* 中国が変と言われてきたが、ついに? 〜②
 知らなかったが、一昨日の中国の株式市場で、半数近くの銘柄が、商い
ストップになった。暴落しそうな会社が、それを阻止するために、自主的に、
売買を停止する権利があり、それを実施したため、半数の商いがなかったため。
こういう狼狽の投げ売りには、目先は有効に働くが、大きなウネリを止めることは
不可能である。それにしても一年で株価が2・5倍の方が、よほど異常であり、
その反動があって当然。株主の8割が一般投資家(日本は2割強)というから、
大暴落が起きたら、国家そのものが大揺れになる。また、信用取引が三倍まで
可能で、当り前のように行われているという。当面は腕力で抑えるだろうが、
次のステージが、どうなるか。 昨日は、世界中が固唾をのんだ一日だった。
   * 古希を過ぎると・・
 一昨日、スポーツジムの行くため、車に乗ろうとしたがドアが開かない。 
さて、どうしようか?と迷った。   バッテリーがあがったようだ。
・ カード会社の「ロードサービス」か、
・ 自動車保険に電話をしようか、
・ 購入会社トヨペットのサービス部門か?  と迷ったあげく、
何を血迷ったか? トヨペットに、「どうも、バッテリーが切れたようで・・」
と、電話をしたのが間違いの元。早速、サービスが新しいバッテリーを持ってきて、
既存のものが寿命かどうかも確認なしで新しいのに交換し、「2万5千円」の請求。
電話で「バッテリーが変」といえば、相手は商売。交換依頼と解釈して当然?
「まだ、年金受給者の自覚が足りない」と、家内に嫌味をいわれ・・
「一年点検時」にバッテリー交換の時期といわれていたような? その辺りの記憶
は曖昧だが・・ まあ、緩んでいるということ! 年金暮し、こういうのが効く!
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4865,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー33
2014年07月10日(木)
  * つれづれに 〜事業を通した「力と、遊びと、学びと、その背後の闇」
 事業を通して多くを学んだ。その一つが金沢でのこと。追込まれ、気持ちが
深く沈んでいた時、内なる声が浮かんできた。「私は、ここに学びに来ている。
順調で満足しているより、この事態こそが学びではないか。こんな惨めな状態は
二度と経験はできない。現状がマイナスほど、逆にプラスになるはず。
そんなことも分からないのか!」と。そこで現象を改め見直すと、全てが違って
見えてきた。逆境は学び、順境は遊びと、割り切ればよいということか。
3年前も、そのことを思い出し、「こんな経験、二度とない。倒産の当事者に
成りきって、今すべきことを一つずつ処理をしろ」の、内なる声にしたがい
冷静?に取組めた。これは、節目時の対処を何度か経験してきたこともある・・ 
それをみていた、月次経理監査で30年、来社をしていた税理事務所のJさん
曰く、「楽しんでいますね!貴方は現在、何が起き、どういう立場にいるか
分かっていない?」と、呆れ顔。 それに「分かっていないのは彼方!」とも
言えない。偽悪的にいえば「これで創業から終わりまで起承転結の全てを経験
できる! これは立上げからの行蔵を持った私の45年の最期の仕上げ!」
の気持ちが、身体も心も自由にしてくれていた。 表立った心は沈んでも、
こころ根まで折ることはない。痩せ我慢としても、冷たい視線?に対し、
逆照射をしているしかないが。
 ブラックスワンの長期的対策をしてない中小企業の9割?以上の方々が、
その視線で、面白おかしく中傷している自分の姿が分からないのが、ブラック
ジョーク。 他人には、隠れた45年が見えないし、見ることもない。学び、
遊び、働きと、それらから解き放された自由な心、の4分類で考えると、人生が
鳥瞰して見えてくる。 「学び」を切口にすると、マイナスの出来事が真逆に
見えてくる。「遊び」も同じ、現象そのものを遊べばよい。失敗も、遊びで
括ると、ケセラセラ!に、思える。「働き」で括ると、戦略的失敗も、無我夢中
だから・・になる。全てが意味(価値)づけが可能ということ。この3つの
括りも、宇宙的括りの解き放された自由な切口で、包み込めばよい。
死んで3日もすれば、300年前、死んだのと同じになるのだから。
 人生の鳥瞰は面白い!
