「エリック・ホッファー自伝」中本義彦訳
    * 運命の出会いと別れ
 ホッファーの放浪者としてのベースは、『旧約聖書』との出あいである。
それを引き合せてくれた運命的邂逅の相手が、雇い主のユダヤ人であった。
ユダヤ人の神は他の神とは違い、怠惰な貴族でなく、働き者の職長である。>
のとおり、ホッファーも放浪労働者として、真理を追究していく道を選んだ。
 〜その辺りから〜
≪・ドイツ系移民の子としてニューヨークで生まれたエリック・ホッファーは、
 7歳で母を亡くし同時に失明。15歳で突然視力が回復すると、また視力を失う
 怖さから本を貪り読むようになる。18歳で父を亡くし天涯孤独の身になると、
 さまざまな労働に従事するかたわら公立図書館を利用して読書に没頭する。
 家系はみな短命で、50歳以上生きた者が誰もいなかった。自分の命も40年
 だと疑う事なく信じていたホッファーが40歳までの"半生"を綴っている。
・ローズベルトが大統領になる前のアメリカは、自己憐憫とはまったく
 無縁だった。言葉を交わした人間の誰一人として、自分の不孝を他人の
 せいにする者はいなかった。
・雇い主のシャピーロとの会話は本の話題が中心で、彼は私が何を読んでいる
 のか知りたがった。彼は大学を卒業しており、死んだ叔父が倉庫を残さな
 かったら、学者の道に進んでいたらしい。つまり、大学教授になる代わりに、
 やり手のくず鉄屋になったのだ。私は贈罪日に倉庫を閉めたのを見て、
 初めてシャピーロがユダヤ人であることに気づいた。それからユダヤ人に
 関する本を読み始め、シャピーロが私に関心を示したのは、彼がユダヤ人で
 あるからだと確信するようになった。ユダヤ人は特別な民族である。
 彼らは神を見つけ出し、その数に比して歴史的に大きな役割を担ってきた。
 <ユダヤ人の神は他の神とは違い、怠惰な貴族でなく、働き者の職長である>
 そうした神を崇拝し模倣した西洋においてのみ、機械時代が訪れた。
 中国人と日本人はその発明の才と技術習得力にもかかわらず、機械時代を
 招き寄せられず、西洋から受容しなければならなかったのだ。
 この考えにシャピーロは喜び、ぜひそのことを書いてみるべきだと言った。
・古代の始まりからユダヤ人は、人間の顔に表れる象形文字を判読する能力に
 秀でていた。人間が何をしようと何を考えようと、それは顔に刻み込まれる。
・新たな好奇心が私を旧約聖書へと導いていた。ちょうど筋肉がついてきたという
 意識が、青年をウェイト・リフティングやレスリングへと駆り立てるように、
 精神が成熟してきたという意識が、私を未知の新たな仕事へと向かわせた。
・貧困者に対して非情になるなという訓戒が、争いごとにおいて
 貧者の肩をもつなという冷めた諫言と並存している。
・この世の現実に執着するあまり、古代ユダヤ人は来世のことを考えなかった。
 彼らにとって最高の報酬とは、自分の寿命を延ばしてもらうことである。
・真実を構想して未知のものを思い描き、物語を語る能力は、未知のものを
 探るうえで必要不可欠な才能だ。≫
▼ 放浪労働者から解放される機会が多くあったが、敢えて、その道を
 選ばなかったのは、40歳までしか生きられないという思い込みがあった
ことと、旧約聖書の影響である。しかし、放浪労働者は違っていた。
ただ社会的不適応者でしかなかったが、彼らの群れには魅力が隠されていた。
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4861,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー29
2014年07月06日(日)
  * 新規事業の構想とは
 新規事業は《「①現金商売で、②箱物を絡めた、③妻子などの親戚を入れない、
④転売可能で、⑤手堅いこと」を前提に、自らを捨石と割り切る!》と、自分に
ダメ押しをした。 そして、千葉・千城台ビルと、長岡郊外の更地を売却をして、
新潟駅前の更地一点にエネルギーの集中を、第一歩とした。それに躊躇があるなら、
