「読書の腕前」ー② 岡崎武志著 ー 読書日記 〜
  * 本は「即効性のない」メディア
 倉庫内の書棚で見つけて再読しているが、HP内の検索によると、
2008年1月31日に一回だけ、書評を書いていた。(後にコピー) 
当時、熟読はしてなかったことは、読書日記が一回で終わっていた
ことでわかるが、この本、改めて精読すると、なかなかの内容。
ここで、著者は「人間の土台は、『読書』がつくる」というが・・
それにしても、半世紀以上の読書を続けてきた割に、人間としての土台が、
軟弱なのは、20歳までの読書の絶対量が、あまりに少なかったためと、
自覚をしている。 〜その辺りから抜粋〜 
≪ 本というのはじわじわ効いてくる。あるいはそのときには気づかなくても、
 後になって考えると、ちゃんと効果があった、とわかる。または、効き目が
なくとも、いつのまに溶けて、静かに体内に吸収されてしまっている。
本とはそういうもの。だから、「本というのはもともと不便なもの」だと
北上はいう。 注目すべき発言である。ところが、現代は「不便」を嫌う。
効率や至便性を重んじて、極力「不便」を切り捨ててきた。
 その点、本は、いやでも読む場所を固定し、そこに自分の肉体を釘付けにし、
いくばくかの時間を費やさなければならない。「読む」という意志も必要だ。
「不便」なことこのうえない。「そこに便利なものを求めてしまったら、
ものの中身が変質してしまうという怖さがあるでしょう」 北上は非常に重要な
ことを、静かに主張している。なぜ、そんなに急ぐのか。なぜ、とりあえずの
結果や答えを求めようとするのか。仕事のことでは、大切なことかもしれない。
しかし、それは本の役目ではない。「あらすじ」だけ知って事足れりとした
のでは、その本と出会うチャンスを永遠に放棄してしまったことになる。
 本を読んでいる時間が惜しい? いや、ほんとうに惜しいのは、
読書の時間を失ってしまったことのほうだ。
『だれが「本」を殺すのか延長戦』で、デザイン評論家の柏木博と対談した
佐野は、こんなことを言っている。「幻想かもしれないけれど、僕は本という
ものは、時間の流れを一瞬で止めることができるメディアだと思うんです」
 われわれは否応なく時間によって動かされている。現代に生きる以上、
それから逃れることなどできない。画家のクレーは「人間という動物」を
「血でできた時計」と定義した。われわれはまるで、血という電池で動いて
いる時計、なんだと。 読書はそんな時間の流れに逆らう行為である。
視覚と脳を通して、読めない人にとりては記号や模様にしかすぎない文字を、
速やかに解読し、心と身体になじませていく。こうした奇跡のような行為は、
文字通り、時間を忘れて没頭しなければできない。天体の運行も、この地球上
のすべての時計の針も止め、ひとところにじつとして、ただ本のなかを流れる
時間だけに身を委ねる。そんな至福の時間を放棄して、「あらすじ」だけで
答えを求めて何になるというのだろうか。 〜p18・19 ≫
▼ 人間を、「血で出来た時計」とは、いい得て妙である。
 大学に入るまでは、試験勉強に追われ?面白いと思える純粋な読書習慣は、
あまりの少なかったが、20歳・30歳代は、一日、2〜3時間、40歳代は4時間、
50・60歳代は5時間は、読書に時間を当てていたが、ノートや手帳に記録する
習慣がなかったことが悔やまれる。 50歳半ばから、この随想日記に書き残して
きたが、それまで大学ノートに、せめて1〜2ページの読書録、備忘録を書いて
