『人生、しょせん気晴らし』中島義道
   * 「いい人」やめて、「ろくでない」になれ
 母親の痴呆症と5年半の間、付合ったこともあり、相談者の切実な気持ちが
手にとるように分かる。兄弟の微妙な関係もあって、そう簡単に事は進めない。
ただ「いい人」を止めてしまうことには大賛成だが、「いい人」は簡単に止め
ようがないもの。介護は、それなりの強さと覚悟が必要になる。「ろくでなし」
にも、覚悟が必要。特に正常と非正常の間を彷徨う肉親との同居は重く疲れる。
≪ Q: 〜母親の介護で、自分自身が壊れてしまいそうです!〜
 私は四十五歳で、現在母親の介護をしております。母の介護をするために
仕事を辞め、現在無職です。私には、父、兄、弟がいるのですが、まったく
母の面倒をみようとしないので、男一人で母の介護をしております。
 その母も痴呆が進み、モノの判断ができなくなり、外でゴミを拾ったり、
真夜中に叫んだり、私もその対応に、やり場のない疲れが溜まっております。
もういっそのこと、私も介護を放棄し、母親に早く死んでほしい気さえします。
同時に私まで気がおかしくなりそうなのです。しかし、これまで母親に世話に
なったことを考えると、それも出来ません。このように思う私はやはり
「できていない」人間なのでしょうか?
A: 〜「いい人」をやめて、「ろくでなし」になりなさい!〜
 これも失礼ながら、いらいらする相談ですね。あなたは、私の嫌いな
「いい人」なんですね。これまた細かい事情はわからないのですが、真剣に
考えれば社会的にはいろいろ道は開けると思います。お母さんには息子が三人も
いるのですから、三人でお金を出し合って、介護士を雇う、老人ホームに預ける
等々。(お父さんはともかく)ご兄弟がそれに協力しないのなら、あなたが介護を
続ける代わりに、彼らにあなたの心的・肉体的負担相応のお金を請求してもいい
でしょう。お二人がそれさえ拒否するなら、その原因は二つ考えられます。
一つは、あなたのご兄弟が「ろくでなし」だということ、もう一つは、あなたが
「いい人」という名の「困った人」だということ。「ろくでなし」と「いい人」
が共存すると、だいたいいまのあなたのような状況に陥ります。「ろくでなし」
は、「いい人」を骨の髄まで利用し続け、「いい人」は全身不満の塊になって
恨み続けるというわけです。一般に、人がある限度を超えて耐えるとき、碌な
結果を呼ばない。だから、なるべく避けたほうがいいのです。・・(略)
 あなたがお母さんを(間接的にでも)殺さないうちに、あるいはあなた自身が
「気がおかしく」ならないうちに、あなたは大変身する必要がある。つまり、
「いい人」をやめて、ご兄弟と同じように「ろくでなし」になることです。
そこで、私の提言はただ一つ。一度みんなを集めて、「俺だけおふくろの面倒を
見るのはおかしい!」と大声で叫んでみてはどうでしょう。「もう介護はやめる!」
ときっぱり宣言してはどうでしょう。つべこべ理由を言う必要はない。ことの
おかしさは、どんな「ろくでなし」にもわかるはずですから。一度、そういう
修羅場を経由しなければ、そしてみんなが全身ひりひりするほどの痛みを覚え
なくては、何も変わらない。もっとも、あなたがどうしてもそうしたくない、
そういう勇気がないというのなら、仕方ないですね。お母さんが死ぬまで、
あなたは介護を続けるしかないでしょう。お母さんを恨み、ご兄弟を憎み、
そして自分を責めて生きるしかないでしょう。≫
▼ 介護には、周囲の無理解がついて回る。「まだらボケ」が、その一つ。
 第三者が居るときには、緊張が入った正常状態に近いため、痴呆症の人との
同居経験がないと、「聞くと見ると大違い」と、勘違いをしてしまう。
で、「ろくでなし」と決め付けられる。当人は今さら何をか!である。
一応、肩書きは立派だが、中島は天然ボケ? 哲学症天然痴呆症? そして、
私を振り返ると、見えてくるのが、「ろくでない」「いやなやつ」の影。