覚悟が出来てないことになる。 独り落下傘で敵地に舞い降りる決死の覚悟だった。
まずは、千葉と長岡と同じく、孤独、孤立からの出発である。不安と緊張の中で、
漆黒のような闇に向かって、ただ一歩ずつ進むしかない。ところでホテル名は、
学生服メーカーのブランドを付け『ベンクーガーホテル』にした。
その上にツイン、ダブルルームをカットしたシングル専門にして、税・サ込3980円
の価格破壊を仕掛ければ、成功確率は500%!の確信が生まれていた。
これで15年間の準備は一応、出揃った。「新しい酒は新しい皮袋に盛れ」とは
《新しい内容や思想を表現するために、それに応じた新しい形式や方法が必要で
あるということ。すなわち、いつまでも古い形式にこだわってはならない、
というたとえ。》をいうが、創業も同じ。まず第一歩は独りになり、己を無に
して市場に聞きながら、踏出すのが基本。 事前調査で、ビジネスホテルは
月〜木曜日が、ほぼ満室、金土が5〜6割、日曜が3割、平均稼動8割が目安。
それに対し、学生服は平日が閑散日で、土日が、その三倍の売上げの世界。 
平日はフロントに、土日はショップにシフトをし、回わせば、究極の合理化。
その上、学生服の荒利が4割近くで、値引きはゼロ。軌道に乗せれば、大いに
利益貢献をもたらす。 しかし、学生ショップと、ビジネスホテルの融合は、
短期的にはプラスに働いたが、長期的に失敗。学生服は制服の自由化で右下がり
の衰退が始まっていた。 ホテル名にするなど、言語道断と、十年近く経って
気づくことになる。しかし創業時の二ヶ所の土地転しと、学生ショップの利益は、
二、三棟目のホテル開業に大きく貢献していた。これはこれで、良かった? 
それにしても、何だろう、この男? ドンキ?
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4494, 怒らないって本当は恐い! ー9
2013年07月06日(土)
   * なぜ世界中でデモが起こるのか
 現在、北アフリカと中東をはじめ世界中でデモが起きている。
デモは集団による政治のメッセージである。ここでは、格差問題が若者を中心
に怒りとして燃え上がった。その背景には携帯電話という情報機器の普及で、
体制側の腐敗と貧富の格差の情報が隅々まで流されることがある。日本のデモ
のようにお祭り騒ぎで練り歩くだけでは怒りは伝わらない。怒りが伴った暴動
こそ、その意思が伝わる。  ーまずは、その辺りからー
≪ 議論と同じ意味で怒りを道具になるのは、メッセージを伝える感情だから。
 つまり行動である。その中で、一番わかりやすいメッセージの伝達行動は、
デモでないだろうか。 通常、デモは政治的メッセージを発信するために、
集団で練り歩く行為をいいます。デモンストレーションの略ですが、語源は
「示す」という意味を持っている。したがって、デモの本質は、人々が自分の
意思を示す行為である、と言えるのである。しかし漫然と歩いているのでは
効果がない。怒りが示されると俄然と効果が現れてくる。世界で変革を求める
デモが起きているが、それはもっと非日常的な非常事態であってしかるべき。
しかし先進国のデモは、そうでない。特に、日本のデモは、どれもお祭り騒ぎ
である。それは去勢されたから。安保闘争の時に圧倒的な取締で潰えた後、
すっかり大人しくなってしまった。それでも、唯一怒りを伴ったデモらしき
ものは反貧困を掲げた運動だった。派遣切りをはじめ、人をモノ扱いにする
ような新自由主義的な自民党政治に対し、さすがに人々が怒った。
この運動で自民党政治の行き詰まりもあって、ある程度効果があって、
一度政権が交代した。そして、誰もが、貧困が解消されたかに見えたが、
実際は自民党的体質を変えることは出来なかった。反貧困の湯浅誠が、
内閣参与という形で迎えいれられることで去勢されてしまった。・・ ≫
▼ 携帯電話、スマホは、国境を超えて情報を一瞬のうちに世界に行き来する。
 今さらグローバル化を元に戻すことは不可能。それは情報を通して、世界が
平準化していくことを意味するが、様々な格差の拡大を生む。その怒りが