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4498, 大往生したけりゃ医療とかかわるな ー1
2013年07月10日(水)           
 * 現役医師の「自然死」のすすめ    
         『大往生したけりゃ医療とかかわるな 』中村仁一著
 以前から、新聞や雑誌などの見出しをみたり、書店で立ち読みをしていた本
だが、偶然、図書館の返却コーナーで見つけ、読んでみて驚いた。現在の医療の
ありかたを根底から否定している内容である。生殖能力を終えた動物は、延命
などの無駄な努力をしないで自然死をしなさい。その無駄な努力は、医師など
による洗脳によるもの。それも特老施設の配置医が、長生きしている特老の死を
見るにつけ、薬で何とか生き延びた結果の、痴呆老人の目線から、書いている
から考えさせらる。  =まずは、概要の部分を抜粋する=
≪ 医者にも格付けがあって、大學病院の医者が頂点で、旧国立病院や日赤、
 済生会、県立、市立などの税立病院と続き、次が民間の大病院、中小病院の
医者で、一番下が町医者といわれる開業医で、老人ホームの医者はさらに
その下ですから、いわばホームレスレベル。ですかから、県立病院の部長で
あっても、開業した途端に最下位の町医者に転落するわけです。
世間では、「そんな小さな町医者では駄目」というのがふつうなのですから。
考えてみれ当然です。・・
 ・・配置医はホームレスレベルという構図です。その老人ホーム勤勤も12年目
に入り、最後まで点滴注射も、酸素吸入もいっさいしない「自然死」を数百例も
みせてもらえる得がたい体験をした。病院では、最後まで何かと処置をします。
いや、しなければならないから、「自然死」はありえません。在宅における死も、
ふつうは病院医療を引き継ぎますから、ほとんど「自然死」はないっていいで
しょう。また、医者の方も、何もしないことには耐えられないでしよう。
しかし、それは、穏やかな死を邪魔する行為なのです。ですから、殆んどの医者
は「自然死」を知りません。人間が自然に死んでいくのを、見たことがありません。
だから死ぬのにも医療の手助けが必要だなどと、いいだすのです。
「死」という自然の営みは、本心、穏やかで安らかだったはずです。それを、
医療が濃厚に関与することで、より悲惨で、より非人間的なものに変貌させて
しまうのです。世の中で、一番の恐がりなのは医者でしょう。それは悲惨な
死ばかりを目のあたりにしてきたせいだと思います。・・ がんでさえも何の
手出しもしなければ痛まず健やかに死んでいきます。
 以前から死ぬならがんに限ると思っていました。近年、年寄りのがんの自然死
を70〜80例みて、確信に変わりました。繁殖を終えた年寄りは「がん死」が
一番のお勧め。「手遅れの幸せ」を満喫するには、「がん検診」や「人間ドック」
など受けてはなりません。病院通いが多いのは、医者たちが、「健やかに老い
なければなりません」と洗脳してきたせいもあります。今、年寄に対する、重圧
は、かなりのものは、健康食品やサプリメントの売れ行きをみれば分かります。
本来、年寄りは、どこか具合の悪いのが正常なのです。不具合のほとんどは
老化からがらみですから、医者にかかって薬を飲んだところで、すっかりよくなる
わけはありません。昔の老人のように、年をとればこんなものと諦めることが必要。
ところが、「年のせい」諦めようとせず、「老い」を「病」にすり変えます。
なぜなら「老い」は一方通行で、その先には、「死」がありますが、病気なら回復
が期待できますから。人は、生きものである以上、死ぬという運命は免れません。
最先端医療といい、再生医療といい、所詮、「老いて死ぬ」という砕内での話です。
年寄りは、あまり近づかない方がいい。≫
▼ ‘まえがき’の一部だが、これが概要である。これを読んで、さっそく、
『どうせ死ぬなら「がん」がいい』という近藤誠と著者・中村仁一の対談集を
買ってきた。まだ目を通した段階だが、多くの共通点がある。上記の‘まえがき’
の内容である。ガンには良性と悪性があって、悪性は、どのみち助からない。
それを延命するのが果たして当人に良いのだろうかという素朴な疑問がある。
裸の王様ではないが、誰が声高に主張するかだった。それを放射医と、特老の
配置医が公にしたのだから反響は大きいの当然である。この本も特老の医師と
いう視点で、壮年以下の年齢の人には当てはまらないが、参考にする部分は
多くあるはず。根底から私の先入観を覆す内容である。そういうこと!