・・・・・・
4805,閑話小題 ー倒産よもやま話 ー⑥
2014年05月11日(日)
   * 当事者の隠れた心理とは
 其の辺の視線から度々、思うことは、当事者の心理まで解ってないこと。
ホテル建設の準備と立上げほど面白い仕事はないのでは? 実感として、その
トータルと、一応軌道にのせた時に、その金額分の元を既にとった実感がある。
これは事業創業と同じであるが。クルーズが好きで、趣味が興じて、その設計
から建設まで、造船会社と打ち合わせをし、造りあげた船が10年、20年後に
難破して命からがら助かったとする。その時、誰かが、「惜しかったですね!」
と言われた気持ち?が、こんなもの。「いや、これだけ楽しんだから、未練も
悔しさもない!海から引退する身にとって、下手に中古品で残っているより、
この方が危険な遊びより解放されて、むしろ良かった」が本音。 第三者は、
難破して命からがら救われた、姿しかみてない。しかし、当事者は、その辺り
が周辺の視線とは全く違う。これも、救命用具と救命舟を用意して、命からがら
助かった?からこそ、言えるのだが。 で、ボートしか乗ったことがない人ほど、
その時に勝手な揶揄をすることになるが、その面白さが、何ものにも代え難い
ことは知る由もない。人は、それぞれ、頑固な岩場の小さな洞窟内のことしか、
知りえない。それは、あくまで、大小の大きさの差でしかないが。
 私の身近な人の心理が、こんな心理もあった?ということを、自分が経験して
初めて知ったこと。両親の生き様の後ろ姿から、「人生には、何が起こるかも
しれない、だから、その時々の楽しみは、その時に、味わうことを、子供ながら
学んだ。それにしても、9割以上の何も考えない人たち、何をしているのだろう。
年金生活に入っても、収入の二割は漠然たる目先に不安のため、預金をして、
死期が迫ってから、この世に、したいことをし得なかった無念と、預金を残して
死んでいくのだから、恐れ入る。 で、「そのお金もない、したいこともない、
無念もない!で、どうした!」 これはこれで、おめでたいこと。これも、
目くそ鼻くそを笑う範疇でしかないが! 王陽明もあるが、論語もあるか?
 
・・・・・
4438, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか ー8
2013年05月11日(土)
    ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー前野 隆司著
 * ルート7 リラクゼーションと東洋的思想からのアプローチ(思想の道)
「いい湯だな」と「悟り」は同じこと。両者とも「リラックスの極致=悟り
ということ。 笑いは緊張とリラックス(弛緩)の間に生まれ出る。喜劇や
お笑い番組の束の間に悟りがあるのか? お笑い芸人が果たして悟りをひらいて
いるのか? という疑問が出てくる。しかし「深いリラックス」が、悟りと
笑いにある。早朝のミニサイクリングで信濃川の土手を音楽を聴きながら、
深呼吸をしている時の気持ちは悟りの心境。深くリラックスをしてないと、
自分が壊れてしまう恐れもある。逆に悟りに近い心境は自ずから
リラックスの状況を求める。
 −その辺りを抜粋ー
≪ 先ほどの達人の境地や禅僧の姿はこれに通じるものがある。自分を磨く
ことによって至ることのできる境地。 これに対し、リラックスの境地は、
「世界を貫く原理原則を知った」状態とは異なるように思えるかもしれない。
しかし、そうだろうか。リラックスの境地は、我欲や悩みやその根源である
身体の不自由さから解放された境地だ。心が無であること、あるいは、幻想で
あることを、体で理解した境地だ。「ああ、世界での幸福なあり方とはこう
いうものか」と体で理解した境地だ。そう考えれば、リラックスの境地は、
「世界を貫く原理原則を知った」ことと等価ではないだろうか。「体で理解」
