『世間の捨て方』ひろさちや
    * 「がんばればよくなる!」の馬鹿馬鹿しさ
  〜二つの愚問、「生きがいとは何か」「どうすれば幸せになれるのか」〜
 この二つの愚問?を真面目に自問自答してきたが、これこそ、「世間の奴隷」
が発する問いかけ、という。「生きがいは、がんばれば出てくる」も似ている?
我々は「幸せでなければならない」という考え方が、そもそもオカシイとは、
面白い切口である。  〜以下が、考えさせられる (P36)〜
≪ 「永遠のものなどない」が仏教の基本的な考え方です。仏教では、この世
 のすべては常に変化していると考え、どんな世の中も滅びるのは当たり前。
「日本は滅びない」と考えるほうが不自然なんです。『平家物語』の冒頭に
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とありますが、この「諸行無常
ということばに、仏教の考え方が端的に表現されています。
「すべてのものは常ではない」、つまり「あらゆるものは永遠の存在ではあり
えない」ということを述べているわけです。「永遠の存在がないとしたら、
この世の中は何なんだ?」と誰もが疑問に思うでしょう。そんな疑問に対して、
聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真」と述べています。「世間虚仮」の「虚仮」
というのは、字を見て分かる通り、「虚ろであり仮のもの」という意味。
「おれをコケにしやがって」という、あのコケの語源です。早い話が、わたし
たちが生きている世間は「嘘偽り」だというわけです。そして、「唯仏是真」は、
ただ仏だけがまことであるという意味。これが仏教の基本線ですむ世間が虚仮
であるならば、世の中をよくしようなんて、思わないことが大切です。
 ・・「いい世の中にしよう」なんて、仏教の教えに反する行為です。
世間は嘘偽りなんですから、それを良くしようなんて思わないことです。
法華経』というお経では、この世の中は「火宅」であると記されています。
私たちの住んでいる全世界は火事になっているという。燃えているんだから、
さっさと逃げ出しなさいと『法華経』は教えているんです。「世の中を良く
したい」という人にしてみれば「火宅だったら、それを消してやろう」という
のでしょうが、それは馬鹿げています。大火事なんですから、消火活動なんて
やっていたら焼け死んでしまうじゃありませんか。せっかく『法華経』がいい
ことを教えてくれているのですから、それに従いましょうよ。問題は「自灯明」
です。お釈迦さまは、自分自身を灯明にしなさいと教えられたのです。これは、
自分に自信を持って歩めという意味だとも取れます。しかし、それよりも
「世間の奴隷になってはいけない」と解釈したほうがはっきりとします。
わたしたちはあまりにも世間のことを気にしすぎるきらいがあります。
世間の人の平均や流行に常にとらわれていて、自分が世間でどう評価されている
かが気になって仕方がない。でも、世間なんていい加減なものだということは、
さきほど述べた通りです。「世間の奴隷になっていては、自分というものを
失ってしまうよ」とお釈迦さまはおっしゃりたかったのではないでしょうか。
人間は、つい「生きがいとは何か」「どうすれば幸せになれるのか」と自問
自答しながら暮らしてしまいます。でも、そうしたことを考えること自体、
世間の奴隷になっている証拠です。「幸せ」「生きがい」を求めるのは、
自分で手枷足枷をはめて、進んで奴隷の列に加わるようなものです。
つまらない常識にとらわれることなく、生きたいように生きたらいいんです。
勝ち組になったとか負け組になったというのは、単に世間の物差しで測った
結果に過ぎません。・・・ ≫
▼ TVのコマーシャルや、番組の根にあるのは、コンプレックスの刺激が、
 隠されている。健康食品、美容品、ファッション用品など、『世間では、
こういうのが流行しています。これを使って、カバーしましょう』 と!