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4124, 老後の備え
2012年07月10日(火)
           「老後に後悔しない10の備え」三浦朱門著  ー�
  * 老後の備え ーあってもなくても、虚無
 学生時代に社会学を専攻した。社会といえば人間の集団をいう。個々にみれば
人間学ということになる。人生とは、その人間の始まりから終わりまでをいい、
老後は最後の2割ぐらいの時期。その備えを人生の半ばの中年期から如何に
準備するかを問うているのが、この本。その時々に、やるべきことを明確にして
全力で生きれば老後の備えなど考えることもないが、とはいえ、長年かけた準備
は必要である。 私の場合、何度も書いているが「50歳代の10年間に30年分
の人生を生きること」が人生の最終の備えの仕上げであった。
この御陰で60歳になってから、精神的に非常に楽になった。し残したことが
少ないという実感は他人に対しても自分に対しても余裕を持てる。40年近い
事業人生は常に最悪の事業破綻の心配が纏わりついてきた。その恐怖感が逆に
リスク管理をさせることになった。 倒産すれば全て失うし、失業保険もないし、
退職金もない。まる裸になってしまう。その危険の海の中でこそ智恵が出てくる。
しかし、想定外の事態が起こるのが事業。その事業破綻の備えは人生の備えと
大きく重なる。破綻の備えを事業計画の組立の中に入れておくのは基本である。 
私は、第一に「家族は事業に直接関わりを持たせない」であった。家業と事業
の違いは、会社規模に関係なく家族・親戚を事業に関わらせているかどうか。
家業は家業で、それはそれで良い。ただ危険度は高いが、長年かけた備えの知恵
がある。家内の実家を見ていると、つくづく感じる。何があっても生き延びる
体質がある。長年かけた老後の備えに、日記帳的記録を書き続けることがある。
私の場合、このブログ。大きな挫折で虚無に陥りそうな気持ちを何とか支えて
くれている。 この著書は、「老後に後悔しない10の備え」を勧めているが、
老後に至った現在、「今から」より、「今更」の内容。 行蔵の中身の質量を
高めておけば、それが老後に生きてくる。 それぞれの人の視界にみえる地平線
内の景色は、その人だけのもの。目先の生活の心配をしないで済む余裕があれば
良いが、時代が時代で一寸先は闇である。その中にあって、孤独に耐えらる教養
と趣味。この二つをベースとした構えを中年から本気になって構築すべきである。 
ところで、老後という言葉。死ぬまで、その人に纏わりつく不安の化物にも思える。
それは還暦から20年以上も生きなければならない分、大きくなっていく。
人生は何とかなるもの。何ともならない時は、自分は無になっている。
だから「いま・ここ」で、精一杯生きるしかない。ただそれだけ。
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3758, ユング ー 1
2011年07月10日(日)
 < ユングー地下の大王  コリン・ウィルソンー� >
15〜6年前に、この本を買って読んだ時の衝撃は現在も残っている。
それ以前にスェーデン・ボルグの霊に関する本を読んだことがあったが、
この序文からして、一挙に著者によって、「ユング」の異様な世界に引き
込まれてしまった。6年ほど前に、文芸春秋の誌面で立花隆が、「ユング
について、書いた時、ここで取り上げた。ユングといえば、超常現象と霊に
ついて、心理学者として真正面から向き合った人である。それでフロイト
袂を分かった。日本では河合隼雄秋山さと子が、ユング研究で知られている。
また江戸時代に明恵という坊様が、夢世界の著書を書いている。
著者のコリン・ウィルソンは、これまた面白い人物で、「アウトサイダー
以来一貫して、「現代人の精神の貧困を問題視し、その原因と克服の道は何か」
