その分人たる主体たる自分が、厳然と、そこに存在している。秘境旅行で、各地に
旅をしている自分も、旅行先に溶け込んでいる分人である。旅行を続けることは、旅先に溶け込んで
いる分人を増やす行為である。個性とは、過去の経験の総体の構成比率とは、言いえて妙である。
自己の変化とは、付き合う人間を入替えることだ。それも、森の生活のうちである。
・・・・・・
2007年08月31日(金)
2341, 「私」とは何か?        〔● ォ'`ョゥ○〕ヽ(・д・`●)
  「狂人三歩手前」−中島 義道 (著)       −読書日記
   ー「私」とは何か?ー
「私」について、その構造について、過ってこの読書日記で書いたことがある。成る程と合点が
いったが・・ 常に考える時、「私」は何々・・と一日、数百回も自問自答しているのに、その「私」とは
何ぞや?と考えたことがない。それを知っていると、いないとでは、思考の根本が違ってくる。
 ー「私」が無になることーのコーナーの「私」についての説明が解りやすい。
  ある哲学書で「私」についての説明があった。
{「いま・ここ」の主観を私とは言わない。 土手を歩いていて振り返った時、さっきの橋を歩いていた
主観が「私」として飛び出してくる。云々}と。成る程と思いつつ、解ったようで理解できない
モヤモヤが残っていた。過去を振り返った時に「私」が初めて発生するということ?垂直に縦にある
「いま・ここ」の主観は、まだ私になってないということ? ところが彼は、この本の中で、その「私」を
み砕いて解りやすく説明をしている。
  −p.86
「いま・ここ」に存在するものを「私」だと思い込んでいるのだ。だが、そうであろうか? 
いま両肩から下に頭部を欠いた独特の身体が広がっているが、なぜこれが「私の」身体なのだろうか?
そこに独特の感じがするから? だが、なぜその独特の感じが「私の」感じなのだろうか? 
こう問いつめていくと、この方向に答えは見いだせないことがわかる。「私」とは知覚とは別の独特の
作用によって端的にとらえられるものではないか? いや、そんな独特の作用など見いだせない。
「私」とは知覚しているときに、同時にそこに感じられるものではないか? いや、胃がきりきり痛い時に
それと並んで独特の「私」という感じなどない。そもそも「私」とは作用の対象ではなく、作用の絶対的
主体なのではないのか?多くの哲学者はそう考えた。そして、それを「純粋自我」とか「超越論的統覚」
とか名付けた。だが人間としての「私」がそんな抽象的な発光点のようなものであるはずがない。
あれもこれも否定して、振り出しに戻ったわけである。ここで、別の視点から反省してみるに、
「私」とははじめから異なった時間における同一なものと了解されている。「私」とは過去のあの時も
同一の「私であった」者である。しかも、その同一性は二つの対象を見比べて判定するのではなく、
現在の側から一方的に過去のあの者を「私であった」者と判定するのである。
「私」は、過去と現在との関係において登場してくるのだから、現在の世界を隈なく探しても
見いだせないのは当然。過去自体はすでに消えている。過去の記憶だけが残っている。
現在の知覚される世界ではなく、過去の想起される世界を探究することによってはじめて
「私」は身を現わす。ここにきわめて重要なことは、過去のあの時に私が不在であっても
「私」の同一性は保たれるということだ。夢の場合で考えてみよう。夢を見ているあいだ「私」は
自覚されていない。「私」は、夢から覚め「私は夢を見た」と過去形で語る時にはじめて自覚される。
まさにその時、あれが「私の」夢であったことが忽然と了解され、遡ってあの時「私が」夢を
見ていたことになるのである。夢ばかりではない。この構造は広く普遍化できる。
「私」は仕事に没頭している時や、夢中でボールを追いかけている時や、ぼんやりもの思いに
耽っている時など、いわば消えている。しかし、あとから「私は〜していた」と語れる限り、
その時「私」は存在していたことになるのだ。夢中で小説を読んでいた。
ふと気がつくとあたりが薄暗く、電気をつけてみるともう三時間も経っている。
私は小説の内容を細部に至るまでありありと覚えている。
一体誰が読んでいたのか?ほかならぬこの「私」である。
ーーー
夢を例にした説明が、理解しやすい。夢見ているうちは「私」は成立してない。
じゃあ、夢の中で私は何々、云々といっているのは何だろうか?ただ夢の中で過去のことを
考えただけで何の問題は無いか!まだ夢の中で成立してない純粋何とかいう未成立の?が、
夢の中で成立した「私」として過去からの流れの何かを考えていた!