する点が、禅宗の「不立文字」とも関係している。先ほど述べたように、
禅宗では、悟りの境地は言葉では言い表せないものだと考える。右で述べた、
体で理解した境地とは、まさにこのことだ。 頭で理解したのではない。
体で理解したのだ。体で、世界を貫く原理原則がわかった、と実感したのだ。
よって、リラックスの境地は禅宗の悟りの境地と同じものだ、と体で理解
しさえすれば、同じものなのだ。ただ、古代仏教では、禅宗とは違って、
悟りの境地を論理として理解しようと考える。これはどう捉えるべきなのか。
僕はここにも矛盾はないと考える。矛盾か矛盾でないか、自己か他者か、
実在か幻想か、論理か感性か、頭か体か、という対立図式を超えるのが
仏教哲学の論理だ。・・・ 〜(略)湯船につかって「あ〜あ、きもちいい〜」
と思う瞬間。これは大金持ちでも、貧乏人でも同じ。育ちも実績も関係ない。
欲も悩みもない。何も考えない。ただ、「あ〜あ、きもちいい〜」に集中
している。実は、あっけないことに、これが「リラックスの極限」=「悟り」。 
あらゆる欲を超越し、過去も未来も超越し、静かで満ち足りていて、心の
安らぎと平和を享受している。悟りや涅槃の定義にぴったり一致する。
 そうはいっても、リラックスの境地と悟りが同じとは ーしかも、
よりによって、風呂の「あ〜あ、きもちいい〜」と悟りを同一視するとはー 
あまりに突飛で不謹慎な考えだ。そう思われる方も少なくないかもしれない。
が、そんなことはない。期せずして、あるチベット仏教アメリカ人僧侶は、
悟りとは深いリラックスだと述べていた。≫
▼ 起業を決意してから45年間。三つのブラックスワンで、この結末。
 オセロで、白石が全て黒に変わったようなもの。しかし、人生にとって
ベストと数ヵ月後に気づいた。50歳の節目時に、「還暦までに、それまでの
人生を圧縮して生きる」と決意して、その通り実行してきた。しかし、
まだ何かが足りなかった。そこで気づいたのが、悟りが全く足りなったこと!
・・・・・・・
4064, 思想とは
2012年05月11日(金)                   
  * その人の思想とは一つの行為である    
           ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
 ≪ ――自分に実感がなければ、ひとを掴めるはずがない。
   心の底からほとばしって、聞いているみんなの心を
   ひたむきな感動で引っ張ってゆくのでなけりゃだめだ。
   今日も明日も机にへばりついて、膠で接ぎ合わせたり、
   他人の賞味したお余りでこった点をこしらえたり、
   掻き集めた灰のなかから 貧弱な火を吹き起したりするのでは、
   子どもや猿どもには感心してもらえるかも知れん――
   それがきみらのお望みならばだ。しかし、真実、良心から出たもの
   でなければ、けっして心に達するものではない。(ゲーテファウスト」)
  そういう声を聞くと、心を打たれると同時に、なるほどこの人はそういう
  人かと、そこにたしかな一個の存在を認めるだろう。この人物には思想が
  ある、と。すなわち思想とは、つまりその人が断乎としてそのように考え、
  そのように生きる、その生き方の言葉や行動にあらわれたもの、という
  ことになる。自分の生き方の全部を賭けた言動だけが、思想の名に値する。
  そこから小林秀雄の、次のようなはげしい断定も出てくる。≫
 ≪ ――精神の状態に関していかに精しくても、それは思想とは言へぬ、
  思想とは一つの行為である。 (小林秀雄『私の人生観』より)
  口で言うのならどうにでもなる、とよく人はいい、これはとくにわが国では
  支配的で、政治家の言口葉などはその標本のようなものだが、そんなふうに
  言葉=意見を弄んでいる者は、ついに真の自己に達することはできないだろう、
  というのである。なぜなら、ひとは自分がしんから正しいと考えたこと