を問い続けてきた人物。この著書は、序文から終わりまで、息をつかせない
ぐらい濃い。 オカルト、共時性(意味ある偶然の一致)、能動的想像など、
ユングの神秘的側面を明快に説いている。この本を読み返したと同時に、連日、
不思議な夢を見ている。私の人生の節目時に、ユング心理学を通して自分を振り
返るに丁度良い機会と、怖いが、オカルト世界を再度、覗いてみたい。
一笑にふすなら簡単だが、この世界は踏み込んだものしか知ることが出来ない。
この10年哲学を独学してきたので、オカルト世界を探索し戻ってくる命綱
(哲学が)と気休めもある。ユングは、内面の対話を重視した心理学者。
ソクラテスの対話法にも影響され、患者との対話と、バランスを重視した。
「汝自信を知れ」を潜在意識に求め、それまで科学者がタブーにしてきた
オカルト世界の神秘世界に正門から入っていった。ユング関係の本を数冊、
目を通しため、毎日、明らかに潜在意識の地下世界の夢を見ている。
この手の世界は自分の内面の意識下の何かを刺激する。 以前から、ここでも
書いているが、人より強い?霊感が私にある。ネット世界になってから、
この手の話題は静まった。 直感、霊感より、ネットによる認知が強くなった
のでは?と思われる。何が今さらユングだが、でもユングユングである。
それで何を知ることが出来る? 宇宙の外のXとやらを何でもよいから、
ネットで公開したら良いではないか。神秘主義など、情報不足のなせる技。
で、終わってしまう。 
・・・・・・
3393, 閑話小題
2010年07月10日(土)
  * お金の恐ろしさ
 金の持つ威力、魔力は今さら言うに及ばない。では、その恐ろしさを本当に
知っているかというと疑問? その魔力の金を金融工学で創りあげ、破壊した
のがアメリカである。 金があれば世界の9割が自由になるし、無ければ今日
明日の飯の心配をしなかればならない。1万円を持って千円の買い物をするのと、
1千円を持って1千円の買い物をするとでは気持ちの余裕が違う。身近で金に
まつわる人間模様を見ていると、その恐ろしさを実感する。親戚が親からの
相続で大金が入ったところが、人相と着ているものが様変わをした。
環境=条件が人をつくる典型的事例である。逆の話しは幾らでもある。 
だから、その恐ろしさを充分に知り尽くさないと・・・・
  * 再びユーチュウブについて考えてみる!
(字数の関係で中間カット2012年7月10日)
  * 不機嫌とイライラ
 歳をとるとともに人間は円熟していくと青年期までは思っていた。
ところが社会に出て、仕事を通してみる年寄りは機嫌の悪い偏屈の人の方が多い
ことに気づいた。 30年前から駅前で事業を始めて出あった老人の何割かは、
明らかに不機嫌とイライラの塊のような人が多いという事実がある。 
しかし今度は自分が60歳を過ぎた辺りから、イライラが多くなってきた。 
それは肉体の老化の上に、精神の老化もある。あの出会ったイライラした
老人の不快を自分が、その歳になって始めて気づいたのである。 
なるほど人生は60歳までと曽野綾子が述べていたが、その一端が分かってきた。
それと社会は年寄り向きには出来ていない。円熟なんぞは、年寄り仲間でしか
通用しないのも、道理である。むしろ不機嫌、イライラは避けることの出来ない
事態と割り切って、人に見せないようにカモフラージュすべきである。 
自分もそうであるように、同年代の知人も老化現象が起こっている。 
他人から聞いた片耳で喧嘩を仕掛けてくる、それを、待ってましたとばかり
受けて立つ、というような老化現象を自分にみる。先のことを考えられなく
なると、過去の経験がフラッシュのように思い浮かぶ。40年前のことを思い
出して独り怒ってみたり、ニヤニヤしたり、年老いた幼児である。
これが高じると痴呆症ということか。 晩年は、冬景色ということか。