その手段として、最近ではタブレットPCや、スマートフォンが普及した
ため、逆に世間が、狭くなって、個々への締付けが日々、強くなっている。
世間虚仮も必要だが、その過剰は、世間体コスプレになってしまう。
・・・・・・
4822,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー4
2014年05月28日(水)
   * 産能大学に編入
⑥ ジャスコを辞めるについて、その身勝手さに非常に厳しい(精神的)
 リンチ? 実家に帰った時には首はガチガチで、半病人状態。当然だろう・・
それをみた両親が、四国旅行に連れ出してくれた。親は有難いもので、後先、
両親三人と旅行をしたのは、最初で最後の経験。 坂出でみた瀬戸内海の夕景は
今でも心に焼きついている。その時の印象と心情をメモ帳に書いたが、ホテルの
部屋に忘れてきた。それを見た若い?女性が、感想を書き添えて送り返してくれた
ことが思い出されてきた。 心が傷ついていた反面、それが夕景に共鳴できる
下地になっていた。
⑦ その後、千葉の姉の家から東京の自由が丘にある産能大に通うことになる。
それまでの激務と、今度は何の束縛のない自由の中で、自分で自分を律する日々。
人間は独りでは生きられないが、まず独りになって自分を律する必要がある。
独りになるとは、考えるための第一歩。それが分からないと、集団に埋もれ、
何も考えないで一生を終えてしまう。20歳前半に、その両極端な二年を経験は、
私にとって大きな行蔵になっていた。この一年間は、過っての学生時代の
4年間を凝縮し、学び直すことにもなった。計算外の危機になった精神を
立て直すに、混乱した脳奥から湧き出てくる思いを紙に書き出し、整理する
ことが第一歩になった。50歳半ばから13年間、こ随想日記を書き続けてきた
ベースは、この一年間の独りでの心の血を掬いがあればこそ。文章に変換する
しかなかったお陰である。書かなければ、狂ってしまうから、書くしかなかった
のである。フィールドワーク(現場)の現象の中に隠れている道理を、言語化
する、当時の発想法のKJ法など、情報のカード化に関する書籍を読み、
実行する日々になっていた。経済社会をフィールドワークと見倣し、現象を
大きく分類し、科学するのに、この一年間は、有効に働いた。
⑧ しかし、千葉郊外の「千城台商業用地の売出しの広告記事」を見たことが、
 大きな副産物としてついてきた。それが二年後の千城台ビルの建設用地になる。
これについて、以前にも書いた。千葉県住宅地供給公社が、県の発展のため
住宅地を開発、販売する住宅地で、家付き娘の姉三人の一人が、そこに新築の
家を建て、住んでいた。そこから30分ほどに住む姉二人も、住宅地を購入し、
貸家を建てていた。そこで暇に任せて、購入希望者に対する抽選に応募した
ところ、当選。その後、父親を説得、購入させた。ここの購入条件は二年半
以内に、建設すること。ということは、二年半後に、私が、ここで何かを
始めることを意味していた。その時は、そんなことなど、一切考えず、ただ、
抽選に当選すれば、半値で買える程度にしか考えていた。数年経って気づいた
ことは、予定挫折が、人生で必要ということ。そのプロセスで、必ず副産物が
付いてくるという事を肌身で感じることが出来た。高度成長期も背景にあった
良き時代の真っ只中である。「捨石の節目時節の重要性」ということ! 