  (それはその人の生き方から出た必然の思想である)を口にする時、己れの
  全存在を賭けてそれを言うのであり、それが周囲に認められ、あるいは
  否認されることで、己というものを知るのだから。≫
▼ 11年間、ここで書き続けてきた効用は、この実感がないことは逆に、
 書けないということ。だから出来事に直面したときの実感を、その場で文章化
して頭に残して置いて、記憶に残す習慣が出来てしまった。写真家は、シャッター
チャンスを待つが、その間、頭の中で、その場の光景の実感を文章化している。
写真に添えられている文章は、だから写真を引き立てる薬味になる。思想とは、
真実、良心から出たものでなければ、心に達しないのである。心にとどくのは、
自分だけの頭で考え、経験し、感じた実感である。読書日記より、書くネタが
なく仕方なく捻り出した「閑話小題」、「つれづれに」のテーマの方が面白いと
言われるゆえんである。
   ・・・・・・・
3698, 自己を見つめる −19
2011年05月11日(水)
              「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 人生は、難しい。老いの時期に、それまで生きてきた過程で問題処理を
誤って置き去りにしてきた過去が吹き出てくる。これは万人に言えることだが、
肉体の衰弱と、精神の衰弱が、それに加速させていく。特に、現在、これまでの
家制度が崩壊、老後は、親子が支えあうシステムは消えようとしている。その中に
あって、自分(の世界)を長年かけて作っておくしかない。しかし、
「こんなはずではなかった、まさか!」が、人生である。 
誰の身にも形を変えて、突然現れ出る。 
  * 老いについて ー�    ーP272
【 こうして不動の英知を得た、落ち着いた老年は、死を覚悟しながら、
自分なりの人生のまとめを試み、知恵を磨いて、認識を深め、 哲学的知性を
研ぎ澄ます恰好の時期となる。キケロが言ったように、無分別は青春につきもの
であり、反対に、分別こそは、老熟に伴ってようやく熟成する。およそ、知性を
錬磨して、労作や仕事に励む老年には、老化は寄りつかないのである。老年に
なって恵まれた晴耕雨読の田園生活こそは、人間に幸福をもたらす。自然のなか
で草木を慈しみ、書籍を読んで知性を鍛える田園生活は、人間に精神の安らぎを
叶えさせる。あらかじめ美徳善行の想い出を蓄えることに努力を傾注して、
精神的に満ち足りた円熟した老年にとっては、こうして、時きたってこの世を
去るのは望ましいことである。自然の摂理に従い、生命に定められた限界に
従って、従容と死に赴くのは、人の使命だからである。セネカの説いたように
自然の定めに従い、それに即して自己を形成することが、何よりも大切であろう。
心身を健全に保ち、見識を蓄え、運命の贈り物は活用しながら、しかしその奴隷
にはならずに、乱されない自由な心と剛毅な精神において、不屈の力をもって、
公正に生き、道義を守り、克己心強く、高潔に、そして調和をもって優美に、
善行に励むことのうちに、人生態度の基本が据え置かれねばならないと、
セネカは捉えた。 人間は、老境においてこそ、いよいよ、こうした人間の
あり方に熟慮を傾けて、人生の実りを念頭に置きながら、自己自身に相応しい
生き方の拡充努め、最期の時に、備えなければならないであろう。】
▼ 長生きはしたいが、老醜は曝したくない。この溝が老年の大問題になる。
 他人のドブ沼は垣間見ることはできても、自分になると!「生まれ活き、老い、
その結果、長く生きている分、多くの病を経験し、死んでいく。これが人生。」
そう、綺麗には人生を終わることはできようがない。事業も同じ。綺麗に引きたい
は妄想。これからが、本番、長い日々が待っている。 清く、正しく、美しい
人生もあるのだろうが?これほど詰まらない人生もないだろう。それは私の偏見?