 ということになる、ただそれだけだ。 そういえば、また夜半にリアルな夢をみた  
・・・・・
2013年08月31日(土)
550, 51年前の小学校の写真にタイムスリップ
  『長岡市の昭和』という写真集の広告の折り込みが、今月だけで二度も朝刊に入っていた。
それも、一枚目は表面トップに実家の商店ビルの写真で、二度目は、裏側に、何故か小学校五年時の
クラスの集合写真。出版社に誰か同級生でもいるのかとネットで調べてみたが??7名の小さな
長岡市内の出版会社で、県内だけでなく全国の各市の昭和の街の写真集を出している会社。
団塊の世代以上を狙ったものだが、旧長岡市内の人たちに限定2000冊としても9990円で
売れるのだろうか?その方が心配になる。しかし他は、HPを見ると完売となっていた。
その小・中・高校時のアルバムが、引越しなどで紛失、同級会などで誰かが持ち込んだのを
見るしかなかった。で、51年の時空を超え、このチラシの集合写真を何度か見ているうちに、
当時のことが、次次と思い出してきた。
 11〜12歳は、人間としての最終の熾烈な闘いがあって、そこで、ほぼ性格も能力も決まるという。
クラス内の力関係などで、誰かが常にターゲットにされる、あまり気持ちの良くない年頃。そのため
心の傷は深く残るもの。その最たるのが、まあ、書くのは止めておく・・ 自分も似たようなもの
だったろう。手取り早く学歴からみると、慶応一人に、立教三人、あとは大学名は不明だが、数名、
卒業しているから、街中の小学校として並みというところ。学校の先生の子弟は新大付属小学校が
ある。ここで目立つのは長岡青果市場の社長の息子で慶応と明治の教授をしたが既に故人に
なっている人とか、土田塗装とか、何処かの中学校の先生とか、多種多彩。
女性の方は皆目分からないが、少し目立っていた三人が三人とも離婚? 
死亡数は男20人中に4人。女性は分からない。 
 主任は非常に厳しいので有名な西沢先生。その後、多くの小学校校長を歴任し、
最後は何処か教育長をされた人で、定年時に400人が祝いに集まったという。20年近く前に、
私が経営していた新潟駅前ホテルに泊まって、古町を数軒、飲み歩いたことがあった。
せっかくなので、この数日、当時の記憶をたどっているが、51年の時空を超えて嫌な記憶を
中心だが幾らでも出てくる。太平洋戦争と長岡空襲の影響も色濃く残っていて、口に出さなかったが、
戦争孤児とか様々な問題を各家庭が抱えていたようだ。 そうこう振り返ってみると、子供の頃の
記憶から、繁華街で、父親の大きな影響下で、負けん気が強い遊び好きの生意気な子供だった。
今だ続いているが・・ 当時、家庭内で多くの問題があり、母親が倒れてしまい、住居が商業ビル
3Fから、歩いて7分ほどの駅裏に移転していた。その辺りから、やっと学業に目覚め始めてきた。
生活環境は本当に大事である。
・・・・・・
2012年08月31日(金 
4175, 閑話小題 ー恐ろしい近未来がまっている
   * 恐ろしい近未来
 南海トラフ地震の最悪の死者予測が32万人と政府が発表、マスコミが騒ぎ出したが、
もう一年以上も前から週刊誌で騒がれた記事と同じ内容。政府発表となれば違ってくる。
大手ゼネコンの含み笑いが聞こえてきそうだ。これは太平洋沿岸沿いには住めないということになる。
その地区の住宅地や商業地が暴落というより、ほぼゼロになってしまったことになる。 
当事者は、まだピンとこないはず。 千年前の大地震の後に二回、17年内周期で大地震と大津波
起こっている痕跡があるという。活断層が不自然に捩れていて、何らか次の大地震が起きる可能性が
大きい。決して非現実的予測ではない。これに関東直下型地震の可能性がある。
更に世界恐慌も遅かれ早かれ起こる。いや、すでに起きている? これでは、夢も希望も持てやしない。
この数年来、大卒の正規社員就職率が63パーセントで、三分の二も就職ができてない。
これが恐慌が吹き荒れる前で、この有様。数年先は、こんなものでないはず。 
40数年前の私の卒業の時とはえらく違う。金の卵で、会社は選び放題。私の同期の男たちは、
殆どが一部上場の有名企業で、ハッピーリタイアをした。時代は大きく変わった。
  * 田中真紀子民主党党首に立候補 ?
 久々に面白い話に驚いた。途中で立ち消えになるかどうか?だが、真紀子様民主党党首の
候補の可能性が出たという。思わず失笑したが、それほど民主党は困っているということになる。
 あの外相時の相応しくない姿を忘れてしまったのか。あの人物から誠意の何も感じられない。
一国を束ねる力量があるとは到底思えない。何が今さらだが立場が野党なら、最適の逸材か。
あの辛辣な口撃は溜まったガス抜きになる。国が衰えると、こうなる。 政治は、何でもありである。
床屋レベルの政治談義からみると、この世界的危機の中での、日本、米国、韓国、中国のトップ
交代による政治変動は非常に興味をそそられる。なるほど2012年問題は危ない要素に満ちている。
安倍自民党総裁、田中真紀子民主党党首、それに安倍に担がれた橋元首相。面白いがどうだろう? 