いたら、格段に豊かな知識の相乗効果があったはず。知識の蓄積の量と質は、
直ぐに露出するから怖い。 〜つづく
――――
2008年1月31日
「読書の腕前」 ー①
 
面白そうなところを何箇所、書き写してみた。
なかなか含蓄のある読書論であり、何度も肯いてしまった。
 ーー
川面に多くの舟が漂っている、私たちはひとりひとりが違う舟に乗って
流されている。中には錨を下ろしている舟がある。
川の流れを時の流れ、舟を人生にたとえたらいいだろうか。そして、
本を読んでいる時間は、動かぬ舟の中で、川の流れを感じるようなものだ。
川は永遠に流れていく。水がある限り、流れることをやめようとしない。
そんな悠久の流れを、ひととき止めたりを舟の中で感じる。
本を読むということは、そういうものだと思っている。
 ―ー
寝床で読む、喫茶店で読む、電車で読む、バスで読む、食事中に読む、
トイレで読む、風呂で読む、眼が覚めている間中ずっと読む。
 ーー
 飯島耕一
「何もつよい興味をもたないことは /不幸なことだ /ただ自らの内部を /
目を閉じてのぞきこんでいる。/ 何にも興味をもたなかったきみが / 
ある日/ ゴヤファーストネームが知りたくて/隣の部屋まで駈けていた。」
「生きるとは / ゴヤファーストネームを/ 知りたいと思うことだ」
 ーー
読書に費やしたこれまでの膨大な時間を、もっと別の有意義なものに
置き換えられなかったのか。そんなふうに悔やんだことは一度もない。
一度もない、といま気づいたことに驚いている。
ほんとうに、一度もないのだ。そうして生きてきたのだ。
だから、明日からも同じように生きていく。
 ー―
「本を読むことで得る大切な収穫の一つは、他者を知ることだと思います。」
                            色川武大
「読書の楽しみの一つは、私にとってこの他人を生きること、
 他人になれる喜びかもしれない」            遠藤周作
「僕は本を読む労働のための忍耐力をつちかったのである」 大江健三郎
本は膨大な人間のモデルを提供してくれる。しかも、相手の忖度を気にせず、
思うまま、自由にそのモデルと触れ合うことができるのだ。 
 ーー
田辺聖子が読書論の中で、
「もし出世と引き換えに何をとるか、ということになったら、それは何か」と、
同年代の友人たちと、あるとき話題になった。さまざまな意見が飛び出した。
いい女房を持つ、硬骨に生きる、世間を捨てて山頭火になる・・。
しばらくして、誰かがしみじみ言ったことに、みんながうなる。
「出世せんでもええ、毎日読みたい本を読んでたのしく暮らせたらええなあ・・」 
 ^^^^^^
 以上だが、今のところ読書が人間にとって、一番良い習慣である。
最近はインターネットというトンデモナイ手段が出てきたが、
それでもジックリと他者と対話が出来るのは本である。この本も、直ぐに
アマゾンの中古本を発注したが、まだまだ面白い箇所が多数ある。
              バイ(´・ω・`)ノ     ーつづく
・・・・・・
2333, ホッファー  −2        *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!
4908,世界の美しさをひとつでも多く見つけたい ー2  
2014年08月22日(金)
         『世界の美しいさを一つでも多く見つけたい』石井光太
  * 小さな神様見つけ方〜② 相手の文脈で大切にしている神様を見出す!  