世界中に噴出するのは避けがたいことになる。現に中国が年間十数万件も
暴動が起きている。それが一斉に起きてないから内乱になってないだけ。
社会には、貧困、格差問題は常に存在する。問題は、グローバル化が貧困、
格差を拡大する力になるからである。ということは、世界各地で起きている
デモや暴動は、ますます激しくなっていく。時の権力者は、その矛先を自国
より弱い周辺国に向けるため、国境問題を操作する。グローバル化
戦争の機会を促進することになる。
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4120, オニババと、粗大ゴミ
2012年07月06日(金)
  * 女の変容    「老後に後悔しない10の備え」三浦朱門
 流石に20歳年上の書いた老いについての話は参考になる。奥さんが
曽野綾子なら旦那に対しても厳しいはず。特に「男から見る女性の、対男性
の態度に四つの時期」が面白い。女性は更年期を過ぎる頃から第四期の
オニババ化が始まる。  ーその辺りを抜粋するー
≪ 男から見ると、女の対男性の態度に四つの時期がある。
・ 最初は男を敵視し、警戒し、ことさらに無関心を装う思春期。
・それから特定の男あるいは男たちには打ち解けて、彼のことに心遣いを示し、
 男としては、うん、この女は優しくて、オレの世話を何くれとなく見てくれる、
 と思わせる。これを青春期とする。これは結婚しても数年は続く。
・第三期はオバサン期である。オバサンは家庭の主として独裁権を振るう。
 それに従わない者は、子供であろうと亭主であろうと容赦しない。
 彼女の独裁権が及ばないのは、舅と姑だから、彼らへの鬱憤は専ら、
 亭主にむけられる。舅、姑は亭主の親だからである。
・第四期がオニババだが、こうなると、彼女は世を呪い、人を恨み、身のまわり
 のあらゆる物が、自分の意図と違う状況にあると、すざまじい勢いで叱り
 つける、そのくせ、自分は何もしない。人に指図してやらせるだけである。
 この場合の指図される相手は、多くの場合い、亭主しかいないから、オニババ
 の夫としては、少なくとも肉体的には健康であることが望ましい。 ≫
▼ 数ヶ月前に、色いろあって自宅の名義が家内に変わった。
 予測はしていたが、急に態度がオーナー然として、私は宿六扱い。
ペットに餌をやっていたのを見て、「居候が居候に餌をやっている」だと。
オニババ化の一場面である。この数年で、団塊世代が大量に定年を向かえ
家の滞在時間が多くなった。現在、日本中がオニババと団塊粗大ゴミが
イガミアッテいる。私など平均4時間は外出。ちらほら愚痴が聞こえてきて
いるが、当人にとっては切実の問題。以前読んだ、あるエッセーにあったが、 
定年になった時に、「食事以外は外出するか、自室以外に出ないよう」
妻に言い渡されたという。まあ、現在の私も似たようなもの。
家が大きいので、まだ助かっている・・ 更年期を過ぎ、身体が老化を
始めると過去の思い出が大きな比重を占めてくる。人間の記憶の大部分が
マイナーで占められている。記憶は主語が消えてしまうので、そのマイナー
を身近の人に見ることになる。その槍玉が連れ合いになり、オニババ化が
進んでいき最悪、熟年離婚になる。せっかく、会社の嫌な上司から
解放された挙句に、である。
 ・・・・・・・
3754, ワシも族か〜  ー�
2011年07月06日(水)
  あるブログにあった「ワシも族」、によると、
【・定年で毎日が日曜日状態になった父さんが、
 ・家でやることもなくゴロゴロ 
 ・妻がどこかへ行こうとすると「ワシも一緒に」と着いて来る男性を指す。
 一般的のサラリーマンは、「定年になったら、あれも、これもやりたい」
と考えるが、何をしても中途半端で飽きてくる。 定年で急にはじめても、
マチュアになるには遅すぎる。最低で10年の準備が必要。
そこで、妻に縋るしかない。 TVのワイドショーで「ワシも族・度」
が紹介されていた。
1)近所で人当たりが良いが、家では無口 2)夫が家事をするのは「手伝い」と思う