決断は独りでこそ。
・・・・・・
4455, 一日5分「簡単ヨーガ」健康法 ー3
2013年05月28日(火)
        『一日5分「簡単ヨーガ」健康法』ー番場浩之著
 「一週間の実修メニュー」はメニューは以下のとおり。
 シンプルだが、捩れ、反らし、伸ばしなどの要所をおさえてある。
* 1日目 "胸を開いて積極的に
 A・完全な呼吸法をする体位…40 B・背骨をねじる体位(腕で半円を描く)…
* 2日目 "足腰を軽快に
 A・膝を回す体位……54    B・膝を伸ばして、足の指を活性化する体位:
* 3日目 "身体の前後両面と、手指を開く
 A・胸と背中を開き、膝裏を伸ばす体位……66  B・手の指を開く体位ー72
* 4日目と背骨にいきいきと「気」を流す
 A・膝で半円を描く体位……78  B・上体を反らせて、背骨をねじる体位 
* 5日目"胸と脇を開き、首の血行をよくする
 A・胸と脇を開く体位……90      B・首を腕ではさむ体位……96
* 6日目"身体の疲れを癒す      
 A・背骨をねじる体位(腕を大きく回す)… B・上体を反らせる体位(腕を伸ばし)
* 7日目 一週間の疲れを癒し、新しい一週間を迎えるために
▼ ヨガ教室では50分間に、以上を殆ど網羅したポーズをとる。
 他にも椰子の木のポーズ、ワニのポーズとか色々あるが、50人定員のうち、
一〜二人を除けば殆どがリピーターで、回を重ねる度に難度を上げていく。
この本に縛られることもないが、まずは従うつもり。SJでのヨガはエアロビ
感覚で興味本位で参加していたが、これを自宅で実施したら少し本格的。
 30分の早朝座禅は、ほぼヨガの瞑想と同じ。これに一か二つのヨガポーズを
取り入れれば、一寸したヨガの時間帯になる。次回から、上記の具体的な内容を
書きだしてみるが、実際に夜明けに、一人、ヨガを組むのもなかなか良い。 
何気ないそれぞれのポーズに、千年、二千年の積み重ねがある。
問題は続けられるかどうか。ヨガ教室で15ヶ月続けたから自宅でも、
という気になれた。続けると何事も面白くなり、力になっていく。
4時起床で、早朝座禅とヨガね〜!冴え渡るが?
・・・・・・
2012年05月28日(月)
  * 書斎はシェルター
 私の書斎スペースは7畳ほどの仏間の一角である。一角といっても三分二を
占めている。リタイア以降、ここにパソコンを一台置いて、一日4〜5時間は
読書をするか、パソコンで随想日記の下書きを書いているか、iPadに向かって
いる。腰痛持ちのためジッとしているのは一時間が限度、一時間に5分はお茶や
トイレにいったりして節目を作っている。BGMにパソコンに入力した音楽を
ステレオから流している。またネット・ラジオの音楽放送も時々流す。
朝の4時半〜6時、9時〜11時半、夕方1時間の合計5時間は書斎にいる。
途中、廊下をはさんだ前の寝室で寝転んでiPadで遊んだり、TVを見たり、
仮眠をしたりする。居間、書斎、寝室のバランスは丁度良い。外出は早朝の
ポタリング、スポーツジム、図書館、SCが中心になる。書斎といえば、
iPadと、パソコンの中に書斎機能がある。静かに落ち着けるシェルターの
役目が書斎だが、あまり居心地が良すぎると、自閉症になってしまう。
iPadを持ち歩けば何処にいても同じ。小さな生活圏内では何処にいても
自分の居場所ができるのは非常に助かる。
   * ギリシャを合わせ鏡にすると
 ギリシャは西欧哲学の発祥の地。そして現在、世界金融危機の発火点になろう
としている。東の地からギリシャをみると、とんでもない事態に追い込まれて
いるのが分かる。しかしギリシャと大して変わらないほど惨憺たるのが日本。
一年しか持たない首相が改革を錦の旗にして交代するが、いざ就任、実行段階
となると周囲から袋叩きにして、反対勢力が綺麗ごとを旗に権力奪取。
その繰り返しが代々続いている。覚めた目でみれば、その一連を分かってやって
いるから始末が悪い。国民がグローバル化した世の変化を実感できないのが実態。