 人生は妄想によって生み出した「小さな神様」に頼って生きるしかない過酷
の旅でもある。それが過酷であるほど、しがみつくしかない。
宗教の原点が、そこにある。 ーその辺りから抜粋ー
《 ムンバイの売られたレンタルチャイルドでさえ、マフィアを心の拠り所
 としている。これまでの旅で出会った人たちも同じでした。 たとえば、
ヨルダンのナイトクラブで会ったイラク人売春婦は男性客を不安に怯える自分
を支えてくれる大切な人と見なしていたし、バングラデシュの公園で暮らして
いた少女は変質者の男性を一緒にいてやさしくしてくれる大人と見なしていた。
みんなそれぞれ闇の中で何かしら心の拠り所をつくり上げ、それにすがり
つきながらがむしゃらに生きていたのです。人間は絶望の底につき落された時、
懸命に光を見出そうとします。それは、救いを求める人が神にすがる行為に
通じるものがあります。「貧困に生きる人々が苦しみの果てで生み出すのは
神様のようなものだ」といえるはずです。もちろん、ここでいうのはキリストや
お釈迦様のような存在ではありません。教義を有する宗教における神ではない。
ただ、個入にとっての救い主という意味では、同じような存在であり、私は
それを「小さな神様」と呼ぶ。マレーシアであった兄妹の彼女は、誕を垂れ流し、
会話もできないほどに精神を病んでしまっていた。そこで兄は妹を連れて祖国の
スーダンを離れ、知り合いを頼ってマレーシアに辿り着いた。コタキナバルで、
兄は妹にリハビリを施していました。心の闇を吐き出すために絵を描かせ、
静かな公園へ連れて行って気晴らしをさせたりしていた。 私はそんな二人と
何度か話をしたのですが、妹が妙なことをいいだしたことがありました。
こんな話でした。「スーダンの故郷には、私のことを待ってくれているやさしい
人がいるの。兵隊さんなの。私は彼と結婚するつもり。だから、国に帰りたい」
どうやら彼女を拉致監禁した武装組織の兵士と婚約をしているということでした。
なぜ自分をつかまえてレイプをした側の男性とそんな関係になったのでしょうか。
兄はその話題について詳しく説明しようとしませんでした。ことの真相を知った
のは、しばらく経った日のこと。その日、私たち三人が暮らしている安宿へ
赴きました、そこで兄から妹が語る「婚約者」について・・・
 それは彼女が作り上げた妄想でした。(略)・・・そうやって生み出された
個人のごく小さな希望や幸福が「小さな神様」となる。私は他者を見つめる際に
大切なのは、相手がどんな小さな神様を抱いているかを知ることだと思います。
その人にとって希望だとか幸せだとかいったものは「小さな神様」に集約されます。
それを発見することが、その人の価値観に寄り添って物事を考えることにつながる。
 ・・それでは、小さな神様を見つけるにはどうすればいいのでしょうか。
決して難しいことではありません。 一言で表せば、「自分の文脈で勝手な
価値観を押し付けるのではなく、相手の文脈で大切にしている物を探すこと」
その人が何を小さな神様と見立てるかには、きちんとした理由があります。
何かしらの文脈で小さな神様ができ上がっているのです。従って、その文脈で
考えさえすれば、ちゃんと小さな神様が何であるか、つまり何を幸せとして
いるかが見えてくるはずなのです。》
▼ いかなる惨状の中でも、必ず希望を見出して生き抜く人間の生命力、
 そこには、惨状だからこそ、浮かび上がってくる小さな神がいる。
そこでは、世界がひっくり返るほどの感動、美しさが見えてくる。
それが、著者が伝えたいこと。 ところで、私の小さな神様は何だろう?
・・・・・・
4541, 「ひとり」には、覚悟から生まれた強さがある ー3
2013年08月22日(
 * 宗教の伝統的な実践による心の治瞭 
           「ひとり達人のススメ」山折哲雄著 
 私が学生の頃、親戚が末期ガンと知らされ、その苦しみ恐怖から逃れるため
『写経』に没頭し亡くなっていった。この本で、死の恐怖を克服する実践に
『写経』と『散歩』を上げている。『散歩』には遍路や巡礼が含まれる。
早朝の散歩で、吐く息に身体の毒を、吸う息は大自然の霊気を入れ込む
イメージすれば、身体に良いはずである。 ーまず、その辺りを抜粋ー
《 三十代で、絶食によってわが身体とは何かを考えるようになった私は、
体と心の関係に強い関心を持ち始めていました。そして四十代に入ると、さらに