 ・・・・・・・
3333, 「○」と「×」の標識の間を漂流している国民
2010年05月11日(火)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか?ー大前研一 (著)  ー6
* 「○」と「×」の標識の間を漂流している国民
 ここで小選挙区制度の欠陥を大前はシビアに指摘をしている 
  ーそれをダイジェストに、まとめてみたー
≪ 2005年9月に「郵政選挙」で自民党は歴史的大勝を果たし、2007年
7月では「年金選挙」で自民党は大敗し、民主党が大勝した。そして去年の9月
には衆院選挙でも、自民党は惨敗をきした。2005年の郵政選挙は、
郵政民営化に」賛成か、反対かの二者択一の選挙であった。年金選挙は、国民
民主党に勝たせたいという訳でなく、年金の不祥事に自民党に「ノー」を突き
つけた選挙。これも二者択一の選挙であった。 この二つの選挙で言えるのは、
争点が単純化できれば選挙は勝てることを証明した。さらに言えば、「国民は複雑
なことは考えられない。単純なことしか通用しない」ことが、二つの選挙で証明
されてしまった。その時点で、郵政3事業はその歴史的役割を終え廃止すべき
だった。 道路公団も整理・廃止すべきものであった。小泉元首相は、歴史にも
逆らったことをやり国民のためのものでなかった。 改革と称し、その政策を
ほぼ官僚に丸投げし、つぶすべきである道路公団や郵政を生きながらえさせた
のだから、ほとんど詐欺。しかし国民詐欺行為を国民は認識していない。現在の
日本国民は「〇」と「×」の標識の間を漂流しているに過ぎない。標識の間を
漂流しながら、本当の答えは求めていないし、求める方法も知らない。さらに、
求めるための正しい質問もしていない。これが日本国民の「知の衰退」の実態。≫
▼ 現在の民主党政権の政策を国民が支持したのではない。 あくまで、自民党
 の長期政権にノーを突きつけただけ。しかし連立の社民党民主党内の隠れ
社会党の輩が、この時とばかりに時代遅れの社会主義政策を本気にやりだした
から、とんでもない事態になっている。 これこそ、○×の標識の間を政策が
国民と共に漂流している姿である。それでは自民党に政権を戻せば、間違いなく
土建屋的利権を復活してくることは目に見えている。国家衰退は、全てが
マイナスに働く。 どう立て直すのか、当分の間は迷走するしかないのか。
 ・・・・・・・・
2958,人はどうしてオヤジになるか? ー4
2009年05月11日(月)  
  * 時たま見かける恐ろしいオナゴ
アフリカ旅行で、イスラエル旅行で、そしてetcで見かけた「離れオバサン」。
「離れ○○」の離れとは、アフリカで恐れられている水牛である。群れから少し
離れて一匹で居る「離れ水牛」で、人間やジープを見ると見境なく襲ってくる
凶暴な奴。現地人が一番、恐れている水牛。一人参加か、時に二人参加だが、
その場合は一人は小使いのように隷従している。とにかく唯我独尊我。
自分のペースを他の人に強要し、自分の旅行自慢をするが、他人の話は一切
聞こうとしない。もし従わない場合は喧嘩腰で攻撃してくる。その恐ろしいこと。
兎に角、その毒は強烈である。独身のため夫婦・親子連れは目の仇になる。 
アンハッピーだから癒しに来るのだろうが・・ 独りの強さ弱さを知り尽くして
いるから、どうもこうもならない。「ヌーの河渡り」のツアーに参加した時には、
何と三人もいたが、常連で徒党を組んでいた。親分肌の50代後半の独身オバサン
は、毒の塊。10年は経つが、今でも忘れることができない。老いた母親がいて
婚期を逸したと他のオバサンが教えてくれたが。アフリカ専門ツアーの代理店に
申込みをした時に、受付の女性が「何か歯に挟まったイワクがありそうな雰囲気」
(えっ参加するの!)の意味を、アフリカのサファリカーの密室で初めて知った。 
面白い旅行には何かにマイナスがある。旅行をしていると、その人の人生の一端
をみることになる。 不幸な状態?は、その本人が作り出した我慢のなせる業。
人生を60年以上生きてきて思うことは、如何なる場合でも貧してはならないこと。 
《貧すれば鈍する》ということ。《鈍すれば貧する》も真実。《鈍》は何とか
努力で克服できるが? どうも、そうでもなさそう? 結局、オヤジと同じで、
「我慢の人生を生きている」からである。「でも、多かれ少なかれ人は我慢の
人生を過ごしているんじゃないか?」 もちろんお釈迦様が看破したとおり、
四苦八苦の娑婆の中で過ごすのが人生である。但し、努力や知識で少なくする
ことが可能。それが教養ということ? 何か教養が足りない人生を過ごして
きたようだが?? オヤジ度と、オバサン度の高いのは、大嫌いなだけ。
「ちょっと!離れオバサンなど、アフリカなど行かなくても何処にもいるよ!」 
そうか・・。アフリカにぴったりなだけ!