哲学することの要点は、次のようものである。すなわち、驚異と認識、

 懐疑と確実性、自己喪失と自己発見。
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独りで血の滲むように考えてきたことが、上記のことから読み取れることが
出来る。多彩な経験と挫折が豊富?にあるからだ。人間は考えるからこそ、
人間の人間たる所以である。より多く世界を見て、より多く考え、
感動すること!それが哲学につながる。
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3017, 閑話小題
2009年07月09日(木)
 * 中国のウィグル地区の暴動について
    (字数の関係上カット、2008年07月09日)
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2652, 人間、互いに理解不可能なのは、如何して?
 2008年07月09日(水)
ある哲学書(*参照)の中に、何故人は互いに理解不可能なのかを分解していた。
長男がUターンで帰ってきて、再就職のことなど、節目ということもあり、
話を始めるが全く互いに通じない。それでいて、居酒屋などに誘うと親子三人
が仲の良い家族になる。 そのことを、知人に話したところ、
・一人は、「親子で対話など有り得ないこと、会話さえないのが実情だろう。
 親子であるのは、ただ説得だけ」。 
・そしていま一人は、「私の息子は三十半ばになるが、今まで会話さえ
 殆どしたことがない、最近になって上京した時に ご馳走をしてくれと、
 電話がきだした。会話さえ、していること自体で充分」。そういうものか?
 と、思いつつ、それでも何とか成らないものかと思っていた矢先、わかり
 やすい道理に出くわした。 
<*?(哲学ワンダーランド・貫成人著)第一章の?「話せばわかる」1?3)>
ーまずは、その部分を書き出してみる。
  ーひとは誰でも、自分の「地平」に束縛されているー
20世紀ドイッの哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマー(1900?2002年)は、
‘理解しえないものをいかに理解可能にするか’をきわめる「解釈学」を構想。
かれによれば、人々がお互い理解不可能なのは各自が持っている「地平」が異なる
からである。たとえば、物置から古い掛け軸がでてきたとしよう。その値打ちを
判断するには相当の経験と知識を必要とする。それに、そもそもそのような
ものに価値があると考えていなければ、その価値を判定しようとも思わない。
実際、古いものには価値がないと思われていた明治初年には、貴重な文物が安値
で買いたたかれて海外に流出した。およそ何かを判断するときには、一定の知識
や価値に頼らざるをえない。そのような判断や価値付けの拠り所となるものを
ガダマーは「地平」とよぶ。大海原や砂漠に立ったときに360度ぐるりを水平線、
地平線が取り囲む。「地平」とは、地平線の内側、自分が立っている足下とは
逆に、地平があればこそ、その中にある何かを認識することができる。
もちろん、今わたしが位置する地平の外側にある対象も、わたしが移動すれば
見えるようになる。しかし、そのとき地平もわたしと一緒に移動しており、
したがってその対象が地平の内部にあることには代わりはない。物置から出て
きた掛け軸の場合、この地平にあたるのは、骨董品を貴重とする価値観、
その値打ちを判定するための経験、知識だ。一定の価値観や知識があればこそ、
古びた品物をそのまま捨ててしまうのではなく、目をとめ、値打ちを判定する
ことができる。あらたな経験を積み、地平が移動し、拡大すれば、これまで
わからなかったものの値打ちもわかるようになるだろう。肝心なことは、
自分の足下にある地平を通常、ひとは意識しないということである。
自分にどれだけの経験があるのか、どのような価値基準をもっているのかの
リストをもっている人は誰もいない。いつの間にか身につけた価値観や経験に
応じて、ひとは、その場の諸問題に対処する。その結果、各人は、自分でも
気づかないまま自分の地平に束縛されている。 なにしろ、自分がどのような
価値観や経験を持っているかを客観視する方途はないのである。しかも、この
ように地平に幽閉された状態であるかぎり、それぞれは自分がそれまでに身に
つけた価値観や経験から、身の回りのすべてのもの、したがって他人をも判断
するしかない。もし、相手が自分とは異なる地平に立っていれば、その相手の
言うことや、やることはまるで理解の範囲外ということになる。
古物に意味を認めない人物には、物置の掛け軸を二束三文で売ってはいけない
という人物の言うことは理解できないのである。では、この状況が変わることは
ありえないのだろうか。自分とは異なる他者を理解しうるためには、各人が
「心を開いて」いなければならないとガダマーは言う。他人の言葉や行為を
すべて自分の地平の枠内で処理しているかぎり、そもそも【自分とは異なる
ものがいる】ということ自体に気づくことはない。けれども、何かのきっかけで、
自分が何らかの地平にとらわれていることに気づくときがある。
そのときはじめて、ひとは自分の地平を対象化し、相対化するだろう。
そして、それまで自分がとらわれていたのとは別の地平もありうるということ
に気づくことになる。 官僚出身者特有の話し方をしていた政治家も、
落選が続けば、土地の人たちの言葉でしゃぺり、かつ、自分の意見を伝える
ことができるようになるだろう。  
▼ 他人から理解してもらえないという嘆きほど、バカバカしいことは
 以上からみても解るだろう。 一人の人間を理解するなど、到底不可能。
自分でさえ理解できないのに。ただ馬鹿なオッサンだけは解るが!