興昧深い出会いが待っていたのです。さまざまな経緯があり、私は母校である
東北大学の文学部に宗教学の助教授として迎えられることになり、東京から東北
に戻りました。当時の母校の医学部には、最近亡くなられた鈴木仁一先生という
心療内科助教授がいらしゃった。心の病がからんで、どの科でも回復の望めない
患者が、心療内科鈴木先生のもとへ送られていました。彼は患音の心の病を治療
する、今でいう心身医療の専門家でした。その鈴木先生がやっていたのが絶食療法。
もともと戦前の東北大医学部では、女性のヒステリを治す治療法として絶食療法が
行われ、基礎が出来上がっていた。その診療法で女性のヒステリーの60%近くが
治ったという結果もある。先生は、その絶食療法を中心に治療している。ただ、
絶食療法は、誰でも有効というわけでない。どういう人が効くかというと、
意志の強い人だと、いっておられる。そこで思い浮かんだのが山頭火
山頭火のような修行ができる人間というのは意志も意地も強かったはずです。
意志の弱い、普通の人は、なかなか絶食療法ができない。
 私が「死ぬきは断食で死ぬよ」と言ったら、賛成する人もいるが、
「それは思った以上に大変なことだよ」と、反対する人もけっこういます。
やはり食を断つということは並大抵の覚悟ではできないのです。 それでは
意志の弱い人には、どういう治療をほどこすのかを尋ねると、「写経」という
方法あると先生言下に言われた。それから「散歩」とも。俗世の欲望を捨てる
ための修行のひとつに「とそう」というものがあります。「行脚とそう」
ともいう。これは徒歩で修行のために諸国を遷ることです。お遍路も含めて
巡礼というものは、みんなこれに入るでしょう。けれども写経や散歩はいろんな
レベルのものがあって誰にでもできるので、人それぞれに応じたことを薦めます。》
▼ もうダメと悟ったら、断食を考える。無理なら、四国のお遍路に出るか、
 身体が動ける範囲で近くを歩き回る。 天候の具合で、疲れて家に居るときは、
写経を書いて過ごす。それも終わりに近づいたら、点滴などを拒否し、可能な
限り、食を絶って、自然死を待つ。そのぐらいしか出来ないが、身内に今のうちに
伝えておくこと。 死に時には死ぬ覚悟が必要!以下の、去年の文章が丁度よい
内容である。老いの準備から、死に準備の移行である。
あと一年数ヶ月で「古希」になる。
・・・・・・
4166, 老年行動学 ー3
2012年08月22日(水)
     「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす 」佐藤 眞一(著)
   * 長寿の人の共通点 ーわがままに生きる
「憎まれもの世にはばかる」ではないが、歳をとると因業になる。
先がないので抑えていた我がままが表だつ。 長寿の共通点が「わがまま」。
わがままと因業は紙一重。  ー その辺りをまとめてみた。
【 日本には100歳をこえる人は4万8千人いる。50年前には153人
 しかいなかったというから300倍以上。10年前で1万人をこえたという
から、僅か10年で5倍である。人間の寿命の限界は、フランス女性の122歳。
100歳以上の人に対し医学や遺伝子の様々な研究が行われていて、心理学研究
では、ある程度共通した性格ががわかっている。男性の場合は、性格が几帳面で、
自分を曲げないで、日課がほぼ決まっていて、生活がきちんとした人。
女性の場合は、明るくてわがまま。ちょっと強引だが、周囲の人を幸せにして
くれる‘大阪のオバチャン’みたいの人。男女とも「わがまま」の人が長寿。
「自分勝手」とは、少し違うが、我が強い人である。「わがまま」の意味は、
「自分が決めたことを、自分の思うようにできている」で、誰かが元気がない時、
その人が喜びそうなことを、積極的に動く人。それは「自律できている」こと。
自律を保つことで幸福度を高く保っている人ということになる。アメリカの
心理学者が、面白い実験をした結果がある。 
≪ 三匹の犬を一緒につなぎ、電気ショックを与える。
一匹目は、電気ショック を与えたら、鼻でパネルを押すと電気ショックを
押すと止むようにし、二匹目は、一匹目が押した時に、電気ショックが止むが、
自分では何をしない。三匹目には何もしない。これを繰り返した後に、
それぞれを仕切に分けたボックスに入れて、電気ショックを与えると、
二匹目の犬は、すぐに飛び越えられる低い仕切りでも、うずくまっただけで、