10年前に決断しておかなければならない国家規模のリストラが出来ないジレンマ
に落ちている。その限界が、あと二年しかないというが、その行き先は、誰も
分からない。ギリシャ国民のユーロ圏に留まりたいが、耐乏生活はしたくない
国民感情は日本も同じ。右上がり経済の再来の幻想に、まだ浸っている。
最後はハイパーが吹き荒れるだろうが。
 ・・・・・・・
3715, 閑話小題 
2011年05月28日(土)
  * フレンドリーの雀はメタボ
 毎朝、信濃川に冬期間を除きサイクリングに行くようになって一年半になる。
10日ほど前に、いつものベンチのところでストレッチをしていると、一メール
ほどのところに雀がきてジッとみている。外国では公園などで何度も人懐こい
雀には出会っているが、日本では珍しい。暫くすると、餌が貰えないと判断した
のか飛んでいった。ところが昨日の早朝に、同じ場所で座って休んでいると、
雀が50センチもしない自転車のハンドルに止まって、こちらを見ている。
ポケットに何かと探したが、クリスクしかない。それを一粒、地面に投げたが、
パンや菓子屑でないと思ったのか、見向きもしない。よく見ると、普通の雀の
二倍近くもありコロコロしている。もしかしたら、雀ではないのでは?と、
見直したが、やはり雀である。恐らく誰かが餌付けをしているうち、他の人
からも餌を貰って太ったのだろう。 親しそうに近くにきて見つめられれば、
何か餌を与えたくなるのが人情。 その結果がメタボである。私も近々に、
餌を与えることになるだろうが。雀と鳩は、世界中、いたるところで見られるが、
その国々で、微妙に違う。餌によるのだろう。ところで最近、本当に雀の数が
少なくなった・・ 餌といえば、アイスランドに行ったときのこと。 
ホテルの近くの公園を散歩をしていた時、野生の大ガンの群れの一羽に
クラッカーを与えたところ、数十羽の群れが、私のところに押し寄せてきた。 
恐ろしくなり無我夢中で逃げたが、その時の恐怖は!早朝の朝靄の中の出来事
が幻想的な思い出として残っている。
  ・・・・・・・・
3350, 新型インフルエンザの総括
 2010年05月28日(金)
 去年の4月に、メキシコで確認され日本に上陸して丁度一年が経ったが、
現在では話題にさえのらない。WHOに入り込んだ製薬会社の連中の煽動に
マスコミが異常に騒ぎすぎた。一年経ってみれば日本だけが過剰反応。
街中の人がマスクをしている姿が異様だったが、それが世界のマスコミに
報じられた。その結果、毎年の冬季に発生する季節性インフルエンザの死者数
より少ない結果になったという、変な結果になってしまった。 医学者で
東京文化短期大学学長の中原英臣が産経の「正論」で、新型インフルエンザ
の総括をしていた。
新型インフルエンザの想定が鳥インフルエンザに対していた為に、強毒性
 の行動計画に大きく影響された。それが、感染者が一人でも出た時点でも
 都道府県単位で学校を閉鎖をしたり、集会の中止がした。これが過剰反応
 という受け止め方と、逆に、その結果、アメリカの26分の一、カナダの
 10分の一の死亡率に収まった。
・これは、日本政府がインフルエンザの症状があったら、
 直ぐに受診する必要性を国民に訴えたこともきいている。
・さらに日本人の衛生意識の高さが大きく影響している。他人に感染させない
 ためのマスク着用も大きく影響した。「うがいと手洗い」を多くの人が
 積極的に行ったことも影響をした。
▼ 以上だが、この過剰反応、近い将来必ず起きる猛毒性の鳥インフルエンザ
 の予行練習とみれば、決して過剰ともいえなかった。その時の教訓が、この
騒ぎの中に多く含まれている。これは国家の非常事態であり、自衛隊の役割が
大きく求められる。この騒ぎのお陰で30年近く毎年行っていた海外旅行を
急遽キャンセル、結局行かずじまいだった。これで大儲けをしたのは製薬会社。
現在でも、何か?大きな疑問が残っている。当時のマスコミの対応も異常
であった。マスコミも、このことを総括したのだろうか?