3)妻の予定や行動をよくチェックしている 4)妻にはつい、つらく当たってしまう
5)妻の家事に手は出さないけど、口は出す 6)妻のお出かけにはよくついていく
7)妻子を養ってきたとの自負がある
【判断基準】・3個以下:とりあえずは大丈夫? ・4〜5個:ワシも族の素質、
十分です ・6個以上:要注意!見捨てられるかも会社人間の習性で、
「自分では手を出さずに、命令すること」「部下が作成したものを批評し、
自ら積極的に行動しない」が習慣化しているからだ。 】
▼「ワシも族」といえば、私の夫婦間では、家内の方が前より「私もやりたい」
 と、言う方。女なら、それは愛嬌だが。私がネットに夢中になれば、見よう
見まねでネットで情報をとったり、ネット・ショッピングに夢中になったり。
海外旅行といえば、初めは反対するが、私が申し込む直前に「私も行く」と、
のたまう。大反対をしたもの(ハンモック・チェアーや、健康機器)を良さそうか
どうかを見極めてから、都合の良い理屈をつけて始める。それが、今度は逆転。
 私も暇時間のつぶし方は得意だが家内には敵わない。相手は38年、年中である。 
一般的には仕事にネルギーを奪われ、ライフワークの趣味を作り上げてこなかった
ツケが、定年後にくる。でも、それでも妻の後についていくだけ、まだましか。
 いくら東京が好きとはいえ、5日連続とは!驚くより呆れる。
「ツアーに出ているよう」だと! 内容からして価値あるツアーだが!
・・・・・・・
3389, 911・考えない・日本人  ー6
2010年07月06日(火)
           「911・考えない・日本人 」林 秀彦 (著)
■ 自問自答が知性を磨く (Pー189)
  他者との対話とは別に自分自身との対話=自問自答がある。
    著者の考える=「哲学する」についてが、なかなか面白い。
≪ 哲学について、ポール・ソシャールの『言語と思考』には
   次のように書かれている。
*「子供は三歳半ごろ自分を指す代名詞〈私=I〉を使いはじめ、そのときに
 動物心埋の水準をはっきり乗り越える。…つまり反省意識という人間の段階は、
 言葉に結びついている。思考が内言語(註:個人の頭の中だけに聞こえる言葉)
 であるからこそ伝達できるのであり、意識状態の科学である心理学もできあがる」
*「(I)の言語化と(you)のそれとは切り離せない。
  それは対話の言語化である。自己の想像した対者との対話も含んでいる」
*「人間では、言語は外言語であると同時に内言語でもあるので、外言語として
 はコミュ二ケーションの役を果たし、内言語としては思考と反省意識を確保する」
*「人間を理解し、その水準を見定めようとするものは、
 言語問題に取り組まなくてはならない」
*「言語は人間の発明したもののうちで最高のものである。人間は話すからこそ
 知恵があるのだ。人間の身体は原初から何も変わっていない。変わったのは
 精神の働きだけだ。人間は言語のおかげで自己を完成し、知性を発展させてきた」
*「言語の無限の能力は単なる感情や状況を示す信号だけでは満足しなくなる。
 …… 言語は対象を離れ、独立する。本質的にコミュニケーションの手段では
 なくなり、思考の道具となるのだ。人間だけがこの〈内言語〉を持っている。
 内言語はもはや言語ではない。発音されないからだ。
 音情報は脳に移動され、自己の意識化を助ける」
*「人間は言語化されていない思考を心に浮かべることはほとんど不可能である」
 まだいくらでも引用したい文章はあるが、読んでいてもつらくなる。なぜなら
 言語段階から見ると日本人が人間としていかに未成熟かが歴然としてくるからだ。
 特にこの「反省」「内言語」の段階は幼児並みに思えてくる。どうやらわれわれの
 大脳皮質は、前述した角田説の逆作用で、成長を停止しているとしか考えられない。
 饒舌な内言語の会話が知性を磨く。連続的な自問自答である。われわれは内言語
 の失語症を起こしている。だから「失理症」に陥る。主語のない「味言語」は、
 結局主観と客観の区別がつかない。それが「無反省」、つまり精神の言語化