逃げようとしなかった。この犬の状態を「学習性無力感」と呼ぶ ≫ 】
▼ 何か勤め人根性が染み付いて、退職後に誰も指示しないため無気力になる
 大方が二匹目の犬に近い? 身につまされる人が多いだろう。身近な人に似た
ような人がいるが、人生は誰も同じようなもの? わがままな二代目か、婿取り
娘が果たして長生き?かというと、そうでもない。それぞれ気苦労がある。
ライフワークを続けること自体が、わがままになるが、10年20年が必要。 
今からでも遅くはない。
 ・・・・・・・
3801, 哲学人 ー③
2011年08月22日(月)
         『哲学人』 ブライアン・マギー著 ー読書日記
 ー 第一章 子供のころの記憶  
         〜時間に始まりと、終わりはあったのだろうか?〜�
【 何かが存在するためには、その何かは「ほかのものとは違う何らかの個性」
 を備えていなければならない。つまり、その何かは「異なるもの」も存在して
いなければならないのであり、その「何かに限界がなければならない」のである。
したがって、いまあるものに終わりがないということはありえず、いまあるもの
に始まりがないということもありえない。私は始まりのない時間も終わりのない
時間も不可能であると確信するようになった。かといって、始まりや終わりが
あるという可能性をつかめそうにないわけでもなかったが。さらに、似たような
問題が空間に関して存在することにも、私はすぐに気づいた。いまでも覚えて
いるが、ロンドンからイングランド中部のマーケット・ハーボロに
疎開していたころ(確か十歳か十二歳の頃だった)。公園の芝生に横になって雲
一つない青空をずっと奥まで見通そうとしながら、こんなふうに考えたことがある。
『 もし僕が空のなかにまっすぐ、昇ってそのまま突進んでいってたら、
どこまでも進んでいけたっていいはずだ。でも、そんなことはできない。
どうしてできないのか? きっと最後には終わりみたいなものに突きあたるから
だろう。だけど、どうして?最後に何かにぶつかるのだとすると、その何かは
空間のなかにないといけないんじゃないだろうか。そして、その何かが空間に
あって、空間ももっとあるとすると、その向こう側にも何かがあることになる
んじゃないか。ただ、そうすると限界がないことになるけれど、終わりのない
空間なんかあるはずない。終わりのない時間がありえないのと同じである。』
 こうした問題にしきりと頭を悩ませた末、私はこう考えるようになった。
最大の間違いは、自分に想像できないものがあるはずはないという仮定にある
のだろう。 考えられることと、実際にありうることとは違うのかもしれない。
結局のところ「つぎはどうなる? そのつぎは? そのつぎは? そのつぎは? 」
と、ずっと問いつづけていれば、確かにある意味では、永遠につづいていく
ものがあると考えることはできる。しかし、その永遠につづくものは考え
られるだけで、実際には存在しないということも、当たり前のような気がする。 
無限というものは、考えることはできても、存在することはありえない。
たとえば星の敗が無限であることなど実際にはありえないように・・。
それとも、自分は落とし穴かち抜け出そうとしているのに、いままた落ちつつ
あるのだろうか? ともかく、真相がなんであれ(考えられるものが存在できず、
考えられないものが存在できるとしても)、それは自分が現に抱えている問題を
解決する役には立たないだろう。 時間に始まりがあるのかないのかについて、
それは真相を教えてくれないからである。いったい、このふたつのうちどちらが
本当なのだろう? 】
▼ 私が、年齢を重ねて実感していることを、既に10歳前後から考えていた
 のだから文化の背景が違う。欧州では中学校の頃から哲学の授業が取り入れ
られている。 考える基礎を感受性の強い中学の時期に教える必要性をギリシャ
から続いている哲学の歴史から学んでいたのである。「何かが存在するためには、
その何か、他のものと違う何らかの個性を備えてなければならない」という
考え方は、西欧の考え方のベースにある。島国の日本では、個性を押しつぶした
右倣いが必然になる。欧州は多民族のため、常に隣国から虐殺される危険があり、
万一の場合、それぞれが違った個性で生きのびる必要性があった。そのため
自分の頭で考えることが最重要になる。 やはり、考えて生きるべきである。
そのことは周辺、いや自分を省みて了解できる。