それと何時起こるかしれない南海トラフ地震と、関東直下型地震
それと世界恐慌の可能性がある。20世紀前半に世界恐慌を挟んで二つの世界大戦があった。
このドサクサで一億以上の人たちが犠牲になった。それより大きな変動が、始まってしまった。 
これから壮大なシネマのような世界が展開される。
・・・・・・
3810, 世の中の商売、すべからく代理・代行 
2011年08月31日(水)
 旅行代理店、保険代理店、会計事務所などのサービス業があるが、すべからく世の多くは
代理サービスの変形。家電商品も、その多くの製品は代理システム品。洗濯機、炊飯器、扇風機、
暖房機も、人間の労働の代理品である。20年前に「一世代前の人が、現在の生活をするには
200人の従者を必要とする」と聞いたことがあった。現在では数万人でも無理だろう。 
車は馬車の代行であり、カメラは専属カメラマンの代行。 夕食の宅配は、主婦の仕事の
一部代行である。旅行代理店のパック・ツアー。その大ファンにとって、その恩恵は大きい。
アフリカのタンザニアや、ケニアのヌーの河渡りなど素人では絶対に無理だが、ツアーに参加
すれば誰にでも気楽にいける。スナックや、居酒屋も家庭内で満たされない料理や、お愛想、
気などの代行である。 この事業整理の一連も、弁護士事務所が会社が300万プラス個人が
50万、合計350万で、一括業務?委託。 一連の委託契約をすると、全ては弁護士の管理下に
入り、良くいえば債権者から守られる。逆に、一切の社会的信用はゼロ、前科者に近い後ろ指、
陰口の絶好の対象になる。また、最近通いだしたスポーツジムも、各種のエアロビがあり、運動の
指導をパッケージにしてある。それに従っていれば体質改善が合理的に出来る。その指導を多くの
会員を集めることで、パックにして、場の提供をしている。これも各自で行っていた個別運動の
パッケージ化。
 ところで、これまでの蔵書ベストの100〜200冊をデジタル化して、iPadに気楽に入れられたら、
よいだろうにと思っていたら、一万冊を入力してiPadに入れて持ち歩いているという人の本があった。
それは面倒と思っていたら、一冊100円で入力をしてくれるサービスがあった。とりあえず100冊を?
と考えているが・・。 また、アマゾンに注文した本を、そのまま業者に本が直送し、スキャン
してくれるサービス業者もあるという。デジタル本が、まだまだ普及してない中、これは良い
代行システムになる。情報化とデジタル化の時代、代理・代行システムは重要なキーワードになる。
それにしても、面白い時代である。各種代理システムをiPadを端末として、
如何に使いこなせるかが、これからのポイントのようだ。
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2010年08月31日(火)
 3445・秘・異郷の旅、よもやま話・・2
  *初めての21歳の欧州旅行 ー1
 どの旅行が一番良かった?と聞かれても、答えられない。半分、いや三分の二以上が、
それに当たるからである。ショックの段差が大きかったのは、初体験の学生時代の一ヶ月間の
欧州旅行。見るもの、聞くもの全てが驚き。当時は、やっとカラーテレビが普及し始めたばかりで、
欧州の映像など殆んど目にしたことはなかった。モナリザや、ミロのビーナス像、パリの凱旋門
などは中学か高校の教科書の小さな白黒の写真でしか見てなかった。
それが突然、目の前に本物が次々に現われるのだから、驚き唖然とするのは当然である。
 まず飛行機乗って、夕飯にヒレのステーキが出てきた。まだ憶えているが、牛肉に細い糸が
巻き付いていた。生まれて初めてのヒレステーキである。 次に初めての海外に降り立った地は
デンマーク。そこは、私が今だ見たことがなかった明るい空と緑の中に街がある御伽の国の世界。
人種が違うのである。金髪の大柄な男女。空の色からして違うのである。そして、林や森の
グリーンが、違うのである。考えてみたら、日本全国の自然さえ見てなかったのである。
それが、いきなりデンマークの空とグリーンと、北欧人を目の当たりにするのだから。
一挙に御伽の国の真っ只中に降り立った時の驚きは新鮮であった。自分の精神を正常に
保つだけで精一杯であった。 当時、海外旅行に出る人は、まだ20万人でしかなかった。
現在の100分の一である。 だから、出発前から気持ちが高揚していた。