 あるいはまた逆に言語の精神化を妨げる。 ≫
▼ 子供が、(自分)という言葉を持った瞬間から人間になるというが、
 そこから、自分に対するyouが出現する。いや、youが(自分=I)を
創出する。それが、動物と人間の境目になる。人間の記憶が、その辺から始る
のは、自分という言葉を語るからで、その時から人間は飛躍的成長が始る。
また日記が人間の成長に大きな役割を果たすのは、それを一度、ノートに外に
出すことで内語を外語とする作業の中で考えることになるからである。
サルトルの対自、即自である。偶然だが、去年の今日、同じようなことを
書いていた。 面白いものである。
 ・・・・・・・・
3014, 魂とは何か
 2009年07月06日(月)
  「魂とは何か」ー池田晶子著 −2
 何度か魂については、ここで何度か取り上げてきた。 
先日、「戒名は自分で付けよう」という本を読んで自分と、家内と、二人の息子の
戒名を作ってみた。そのためか? 近くの図書館で池田晶子の「魂とは何か」と
いう本を見つけ借りてきた。池田は二年前に亡くなっているが、この本は10年前
のリメーク版である。ここで頭脳明晰な池田晶子が、魂となると歯切れが悪い。
それもあってか、この一週間は、「魂」漬け。 魂というと、「霊」と「私」
「精神」「心」が浮かぶ。「心」は、TPOSで変化するが、「魂」は「それを
見守っている、産まれ、死ぬまで変わらない自分そのもの」。池田は、ヘーゲル
などの論を借りて、〈魂〉は「考える」より「感じる」ものだと、「思考感覚」
という。魂の表現を、無理を承知で言葉にしている。
  《その一部を抜粋してみる。》
ーひょっとしたら「〈私〉が魂」なのでなく、
「〈私〉の魂」という言い方もなく、「魂の〈私〉」に近い。ー
  *この部分も鋭く、というより頭の底からひねり出している。
ー以前、誰だったか神秘主義者の本を読んでいて、ひとりの人間を構成する
 ものは、「肉体と精神と魂」という言い回しがあって、深く腑に落ちた
 のだったが、それは正確だろう。 肉体とは個別だが物体であり、
 精神とは物体ではないが非人称であるなら、その人を他の人ではなくその人
 たらしめている当のものとは、他でもない、〈魂〉ということになる。 
 なぜそれを〈私〉と、私は言わないのか。〈私〉とは、おそらく、たんなる
 形式であろう。 あえて「たんなる」と言うのは、形而上的な形式と形而下的
 な内容とを、思考によって峻別した時、そこに残る内容は、形式からみれば、
 なお不可解なままだからである。 内容のない形式とは、論理としては可能で
 あっても、思考が驚きによって始まったその振り出しへ戻れば、謎は依然と
 して同じである。すなわち、なぜ〈私〉は、この人間なのか。なぜ〈私〉は、
 この人間なのか。 なぜそれを〈私〉と、私は言わないのか。〈私〉とは、
 おそらく、たんなる形式であろう。あえて「たんなる」と言うのは、
 形而上的な形式と形而下的な内容とを、思考によって峻別した時、そこに
 残る内容は、形式からみれば、なお不可解なままだからである。内容のない
 形式とは、論理としては可能であっても、思考が驚きによって始まった
 その振り出しへ戻れば、謎は依然として同じである。 すなわち、
 なぜ〈私〉は、この人間なのか。なぜ〈私〉は、この人間なのか・・ー
▼ 魂を明快に表現出来るなどありえない。それでも何度か読み返している
 うちに、少しずつ、その中心に近づいていく。我われは、大自然に触れたり、
世界的な芸術作品をみた時に〈魂が振動した〉という。実際に私も何度も、
いや何十回も経験している。あの時の「魂の振動」という時の魂とは何だろう? 
べネゼイラのテーブル・マウンテンのキャンプで見た夕景。あの荘厳な景色で
感じた魂の響き。 人間を遥かに越えた大自然の時間の蓄積と、美と、荘厳な
一瞬に、自分が、その中に融けて永遠と共鳴し、「私が、いや私の先祖が
産まれる遥か前から存在している命と魂が共鳴している」瞬間の「魂」とは
何だろう。登山好きの人は、早朝などに独りで、それを直感しているのだろう。  
宇宙の響きというのだろうか?