  ・・・・・・・・・
 2975, 縁は異なもの
 2009年05月28日(木)
  「縁は異なもの」河合隼雄 白州正子 対談集
河合 日本の芸というのは本当に習うのが大変ですよ。 ずーとやっていて、
 しかも最後がどうなるかわからない。白州 研いで研いで、研ぎ抜いて。
 それで90歳になって精神が現われる・・ 現われないかもしれませんから。
 連載中の本に書いたのですが、読者からありがたい手紙をいただいたのです。
 「よき細工は少し鈍き刀をつかうという」『徒然草』の一節についてで、
 それまで私は「鈍き刀」の意味を「あまり切れすぎる刀では美しいものは
 造れない」というふうに思っていたわけ。でも違ったの。その方は
 「鋭い刃を何十年も研いで研いで研ぎ抜いて、刃が極端に 薄くなり、
 もはや用に立たなくなった頃、はじめての真価が発揮される」という。 
 ここでいう「鈍き刀」というのは最初から鈍き刀というんじゃないんですよ。
 本当に鈍い刀を磨いでもだめ。いい刀だから磨げる。しまいにはペロンペロン
 に柔らかくなるんですよ。兼好法師は「妙観が刀はいたく立たず」とも
 書いているけど、やっぱり「立たず」なんて言葉は「鈍き刀」じゃ
 ダメなんです。それが良くわかったの。
 ーー
 白州正子の対談を何度か読んだことがあるが、河合隼雄もたじたじなくらい
言葉の剣先が鋭い。鈍き刀を磨いでも鋭くはならない。鋭い刀を磨いて磨いて
磨きぬいて鈍くなった刀こそ・・・ よき細工に使うことが出来るという。 
言葉の奥底をみないと真の意味がつかめないというが、まあ、凄いことをいう。 
芸道や能力のことを言っているのだろうが。
・・・・・・・・・
2611, サルトルについて、考えてみる  −2
 2008年05月28日(水)
改めて、読んでみるとナカナカ新鮮に思えてくるところが多い。
読んだ当時から40年経て、経験を多くつんだこともある。当時はピンと
来なかったことも、今では納得する。経験は、「自分」の財産なのである。
 ー以下の論が、非常に面白い。
 *「意識」のあり方は、どのようなものか?
サルトルは、「世界へと関わる」ということを、「否定」と「無」と結び付け
考える。人間が世界へと「「関わって」いる、ということは、人間は世界では
「ない」ということなのだ。たとえば、私は目の前のグラスでは「ない」し、
窓の外の木ではない。サルトルは、人間が「世界に関わる」というあり方を
しているが、それは「世界ではない」というあり方だと、いう。言い換えれば、
人間と世界の間には「すき間」「裂け目」がある、ということだ。人間が
「世界と関わる」ということは、人間が「世界との間に裂け目を作る出す」こと
だと考える。サルトルは人間と世界の間の「すき間」「さけ目」を「無」と呼ぶ。
ただしここで重要なのは、意識は、裂かれた片方の「モノ」なのではなく、
「さけ目そのもの」ということだ。意識としての人間は、いわば世界の中の
裂け目、世界の中の無である。それは、意識が関係する片方の「モノ」ではなく、
「関係」そのものであり、外部の世界への「矢印」そのものである。・・
「世界に対して」裂け目をもたらす人間は、それだけでなく「自分自身に対して」
も裂け目をもたらす、とサルトルはかんがえる。人間は、常に過去の自分から
脱出して新しい自分になっていく存在である。過去と現在を乗り越え、未来に
向かって自分を投げかけていく存在、それをサルトルは「投企」と呼ぶ。
▼ 解)人間の意識が、世界と関わると、その世界の間に裂け目をつくりだす。
それも人間の意識は、片割れの一方ではなく、裂け目、世界の無である、という。
過去を振り返ると、実感として接してきた世界の片割れとしての自分というより、
 色いろ経験してきた世界の接触の中での私の意識は、それぞれが「無」だった。
その時の己は、片割れの「モノ」ではなくて、「関係」そのものであった。
それは「矢印」であった。世界中を観光してきて、そして事業を幾つか立ち
上げてきて、その通りである。世界との間に裂け目を作り、世界の中に裂け目を
もたらす、「意識としての人間」をサルトルは「対自存在」と呼ぶ。
異郷・秘境の地で我を忘れて見入っているとき、自分は、そこに居ない。
自分は、後で振り返ったとき、見入っている自分を対自として見ている内なる
我が見ているとき、初めて顔を顕す。対象に魂を奪われているとき、
そこは一方の割れた「私」ではなく、裂け目そのものが私である。
別に難しいことではないのである。 
 *サルトルの人間観
 (字数の関係でカット 09年05月28日)